【新文芸坐×アニメスタイル vol.178】HDリマスターBlu-ray発売記念
寺沢武一&川尻善昭のスタイリッシュアクション 『MIDNIGHT EYE ゴクウ』

 2024年7月13日(土)にOVA『MIDNIGHT EYE ゴクウ』『MIDNIGHT EYE ゴクウII』を新文芸坐で上映します。『MIDNIGHT EYE ゴクウ』『同・II』は寺沢武一さんの原作を川尻善昭監督が映像化した作品で、1989年にリリースされました。アクション物で数多くの傑作、人気作を残してきた川尻監督の代表作のひとつです。

 今回のプログラムは『MIDNIGHT EYE ゴクウ』『同・II』のHDリマスターBlu-ray発売を記念しての企画です。上映もHDリマスターBlu-rayを使って行います。
 トークのゲストはプロデューサーの丸山正雄さん、同作でキャラクターデザイン、作画監督を務めた浜崎博嗣さん。聞き手はアニメスタイル編集長の小黒が務めます。
 チケットは7月6日(土)から発売。チケットの発売方法については新文芸坐のサイトで確認してください。なお、当日は新文芸坐館内でBlu-rayソフトを販売する予定です。

●関連リンク
新文芸坐オフィシャルサイト
http://www.shin-bungeiza.com/

MIDNIGHT EYE ゴクウ HDリマスターBlu-ray限定予約版[東映ビデオ]
https://shop.toei-video.co.jp/Form/Product/ProductDetail.aspx?pid=BSTD40482

MIDNIGHT EYE ゴクウ HDリマスターBlu-ray[東映ビデオ]
https://shop.toei-video.co.jp/Form/Product/ProductDetail.aspx?shop=0&pid=BSTD20894

【新文芸坐×アニメスタイル vol.178】HDリマスターBlu-ray発売記念
寺沢武一&川尻善昭のスタイリッシュアクション 『MIDNIGHT EYE ゴクウ』

開催日

2024年7月13日(土)19:00~21:40

会場

新文芸坐

料金

一般1900円、各種割引1500円

上映タイトル

MIDNIGHT EYE ゴクウ(1989/51分/BD)
MIDNIGHT EYE ゴクウII(1989/53分/BD)

トーク出演

丸山正雄(プロデューサー)、浜崎博嗣(キャラクターデザイン、作画監督)、小黒祐一郎(聞き手)

備考

※トークショーの撮影・録音は禁止

●関連サイト
新文芸坐オフィシャルサイト
http://www.shin-bungeiza.com/

第858回 『(劇)ジョー2』の魅力(8)

 続き。後半戦、あと少々お付き合いくださいます?

1:12:33~ドクター・キニスキー、口パクなくても気にしない、気にしない!
1:12:35~葉子の顔(表情)良い!
1:12:40~葉子の顔(表情)良い!!
1:12:44~葉子の顔(表情)良い!!! 『(劇)ジョー2』は“表情を繋いだドラマ”だと思います。それはその辺の映像インテリを気取っている方々に言わせると「安易に顔のアップばかりが~云々」と仰るのでしょうが、杉野(昭夫)作監の凄いのは全部の表情が違うところ! つまり、それぞれのシチュエーションに置かれた各キャラクターの“心情”がちゃんと描き分けられてるのです。だから、インテリの言う「顔アップばっか~」は安易でも何でもなく、逆に「杉野じゃなきゃ描けない表情寄りカットの積み重ね」こそが出﨑(統)監督の狙いなはずです。それこそが“出﨑&杉野~黄金コンビ”と呼ばれた所以でしょう! 
1:12:51~画面斜めにオレンジパラ。そして金竜飛役を終えた古川登志夫が、ジムの練習生に!
1:13:14~サンドバックを殴り続けるジョーも良いですね! 所々表情を左右非対称に歪めてて。
1:13:35~ランニング中のジョーも汗を散らして疲れた感じがカッコいい! 線が太いのは、当時のマルチ撮影で、下段のドヤ街と住人ら(100フレーム)をボカすため、上段のジョーは“60フレームで作画”なのでしょう。デジタル作画・撮影の現在では両方100フレーム作画しちゃいます。
1:13:42~“階段の狭さ”が欲しかった……! つまり、カメラ位置を想定すると、ジョーが2段3段と階段を上がると頭から先にカメラに向かってくる感じが、現状……ない。
1:14:05~ここも原作と違うところで、且つかなりの英断! 原作だと西ではなく、ジョーの言ったとおり「ジムの若いの~」が(しかも西モドキの体格)セコンドに着くのですが、アニメは親友の西がちゃんとセコンドに着きます! これで良い! これを原作改悪とか言うのでしょうか? 俺はそうは思いません。それで言うなら『あしたのジョー』という作品は、漫画版ですでに梶原(一騎)原作をちば(てつや)作画時に改変が行われ(サチや子供たちは梶原原作に存在しなかったのは有名な話)、アニメ化の際には出﨑監督の手でエピソード変更~追加がなされつつも、原作・アニメ両方ともしっかりファンが付いているからです。そしてアニメ版で西をセコンドに着かせることで“ファミリー感”が増し、視聴者が応援しやすくなっています。ただ、原作の“西ではなく別の練習生がセコンド”というのが悪いのではなく、それはそれで、引退~結婚して家庭を築く道を選んだ西と、永遠の青春を追い求めるジョーとの対比(そして時の流れ)という意味はあったのだと思います。
1:14:31~前カット、ジョー「スカッと勝ってよ、二人の結婚に花添えさせてもらうよ」を受けての紀子「ありがとう……」。この表情、気になる……。やり過ぎ? と思うくらい、未練というかジョーの鈍感さに対する呆れとでも言うか? 何か複雑な目線です。
1:15:19~段平の眉、色パカ。すみません。
1:15:24~この後、『スペースコブラ』~『キャッツ・アイ』へ繋がる、杉野タッチが見えます。
1:15:34~懐かしい昭和のカイロ。服の中~袋から取り出すまでを1カットで。この時期の出﨑作品、偶にあります。「監督のコンテに従ったら、意外と面倒でしたよ」カット。多分、出﨑監督はコンテ時、サラサラ~っと描いただけの無自覚かと。
1:16:43~劇場版ではカットされたカロルド・ゴメス。コークスクリュー・パンチの解説画面として登場。
1:17:30~後のTV版では「心理的優位? そんなもん~」のモノローグで口パクなしになります。
1:17:37~ここらのシーン一体、BG全面透過光の光量が初見時「一歩一歩死に向かってるジョー」を暗示していて怖かったです。
1:18:27~全くの私事ですが、花澤香菜コンサートに招待していただいた時、現地で初めて日本武道館を見た際、「こ、ここがホセ・メンドーサ対矢吹丈戦の会場か!」と興奮したモノです。
1:19:01~あ、窓が開いてない!!
1:19:11~今だとこの窓の“塗り”は有り得ません。
1:19:17~この控室シーン一体の葉子は檀ふみの勝ち。誰が何と言ってもTV版より劇場版に軍配が上がります。
1:19:51~現在でも語り草になっている、画面分割から次カットのカメラ回り込み。まずここの画面分割は巧くいってると思います。普段「画面分割嫌い」を公言して憚らない自分が見ても、ここのは“ジョーと葉子両者の表情を同時に見せる”必要性を感じるからです。正直、他のいくつかは、その必然性が乏しく、外連味優先に感じてしまうところが多々あります。出﨑ファンの俺が同ファンに批判されるのを覚悟でここまでハッキリ言っているのですから、異論有りな方々にも、せめてこの誠意だけは認めていただきたい(汗)。本当にあくまで私見です。で、回り込みの立ち位置がかなり怪しいと思いつつも、“愕然の葉子”ド寄りまで、何度観ても引き込まれます! 自分はこういうドラマチックなシーンを描きたくて、アニメ業界に入った一面が確実にあります。

 そして、「次回こそは!」と(汗)。そして、敬称略すみません。

『タイガーマスク』を語る
第13回 第93話「今日のいのちを」

 今回は第84話、第87話、第89話、第93話をまとめて紹介する。
 高岡拳太郎には洋子という名の妹がおり、拳太郎が虎の穴を裏切って日本にいるようになった後も、洋子はちびっこハウスで暮らしている。拳太郎は時々、ハウスを訪れて洋子と会っているようだ。第84話「勝利への誓い」(脚本/安藤豊弘、美術/秦秀信、作画監督/森利夫、演出/及部保雄)では、母の日のカーネーションが話題となる。拳太郎と洋子の母親は亡くなっている。墓参りに行く前、拳太郎は白いカーネーションを洋子の胸に挿してやるが、それを見たハウスの子供達はショックを受ける。ハウスには母親が存命なのかどうか分からない子供が大勢いる。彼等は自分の胸に赤いカーネーションを付ければいいのか、白いカーネーションを付けばいいのか分からないのだ。ルリ子は、洋子の胸のカーネーションを外してもらえないかと拳太郎に頼むのだった。拳太郎は自分が子供達のことを真剣に考えていなかったことを後悔し、ハウスに大量のピンクのカーネーションを贈る。手紙にはハウスの子供達に、皆のお姉さんであり、お母さんでもあるルリ子にこのカーネーションをあげて、日頃の感謝をしてほしいと書かれていた。

 第87話「虎狩り計画」(脚本/柴田夏余、美術/秦秀信、作画監督/小松原一男、演出/蕪木登喜司)ではガボテンにスポットが当たる。ガボテンはシリーズ当初は別として、基本的に穏やかでのんびりとした少年だ。そのカボテンが警察に保護された。若月先生が警察署に向かい、それを知った直人も若月先生を追う。直人はガボテンが家出した理由と、その後の彼について想像する。ガボテンは幸福そうな親子の姿を目にしたのかもしれない。それをきっかけにして、彼は辛い気持ちを抱えて家出をしたのではないか。やがて、道を踏み外し、大人達に追われるようになるのではないか……。
 そんなドラマチックな展開になるかと思わせておいて、ガボテンの家出騒動には予想外のオチがつく。以下がガボテンが話した真実だ。彼は朝に忘れ物をしてしまい、それを取りに帰ったため、学校に遅刻する時間となってしまった。通学路で同様に遅刻しそうな同級生達と一緒になり、彼等は「なんとなく」学校に行きそびれてしまい、それから「なんとなく」バスに乗って、気がついたら東京駅だった。どこか遠くに行きたいと思った彼等は新幹線に乗り込もうとして、そこで補導されたらしい。
 『タイガーマスク』としては珍しい脱力系のエピソードである。そして、ガボテンらしいと言えばガボテンらしい話である。Aパートが終わり、Bパートに入る際の緊張感のなさも凄まじい。ガボテンの家出騒動が一件落着した後にタイガーの試合があるのだが、こちらもユルい。試合相手のアキラ・ローゼは出稼ぎ気分で日本に来ており、試合中に「勝ちは譲るので手加減してくれ」と言い出すのだった。
 試合の後、直人と拳太郎は公園で言葉を交わす。ガボテンの一件から話が転がっていく。家出未遂くらいで済めばいいが、もしも、何かのはずみで子供達が悪の道に踏み込むことがあったとしたら、自分達には何ができるのだろうか。そうなる前に未然に防ぐことはできないだろうか。それができればいいが、防ぎきれないこともあるはずだ。そんな会話の途中で拳太郎が笑い出す。これから起きる危険を防ぐことができないのは自分達も同じだ。明日にでも虎の穴の刺客が襲ってくるかもしれないのだ。そして直人は、そうなったら戦うしかないと言う。第87話だけを観ると、この場面で語られた内容はとりとめのないものに思われるが、第100話「明日を切り開け」でこの内容を踏まえた結論が出る。
 更にその後で、今後のハードな展開を予想させるシーンがあり、第87話もエピソード全体としては締まりのあるものになっている。余談だが、第87話の直人は白の開襟シャツにマフラーという映画スターのような出で立ち。小松原一男作監によって二枚目顔に描かれており、脱力系の本筋とは裏腹に直人のかっこよさがアピールされている。

 第89話「ヨシ坊の幸福」(脚本/安藤豊弘、美術/福本智雄、作画監督/高倉建夫、演出/新田義方)ではヨシ坊が裕福な家庭にもらわれることになる。
 ヨシ坊がハウスを離れる話はこれが二度目だ。第20話「「虎の穴」の影」(脚本/安藤豊弘、美術/秦秀信、作画監督/藤原万秀、演出/田中亮三)ではヨシ坊の母親が見つかる。そのエピソードの後半で女性が母親ではなかったことが分かり、ヨシ坊がハウスを離れる話はご破算となる。なお、第20話はハウスの子供達と行った遊園地で、直人が虎の穴の刺客を撃退するのが物語の主軸であり、ヨシ坊についてはあまり掘り下げられてはいない。
 第89話の話に戻ろう。島津という夫婦がヨシ坊を引き取りたいという話が、相談所を経由してハウスに持ちかけられた。一ヶ月ほど前に、島津家の愛犬がいじめられていたのをヨシ坊が助けた。それがきっかけで島津夫婦はヨシ坊を知ったのだが、偶然にもヨシ坊は3年前に夫婦が亡くした1人にそっくりだった。ヨシ坊は島津家に行くかどうかで悩んでいたが、健太と喧嘩をしたことがきっかけで、島津家に行くことを決める。島津の邸宅は庭にプールまである立派なもので、ヨシ坊は歓迎された。だが、島津家での彼の表情は暗い。その夜のうちに島津家を飛び出してしまう。雨の中で立ち尽くすヨシ坊を直人が見つけて彼の話を聞く。帰るのが恥ずかしいという彼を、直人はハウスに送ってやるのだった。
 ヨシ坊は島津家を飛び出した理由を「寂しかったから」だと直人に説明した。確かに、ヨシ坊が他に子供がいない邸宅で寂しさを感じた描写はある。ただし、彼が島津家を嫌だと思った理由は、養父となる島津が今も亡くなった息子のことを想っていること、普段からナイフとフォークで食事をするような生活に馴染めそうもなかったことなどが複合したものだろう。ヨシ坊が島津家に馴染めなかったのは、第83話「幸せはいつ訪れる」で、ミクロが易々と高田の懐に飛び込んでいったのと対照的だ。
 直人は第88話でミスターXが送り込んできた刺客によって傷ついており、第89話冒頭では次の試合を拳太郎に譲るつもりだった。だが、ヨシ坊の一件で思うところのあった直人は、ジャイアント馬場や拳太郎が止めるのも聞かず、タイガーマスクとしてマットに上がる。彼は試合を続けながら考える。肉親の愛に恵まれないみなしごが求めるものは何なのだろうか。欲しいものを何でも与えてくれることだろうか、自分達の好きなようにさせてくれることだろうか。違う。ヨシ坊達が求めてるのは見せかけだけの幸せではない。真実の愛情なのだ。
 直人が傷ついた身体でリングに上がったのは、ヨシ坊達が厳しい現実の中で幸せを勝ち取るためには、勇気と忍耐が必要であることをファイトを通じて伝えるためだった。劇中でモノローグで語られた直人の想いには飛躍があり、少し分かりづらい。おそらく、みなしごが求めるのは真実の愛情であるが、それが与えられるのを待っていてはいけない。幸せは勇気と忍耐を以て自分で勝ち取らなくてはいけないということだろう。
 第89話の健太についても触れておこう。健太とヨシ坊が喧嘩をしたのは、懸賞で当たったトランシーバーを健太がヨシ坊に使わせなかったためだが、どうやら島津家に行くかどうかで悩んでいるヨシ坊に決心をさせるため、わざと意地悪をした、ということのようだ。ただし、そのあたりは視聴者に考えさせるところなのか、はっきりとは描かれていない。

