第224回アニメスタイルイベント
ここまで調べた『つるばみ色のなぎ子たち』7 【センチメートル単位で描き出す平安京 編】

 片渕須直監督が制作中の次回作のタイトルは『つるばみ色のなぎ子たち』。平安時代を舞台にした作品のようです。
 『つるばみ色のなぎ子たち』の制作にあたって、片渕監督はスタッフと共に平安時代の生活などの調査研究を進めています。アニメスタイルは2021年から「ここまで調べた片渕須直監督次回作」のタイトルでイベントを開催しており、現在は「ここまで調べた『つるばみ色のなぎ子たち』」のタイトルでイベントを続けています。

 2024年7月6日(土)に開催する「ここまで調べた『つるばみ色のなぎ子たち』7」のサブタイトルは 【センチメートル単位で描き出す平安京 編】。今回はレギュラーの片渕須直監督、前野秀俊さんに加えて、高橋夕香さんが出演。高橋さんは『つるばみ色のなぎ子たち』で美術考証をされている日本画家の方です。センチメートル単位までにこだわった美術関連の考証や描写についての話がうかがえるはずです。

 会場は阿