 第93話「今日のいのちを」(脚本/安藤豊弘、美術/土田勇、作画監督/小松原一男、演出/及部保雄)では「みなしごも努力をすれば報われるのか」がテーマになる。健太はガキ大将と喧嘩になり、そのガキ大将に「みなしごは勉強ができても出世できない」と言われてしまう。ショックを受けた健太は授業が終わった後もハウスには帰らず、川縁で膝を抱えていた。そんな健太を見つけたのが拳太郎だった。健太に話を聞いた拳太郎は、タイガーマスクもみなしごだったことを健太に教える。そして、健太がタイガーと話をできるように取り計らう。
 直人はタイガーの姿で健太と話をして勇気づける。タイガーは自分の試合での経験を踏まえて「辛い時、苦しい時はなにくそって頑張るんだ」と健太に言う。それに対して健太は「そうすればみなしごだって偉くなれるんだね」と尋ねる。タイガーが健太を励ますシーンは、この健太の問いかけで終わる。タイガーがどう答えたかはフィルムの中では描かれていない。ここが第93話の痺れるポイントである。
 タイガーと健太のシーンの後は、荒波の中のリングに立つタイガーのイメージを挟んで、タイガーとギロチン・ラモスとの試合となる。荒波のイメージの部分でタイガーは言う。健太には未来がある。みなしごという不幸な運命を背負って、たった一人で社会の苦難と戦い、運命を開拓しなくてはいけない明日がある。その時に必要なファイトを俺が教えてやる。
 ギロチン・ラモスは試合開始早々、反則を使ってタイガーを攻め立てる。血まみれとなったタイガーは「辛い時、苦しい時はなにくそって頑張るんだ」と、健太に伝えた言葉を自分に言い聞かせる。そして、健太の言葉がタイガーの脳裏に蘇る。「そうすればみなしごだって偉くなれるんだね」。しかし、今度もタイガーは健太の問いに答えない。数秒の間の後で、タイガーは言う。「見せてやるぞ、健太君。タイガーのファイトを!」。反撃に出たタイガーは華麗な技を連発してギロチン・ラモスを倒す。試合を見ていた健太も勇気を取り戻した。
 どうしてタイガーマスクは健太の問いに答えなかったのか。「みなしごだって努力をすれば偉くなれるさ」と言ってやることは簡単だ。どんな立場にいる人間でも、社会で出世することは不可能ではない。だから、ここでタイガーが「偉くなれるさ」と言っても嘘をついたことにはならないだろう。ではあるが、みなしごが自分がなりたいような存在になるには、他の子供達よりも沢山の努力が必要なのではないか。過酷な道を歩まなくてはいけないかもしれない。それを知っていて、その場を取り繕うように「偉くなれるさ」と言うのは誠実とは言えない。直人がやるべきことは気持ちのいい言葉で健太を安心させることではなく、タイガーとしての試合でファイトを見せることだ。そのファイトが健太達の人生にとって必要なものなのだ。試合中に健太の問いを反芻した後、数秒の間があるのは、タイガーがどう答えるのが健太のためなのかを考えている時間だったのだろう。
 優しい言葉をかけることが正しいとは限らない。相手を安心させることよりも、戦うための勇気を示すことが必要な場合もあるはずだ。生きるとは厳しいものであり、その厳しさに向き合わなくてはいけない。それが『タイガーマスク』を貫く思想であるはずだ。

●第14回 第100話「明日を切り開け」 に続く

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第283回 音楽のサラダボウル 〜変人のサラダボウル〜

 腹巻猫です。4月期のTVアニメの中でも楽しみに観ていた作品『変人のサラダボウル』が先週、最終回を迎えました。サウンドトラック・アルバムは5月に早々と発売されたものの、筆者はネタバレを恐れて聴いていませんでした。ようやく全話観終わったので、今回はその音楽を紹介します。


 『変人のサラダボウル』は2024年4月から6月まで放映されたTVアニメ。平坂読による小説を原作に、監督・佐藤まさふみ、アニメーション制作・SynergySP、スタジオコメットのスタッフでアニメ化した。
 舞台は現代の岐阜県岐阜市。貧乏探偵の鏑矢惣助は尾行中に突然、空から落ちてきた少女・サラと出会う。サラは異世界からやってきた皇女で、魔術(魔法)が使えるのだった。サラは惣助の家に居候することになり、探偵業を手伝い始める。いっぽう、異世界でサラの側近を務めていた女性騎士・リヴィアも、サラを追って岐阜市にやってきた。異世界ではすぐれた武人だったリヴィアだが、こちらの世界では活躍の場がなく、ホームレス生活を送ることに。サラとリヴィアはそれぞれのやり方で、この世界に居場所を見つけようとする。
 昨今はやりの「異世界転生・転移もの」のバリエーションと呼べる設定で、筆者は最初「これは異世界からやってきたキャラクターが、こちらの世界に存在しない特殊な力を発揮して、事件を解決したり、優位に立ったりするお話なのだな」と思っていた。実際、初期の話数ではサラが魔術を使って探偵活動をする描写がある。が、話が進むにつれて、そういう描写は減っていき、サラやリヴィアが出会う風変わりな人物とのエピソードが中心になっていく。
 異世界人のサラやリヴィアには、この世界に対する先入観や偏見がない。2人の目を通して見ることで人物の意外な一面が見えてきたり、2人と接触することで生き方が変わる人物がいたりする。そんなエピソードがコミカルなタッチで語られていくのが本作の面白さだと思った。なにより、開放的で屈託のないサラとリヴィアのキャラクターが魅力的。観ていて、とても気持ちのいい作品だった。

 音楽は、馬瀬みさき、田中津久美、中村巴奈重の3人が共同で担当。
 温かい音色の楽器を使った軽快な曲が多い。ギター、ピアノ、木琴などがリズミカルなフレーズを受け持ち、フルート、クラリネット、リコーダー、ハーモニカなどがメロディを奏でる。ユーモラスな曲やほのぼのした雰囲気の曲がたくさん作られている。本作らしいなと思うのは、惣助、サラ、リヴィアら、主要人物それぞれにテーマが設定されていること。TVアニメではキャラクターテーマを作ってもあまり活用されないケースがままあるが、本作では「このキャラにはこの曲」という演出がけっこう徹底している。
 本作のサウンドトラック・アルバムは2024年5月29日に「TVアニメ『変人のサラダボウル』オリジナル・サウンドトラック」のタイトルで、日音/Anchor Recordsレーベルから発売された。収録曲は以下のとおり。

  1. 変人のサラダボウルのテーマ
  2. 岐阜県 岐阜市 【VER:日常】
  3. 惣助
  4. 探偵とは
  5. サラと惣助 【VER:日常】
  6. 某の名は
  7. サラ・ダ・オディン
  8. プリケツ参上!
  9. ホームレス
  10. ブレンダ
  11. 惣助 【VER:意味深】
  12. ほむ…
  13. オラァ!
  14. どうしよう!
  15. ほのぼの〜
  16. ふんす
  17. クラン☆マスター
  18. ハプニング発生
  19. 望愛
  20. 不穏な空気
  21. ギクシャク
  22. サラと惣助 【VER:トホホ】
  23. ヘンテコじゃのう
  24. サラと惣助 【VER:気ままに】
  25. 岐阜県 岐阜市 【VER:コミカル】
  26. 変人のサラダボウルのテーマ 【VER:日常】
  27. ワナワナ…ワナワナ…
  28. 原因の解明
  29. あの頃に…
  30. 回想
  31. ふひひ。
  32. 試合じゃ!
  33. 救世グラスホッパー、命名!
  34. 名探偵サラ
  35. ご褒美タイム

 主題歌・挿入歌の収録はなく、BGM(劇伴)のみ35曲収録。作曲は、馬瀬みさきが21曲、田中津久美が7曲、中村巴奈重が7曲を担当している。
 曲順は劇中使用順にはこだわらず、作品世界を音楽で表現するイメージアルバム的構成。名場面集的な感覚で、自由にイメージをふくらませて聴くことができる。
 1曲目の「変人のサラダボウルのテーマ」は本作のメインテーマ。ラテン風のリズムにピアノの軽快なメロディ。トロンボーンの合いの手がコミカルな味を添える。明るくユーモラスな曲調が本作の世界観を表現している。第1話でサラと惣助が一緒に朝食を食べる場面や第2話のリヴィアがセクキャバで接客する場面などに使われた。次回予告にも使用されている。
 この曲のバリエーションがトラック26「変人のサラダボウルのテーマ 【VER:日常】」。ピアノの代わりに木琴がメロディを奏で、アコースティックギターがリズムを刻む。第1話の惣助の初登場シーンや第9話で小学校に通い始めたサラが教室で給食を食べるシーンなどに流れていた。
 トラック2「岐阜県 岐阜市 【VER:日常】」は岐阜市のテーマ……というより、個性的な登場人物が織りなす、ちょっとおかしな日常を描写する曲という印象だ。アコースティックギターとハンドクラップによる導入からオルガンとエレキベースによる60年代ポップス風のサウンドに展開。後半はテンポアップして軽快なバンドサウンドになる。この曲のように途中からアップテンポに転じる曲が本作では多く、劇伴全体を通しての特徴になっている。もともとこういう発注だったのか、それとも作曲家のアイデアなのか、あるいはテンポのゆっくりしたタイプと速いタイプの曲が別々にあってサウンドトラック用に1曲に編集したのか、詳細が気になるところだ。
 この曲のバリエーションがトラック25の「岐阜県 岐阜市 【VER:コミカル】」。ピアノとパーカッションをメインにした、とぼけた感じのアレンジになっている。第1話でサラが異世界から惣助の上に落ちてくる場面などに使われた。このバージョンも途中からアップテンポに転じる構成。
 トラック3「惣助」は惣助のテーマ。4ビートのリズムにギターのけだるいメロディが、貧乏探偵・惣助のキャラクターを表現。第1話で惣助とサラが話す場面など、惣助のシーンにたびたび使われた。この曲も後半からテンポが速くなる。第11話では惣助とサラが水族館に行くシーンに前半から後半まで通して使われて効果を上げていた。トラック11の「惣助 【VER:意味深】」は「惣助」の前半よりもテンポを落としたミステリアスな雰囲気のアレンジ。
 トラック5の「サラと惣助 【VER:日常】」はタイトルどおり、サラと惣助のシーンを彩る曲。のんびりしたリズムの上で木琴やリコーダーが素朴なメロディを奏でるユーモラスな曲だ。ほかに「サラと惣助 【VER:トホホ】」(トラック22)、「サラと惣助 【VER:気ままに】」(トラック24)のバリエーションがあるが、雰囲気は共通している。毎回のようにいずれかのバージョンが使われているので、メロディが記憶に残っている人も多いだろう。メインテーマや「岐阜県 岐阜市」とともに本作を代表する楽曲である。
 ここで、キャラクターテーマをまとめて紹介しよう。
 トラック6「某の名は」はリヴィアのテーマ。「某(それがし)」はリヴィアの一人称である。強そうな女性騎士のイメージではなく、アコースティックギターやアコーディオンを使ったさわやかなサウンドでまとめられている。第1話でリヴィアが岐阜市にやってくるシーンや第2話でリヴィアがサラを探して街を歩くシーンなどに使用。
 トラック7「サラ・ダ・オディン」はサラのテーマ。こちらはウクレレを使った愛らしいイメージ。皇女らしい上品さも感じられる。後半はマーチ調になって、活発なイメージに転じる。第1話でサラが図書館に出かけるシーンなどに使われた。
 トラック8「プリケツ参上!」はリヴィアが働き始めたセクキャバのキャバ嬢・プリケツのテーマ。プリケツは源氏名で本名は弓指明日美という。ミュージシャン志望の明日美は、のちにリヴィアを巻き込んでバンドを組むことになる。このテーマ曲もビートの効いたロックサウンドで作られている。第2話のプリケツ登場シーンや第11話でバンド「救世グラスホッパー」が活動開始するシーンに使用。
 トラック10「ブレンダ」は惣助にしばしば仕事を依頼する女性弁護士・愛崎ブレンダのテーマ。エレキギター、エレキベース、ピアノなどによるリズム主体の曲で、ひとクセありそうな曲調に仕上がっている。第2話のブレンダ初登場シーンをはじめ、第7話で惣助がブレンダに「サラを学校に通わせたい」と相談するシーン、第10話でブレンダが惣助の気を引こうと料理を練習するシーンなどに流れた。
 トラック17「クラン☆マスター」はリヴィアが出会った怪しい宗教団体「ワールズブランチヒルクラン」の女性代表(マスター)の登場シーンに流れた神秘的な音楽。神秘的といっても軽めのシンセサウンドで作られているので、いかがわしさがただよう。マスターの本名は木下望愛(のあ)。望愛はある事件をきっかけにリヴィアに心酔し、「救世主さま」と崇めるようになる。トラック19「望愛」は、望愛がリヴィアとからむシーンによく流れた曲。シンセのシンプルなフレーズのくり返しが、望愛の思い込みの強さ、浮世離れしたところを表現しているようだ。
 続いて、劇中のユーモラスなシーンによく使われる曲たち。
 トラック12「ほむ…」はエレキベースとピアノ、パーカッションなどによるコミカルなサスペンス曲。惣助とサラが探偵活動をするシーンなどに使われている。
 トラック13の「オラァ!」は第1話で惣助がチンピラにからまれた男を助けようと出ていく場面に一度だけ使用。ワイルドな曲調のロックだ。
 トラック14「どうしよう!」は使用頻度の高いドタバタ曲。たたみかけるようなイントロにからアップテンポのにぎやかな曲調に発展する。第2話でサラが調査対象の浮気現場を見てしまう場面や第9話でサラをいじめようとした少女たちがサラの家臣になってしまう場面、第12話でライブに遅刻しそうになったリヴィアがライブ会場に急ぐ場面などに使われたのが面白かった。
 トラック15「ほのぼの〜」はタイトルどおり、ほのぼのムードの曲。とぼけた木琴のフレーズで始まり、ピッコロやクラリネット、鍵盤ハーモニカがのんびりしたメロディを引き継いでいく。第2話でサラが飛騨牛のパックを手にとってよろこぶシーンなど、日常のほっとひと息つく場面を彩った。
 トラック16「ふんす」はサラやリヴィアが超人的能力を発揮する場面に流れた曲だ。なんといっても第1話のサラが魔術で公園の遊具を爆破してしまうシーン。「ふんす」はそのときサラが発するかけ声である。「暴走」を思わせる慌ただしい楽曲に作られている。第3話でリヴィアが宗教団体のメンバーとバスケットボールをするシーンにも使われた。 以上のトラック12〜16は、コミカルな曲が5曲連続するのが構成的に面白いところ。
 トラック23「ヘンテコじゃのう」も印象の強いユーモラスな曲。しのび足で歩くようなリズムに乗ったリコーダーとピアノのかけあいが楽しく、聴いているだけでくすっと笑えてしまう。第3話でリヴィアが宗教団体のメンバーと接触するシーンや第6話で望愛がリヴィアの像を作るためにリヴィアの体を立体スキャンするシーンなどに流れた。本作のタイトルにある「変人」の部分を象徴する曲。
 ここまで紹介したように、本作の音楽には、ユーモラスな曲や風変わりな曲が多い。しかし、しみじみとした心情を表現する、しっとりとした曲もいくつか作られている。
 トラック29「あの頃に…」はピアノソロがやさしいメロディを奏でるリリカルな曲。第11話でサラがリヴィアに「新たな人生を好きなように生きるがよい」と語りかける名場面に流れていたのが心に残る。コミカルな展開の中にこういうシーンが挿入されるのが本作のいいところだ。
 トラック30「回想」はギターとピアノなどによるノスタルジックな曲だが、本編では(たぶん)使用されていない。
 ほかにしっとり系の曲としては、第4話でサラがいじめられている同級生の話を聞く場面に流れるエレピとアコースティックギターの曲があった。残念ながら本アルバムには未収録である。
 アルバムの終盤は派手めの曲がまとめられている。最後は明るく盛り上がって終わろうという構成意図だろう。
 トラック33「救世グラスホッパー、命名!」は、夢の中でバッタの大群に襲われた望愛がリヴィアに助けられる場面に一度だけ使われた曲。夢の中のリヴィアは「救世主グラスホッパー」と名乗る。そこから「救世グラスホッパー」のバンド名が決められた。このシーンのためだけに作られた曲だろう。
 トラック34「名探偵サラ」も一度しか使われていない。第1話でチンピラに襲われそうになった惣助を助けにサラが現れる場面に流れた、「ヒーロー登場!」といった雰囲気の曲である。こういう場面がもっとあるのかと思っていたけれど、この回だけだった。それも本作らしい。
 アルバムの最後を飾る「ご褒美タイム」(トラック35)は女声スキャットが「シュバダ ドゥビ ドゥビ」と歌う愉快な曲。第1話のラストでサラが飛騨牛を食べて感激するシーンに流れている。その後も、第5話でリヴィアがプリケツに誘われてサウナに入るシーン、第7話でサラが初めてこたつに入るシーンなど、サラとリヴィアが異世界にない食べ物や文化に触れて感動する場面によく使われた。最終回(第12話)で本編Cパートの最後(エンドロールの前)に流れたのもこの曲である。

 本作には「変人」と呼べる人物が多く登場するが、危なっかしいことをしていても根っからの悪人はいないのが清々しいところ。音楽はそんな変人たちを笑うのではなく、愛すべきキャラクターとして描写しているようだ。タイトルの『変人のサラダボウル』は色とりどりの変人たちが集まるようすをイメージしたものだと思うが、このアルバムも個性豊かな楽曲がひとつの皿に盛られた「音楽のサラダボウル」と呼びたい1枚である。ただし、このサラダ、けっこうスパイスが効いている。

TVアニメ「変人のサラダボウル」オリジナル・サウンドトラック
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第857回 『(劇)ジョー2』の魅力(7)

 前回からの続き。後半戦、あと少々お付き合いください。

1:01:40~このパンチ・ドランカーになって、帰って来るカーロス。初めて観た時、悲しいとかよりゾッとしたのを憶えています。怖かった……! 出﨑(統)監督の描き方(撮り方?)って、どこかドキュメンタリーっぽいんですよね。作り話であることを忘れさせる描き方だと思います。何しろそれまで観てきたアニメでは感じたことがなかった怖さでした。
1:01:54~ハリマオはどっからどー見ても“ザ・梶原(一騎)キャラ”ですね(同じく出﨑監督作品『空手バカ一代』でも、カマキリ拳法の使い手が登場します)。
で、ここからのハリマオ戦~ラストのホセ戦は、劇場分作画の先行スケジュールのためか、同時に放映されてたTVシリーズ分の作画の質がやや落ちます。後、ハリマオの“空中回転”の方向がカット毎で違うのは——気にしないこと。
1:04:14~パンチを打ち終わったハリマオが画面手前に来て、その後ジョーが画面手前に飛んで来て、ハリマオ作画で奥へ。ややこしくて面白いカット。こんなのも偶に入れないと……いや、原作愛読者なら御存知かと思いますが、後半の原作、ちば(てつや)先生によるボクシング描写、特にアングルがややパターン化するんです。この辺り、大人数で作画をするアニメーションの強みと言えるかと。そもそも出﨑監督による試合シーンのコンテが原作に沿っていません!
1:05:03~このジョーも「ヤバい!」もう精悍とか通り越してて、“狂気”を感じました! これも杉野(昭夫)作監スゲェ!!
1:05:06~リングに叩きつけられたハリマオが空中に浮き上がる音が良い!
1:05:12~ここのマルチボケもジョーも良い!
1:05:52~ここで、直ぐに「カーロス・リベラ!」と気付くジョーに感動します。
1:06:08~前カット「間違いねえ、カーロスだ……!」の後“表彰されている途中”、これまた編集のテンポで、気持の急いているジョーを表現できています。
1:06:35~こちらも同様に転んだジョーから、ポンと退場するジョー&段平ヘ。巧い! この後TV版を観ると、たるく見えます。
1:07:36~ここからのカーロスは初見、涙なしでは観られませんでした。BGMの入るタイミングも重い! このシーンも、TV版より劇場版の方が個人的に好き。
1:08:17~カーロスのへろへろパンチを受けつつ泣き笑い。これ原作だと直ぐにジョーがカーロスを抱き締めて悲しそうに大泣きするんですよね。正直出﨑アニメの方が正解かと。BG(背景)を真っ黒にする演出も良い!
1:09:08~葉子に「見るんじゃねえ!」とキレるジョーも出﨑アニメの方がクールでカッコいい! 原作だと涙流して葉子に殴り掛からんばかりのジョーを周りが止める——です。
1:09:58~この映画初見の時、この“ボタンがはめられないジョー”から、もう観てられなくなりました。だって、ハッピーエンドが思い浮かばないんだもん!
1:10:36~葉子とジョーのド寄り横PAN→×3回!
1:10:39~そして、湯呑を振り上げるジョー縦PAN↑×4回。もうお家芸です!
1:11:07~全面透過光に椅子に呆けるカーロスがF.I。そこへ蝶が舞う。ここら辺からこの映画、自分の記憶的に “透過光”のイメージが強くなります。
1:12:10~葉子横顔なめ、ドクター・キニスキーの望遠ショット。全面透過光が活きる画です! 自分初見でこの辺り見てた時、乏しい語彙力で申し訳ありませんが、本当に怖かったという記憶しかありません。

 で、「いつまでやるつもりなんだ!?」と自分でも思いますが、始めた以上はラストまで駆け抜けます(汗)! そして、敬称略すみません。

『タイガーマスク』を語る
第12回 第83話「幸せはいつ訪れる」

 『タイガーマスク』の第7、第8クールでは、虎の穴との戦いと並行するかたちで、ちびっこハウスの個々の子供にスポットが当てられる。
 具体的なエピソードとしては以下の6本だ。

 第83話「幸せはいつ訪れる」
 第84話「勝利への誓い」
 第87話「虎狩り計画」
 第89話「ヨシ坊の幸福」
 第93話「今日のいのちを」
 第100話「明日を切り開け」

 第4クール末から第5クールにかけての第50話「此の子等へも愛を」、第54話「新しい仲間」、第55話「煤煙の中の太陽」、第64話「幸せの鐘が鳴るまで」の4本では、直人が不幸な境遇にいる人達と出会い、そのドラマを通して「直人は、そして、人間は不幸な境遇の人達に対して何ができるのか」が描かれた。
 そして、上記の6本では次の段階として、新たなテーマに迫っていく。それは「みなしごはどのように生きるべきか」ということであり、それは「大人がみなしごに対して何ができるのか」ということでもある。そして、このテーマはみなしごだけのことで終わるわけではない。
 第50話、第54話、第55話、第64話はインパクトのあるモチーフを選んだこともあり、『タイガーマスク』の中でも特別なエピソードになっているはずだ。それに対して、上記の6本はお馴染みのちびっこハウスが舞台になっているということもあり、特別なエピソードという印象は薄い。むしろ、『タイガーマスク』の中でも地味な内容であるかもしれない。6本の中にはのんびりとした調子の話、日々の中の小さな事件に触れただけの話もある。
 ではあるが、この6本が作り手がドラマやテーマについて真摯に取り組んだエピソード群であることも間違いない。子供が自分が親に捨てられた存在であることに向き合うこと、仲間が裕福な家にもらわれていくことに対する嫉妬など、切実な部分に斬り込んでもいる。それも注目してもらいたいポイントだ。

 個々のエピソードを観ていこう。
 今回は第83話「幸せはいつ訪れる」(脚本/柴田夏余、美術/福本智雄、作画監督/高倉建夫、演出/新田義方)に触れる。第83話は6本の中でも重要なエピソードだ。この話ではミクロにスポットが当たる。脚本はミクロが初めて登場した第54話「新しい仲間」を執筆した柴田夏余である。
 ルリ子がデパートに買い物に行くことになり、ミクロとチャッピーがお伴として付いて行き、そこで偶然にもミクロが親戚の高田夫妻と再会する。高田夫妻はミクロの母親が亡くなった後、ミクロを探していたらしい。早速、ミクロは高田夫妻に引き取られることになる。高田家は裕福なようであり、夫人は上品で優しそうだ。そのことで嫉妬したチャッピーは、ミクロに対して意地悪なことを言い、そして、自分の感情を抑えることができず、若月先生とルリ子の前で涙を流す。
 直人はルリ子に同行し、その日のミクロやハウスの子供達の様子を間近で見ていた。ホテルに戻った直人は考える。みなしごの幸せとは何なのだろうか。親戚に引き取られることが幸せだったとしても、それを全てのみなしごに与えることはできないのだ。
 翌日、ミクロはちびっこハウスから高田家に引き取られた。これから、ミクロは高田家のテレビでタイガーマスクの試合を観戦することになるのだろう。試合の直前、タイガーの姿になった直人のセリフが洒落ている。「さあ行くぞ、ミクロ。君の新しいブラウン管の中へ。いつまでも俺のファンでいてくれよ」。ミクロが観てくれているテレビ画面の中で活躍してみせるという意味だ。
 試合ではタイガーがドン・レオ・モラレスを圧勝。ハウスでは健太達はテレビで声援を送っていたが、いつの間にかそこにミクロが紛れ込んでいた。高田家ではプロレスを下品なものとし、子供達に観せなかった。それに臍を曲げたミクロは一人で帰ってきてしまったのだ。ルリ子が説得しても、ミクロは高田家に帰ろうとはしない。
 ルリ子はタイガーマスクに電話をし、ミクロを説得することを依頼する。ここの展開は唐突に思えるが、第54話「新しい仲間」でミクロのことでタイガーに相談にのってもらったことを踏まえての展開なのだろう。第83話は物語はしっかりしているが、個々の描写に関して分かりづらいところがある。このあたりが脚本でどう書かれてるのか、機会があったら確認してみたい。
 タイガーはミクロと一緒にブランコに乗り、彼女と話をする。タイガーは言うのだった。君が自分のファンでいてくれることは嬉しい。ではあるが「もしも、俺を忘れることで、新しい家に馴染めるんなら、そのほうがなお嬉しいと思うよ」と。ミクロはタイガーの言った言葉を、新しい家に慣れるように一生懸命に努力しろという意味だと理解し、やってみると答えるのだった。このエピソードの終盤では、これからミクロが高田家に溶け込み、上手くやっていけるであろうことが示される。

 第83話は直人の物語としても重要である。重要なのは彼が「自分の幸福のために、タイガーマスクのファンをやめる必要があるかもしれない」とミクロに言ったことである。新しい環境で生きていくには自分が変わらなくてはいけない。直人がミクロの幸せを考えるなら、タイガーのファンをやめたほうがよいのだと言ってやるべきだ。理屈ではそうだ。しかし、ここまでの物語の流れを振り返ってほしい。
 直人は第64話「幸せの鐘が鳴るまで」までのエピソードで自分の無力を痛感し、一人で全ての恵まれない子供を幸せにすることはできないことを悟り、皆が他人のことを考えるようになることを信じて、自分ができることをやっていくことを決意した。彼ができることとは、タイガーマスクとしてリングの上で活躍し、全国の子供達に勇気を与えて行くことであるはずだ。それをやり抜こうとしている直人が、ファンに対して「自分のファンをやめるべきかもしれない」と言わなくてはいけないのだ。しかも、ついさっき「いつまでも俺のファンでいてくれよ」と言ったミクロに対してだ。
 後述するように、最終的にミクロは高田家でもタイガーの試合を観ることができるようになるのだが、それにしても皮肉な話だ。直人はタイガーマスクとして、マットの上で戦って子供に夢を与え続けることも許されないかもしれないのだ。そして、6本のエピソードの最後には、子供達のために何かをしてやりたいと思い続けてきた直人が「子供のために何もしない」という選択をすることになる。

 第83話における、ミクロ以外の子供達についても触れておこう。上で記したようにチャッピーはミクロが裕福な家にもらわれていくことに嫉妬して涙まで流した。高田夫妻がミクロを迎えに来る際に、夫妻の息子である太郎が一緒にやってくる。太郎は自分の家が金持ちであることを鼻にかけた嫌なやつであり、これからミクロの兄となる。健太と洋子はあんなやつがお兄さんで大丈夫だろうかと心配する。そして、ガボテンとヨシ坊は高田夫人の姿を見て、優しそうな女性であることを確認して安心する。ガボテンとヨシ坊は親に捨てられた子供である。だから、ミクロの新しい親が子供を捨てたりする大人ではないかが気になったのだろう。ミクロがもらわれていくことについて、子供達の嫉妬、心配、安心を描いているわけだ。
 ルリ子の買い物にミクロとチャッピーが付いて行くまでの過程では、ハウスの子供達にとってはお供でデパートに行くことが楽しみであり、付いていったとしても何かを買ってもらえるわけではないということが描写される。第83話からの6本では様々なかたちで、みなしごが描かれるが、特にこの第83話は描写が濃密だ。

 第83話は第54話「新しい仲間」と対になるエピソードである。第54話で直人はミクロに対して何もできなかったが、第83話ではタイガーの姿でミクロの背中を押してやることができた。第54話ではルリ子がミクロに寄り添うことで彼女を立ち直らせたが、第83話のルリ子はお金も自由になる時間もない自分は、ミクロがハウスから巣立って行くのに対して服を丁寧に洗ってやることしかできないと言って、悲しげな表情を見せる。
 第54話「新しい仲間」では過保護で育てられたミクロが、愛らしいけれど、世間に馴染むのが難しい子供として描かれた。それが第83話では甘え上手であり、幸福を享受することに長けた子供として扱われている。ミクロはこれから兄となる太郎の、金持ちを鼻にかけた態度も気にならないようだ。高田夫妻に服を買ってもらったミクロは、高田家の犬について「可愛いでしょ」と言い、その次に「あたしも可愛いでしょ」と言ってポーズをとる。
 第83話の終盤に、自動車の中でのミクロと高田のやりとりがある。高田が運転をし、ミクロは助手席に座っている。ミクロは高田の顔を見て「この人、おじさんじゃなくて、パパなのね」と想う。ミクロが「パパ……」と呼びかけると、高田はそうだ、これからは自分がパパだと返し、これからはタイガーマスクの試合を観てもいいとミクロに伝える。そして、ミクロは「ありがとう、パパ」と言って、高田に抱きつく。上で書いた「高田家に溶け込み、上手くやっていけるであろうことが示される」とはこの部分のことだ。ミクロは新しい家に慣れるため、一生懸命にやってみると言った。車中での高田とのやりとりで、それを実行したということなのだろう。甘え上手のミクロにとっては少し気持ちを切り換えるくらいのことで、一生懸命というほど、大袈裟なことではなかったのかもしれない。
 ミクロの甘え上手は、過保護に育てられた彼女のポジティブな面なのだろう。過保護に育てられたから、ミクロは幸せをつかむことができるかもしれない。それが第83話で描かれた。ガボテンとヨシ坊が親に捨てられた子供であるために、ミクロの新しい親がどんな人物だったのかが気になったのもそうだが、キャラクターに対する踏み込みの深さに驚かされる。

●第13回 第93話「今日のいのちを」 に続く

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第856回 『(劇)ジョー2』の魅力(6)

 前回からの続き。もう少々お付き合いください。

0:49:48~あ、色パカ! すみません、職業病です。
0:50:08~TVシリーズではこのジョーの視線の先に、ホセにノされたスパーリング・パートナーが横たわっていました。その部分をばっさりカットしてしまった故、戦慄の汗だけ残ってしまったのでしょう。TV“総集編”映画の面白さだと、俺は認識しています。
0:50:33~ポスターでかっ! と、ポスターとジョーの顔との対比が気になる……。
0:50:59~この目を見開いた“怒り”の表情。これも杉野(昭夫)作監が冴えます。今の若いアニメーターにこの心情表現ができる人、何人いるでしょうか? 大概“怒り=眉を吊り上げて眉間にシワ、歯をくいしばる”などの定型で描かれてきます。
0:51:21~TVシリーズ「見損なった~云々」の台詞を「教えてもらおうか! ホセは今どこにいるんだい?」と変えて、即“乗馬シーン”に繋ぐ手際の良さたるや!
0:51:40~で、ここからの乗馬シーンは原作にないオリジナル・シーン。学生時代、アルバイトして買った廉価版VHS全10巻(全47話)でTVシリーズ『ジョー2』を同級生・友人らに布教したところ、シリーズとおしての良いシーンが話題になり、俺が説明すると「乗馬って、原作にないの?」「え!? 須賀清って原作に出ないの!?」など、その数々の名シーン・名台詞が“アニメ版のオリジナル”であることに驚かれました! 逆に原作にある葉子がドヤ街住人に絡まれたり、ジョーと葉子がボーリング・デートするシーンなどはアニメでカットされています。ここまで色々手を加え、所々カットしても、原作の根底が活かされていればファンの支持を受ける名作アニメに成り得るのです!
因みに我々世代が生まれた頃(1974年)、原作「ジョー」は連載終了しておりました。俺が原作に詳しいのは、連載終了10年後(位?)に発刊された“KCスペシャル全13集版”を購読・愛読済みだったためです。
0:52:02~出﨑監督の手に掛かればジョーは突如、馬に乗れるのです!
0:52:05~あ、一番奥に須賀清(消し損ね)発見!
0:52:21~ “止め+ハーモニー” 連続で、駆け出す馬の力強さを表現することに成功しています。
0:52:59~TV版ではこの後、分割画面下段に須賀清がフレームINしてくるのですが、劇場版ではもちろんカット。
0:53:07~ここで分割画面上段を黒コマにすることで、“帽子が落ちた”を表現! ただただ巧い! 自分、分割画面はあまり好きではないのですが、出﨑監督のはこういうトリックがあるので納得させられるんです。
0:54:25~はい、画面左に見切れてる肩、須賀清(消し損ね)。
0:54:29~ここからのハワイアン・ムードの出し方、TVサイズな感じの省力感は否めないですが、部分の点描と音楽のテンポ感で“葉子の説明”を聴かせます。
0:55:18~“ピン送り”が戻る(ジョーが一旦ボケてまたピントが合う)のは何故?
0:55:55~「……ある訳がねえ」のジョーの表情、あおい輝彦の声——ゾクッとしますよね。初見の時、この辺りから既に「ジョー、ヤバい……」って。
0:56:06~ここからの“海辺のドライブ”シーンも名場面で、原作にありません。CGでは表現できない手描きのメカ・アクションの迫力がこれ!
0:57:05~葉子とジョーの笑い。BGMも含めて大人なシーン。これが描けていれば、原作のボーリングのシーンとかは不要です。
0:57:10~海の表現『ガンバ~』みたい。
0:57:17~ここが有名(?)な“唯一、劇場版にしかないシーン”! 原作のパンチドランカー故の蛇行するジョーの足跡(もう少し大きめに蛇行してて欲しかった)。TV版の時系列だと、パンチドランカー症状に気付く葉子が早過ぎる、とのことでカットらしいです。だとすると、シリーズ後半EDの止め+ハーモニー1枚に集約した? いや、でも服装違うしな……。
0:58:40~ホセ・メンドーサ対サム・イアウケア戦、ゴング!
0:59:19~カウントいきなり「ナイン!……テン!」早っ!
0:59:22~てことで試合終了! 尺40秒ちょい!
0:59:33~時代的に当たり前ですが、繰り返し(リピート)モブは気になっちゃいますね、『(風の谷の)ナウシカ』のラストと言い……。
1:00:16~前カットの1歩から、しれっとここへ飛ばす度胸。
1:01:17~杉野作監の“目を見開き、口元を結び且つ浮かべる笑み”! なぜか能動的なニヒリズムを感じます。だからまた、「ジョー、ヤバいっ……!」。
1:01:21~身体大の字に両手を突き上げ「シ―・ユー・アゲインッ!!」カッコ良し!!
1:01:25~このジョーの顔も「ヤバい!」死を恐れないどころか“笑って死に向かって行く”感が……。
1:01:34~リアルタイム1981年7月4日公開初日に観た人は、ここからが“新作”として楽しめた訳ですね。こうして改めて観ると、残り50分「半分(後半)新作」を興行的なマストに据えていたのは間違いないんじゃないかと? そりゃ“減量~金竜飛の過去”とかカットせざるを得ません。いや、この映画、ホセ戦の尺に意味があるんです! ホセ戦は25分弱に纏められている本作。例えば映画『ROCKY』的な計算だと、10分にホセ戦を纏められるでしょう。その上で金竜飛に尺を割くとか~と意見する方もいらっしゃるかも知れませんが、それだと、「急ぎ足で全部舐めただけの映画」になります(断言)! でもこの劇場版は、前半はTVのダイジェストと割り切って、後半新作でホセ戦をメインにすることで「ジョーを描く映画」にすることに成功しているのだと思います。即ち、カーロス戦も“ボクシング・テクニックの説明なんて不要”なんです。ボクシングを描く前に、ジョーを描くことのほうが出﨑監督の目的なんですから。ラストのホセ戦は観客が疲れるくらいの“長さ”が必須でしょうし(その辺りの話は次回以降)。

 てとこで、次も頑張ります(汗)。そして、敬称略すみません。

『タイガーマスク』を語る
第11回 小休止(あるいは、僕と『タイガーマスク』の50年)

 今回は自分のことについて書く。子供の頃から『タイガーマスク』の原作を読んでいたし、アニメの放映も観ていた。

 原作は雑誌「ぼくら」で連載が始まって「週刊ぼくらマガジン」に連載の場を移して、さらに「週刊少年マガジン」で連載している。どこからどこまでを連載で読んでいたのかは覚えていないが、「ぼくら」でも読んだし、「週刊ぼくらマガジン」でも読んでいた。「週刊ぼくらマガジン」が休刊した時のことは覚えている。休刊という言葉の意味が分からず、親に説明をしてもらった。何故か「週刊少年マガジン」になってからは連載を追いかけなかった。
 アニメは最初から観ていたはずだ。第1話が放映されたのが1969年10月2日だから、その時に僕は5歳だ。
 原作もアニメも、特に好きだったのは物語序盤の「覆面ワールドリーグ戦」の部分だ。ミスター・ノー、ゴールデンマスク、ザ・ライオンマン等の怪物的な覆面レスラーが好きだった。それ以降で好きだったレスラーが、タイガーの強敵であった赤き死の仮面だ。タイガーと彼の試合も見応えがあるのだが、その強烈な個性に惹かれた。赤き死の仮面が登場するのは原作だと第5巻(全14巻の第5巻。巻数はkindle版で確認した)、アニメだと第41話から第43話だ。原作ではタイガーが赤き死の仮面を倒したところで、一度物語に区切りがつくかたちとなっている。

 本放映当時のアニメ『タイガーマスク』は大変な人気番組だった。子供の頃の自分はヒーローアクション物として楽しんでいた。伊達直人=タイガーマスクに憧れていたし、その試合を手に汗を握って観ていた。
 劇中でちびっこハウスの子供達がタイガーの試合をテレビで観ている描写があるが、気分としては、自分も健太達と近しいポジションで『タイガーマスク』の試合を観ていた。劇中のタイガーの試合を、試合中継を観戦する感覚で観ていたのだ。
 『タイガーマスク』の試合シーンは、日常的なドラマ部分とは別のスタイルで演出されている。試合シーンでは大胆にカメラワークがつけられ、動きもダイナミックなものとなる。日常部分と試合部分がはっきりと別のものとして扱われていた。健太達がいる日常部分は、現実で作品を観ている自分達と地続きで、健太達と一緒に半ば別世界として扱われている試合を観ている感覚だったのだと思う。
 『タイガーマスク』は現実的な世界を舞台とし、そこに怪物的な覆面レスラーが登場して現実離れしたアクションを繰り広げる作品だった。つまり、特撮ドラマやヒーローアニメよりもリアリティがあり、それでありながら、特撮ドラマやヒーローアニメのような魅力を備えた作品だった。
 僕は、伊達直人=タイガーマスクを他の特撮ドラマやヒーローアニメの主人公よりも、ずっと現実的な存在だと感じていた。現実味と荒唐無稽さが渾然一体となったところに『タイガーマスク』の魅力があった。

 本放映が終わった後も、再放送で『タイガーマスク』を何度か観た。以前に別のコラムで書いたが、わが家が初めてビデオデッキを購入したのが1981年。その時に初めて録画したのが『タイガーマスク』の再放送だった。ビデオデッキが届いた日に放映していたから試しに録ったのだが、よく覚えている。
 少なくともその頃まで『タイガーマスク』は再放送で観る機会があったわけだ。僕の認識では、その後に再放送が減り、再見の機会が無くなっていった。TV作品のビデオソフトが出るようになり、街のあちこちにレンタルショップが出来る時代になっても、全話がビデオソフト化されることはなかった。
 自分はアニメファンとなり、最新作だけでなく、過去の作品を反芻するようになっていた。『タイガーマスク』が面白かったのは覚えていたし、作画や演出が凄かったと認識はしていたが、再見して確認する機会はなかなか無かった。

 再見の機会を得たのは1990年代に全話がLD BOX化された時だった。LD BOXは全4巻で、1巻から3巻は5枚組。そして、4巻が12枚組という不思議なバランスのBOXだった。最終回まで商品化されてよかったと思ったのを覚えている。僕はLD BOXを購入。印象的なエピソードを何本か再見した。
 21世紀に入ってから、例えば「WEBアニメスタイル」で、木村圭市郎さんのインタビュー
( http://www.style.fm/as/01_talk/kimura01.shtml )をした時にLD BOXで『タイガーマスク』を観直した。その前後にも何度か『タイガーマスク』を観ているはずだ。
 2003年に『タイガーマスク』の全話DVD BOXが発売された。全3巻で全話が収録されている。このDVD BOXで僕は解説書の構成と執筆を担当。同解説書ではLD BOXの解説書にあったスタッフインタビューも再録し、改めて新しい取材もした。DVD BOXの後に単品のDVDもリリースされ、これはレンタルショップにも並んだ(現在も借りることができるはずだ)。
 さらに2013年にDVD-COLLECTION全4巻がリリース。これは各巻4~5枚のディスクで構成されたパッケージだ。この時も僕は解説書の構成と執筆を担当した。
 子供の頃から『タイガーマスク』が好きだったが、自分のこの作品の理解が深まったのは、DVD BOXとDVD-COLLECTIONの仕事で本編を何度も視聴してからだ。その後も『タイガーマスク』について考えることが多くなった。また、『タイガーマスク』が作品として語られていないことを痛感するようになった。特にドラマ面が語られていない。この作品のドラマについて書いておかなくてはいけないと思うようになった。そして、随分経ってから書き始めたのが、このコラム「『タイガーマスク』を語る」である。

 子供の頃に話を戻す。このコラムで今まで触れてきたように『タイガーマスク』には大人びたタッチの、ドラマ中心のエピソードがある。僕は、子供の頃もそんなエピソードを楽しんで観ていた。楽しむことができたのは、伊達直人=タイガーマスクが好きだったからだろう。ドラマ中心のエピソードでも、試合のシーンはあったので、それを楽しみにしていたというのもあったはずだ。
 ドラマ中心のエピソードで特に印象に残っているのが、このコラムの第4回で取り上げた第50話「此の子等へも愛を」だった
( http://animestyle.jp/2024/05/08/27054/ )。原爆ドームの模型が印象的だったし、伊達直人が旅先で出会った三郎達に嘘をついたのが引っかかった。「どうしてそんな嘘をつくの?」と思ったのだ。第50話が最初に放映された時に僕は6歳。引っかかりを感じたのは本放映ではなく、小学生の時の再放送かもしれない。いずれにしても、直人の嘘が描かれた理由が分からず、モヤモヤしたものが残った。
 第50話で直人の嘘が描かれた理由がなんとなく理解できたのが、50歳を過ぎてからだったはずだ。直人の嘘を通じて「他人の不幸を娯楽として消費すること」が描かれていると考えることができる。あのエピソードで批判されているのは直人ではなく、視聴者である僕達だったのかもしれない。それに気がついた時に背筋が寒くなった。恐るべし、『タイガーマスク』。恐るべし、柴田夏余。唸るしかなかった。
 その驚きをコラムの第4回で原稿にした。この原稿を仕上げたのが、僕が60歳になった直後だ。第50話「此の子等へも愛を」を観て、引っかかりを感じてから、それを解釈して原稿にするまで、50年ほどかかったことになる。

 僕が『タイガーマスク』で、特に書いておきたいと思ったのが、第50話「此の子等へも愛を」、第54話「新しい仲間」、第55話「煤煙の中の太陽」、第64話「幸せの鐘が鳴るまで」の4本についてだった。それを書くことができたので、満足している。しかし、他にも『タイガーマスク』について書いておきたいことがある。次回は第7、8クールのドラマについて触れる予定だ。

●第12回 第83話「幸せはいつ訪れる」 に続く

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第282回 戦わないプリキュア 〜わんだふる ぷりきゅあ!〜

 腹巻猫です。6月15日に蒲田studio80にてサントラDJイベントSoundtrack Pub【Mission#45】を開催します。特集は5月に発売された『牧場の少女カトリ』音楽集の紹介。ほかに、1枚のサウンドトラック・アルバムを掘り下げるコーナー「1枚のアルバム」、サントラオンリーのDJタイムなどを予定。ご都合よければ、ぜひお越しください! 詳細は下記ページを参照ください。
https://www.soundtrackpub.com/event/2024/06/20240615.html


 5月29日にTVアニメ『わんだふる ぷりきゅあ!』のサウンドトラック・アルバムが発売された。本編では、ようやくプリキュアが4人そろったところ。サウンドトラックを聴きながら、これまでの物語をおさらいするのも楽しいと思う。今回は『わんだふる ぷりきゅあ!』の音楽を紹介しよう。
 『わんだふる ぷりきゅあ!』は2024年2月から放送されているTVアニメ。通称『わんぷり』。プリキュアシリーズ第21弾となる作品である。
 人と動物が仲よく暮らすアニマルタウン。中学生の少女・犬飼いろはと飼い犬のこむぎは、謎の怪物ガルガルと遭遇したことをきっかけに、プリキュアに変身する力を手に入れる。ガルガルの正体は動物の楽園ニコガーデンにいたニコアニマルで、なんらかの原因で怪物化していたのだ。こむぎ(キュアワンダフル)といろは(キュアフレンディ)は、ガルガルとなったニコアニマルたちをプリキュアの力でもとの姿に戻すために、「わんだふるぷりきゅあ」と名乗って活動を始める。
 まず驚くのは、犬がプリキュアになる設定。これまで、妖精や人魚や宇宙人など、架空の生き物がプリキュアになることはあったが、実在する動物がプリキュアになるのは異例。しかも、飼い主のいろはではなく、犬のこむぎのほうが(一応の)主人公なのだ。
 また、本作のプリキュアは、ガルガルとなったニコアニマルを助けるために活動しているので、基本的にガルガルに攻撃を加えない。プリキュアがいかにしてガルガルの動きを止め、興奮を鎮めるかが見せ場になっている。前作の『ひろがるスカイ! プリキュア』がダイナミックな肉弾戦を見せ場にしていたのと対照的だ。
 動物との共生。戦うのではなく助けること。このふたつが本作の重要なポイントになっている。

 音楽は前作から引き続いて、深澤恵梨香が担当。
 上に挙げた本作のポイントは、当然、音楽にも反映されている。
 『ひろがるスカイ! プリキュア』では、「ヒーロー」がテーマに掲げられていたため、勇気や決意をイメージさせる曲や激しいアクションを描写する曲が音楽の中心になっていた。
 『わんだふる ぷりきゅあ!』は動物が題材になっている。そこで音楽にも、動物の声や足音、動作、感触などをイメージした描写的な表現が盛り込まれた。また、戦いを連想させる激しい曲や荒々しい曲が少なくなり、かわいらしさや共感を連想させるやわらかいトーンの曲が多くなった。全体に親しみやすく、やさしい印象の音楽になっている。『ひろプリ』のようなダイナミックなアクション曲を期待するとやや物足りないかもしれないが、じっくり聴ける曲の多い、味わい深い作品である。
 本作のサウンドトラック・アルバムは「わんだふるぷりきゅあ! オリジナル・サウンドトラック1 プリキュア・ワンダフル・サウンド!!」のタイトルで5月29日にマーベラスから発売された。構成は筆者が担当した。
 収録内容は以下のとおり。

  1. みんななかよし!わんだふる!
  2. わんだふるぷりきゅあ!evolution!!(TVサイズ)(歌:吉武千颯)
  3. サブタイトル
  4. 毎日がわんだふる!
  5. かわいい仲間たち
  6. うきうきお散歩
  7. 不安な気配
  8. ガルガルを追いかけて
  9. 私が守る!
  10. ワンダフルパクト!プリキュア!マイエボリューション! – Short version -
  11. わんだふるぷりきゅあ大奮闘!
  12. おうちにおかえり
  13. アニマルタウン
  14. 手がかりをさがせ
  15. ぶっちゃけたい
  16. 言っちゃダメェ〜
  17. わんだふるキャッチ!
  18. ニコガーデン
  19. あなたの声が聞けたら
  20. ひとり抱える想い
  21. 21.ともだちになれるかな
  22. いとしくて
  23. 知れば知るほどわんだふる!
  24. たじたじ
  25. 私、がんばる!
  26. 危険なにおい
  27. 夜にざわめく声
  28. ガルガル出現
  29. ワンダフルパクト!プリキュア!マイエボリューション!
  30. 行くよ!いっしょに助けよう!
  31. 心つなぐ絆
  32. プリキュア!フレンドリベラーレ!
  33. 澄んだ瞳で
  34. ここが大好き!わんだふる!
  35. FUN☆FUN☆わんだふるDAYS!(TVサイズ)(歌:石井あみ&後本萌葉)
  36. 来週もわんだふる!

 第1回録音で収録された本作の音楽(BGM)は約40曲。アルバムには、その中から33曲を収録した。
 1曲目「みんななかよし!わんだふる!」は本作のメインテーマ。動物と人間が仲よく暮らす楽しさやよろこびをイメージした曲である。本編では第1話の冒頭から流れていた。イントロで聞こえる鳥の声や動物の声(を模した音)に耳を傾けてほしい。動物が身近にいる世界が音で描写されているのだ。劇中でこの曲が使用される際は鳥の声などはほとんどカットされているので、アルバムで聴ける完全版は貴重である。
 また、曲の途中から入る女声ボーカル(ボーカリーズ)も聴きどころ。『魔法つかい プリキュア!』『スター☆トゥインクル プリキュア』などの主題歌を歌った北川理恵がボーカルを担当している。深澤恵梨香によれば、「人と動物の両方をあたたかく包み込む音」として人の声を入れようと思ったとのこと。女声ボーカルは共感や愛情の象徴として、変身BGMやサブタイトル曲、アイキャッチ曲などでもフィーチャーされている。
 オープニング主題歌とサブタイトル曲を挟んで、トラック4からはアニマルタウンの日常を描写する音楽を続けて収録した。
 「毎日がわんだふる!」(トラック4)は使用頻度の高い日常曲で、ユーモアをたたえた明るい曲調が本作にぴったり。「かわいい仲間たち」(トラック5)は動物の愛らしさを表現する曲。「うきうきお散歩」(トラック6)は、毎回のエンディング後のミニコーナー「あなたのおうちのわんだふる」のBGMとしても使われている、ビッグバンドジャズ風の楽しい曲だ。
 これらの曲に共通するユーモラスなトーンは、本作独特の味わいにもなっている。コミカルというよりユーモラスなのである。「ぶっちゃけたい」(トラック15)、「言っちゃダメェ〜」(トラック16)、「たじたじ」(トラック24)、「私、がんばる!」(トラック25)なども同様。くすっと笑えるようなシーンに流れて、ほのぼのとした気分にさせてくれる。
 トラック7「不安な気配」からトラック12「おうちにおかえり」までは、ガルガル出現〜プリキュア変身〜事件解決までの流れを定番の曲で再現してみた。
 「不安な気配」はこむぎがガルガルの気配を感じ取る場面などによく流れるサスペンス曲。次の「ガルガルを追いかけて」(トラック8)は、こむぎたちがガルガルを追ったり、逆にガルガルに追われたりするシーンに流れるアクション曲。ほぼ毎回のように使われている。
 トラック9「私が守る!」は、こむぎやいろはが初めてプリキュアに変身するときに使われた曲。大切な存在を守ろうとする強い決意を表わす曲調は、前作『ひろがるスカイ! プリキュア』を思わせる。
 変身BGM「ワンダフルパクト!プリキュア!マイエボリューション!」のショート・バージョンに続いて、プリキュアの活躍を描写する「わんだふるぷりきゅあ大奮闘!」(トラック11)。もともとはフレンドリータクトの使用場面を想定した曲で、頭の部分はプリキュアがフレンドリータクトを振ってキラリンアニマルのパワーを借りる場面の曲、そのあとがプリキュアの活躍シーンに流れるアクション曲という2部構成になっている。アクション曲のパートがバトルのイメージではなく、躍動感や疾走感を重視した曲調になっているのが本作らしい。
 トラック12「おうちにおかえり」は、もとの姿に戻ったキラリンアニマルがプリキュアに導かれてニコガーデンに帰っていく場面に流れる、おなじみの曲である。
 本作の音楽の聴きどころのひとつが、繊細な心情描写に使用される曲だ。人間と動物、立場やメンタリティの異なるキャラクターが、ときには衝突したり、ときには違いを乗り越えて共感しあったりする。トラック19「あなたの声が聞けたら」からトラック22「いとしくて」までは、そんな場面に流れる心情描写曲を集めてみた。
 「あなたの声が聞けたら」は、いろはとケンカして家出してしまったこむぎが、いろはを恋しく思う場面(第7話)などに使われた曲。第10話では、猫屋敷まゆが飼い猫のユキと初めて会ったときのことを語る場面にも流れていた。木管や弦楽器が奏でるメロディが、気持ちの通じない切なさ、もどかしさを表現している。
 トラック20「ひとり抱える想い」は孤独感やさびしさを描写する曲。第6話のこむぎといろはの仲たがいの場面など、すれ違う気持ちを表現する曲として使われることも多い。
 トラック21「ともだちになれるかな」は、初めて出会ったふたりが友情を育んでいくようすを音楽で表現した曲。なんといっても、第10話の回想シーンでまゆがユキと少しずつ距離を縮めていく場面に流れていたのが印象的。第19話ではまゆとユキが和解するラストシーンにふたたび使われ、ふたりの絆がより深くなったことが音楽でも表現されている。
 次の「いとしくて」(トラック22)は愛情をストレートに表現する曲で、弦合奏によるやさしいメロディが心にしみる。第2話でキュアフレンディがガルガルに対して「あなたを傷つけたりしない」と呼びかける場面や第19話でまゆがユキに「いつもいっしょにいてくれた」と感謝を伝える場面など、胸を打つ名シーンに使われた。
 深澤恵梨香は、本作の音楽打ち合わせで「心の交流を描くシーンに付ける曲は大切にしてほしい」と言われたと語っている。これらの心情描写曲は、本作のテーマに直結する重要な楽曲なのである。
 トラック26「危険なにおい」からトラック32「プリキュア!フレンドリベラーレ!」までは、ふたたび出現したガルガルを力を合わせて助けるプリキュア、というイメージでまとめてみた。
 「危険なにおい」は異変発生や募る不安感を描写するサスペンス曲。トラック27「夜にざわめく声」には怪しげな声が入っていて、不気味なムードが高まる。この曲も本編では声をカットして使われることが多い。次の「ガルガル出現」(トラック28)は暴走するガルガルの場面によく使われる危機感に富んだ曲である。
 そしてトラック29は、変身BGM「ワンダフルパクト!プリキュア!マイエボリューション!」のフルサイズ。本作では、キュアワンダフル&キュアフレンディの「犬組」とキュアニャミー&キュアリリアンの「猫組」とで別々の変身BGMが作られている。これも従来のプリキュアシリーズになかった新機軸だ。本アルバムでは発売日の都合で(発売日に猫組がそろっていなかったので)犬組の変身BGMのみを収録した。曲の中に犬をイメージした音やフレーズが盛り込まれているので、ぜひ、サウンドトラックでじっくり聴いてもらいたい。
 トラック31「心つなぐ絆」は試練を乗り越えて強くなる心の絆を表現する曲。第5話でキュアワンダフルとキュアフレンディの気持ちに応えてワンダフルタクトが出現するシーンや第19話でまゆがプリキュアに変身する力を手に入れる場面に流れていた。トラック32「プリキュア!フレンドリベラーレ!」はキュアワンダフルとキュアフレンディの合体技の曲である。
 トラック33以降はエピローグのイメージで構成。
 「澄んだ瞳で」(トラック33)はピアノとストリングスと木管のアンサンブルによる美しい曲。本編では、第1話のまゆの初登場シーンや第12話でまゆがいろはから「友だち」と言われて感激するシーンなど、まゆの場面によく流れている印象がある。本来はくもりのない純真な心を表現する曲で、まゆのテーマというわけではないのだが、まゆのキャラクターと曲の相性がよいのだろう。
 トラック34「ここが大好き!わんだふる!」は、まゆの母が経営するコスメショップ「プリティホリック」の場面などに流れている軽快な曲。『わんぷり』らしい明るいムードに戻して、BGMパートの締めくくりとした。

 さて、本作では4人のプリキュアが登場することが当初からアナウンスされていたが、6月9日放送の第19話にして、ようやく4人目のキュアリリアンが登場した。「サウンドトラック1」に収録できなかった猫組の変身BGMは、「サウンドトラック2」に収録する予定である。それまでしばし、「サウンドトラック1」を聴きながら、お待ちいただきたい。

わんだふるぷりきゅあ! オリジナル・サウンドトラック1 プリキュア・ワンダフル・サウンド!!
Amazon

第224回アニメスタイルイベント
ここまで調べた『つるばみ色のなぎ子たち』7 【センチメートル単位で描き出す平安京 編】

 片渕須直監督が制作中の次回作のタイトルは『つるばみ色のなぎ子たち』。平安時代を舞台にした作品のようです。
 『つるばみ色のなぎ子たち』の制作にあたって、片渕監督はスタッフと共に平安時代の生活などの調査研究を進めています。アニメスタイルは2021年から「ここまで調べた片渕須直監督次回作」のタイトルでイベントを開催しており、現在は「ここまで調べた『つるばみ色のなぎ子たち』」のタイトルでイベントを続けています。

 2024年7月6日(土)に開催する「ここまで調べた『つるばみ色のなぎ子たち』7」のサブタイトルは 【センチメートル単位で描き出す平安京 編】。今回はレギュラーの片渕須直監督、前野秀俊さんに加えて、高橋夕香さんが出演。高橋さんは『つるばみ色のなぎ子たち』で美術考証をされている日本画家の方です。センチメートル単位までにこだわった美術関連の考証や描写についての話がうかがえるはずです。

 会場は阿佐ヶ谷ロフトA。今回のイベントも「メインパート」の後に、ごく短い「アフタートーク」をやるという構成になります。配信もありますが、配信するのはメインパートのみです。アフタートークは会場にいらしたお客様のみが見ることができます。

 配信はリアルタイムでLOFT CHANNELでツイキャス配信を行い、ツイキャスのアーカイブ配信の後、アニメスタイルチャンネルで配信します。なお、ツイキャス配信には「投げ銭」と呼ばれるシステムがあります。「投げ銭」による収益は出演者、アニメスタイル編集部にも配分されます。アニメスタイルチャンネルの配信はチャンネルの会員の方が視聴できます。また、今までの「ここまで調べた~」イベントもアニメスタイルチャンネルで視聴できます。

 チケットは6月8日(土)昼12時から発売となります。チケットについては、以下のロフトグループのページをご覧になってください。

■関連リンク
LOFT HP  https://www.loft-prj.co.jp/schedule/lofta/286063
会場チケット(LivePocket)  https://t.livepocket.jp/e/phz0i
配信チケット(ツイキャス)  https://twitcasting.tv/asagayalofta/shopcart/313711

 なお、会場では「この世界の片隅に 絵コンテ[最長版]」上巻、下巻を片渕監督のサイン入りで販売する予定です。「この世界の片隅に 絵コンテ[最長版]」についてはこちらの記事をどうぞ→ https://x.gd/57ICr

第224回アニメスタイルイベント
ここまで調べた『つるばみ色のなぎ子たち』7 【センチメートル単位で描き出す平安京 編】

開催日

2024年7月6日(土)
開場12時30分/開演13時 終演15時~16時頃予定

会場

阿佐ヶ谷ロフトA

出演

片渕須直、高橋夕香、前野秀俊、小黒祐一郎

チケット

会場での観覧+ツイキャス配信/前売 1,500円、当日 1,800円(税込・飲食代別)
ツイキャス配信チケット/1,300円

■アニメスタイルのトークイベントについて
 アニメスタイル編集部が開催する一連のトークイベントは、イベンターによるショーアップされたものとは異なり、クリエイターのお話、あるいはファントークをメインとする、非常にシンプルなものです。出演者のほとんどは人前で喋ることに慣れていませんし、進行や構成についても至らないところがあるかもしれません。その点は、あらかじめお断りしておきます。

第855回 『(劇)ジョー2』の魅力(5)

 前回からの続き。

0:43:04~電車通過後、紀子の台詞、

私、付いて行けそうもない……

劇場用・藤田淑子版紀子の方がTV版より、精神的な決別感が強く出ていると思います! が、やや大人っぽい? 下町三つ編み娘には、似つかわしくない艶っぽさが……。
0:43:29~金竜飛戦。本当に「それで終わり」ですか!? でも、これだけの端役に追いやられた “劇場版・金竜飛”役に「“舞々(チョムチョム)”でジョーを苦しめます!」的な意気込みを語ったCV.古川登志夫のコメント(劇場パンフレットより)は微笑ましいですね。
0:43:57~ここで“金竜飛の過去インサート”は初見のお客には辛かろう、とも思うくらい、「?」な編集。過酷な減量話を丸々カットしたこと以上に謎。でも、「分かんないなら分かんなくっていいよ!」って、出﨑統監督なら仰るでしょう。はい、TVシリーズで2話分使った金竜飛戦も、出﨑監督の手に掛かれば締めて(看板から入れても)37秒!
0:44:05~ここからのテレビ関東によるパーティー、TVシリーズでは金竜飛戦の前(減量前)に入るシーンでした。“矢吹丈(丹下ジム)・連戦連勝祝賀会”の看板のカットから、テレ関・大橋部長「強敵・韓国の金竜飛選手を厳しい減量に耐え、第6ラウンドKO勝ち!」のスピーチを重ねて無理矢理“金竜飛戦後の祝勝パーティー”に置き換えることに成功(?)しています。
0:44:59~この窓に映り込むジョーのド寄りなめ、ホセ・メンドーサ。前々カットの跳ねる鯉からO.L(オーバーラップ)して窓際に無言で立つ葉子とジョー~の流れでホセを背後に感じるジョー! ここ一連の呼吸が実に良い!! 逆算してTVシリーズ~己の体重から話を逸らそうとするジョーの「今、池の鯉が跳ねやがった」が邪魔に感じるくらい。実はそれ位『ジョー2』に関してはTVより、劇場版の方をより繰り返し観ている板垣です。
0:45:16~サングラスを外して再度こちら(ジョー)を見るホセ。ダンディでカッコ良いカット。なのですが、カット尻の3回T.Uが、多分“目をセンター”にしてT.Uを繰り返したつもりなのでしょう。ところがコレ、

“おでこにT.U”して見える!!(※TVフレーム4:3でも!)

 と。もう少しラストフレームを下げる(てことは目を上へ、むしろ“鼻”に寄るようにする)方が“目にT.U”するように見えるものです。その昔、自分がテレコム(・アニメーションフィルム)時代に『SUPER MAN』(1996)で“死刑囚の顔にT.Uする”という、コレと同様のカットを描きました。そのラッシュ・チェックの際、(ジブリ作品でもご活躍の)田中敦子先輩から「板垣君! あそこのT.U、おでこに向かってる!」と指摘されたのを思い出します。そう、“画で映画を作る”ということは考えてる以上に微妙な映像センスが必要なモノなのです。
0:45:54~段平によるデタラメ英語も、劇場版の方が要領よく纏っています! それと、こんなコミカルなシーンなのに段平背中……しかもピンボケなめ、アオリ・入射光とか妙な迫力で、個人的に可笑しい。
0:46:34~ジョーの肩を握るホセ、横3回PAN。横3回PAN自体は好きではないけど、この緊張感漂うムード・BGMにスピード感のある3回PANはカッコ良い!! 一種、音楽的なリズム感と映像のそれとの不一致が面白く感じる俺です。
0:46:43~ホセ・メンドーサの「GOOD LUCK……」。劇場版ホセの岡田真澄バージョンは粘っこく「グーッド・ラック……」、TV版は華麗に「グ―(ッ)・ラー(ッ)」。どっちも良い! 言い終わってのアオリ・付けPANも!
0:47:02~前カットでジョーのド寄りから既に丹下ジム内、バサバサッ置かれる礼服(段平の貸衣装)。このシーン繋ぎも軽快。
0:47:37~ここで漸く丹下ジム外観。BGMも相まって、“一旦リセット”感が結構好き。つまり、ホセが両肩握り、それを持ったままジムにて“痣”発見までを一塊にしたかったのかと。
0:48:19~ここの台詞回し最高!

へ(は)っ……、俺だったら肩に痣なんて気取った真似はしねぇ。
奴の鼻っ先へでっかい青い痣をプレゼントしただろうぜ……!

このニヒルで軽やかな言い回し、ルパン三世役は山田康雄以外があり得ても、ジョー役は本当にあおい輝彦以外に考えられません!
0:49:13~???ここ、TV版の“止め+ハーモニー処理”が数コマ残ってるのは、ビデオレンタルの昔から気になって、気になって。
0:49:24~ミラーに映るTV屋さんとジョー。後部座席シートの実線が、“合成ミス(動画・仕上げ用語)”です、多分。もちろん、出﨑監督も俺も気にしません!!
0:49:29~この“逆光シルエット+全面透過光の海”、1981年当時の出﨑監督の“映像観”が分かるカットの一つかと。

 あれ? これでまだ半分行ってない!? ダメですね、好き過ぎる作品の分解は! 次、頑張ります(汗)。

 ってとこで、新作のオープニング・コンテ作業に戻ります! また色々敬称略で、すみません。

『タイガーマスク』を語る
第10回 第6クールの展開とクライマックス

 第6クールの物語の流れは、このコラムの第3回 第5クール~第8クール( http://animestyle.jp/2024/05/01/27031/ )でも触れている。第71話で大門大吾が伊達直人の仲間となり、第74話で高岡拳太郎が仲間となる。拳太郎がケン・高岡としてリングに立つのが第74話の終盤で、第77話と第78話でビッグ3と対決する。第78話で大門がこの世を去ってしまうので、直人、大門、拳太郎の三人が仲間でいるのは、第74話から第78話のたった5話分でしかない。そして、直人、大門、拳太郎のドラマがたっぷりと用意されているのが、前回のコラム( http://animestyle.jp/2024/05/30/27241/ )でも話題にした第76話「幻のレスラー達」だ。

 前回のコラムで、大門大吾と違って伊達直人は恐らく大工仕事は不得手だったはずだと書いたが、それだけではなく、直人と大門はタイプがかなり違う。第76話ではちびっこハウスにおいて、室内で子供達が騒いでいるのに対して、大門が大きな声で怒鳴りつける場面もある。「キザ兄ちゃん」を演じていなかったとしても、直人はそんなふうに子供を叱りつけるようなことはしないだろう。同じ第76話ではガウン姿の大門が、リラックスして自分に届いたファンレターを読む場面がある。終始緊張感を纏った直人に関しては、そんな場面が描写がされたことはない。
 第76話の見どころのひとつが、試合の控え室での出来事である。ミスター不動のマスクを被った大門が、直人に対してタイガーマスクのマスクを被せてやると言い出す。それを聞いた直人は、今まで自分が伊達直人の姿からタイガーマスクに変わる瞬間は誰とも共有できていなかったことに気づく。しかし、今はその瞬間に大門が立ち合ってくれるのだ。自分の戦いが孤独なものであったことと、大門という仲間を得たことの感慨に直人は涙を滲ませる。涙を見せたくなかった直人が、大門に先に試合に行くように促したため、大門がタイガーのマスクを被せてやるというシチュエーションは実現しなかったが、もしも、実現したならば、さぞや照れくさい場面になっただろう。立場が逆だったとしても、直人は大門に対してマスクを被せてやるとは言わなかったはずだ。彼と大門は他人との距離の取り方が違うのだ。
 前回のコラムで話題にした大門が子供達と一緒に離れを作ったエピソードを含めて、第76話はキャラクターへの踏み込みと、描写の細やかさが素晴らしい。これも柴田夏余の脚本の力だと僕は受け止めている。

 『タイガーマスク』は第5クールで「直人と市井の人々とのドラマ」を重ねて、その上で伊達直人がやってきたことを振り返り、その意味を考え直し、彼が本当にやるべきことは何かに辿り着いた。そうして人間としての厚みを得た直人が、第6クールでは大門、拳太郎という頼もしい仲間を得て、上記のようなかたちで孤独な戦いにも終止符を打った。その上で最強の敵であるビッグ3との対決に雪崩れ込むという展開である。
 第5クールで日常的なドラマを重ねたのは「人間・伊達直人」を描くためでもあったはずだが、それと同時に第6クール終盤をアクション物として盛り上げるための「タメ」でもあったはずだ。第69話でタイガーマスクが戦ったナチス・ユンケル、第71話で戦ったキングジャガー、第73話で戦ったイエローデビル(拳太郎)はいずれも虎の穴の若手レスラーだった。劇中では強敵として扱われていたかもしれないが、タイガーの相手としてはやや小者であり、視聴者がちょっと物足りないと思っているところに、虎の穴最強のビッグ3が登場するのだ。拳太郎が仲間になってからの物語の密度の高さ、テンポのよさも素晴らしいもので、実に見事なシリーズ構成である。
 キャラクターの特殊性についても触れておこう。ビッグタイガー、ブラックタイガー、キングタイガーのビッグ3は、それぞれが主人公のタイガーマスクをパワーアップさせたようなキャラクターである。タイガーの敵はさらに強いタイガー。しかも、それが三人同時に登場したのだ。後年の特撮ヒーロードラマ、アクションアニメ等で類似のキャラクターや展開もあったが、『タイガーマスク』放映当時としては、非常に斬新な敵キャラクターであり、展開だった。自分自身のことで言えば、少年時代の僕にとってビッグタイガー、ブラックタイガー、キングタイガーの登場は衝撃的ですらあった。

 『タイガーマスク』が第6クールラストで完結していたならば、伊達直人という一人の人間のドラマとしても、タイガーマスクを主人公としたヒーローアクション物としても綺麗なかたちで完結したに違いない。ではあるが、このコラムの第3回でも触れたように放映が延長され、第7・8クールで、ビッグ3よりもさら強いタイガー・ザ・グレートが登場することになる。後年のアクションマンガ等で繰り返される「強さのインフレ」の先駆けと言っていいかもしれない。
 第6クールのラス前が第77話「死闘のタッグ」(脚本/辻真先、美術/秦秀信、作画監督/小松原一男、演出/及部保雄)だ。タイガー&ミスター不動と、ビッグタイガー&ブラックタイガーのタッグマッチで、ミスター不動が捨て身の戦いで二人の強敵に止めを刺す。『タイガーマスク』の試合について、プロレスの枠を飛び出していると思うことが多いが、身動きが取れなくなったミスター不動に、凶器を持ったビッグタイガー、ブラックタイガーが同時に襲いかかる部分は正しく死闘。命の奪い合いであった。ここから死闘の結果が分かるまでの部分は、演出的な仕掛けが効いており、凄まじく緊張感のあるものとなっている。演出的な仕掛けについてはここでは説明はしない。是非とも映像で確かめて欲しい。
 第78話「猛虎激突」(脚本/安藤豊弘、美術/浦田又治、作画監督/森利夫、演出/勝間田具治)が、第6クールのラストエピソード。タイガーマスクとキングタイガーの凄絶な死闘が描かれるが、キングタイガーが自滅するというかたちで決着が付く。
 斉藤侑プロデューサーはかなり以前から、最終回でタイガーマスクのマスクが剥がされる展開にすることを考えていたのだそうだ。『タイガーマスク』DVD BOX第2巻の解説書の斉藤プロデューサーのインタビューで、もしも、第78話が最終回になっていたならば、キングタイガーとの試合でマスクを剥がされていたのかと訊いたところ「多分、そうなっていたでしょう」と答えてくれた。
 予定されていた第78話がどんなものだったかは分からないが、放映の延長が決まったところで、第7クール以降に繋がる内容に変更されたのだろう。勝負がキングタイガーの自滅で終わるかたちではなかったのかもしれない。
 すでに完成した作品について「もしも、こうなっていたら」を考えても仕方がないのかもしれないが、もしも、『タイガーマスク』が第6クールで終わっていたら、どんなかたちの最終回になったのだろうか。それについては考えずにはいられない。

●第11回 小休止(あるいは、僕と『タイガーマスク』の50年) に続く

[関連リンク]
Amazon prime video(アニメタイムチャンネル) 『タイガーマスク』
https://amzn.to/4bjzNEM

タイガーマスク DVD‐COLLECTION VOL.3(注意。コラム中で触れているDVD BOXは2003年にリリースされたものであり、現在発売されているDVD‐COLLECTIONとは別のものである)
https://amzn.to/453gcXk

原作「タイガーマスク」(Kindle)
https://amzn.to/3w3BJlV

第854回 『(劇)ジョー2』の魅力(4)

 前回からの続き。

0:31:19~カーロス(OFF)「ジョー・ヤブキともう約束をした」の後ろ姿のジョー。なぜか鉄柱(?)に添えられた右手が、妙に艶っぽいと思うの、俺だけ? 女性の手の描き方っぽい。
0:31:39~葉子「矢吹君とカーロス選手へのクリスマスプレゼントとして」はTVの放送時期に合わせた話で、この劇場版公開時では7月。なるべく軽く触れる程度にしてあるようです。
0:31:54~はい。これもゴングを鳴らす手元とくれば、試合開始! かと思いきや、もう既に何ラウンドかの終了ゴング!『(劇)エースをねらえ!』級の端折り方です。
0:32:05~前カットの段平「大丈夫か、ジョー?」を受けてのジョー「へっへ……、大丈夫だよ」から即モノローグ! インターバルすら描かずに再びジョーのモノローグを被せて試合中! へ。
0:32:20~もうここから訳分かりません! いきなり一切の説明なしで“ロープ際攻防線戦”ですからね! 「経緯はTVで観たでしょ?」とかな感じではなく、「説明なんかしないから、観たまま感じて受け取ってくれ!」なんだと思います、出﨑監督は。
0:33:44~ここもインターバルのシーンを途中で切り上げてゴングすら切って、次ラウンド開始! ジョー(モノローグ)「決まってるよ……。このカーロスをぶっ倒す夢さぁっ!」
0:33:48~カーロスの光る(見えない)パンチがジョーにヒット! ~0:33:52で倒れ……の、
0:33:54~もう受けて(躱して)る!! 戦略を一切描かず・説明せず! いったい何が起こったんだ!? と突っ込みつつも、カッコイイ! 説明よりフィーリングなんです!
0:34:09~いつもよりさらに光で飛ばした感じの“止め+ハーモニー”の連続! こーいう瞬間の切り取り方が、純粋にフィルムとして面白い。
0:34:37~画面分割は好きではない! が俺の前提ですが、どーせやらなきゃならないならセンターの分割線は消したい。
0:35:10~ここからのファイト・シーンのコラージュは『ロッキー』シリーズ以上に大胆でスピーディーな編集に仕上がっています。
0:36:14~この“カメラ回り込みの激闘10数秒間”が板垣の人生を変えました! この“アニメならではの迫力”に魅せられ、そして自分をアニメ業界に引きずり込んだカットと言っても過言ではありません! この手のアクションを何度も“パラパラ漫画”で描いては家族やクラスメイトによく見せていました。中学・高校の同級生らに「俺、アニメーターになった~」と言って驚く奴は誰もいないでしょう。
0:37:11~で試合の結果すら知らせずに、そのリング上を見つめる葉子——を見つめる白木翁が“ボケ”で居てピン送りすらしない! “語らずに魅せる”クールな演出の宝庫です。
0:37:15~走行する電車内に立つジョー。そこへ被る乗客(OFF)「あれ矢吹丈じゃねーか?」。このカット一発で場所移動・時間経過だけでなく、世間の人々のジョーに対する現状の認知度向上を自然と入れてくる演出。これ書ける脚本家にも、俺はお会いしたことないです。
0:38:26~ジョー「何かの、間違いじゃねえのかい!?」の表情。こちらも秀逸!
0:39:18~出﨑監督作品超お馴染み“走行する電車車輪ショット”。激しい効果音と画面の明滅でキャラクターの動揺を表現しています。「演出って何する仕事?」という問いに「出﨑作品を観れば分かる!」の一言で片付くのがコレ、いい例です。同じ電車車輪ショットの使い回しでも入る場面・シチュエーションによって違う意味を伝えられるし、キャラの別の側面が感じられもするのです。「クレショフ効果」で検索しましょう。
0:39:23~この戦慄しつつも口元に微かに浮かべた笑み(のように見える)が、ザ・杉野昭夫作監!
0:39:27~この一連“深い青パラ”も良い!
0:39:44~前シーンの締めが閉まる扉で、このシーンの始まりが冷蔵庫のドアが開く。冒頭(第851回の[1])からの説明どおり、これも明らかに意図的な繋ぎ。それが証拠に(?)冷蔵庫のドアは閉まる前にカットしています。
0:40:27~前カットの紀子「矢吹君に誘われたの初めてだもん」に応えもしないで、一気に夕方。しかも次カット(0:40:29~)も何か言った後のような不穏なカットに。TVシリーズではあった会話を削って違う意味にしてまで、敢えてこの2カットを残したのが意味深。
0:40:47~暴走族シーン。後の出﨑作品OVA『B.B』3巻のアバンで同様のシーンがありますが、こっちの方が良い。
0:42:18~ジョーの名台詞、

燃えカスなんか残りゃあしない。真っ白な灰だけだ。
——力石だって、あのカーロスだってきっとそうだったんだ……!

ここで被る電車の走行音は“ジョーと紀子の断絶——埋めようがない距離感”を表現していて何度観ても痺れます。本当に単純な画(構図)の連続と動きと音……これで無限に心情を表現できることを出﨑作品は観る度教えてくれます!

 で、またチェックの時間! また色々敬称略で、すみません。

『タイガーマスク』を語る
第9回 「幸せの鐘が鳴るまで」についてもう少し

 第50話「此の子等へも愛を」、第54話「新しい仲間」、第55話「煤煙の中の太陽」、第64話「幸せの鐘が鳴るまで」について、改めてまとめておく。
 第50話では被爆者家族が、第54話では過保護が、第55話では四日市の公害が、第64話では交通遺児がモチーフとなった。これらのエピソードについて「社会的な問題を取り上げており、それが素晴らしい」と言われることが多いが、前回までで触れたように、この4本の価値はそれだけではない。社会的な問題を取り上げつつ、それと同時に主人公である伊達直人がそれまでやってきたことに対しての疑問を提示し、彼の無力を描き、そして、本当に何をやるべきかについて模索し、ひとつの結論に達した。その結論は不幸な境遇にいる人達に対して、一人の人間が何ができるのか、というものであり、視聴者に対するメッセージでもあった。
 この一連のコラムでは、第50話に関して「他人の不幸を娯楽として消費すること」が皮肉を込めて描かれていたとしている。娯楽として消費するのがよくないことだとしたら、我々はどのように不幸な境遇にいる人達と向き合えばいいのか。第64話で到達した結論はそれに対する回答であったと考えることもできる。

 第64話「幸せの鐘が鳴るまで」について、僕が最も語りたかったことは前回のコラムで書いた。以下は前回のコラムから溢れた内容だ。
 まず、第64話の脚本を執筆した安藤豊弘についてだ。このコラムの第5回で『タイガーマスク』DVD BOX第2巻の解説書の斉藤侑プロデューサーのインタビューを参照して、彼が各話のプロット(それは設定書と呼ばれていた)を書いたと記したが、改めてLD BOXの解説書に掲載された斉藤侑プロデューサーと脚本・安藤豊弘のWインタビュー(それはDVD BOX第2巻の解説書に再録した)を読むと、シリーズの途中から斉藤侑、安藤豊弘と脚本の三芳加也の三人が籠もって、設定書を1クールずつくらい作っていったとある。三芳加也は第52話で『タイガーマスク』の脚本から外れているようであり、第5クール以降は斉藤侑、安藤豊弘が物語を構成していったと推測できる。第6クールのクライマックスである第78話、最終話の第105話も安藤豊弘が脚本を執筆。『タイガーマスク』の作品のカラーについて、彼が作り上げた部分も大きかったのだろうと思われる。

 次は個々のシーンに触れる。孝のアパートで、直人が食卓を囲んだ場面についてだ。この場面では直人、孝、孝の母親が疑似家族となる。前回のコラムでも触れたように、直人は初めて母の手料理を口にし、夫を亡くしている母親は親子三人の暮らしを懐かしんだ。孝は母親が帰る前から、直人がいることで機嫌がいい。もしも、直人が孝の父親となり、一緒に暮らせば三人は幸せになれるだろう。しかし、直人がこの家に留まることはできないし、父親になるのも現実的なことではない。さらに言えば、それが実現したとしても、直人が幸福にすることができるのは、世界に大勢いる不幸な子供の内のたった一人でしかないのだ。すなわち、第50話からの一連のエピソードで描かれている「直人の無力」のひとつである。
 この場面は「直人が孝の父親になれば三人が幸せになれるが、それは実現できないことであるし、できたとしても……」ということを示しているわけだが、劇中の誰かがセリフやモノローグで「父親になってあげれば……」と言葉にしているわけではない。それはシチュエーションで示されるのみだ。シチュエーションから視聴者が「ああ、直人が父親になってあげれば……」と考え、そして「それは現実味がないことだな」と思い、さらに何かを感じてくれることを作り手は期待しているのだろう。このような仕掛けをドラマに施すあたりが、『タイガーマスク』の作劇の真骨頂だ。ドラマの作りが大人だと、僕は思っている。

 以下は別の話だ。第64話のBパートでタイガーマスクの試合が描かれる。孝と母親も会場で試合を観戦する。直人がチケットを送ったのだ。この日のタイガーの対戦相手は強敵ではなかったが、恵まれない子供達のために何ができるかを考えていたためか、タイガーは苦戦してしまう。腕がロープに絡んだ状態で対戦相手によって痛めつけられる。彼は「こんな無様なタイガーの姿を見たら、孝君はどう思うだろう……」と考えはしたが、遂に反撃に転じることはできなかった。試合はタイガーの反則勝ちで終わったが、その勇姿を観ることができなかったため、孝は失望する。ここで活躍できなかったことが、後のシーンで直人が「たった一人の子供にでも夢を与えることができれば……」と思うことに繋がるのだが、直人が自分の無力を痛感するエピソードで、さらにタイガーマスクとして活躍ができなかった試合を描くとは、この作品の作り手達は容赦が無い。子供に夢を与えようと思ってもそれを実現できるとは限らない。現実とはかくも厳しいものなのだ。

 第64話の舞台になった甲府には謝恩碑と呼ばれる建築物がある。明治40年代に山梨で度重なる水害があり、それを知った明治天皇が御料地を下賜した。謝恩碑はその感謝等を後世に残すため建造されたものだ。この話の冒頭で、寂しげな孝が謝恩碑を見上げる描写がある(その前に直人が武田信玄の銅像を見る描写もある)。謝恩碑を見せるために数カットを使っており、PAN DOWNで謝恩碑を見せたカットの後に、孝のカットがあり、謝恩碑のPAN UPのカットがあり、さらに孝のカットと謝恩碑のカットを繰り返す。いかにも、何か意味がありそうな描写であり、冒頭で孝が謝恩碑を見上げていることと、ラストシーンで直人が教会を見上げていることが対になっていると考えて、それを解釈することは可能だが、あまりにも手がかりが少ない。このコラムではその意味について触れることはせず、僕にとっての宿題としたい。

 そして、第64話で直人が到達した結論の、その続きについて触れよう。第64話で直人は全ての恵まれない子供達、全ての不幸な境遇にいる人達を救うことを諦めた。そして、皆が他人の幸せを考えるようになることに期待して、自分ができることをやっていこうと思った。そして、第76話「幻のレスラー達」(脚本/柴田夏余、美術/浦田又治、作画監督/我妻宏、演出/新田義方)である。大門大吾が直人の仲間になった後のエピソードであり、この第76話で初めて大門がちびっこハウスを訪れている(実は大門は第38話でルリ子、健太、チャッピーと会ってはいる)。ハウスが狭いため、雨の日に大勢の子供が遊ぶには手狭だった。そのことで子供達が喧嘩をしていることを知った大門は、若月先生に対してハウスの庭に、雨の日に遊ぶことができる離れを作ることを提案する。大門は大工などには頼まず、自分の手でそれを作るのだという。彼は子供達にも声をかけ、子供達も離れの建設に参加する。離れが完成するまでの日々が描写される。大門も子供達も楽しそうだ。
 大門も虎の穴を裏切っており、虎の穴の追っ手から逃れるために土木作業員、庭師、板前等、職業を転々としてきた。ハウスでの離れの建設では彼の器用さと、様々な職業に就いてきた経験が活かされるかたちとなった。
 それまでの『タイガーマスク』なら、直人は子供達が雨の日に遊ぶ場所がないと知ったところで、大工を雇って作らせていたはずだ。つまり、ファイトマネーを使っていたはずだ。前回のコラムで触れたように、第64話以降、直人が恵まれない子供達、不幸な境遇にいる人達のためにファイトマネーを使う描写はない。もしも、作り手と直人が、無闇矢鱈にファイトマネーを使うべきではないと考えたのだとしたら、雨の日に子供達が遊ぶ場所が無いという問題に対して、どう対応するべきなのか。
 ここまで書けば、分かっていただけるのではないかと思う。大門と子供達が、自分達の手で離れを作ったことは『タイガーマスク』の物語の中で画期的な出来事だったのだ。作り手達は第64話で到達した結論の、さらに次の段階を描いたのだ。
 離れのための資材は大門がファイトマネーで用意したものであるはずだが、それは大きな問題ではない。まず、直人が一人で問題を解決するのではなく、大門という第三者が動いてくれた。小規模なものではあるが、直人がそうなることを望んだ「自分以外の人間が不幸な境遇にいる人のために何かをする」の実現である。そして、金銭で全てを解決してそれで満足するのではなく、子供達に歩み寄り、苦楽を共にすることを大門は示した。子供達にとっても有意義な体験になったはずだ。直人に大工仕事ができるかどうかは分からないが、恐らくは不得手だろう。直人が大門という仲間を得たからこそ実現した新しい一歩だった。

●第10回 第6クールの展開とクライマックス に続く

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第281回 不穏なアクセント 〜牧場の少女カトリ〜

 腹巻猫です。5月29日にSOUNDTRACK PUBレーベルよりCD「冬木透 アニメ音楽の世界 牧場の少女カトリ」が発売されます。TVアニメ『牧場の少女カトリ』の初の完全版音楽集です。今回は、その内容と聴きどころを紹介します。


 1984年に放送されたTVアニメ『牧場の少女カトリ』は、日本アニメーション制作の「世界名作劇場」シリーズ第10作。同シリーズで『ペリーヌ物語』『トム・ソーヤ—の冒険』などを手がけた、脚本・宮崎晃、監督・斎藤博のコンビによる作品である。
 舞台は1910年代のフィンランド。9歳になる少女カトリは、ドイツに出稼ぎに出た母の帰りを待ちながら、祖父母とともに暮らしていた。しかし、第一次世界大戦が始まってから、母からの連絡は途絶え、家の暮らしも厳しくなっていった。カトリは家計を助けるために、ひとりで働きに出る決心をする。ライッコラ屋敷の家畜番として雇われたカトリは、さまざまな経験や出逢いを重ねながら、将来への夢を育んでいく。
 原作はフィンランドの作家、アウニ・ヌオリワーラが1936年に発表した小説。日本ではあまり知られていない作品だし、格別ドラマティックな展開があるわけでもない。アニメ化にあたり、スタッフは舞台を原作より現代に近い時代に変更し、キャラクター設定をふくらませるなどして、視聴者が興味を持ちやすい内容にアレンジしている。特にカトリが類型的な「働きものの少女」に収まらない、夢見がちで気の強い一面を持ったキャラクターに描かれているのがいい。それがユーモアにつながり、本作の魅力になっている。

 音楽は「ウルトラセブン」「ミラーマン」などの特撮ドラマ音楽で知られる作曲家・冬木透が担当した。
 冬木透がアニメ作品の音楽を手がけるのは、『恐竜探検隊ボーンフリー』(1976)、『ザ☆ウルトラマン』(1979)、『太陽の牙ダグラム』(1981)に続いて4作目だった。冬木透といえばSFヒーローものの印象が強いので、「世界名作劇場」への参加は意外に思われるかもしれない。が、もともと冬木は多彩なドラマ音楽で活躍した作曲家。ホームドラマや探偵ドラマ、時代劇、朝の連続テレビ小説(「鳩子の海」)なども担当している。『牧場の少女カトリ』への参加も、実写ドラマの延長と考えれば意外ではない。
 本作の音楽の大きな特徴は、フィンランドの作曲家、ジャン・シベリウスの作品が劇中音楽に取り入れられていることである。
 特にシベリウスの代表作である交響詩「フィンランディア」の中に登場する「フィンランディア賛歌」と呼ばれるメロディが、本作のメインテーマ的な位置づけになっている。このメロディが楽器編成やテンポやリズムを変えてアレンジされ、さまざまな場面に使用されているのだ。
 本作では、交響詩「フィンランディア」以外にも、シベリウスのいくつかの作品をアレンジして劇中に使用している。クラシック音楽を劇中に使用する演出は珍しくないが、本作ではTVシリーズの溜め録りの音楽としてシベリウスの曲をアレンジして使っているのがユニークな点である。溜め録り音楽の場合は、劇中で必要になりそうな、さまざまな心情、情景、シチュエーションに合った曲をあらかじめ用意しておく必要がある。そこで冬木透は、「淋しいカトリ」や「夕暮れの情景」といったシーンに合いそうな曲をシベリウスの作品の中から探し、それを劇中で使いやすい1分から1分半くらいの長さに編曲するという手間をかけている。映像音楽の経験が豊富な冬木透であれば、選曲・編曲するより一から作曲したほうが早いと思うが、それだけの手間をかけても、スタッフはシベリウスの音楽がほしかったのだろう。
 なぜ、このような音楽作りが行われたのか? 冬木透に取材してみたが、冬木自身も詳しい事情はわからないということだった。冬木に音楽の依頼が来たときには、シベリウスの作品を使用すること、なかでも「フィンランディア賛歌」のメロディを使うことは、すでに決まっていたという。交響詩「フィンランディア」以外のシベリウスの作品の選曲はすべて冬木にまかされた。本作の依頼が来たのがぎりぎりのタイミングだったので時間の余裕がなく、大変だったと冬木はふり返っている。
 筆者の想像だが、フィンランドという、子どもたちにとってあまりなじみのない土地が舞台になる作品なので、作品世界を象徴するメロディやサウンドがほしいと考えて、スタッフはシベリウスの作品を使おうと考えたのだと思う。「フィンランディア賛歌」のメロディはシンプルで親しみやすく、子どもにも覚えやすい。このメロディが流れてきたら、TVを観ていなくても「カトリの曲だ」とすぐにわかる。メインテーマとしては最適だ。また、海外への番組販売を考えたときにも、シベリウスの音楽は世界共通の音楽的アイコンになる。
 結果として、シベリウスの音楽の使用は、よかった面とよくなかった面があったと思う。よかった面は、音楽によって視聴者にフィンランドの風土や歴史を感じさせることができたこと。これは映像だけでは難しいことだろう。よくなかった面は、音楽の表現の幅が狭くなってしまったこと。本作の音楽には冬木透のオリジナル音楽もあるのだが、それもシベリウスの作品と違和感がないように書かれている。冬木透の個性は抑え気味なのである。そうはいっても、冬木透ならではのサウンドがそこここに現れていて、冬木透ファンにとっては、それが本作の音楽を聴く楽しみになっている。
 『牧場の少女カトリ』は長らく音楽の復刻が待たれた作品だった。放送当時、キャニオンレコードから本作の音楽集アルバム(LPレコード)が発売されていたが、30年以上CD化の機会に恵まれず、2019年に日本コロムビアより発売された10枚組CD-BOX「ウルトラ・マエストロ 冬木透 音楽選集」にて、初めてBGM20曲がCD化された。しかし、それも本作の音楽の一部にすぎず、『牧場の少女カトリ』ファン、冬木透ファンのあいだでは、完全版音楽集の発売が熱望されていた。
 5月29日に発売される「冬木透 アニメ音楽の世界 牧場の少女カトリ」は、『牧場の少女カトリ』の初の完全版音楽集である。構成・解説は筆者が担当した。
 CD2枚組で、ディスク1は放送当時発売された音楽集アルバムをオリジナルのままの構成で復刻。主題歌とBGMをステレオ音源で収録した。ディスク2は本編で使用されたオリジナルBGMを完全収録。主題歌のTVサイズも収録した。ディスク2は全曲モノラル音源である。
 詳しい収録内容は下記を参照。
https://www.soundtrack-lab.co.jp/products/cd/STLC056.html

 本アルバムの聴きどころを紹介しよう。
 ディスク1は、上述のとおり「ウルトラ・マエストロ 冬木透 音楽選集」で大半の楽曲がCD化されている。しかし、同商品は10枚組セットだったために、「カトリだけのために買うのはちょっと……」と躊躇した人もいたと思う。今回のCD化ではポニーキャニオンからマスター音源を取り寄せ、新たにマスタリングを行った。曲間(曲と曲のあいだの無音部分)の長さもレコードと同じにしてあるので、続けて再生していただければ、アナログ盤の演奏を再現できる。収録曲の中では、本作のために録音された交響詩「フィンランディア」が初CD化である。また、ボーナストラックとして主題歌2曲のオリジナル・カラオケを、コーラスあり、なしの2タイプ収録した。主題歌のアレンジは『エヴァンゲリオン』シリーズでおなじみの鷺巣詩郎。鷺巣詩郎ファンにも聴いてほしい音源だ。
 ディスク2に収録したBGM音源は全曲初商品化。約80曲を50トラックに構成した。「全曲初商品化」と書いたが、楽曲としては、ディスク1に収録したBGMとディスク2に収録したBGMは重複がある。重複した曲はミックスが異なるだけで、演奏は同じである。観賞用のステレオ音源と本編ダビング用のモノラル音源の聴感の違いを比べてみるのも(マニアックだが)興味深いと思う。
 以下はすべてディスク2から。
 トラック3「夜明け」は今回初収録となった曲。第1話冒頭の夜明けのシーンに流れていたフルートとストリングスによる「フィンランディア賛歌」のアレンジである。後半はオーボエによる変奏になる。
 先に書いたように「フィンランディア賛歌」は本作のメインテーマであり、そのアレンジも10曲以上作られている。印象的なものとしては、ホルンの温かい音色で奏でられる「あこがれ」(トラック31)、ハープが爪弾く「トゥルクへの旅立ち」(トラック42)、弦のピチカートが3拍子で奏でる「故郷へ」(トラック51)などがある。「故郷へ」は最終話のラストシーンに流れていた曲だ。
 トラック8「アベルはともだち」は、カトリの愛犬アベルのシーンによく使われた曲。シベリウス作曲の組曲「レンミンカイネン」の1曲「レンミンカイネンとサーリの乙女」に登場するメロディをアレンジした曲である。テンポの異なる2曲を1トラックに編集した。音楽集LPにはテンポのゆったりした1曲目が「ともだちアデル」のタイトルで収録されている。「アデル」はカトリの劇中に登場しない名前で、おそらく「アベル」の誤記(もしくは初期設定の名前?)と思われるが、一度商品になったタイトルなので、そのまま掲載した。ディスク2のほうはあらためて「アベル」をタイトルにした次第。
 トラック37「白鳥のように」も初収録。シベリウス作曲の組曲「カレリア」の1曲「バラード」をアレンジした曲である。女医ソフィアと出会ったカトリは、自分も勉強すれば医者になれるだろうかと考える。しかし、それは今のカトリの境遇では到底かなわない夢だった。童話「みにくいアヒルの子」を読みながら、カトリは自分が白鳥になりたかったのだと気がつき、涙する。カトリの切ない想いを描写する曲である。同じ原曲をアレンジした「雪景色」という曲が音楽集LPに収録されていたが、「白鳥のように」はそれとは異なるアレンジ。個人的に「こちらのアレンジも聴きたいなあ」と思っていたので、今回収録できてうれしかった。
 このアルバムでは、冬木透のオリジナル曲もたっぷり収録することができた。本作の音楽はこれまで、その全貌が明らかでなかったために、「ほぼすべてがシベリウスの楽曲のアレンジ」と思われていた節がある。たしかに劇中に流れる音楽はシベリウスの曲のアレンジが多く、その印象が強いのだが、実は約80曲のうち半数は冬木透のオリジナル曲なのである。ただ、冬木はシベリウス風の旋律や響きを意識して作曲し、ときには曲の中にシベリウスの曲のモチーフを忍ばせているため、劇中では冬木透の曲とシベリウスの楽曲が溶け合い、混然となっている。
 初収録となった曲では、「カトリと母」(トラック5)、「やすらぎ」(トラック15)、「胸に秘めた悲しみ」(トラック19)、「望郷」(トラック27)、「春のおとずれ」(トラック28)、「いじわるな人」(トラック46)などが冬木透のオリジナル曲である。ただ、筆者が気づいていないだけで、実はシベリウスの曲のアレンジという可能性もあるので、お気づきの方はご一報ください。
 冬木透ファンにぜひ聴いていただきたいのが、場面転換や映像にアクセント(強弱)を加えるために使われる「ブリッジ」と呼ばれる短い曲である。本作では20曲ほど作られている。その大半が冬木透によるオリジナル曲なのだが、これが実に冬木透らしくてしびれるのだ。
 本作のブリッジ音楽には、なぜか不穏な曲調のものが多い。「怪しい影」(トラック22)、「助けてくれた人」(トラック29)、「暗い予感」(トラック39)などを聴いていると、SFサスペンスドラマを観ているような気分になる。劇中では、牛が崖から落ちそうになったり、羊が狼にねらわれたり、泥棒が暗躍したりといった緊迫したシーンがあり、こうした曲は主にそういう場面に使われている。だが、それだけでなく、カトリがふと不安を感じたり、ちょっとした異変に気づいたりするシーンにも不穏なブリッジ音楽が使われていて、それが独特の雰囲気をかもしだしている。カトリは劇中でしょっちゅうトラブルに巻き込まれているような印象があるのだが、それはこの音楽のせいかもしれない、と思うのだ。

 なお、本アルバムは諸般の事情により、アニメのキャラクターやタイトルロゴなどを使用しないで制作している。代わりに、解説書にはフィンランドの実景写真を掲載した。フィンランドの風景と、その中で働くカトリの姿を想像しながら、音楽をお楽しみいただきたい。

冬木透 アニメ音楽の世界 牧場の少女カトリ
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第853回 『(劇)ジョー2』の魅力(3)

 前回からの続き。
0:14:20~タイガー尾崎戦T.K.O負けから、ポンとタクシーで引き上げるジョーの寄り……の窓ガラスに映る雨・夜景へ。そこにジョーのモノローグを被せて繋ぐテンポの良さ。「所詮ただのTVシリーズの編集ですから~」的に拗ねるのではなく、

TVシリーズの無数にあるカットの山から“新しい映画の論法”を開闢しよう!

という強い意思を、出﨑監督の総集編映画からは感じます!
0:14:39~1981年はタクシー初乗り¥380でした。
0:14:51~ほら。もうタクシー降りて河原に座ってるでしょ、ジョー。
0:14:59~「矢吹よ、どうしたい?」「……どうもしねえさ」「ふん、そうかい。(ほい)じゃあな……」
 残念ながら、劇場版での力石の台詞はここで終わり。本当に何しに現れたんだ、力石!? とも思いますが、ジョーにとっての“力石の位置”みたいなのが良く出ているシーンとも言えます。
0:15:16~リングライトを浴びて佇む力石のT.B(トラック・バック)。その後、河原のジョーも立ち上がる。なぜかカッコいい。理屈を超えた説得力が出﨑アニメの真骨頂!
0:16:19~「そんなボクサーが、1人——」と葉子ド寄りからグウ~ンとカメラ回り込んで、葉子とロバートの俯瞰ロングへ。痺れる! ここも“理屈を超えた~”カット。実は、板垣はこういうカットがやりたくてアニメ監督を目指しました!
0:17:59~画面9割を“青パラ”で覆ったジョーのド寄りにOFFでゴングを被せて、次カットで試合中! なんて心地よい展開でしょうか。で、~0:18:45で試合シーン終わり。1分もない!凄い!
0:19:18~ここの汗だくジョーも、本当に良い“杉野(昭夫)顔”! 絶望に独り立ち向かう男の不敵な笑み……。ダンディズム感じます!こんな演出・作画が出来るスタッフも作品も随分と減りました。
0:20:13~「おめえの対戦相手は、——もう何処にもいねえよ」と言われて目を見開くジョー。この時さえも、口元は“笑み気味”に結んで見えます。良い!!
0:24:22~「このままでは終われない」のカーロスを受けて、間髪入れず “繰り返しPAN”ジョーから“同T.U”カーロス! 出﨑監督お得意の呼吸です。
0:25:23~あ、台詞はないけど“少年院時代の力石”回想。これで画としても劇場版力石のラスト。
0:25:40~ぶっ飛んだジョーの滞空時間をスライドで表現。芝山努監督が(出﨑監督に関するインタビューで)仰ってた“引っぱりの出﨑”の技がコレです。憧れます!
0:26:52~窓越しに夕日を眺める葉子。前後の余計な段取りなし。この1カットのみで、しかも後ろ向き。
0:27:43~ここのカーロスは、冒頭のジョーよりさらに大胆に口パクもなしで「おお、そうか……」と無理矢理。この後の0:29:41「オー、スノー……」も。ところで、カーロスの声——TVの中尾隆聖版ももちろん良いけど、劇場版のジョー山中版も好きです。後半パンチ・ドランカーになって、ジョーの元に返って来てからは特に。
0:29:30~「ここで決着をつけようぜ、この公園でよ」受けで、ジョーに視線を送るカーロス。そして雪が降り始めて、ジョーとカーロスが戯れる(?)シーン。荒木一郎音楽による劇場用BGMが大人のムードを醸し出してて、TV版の同シーンより好き。TV版では選曲がジングルベル~で、2人の子供っぽさが強調されてる気がして、それはそれで有りだとは思うのですが、ここは劇場版の選曲の方が良いと思うんですよ。特に0:30:26辺り~この後の悲劇を予兆する様ようで、何処か暗く、悲しくて……。当時、初見で俺はそう感じました。決して単なる“楽しいひと時”で終わらせないと。
0:30:46~見てくださいよ! この大人の男のカッコ良さ!! 後のOVA『ブラック・ジャック』7巻でもテントを出て尻もちを着いたブラック・ジャックが同様の笑みを浮かべます。やっぱり出﨑&杉野コンビは最高!!

 駆け足で色々敬称略。すみません。でっ、またチェックの時間です(汗)!

『タイガーマスク』を語る
第8回 第64話「幸せの鐘が鳴るまで」

 それまでもアニメ『タイガーマスク』には「直人と市井の人々とのドラマ」があったが、第5クールは特にそれが多い。第64話「幸せの鐘が鳴るまで」は(脚本/安藤豊弘、美術/沼井一、作画監督/木村圭市郎、演出/新田義方)は「直人と市井の人々とのドラマ」の最後のエピソードであり、伊達直人のドラマの集大成である。多くの人々と触れ合いが直人の視野を広げ、彼はみなしご以外の不幸な境遇にする人達にも目を向けるようになっていった。長期シリーズとなり、オリジナルエピソードを積み重ねたことにより、アニメ『タイガーマスク』は作品としての、伊達直人は人間としての厚みが増していった。

 第64話「幸せの鐘が鳴るまで」は交通遺児をモチーフにしたエピソードである。冒頭では交通遺児作文集「天国にいるおとうさま」の一文が読み上げられ、画面にもその文面が映し出される。この文集は1968年に刊行されて話題になったものだ。日本では昭和30年代から交通事故による死亡者が増え続けており、「交通戦争」と呼ばれていた。第64話が放映された1970年は交通事故の死亡者数がピークに達した年であり、交通事故や交通遺児は人々にとって身近な問題だったのだ。
 このエピソードの後半で直人が交通事故によって子供達が親を喪っていることについて痛ましく思う場面では、実際に事故に遭った自動車の写真が何枚も挿入される。このエピソードで扱っている交通事故が現実のものであり、恐ろしいものであることを強調する描写である。余談だが、翌年に放映された『天才バカボン』5話Aパートでも、交通事故の悲惨さを伝えるために実写の交通事故が使われている。アニメプロダクションは違うが『タイガーマスク』も『天才バカボン』も、よみうりテレビ制作の作品だ。さらに余談を重ねるが『タイガーマスク』ではこの後のエピソードでも、物語の中で交通戦争や交通遺児が話題になっている。

 第64話のプロットはシンプルだ。舞台は直人が遠征のために訪れた甲府。クリスマスを間近に控えた時期のエピソードだ。直人は街で孝という名の少年と出会う。孝は父親を交通事故で喪っており、現在は母親と二人暮らしだ。母は残業で帰りが遅くなることが多く、彼はその日も夜まで一人で過ごすことになる。それを知った直人は孝に沢山のクリスマスプレゼントを買い、孝のアパートで一緒に遊んでやる。そこに孝の母親が帰ってくる。直人は帰ろうとするが、母親の勧めで夕食を共にすることになる。
 直人と一緒にいることで孝が楽しそうにしているのを見て、母親は、父親がいない息子が大人の男性に甘えたがっているのだと思う。直人は、孝の母親が茶碗にご飯をよそう様子を見て「夢にまで見た母の手料理……」と思う。みなしごとして育った直人は母親の手料理を口にしたことがなかった。一度でいいから、母の手料理を食べてみたいと思っていたのだ。直人はゆっくりと箸で夕食を口に運ぶ。そして、孝の母親は、直人と孝がいる食卓を目の当たりにして「これが家庭というものだわ……」と思う。彼女は亡夫と孝と三人で暮らしていた頃を思い出す。
 どこにでもあるごく当たり前のアパートの一室で、直人と孝の母親は、この一瞬の幸せを噛みしめる。みなしごとして育ち、現在は虎の穴の裏切り者として追われ続けている直人の人生の中で、これが最も幸福な時間であったかもしれない。そんな一時を描いただけでも、このエピソードは価値がある。この場面の深みが分かるには視聴者の年齢が必要かもしれない。僕が直人の感慨に胸を打たれたのは40歳を過ぎてからだった。
 遊び疲れた孝が眠りついた頃、母親は亡夫と交通事故について語る。自分達の小さな幸福が一瞬のうちに失われたこと。今も自動車を憎んでおり、片っ端から壊したいと思っているということ。そんな激しい感情を抱いて彼女は生きているのだ。直人には彼女にかけてやれる言葉を持ち合わせてはいなかった。

 孝のアパートからの帰り道、雪が降る中で直人は思い耽る。タイガーマスクとしての試合を挟み、再び雪の中を歩きながら直人は考える。そして、ひとつの結論に辿り着く。
 直人の思索を整理すると以下の内容となる。全国には交通戦争の犠牲者が大勢いるに違いない。自分は恵まれない子供を一人でも幸せにするためにリングで戦ってきた。しかし、自分の手が届かないところで、今この瞬間にも不幸な子供が増えているのだ。そんな子供達に対して自分は何ができるというのだ。交通事故を無くすことはできないが、それに対して顔を背けてはいけない。たった一人の子供にでも夢を与えることができれば、それだけでもいいではないか。皆がそんな気持ちになれば、いつか交通事故も無くなり、皆が幸せになれる。それを信じて、皆が自分ができることを精一杯やることが大事なのだ。
 彼の思索は交通事故とその被害者についてから始まっているが、一人の人間が、恵まれない子供達、全ての不幸な境遇にいる人達に対して何ができるか、そして、皆が幸せになるにはどうすればよいのかについての結論に辿り着いている。
 一人の人間にできることは限られている。死に物狂いでやったからといって、全ての恵まれない子供を、全ての不幸な境遇にいる人達を救うことはできない。だからといって努力をやめてはいけない。世界中の人達が、他人の幸せを考えるようになるのは難しいことかもしれない。だが、そうなることを信じて、自分ができることをやらなくてはいけない。それが直人の結論である。

 僕の解釈も交えて、更に解説しよう。
 第50話「此の子等へも愛を」では、直人が恵まれない子供のためだと思ってやってきたことは本当に正しい行いであったのか、自己満足に過ぎなかったのではないか、という疑問が提示された。
 第54話「新しい仲間」では、自分は金を使うことでしか子供達に何かをしてやることができないと思っていた直人が、それ以外の何かができるのかもしれないと気づいた。それ以外の何かとは、タイガーマスクとしてリングの上で活躍し、全国の子供達に勇気を与えることだろう。
 第55話「煤煙の中の太陽」では、金銭で解決できることではあるが、タイガーのファイトマネーではどうにもならない問題に直面した。
 以上を踏まえた上で、この第64話があり、先ほど触れた結論がある。世の中には直人の手が届かないところにも、大勢の不幸な子供がいる。手が届くところにいたとしても、直人のファイトマネーで幸せにしてやれるとは限らない。直人は自分の無力を痛感したはずだ。自分の限界を知り、できないことがあまりに多いをことを知っても、力を尽くすことを諦めはしない。全ての子供達の幸せを望む彼にとって、その選択は辛いものだ。辛いものではあるが、それを選ぶのが伊達直人の強さであり、そういった厳しい生き方を描くのが『タイガーマスク』という作品なのだ。
 第64話のラストシーン。雪の街を歩きながら思索を重ねた直人の前には、教会があった。教会から鐘の音が聞こえ、やがてそれが賛美歌に変わる。思索が結論に至った直人が教会を見上げると、幸福になった孝と母親の姿が浮かぶ。賛美歌の歌声が高まる。その時に響き渡った賛美歌の歌詞は「仰ぎ見ん 神の御顔」。教会を仰ぎ見る直人と歌詞が重なり、そこで第64話は幕を下ろす。

 更に解説を続ける。
 第54話のミクロに必要だったのは、例えば身近にいる大人が寄り添ってやることだった。第64話の孝に必要だったのは、例えば父親のような存在だった。そういった子供に対して直人にできることは、やはり、タイガーマスクとしてのファイトで勇気を与えることなのだろう。実際に彼のリングの上での活躍がミクロが立ち直るきっかけになったではないか。第64話で直人が思い至った「たった一人の子供にでも夢を与えることができれば」とは、例えばそういうことなのだろう。
 第55話では郎太とタイガーのことが新聞に報じられ、それがきっかけで市議会が動き、日本プロレス協会も寄付をしてくれた。第64話の結論である「皆がそんな気持ちになれば、いつか皆が幸せになれる」とは、例えばそういったことなのだ。直人はタイガーマスクとして、すでに多くの人の心を動かすきっかけ作り出しているのだ。そういったことも、直人がタイガーマスクとしてやるべきことであるのかもしれない。

 『タイガーマスク』のこの後の展開で、注目してもらいたいポイントがある。この作品の物語について考える上で、非常に重要なポイントだ。第64話「幸せの鐘が鳴るまで」以降では、直人が恵まれない子供や不幸な境遇にする人達のためにファイトマネーを使う描写が一度もないのだ。直人の生き方がここで変わったと見ることができる。
 直人は自分一人だけで全ての子供を幸せにしようとしてきたが、第64話で現実に直面し、自分の行いを見つめ直した。そして、無闇矢鱈にファイトマネーを使うことをやめようとも思ったのだろう。すなわち『タイガーマスク』のスタッフ達が「もうそれを描くべきではない」と判断したのだろう。つまり、物語の出発点からあった「みなしごに使うファイトマネーを手に入れるため、マットで死に物狂いで戦うヒーロー」という主人公の在り方を『タイガーマスク』のスタッフ達が半ば否定したのである。
 直人がファイトマネーで救うことができるのは、ごく一部の人達に過ぎない。だとしたら、本当に直人がやるべきことは何なのか。『タイガーマスク』のスタッフ達は直人の生き様に向き合い、人はどのように生きるべきなのかを考え、ここに辿り着いたのだろう。『タイガーマスク』のスタッフ達は物語に対して、直人の生き様について、実に真摯だ。
 第64話「幸せの鐘が鳴るまで」は決して派手なエピソードではない。分かりやすい話でもない。ではあるが、テーマに対する取り組み方に関して、信じられないほどの高みに達したエピソードである。アニメ『タイガーマスク』の作劇面での頂点であると僕は考えている。

 第64話の作品内についての解説はここまでだ。以下は作品外での物語だ。

 原作「タイガーマスク」でも、直人はみなしごのためにファイトマネーを使うことを目的にして戦っているのだが、原作ではちびっこハウス以外の子供達のためにそれを使っている描写は、実はほぼ無い(希望の家にいる目が見えない少女のためには使っているはずだ)。伊達直人が日本各地のみなしごや、みなしご以外の不幸な境遇にする人達のためにファイトマネーを使っているイメージは、アニメ『タイガーマスク』が作り上げたものなのだ。言うまでもないが、第64話の「皆がそんな気持ちになれば……」という主張もアニメオリジナルのものである。
 直人は「皆がそんな気持ちになれば……」と言ってはいるが、アニメ『タイガーマスク』のスタッフ達が「この番組を観ているあなたにも、他人の幸せを考えてほしい」と、善意や友愛を押しつけるようなスタンスで物語を紡いでいるわけではない。ではあるが、直人の生き様を通じて伝えたいことのひとつはそれだったはずだ。

 ここで現実世界の出来事に目を移そう。思い出してもらいたい。2010年から「伊達直人」を名乗った匿名の人物が全国の児童養護施設に寄付を行い、それが全国に広がり、「タイガーマスク現象」と呼ばれるようになった。さらに「タイガーマスク現象」は企業やNPO法人、国会議員までも動かした。つまり、第64話における直人の「皆がそんな気持ちになれば……」という想いが、40年の月日を経て現実世界で結実したのだ。第55話の劇中でタイガーが市議会や日本プロレス協会を動かしたように、物語の中で描かれた直人の生き様が、現実世界で人々の心を動かしたのだ。第64話で直人が言ったことは絵空事ではなかったのだ。
 直人の戦いは孤独なものであったが、多くの賛同者を生んだ。直人の物語は我々が生きる現実世界で続いているのだ。

●第9回 「幸せの鐘が鳴るまで」についてもう少し に続く

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【新文芸坐×アニメスタイル vol. 177】キラめく舞台に生まれて変わる!
『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』ライティング上映!!

 2024年6月29日(土)に「【新文芸坐×アニメスタイル vol.177】キラめく舞台に生まれて変わる!『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』ライティング上映‼」を開催します。
 新文芸坐では、以前より『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』のライティング上映を展開しており、6月29日(土)のこのプログラムは、ライティング上映に古川知宏監督のトークをプラスしたスペシャル企画となります。

 ライティング上映とは映像にあわせて、天井と壁のライトが点灯するというもの。単に光るだけではありません。場面ごとに違った「演出」で光が動き、光の色が変わります。6月29日(土)のプログラムでは古川監督にもライティング上映を観ていただき、トークはライティング上映の感想を交えてのものとなる予定です。

 チケットは6月22日(土)から発売。チケットの発売方法については新文芸坐のサイトで確認してください。

●関連リンク
新文芸坐オフィシャルサイト
http://www.shin-bungeiza.com/

●WEBアニメスタイル
【最新号の詳細発表!】「アニメスタイル016」の巻頭特集は中村豊!(『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の記事有り)
http://animestyle.jp/news/2022/03/31/21779/

【新文芸坐×アニメスタイル vol. 177】
キラめく舞台に生まれて変わる!『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』ライティング上映‼

開催日

2024年6月29日(土)15時30分~

会場

新文芸坐

料金

2500円均一

上映タイトル

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(2021/120分)

トーク出演

古川知宏(監督)、小黒祐一郎(聞き手)

備考

※トークショーの撮影・録音は禁止

●関連サイト
新文芸坐オフィシャルサイト
http://www.shin-bungeiza.com/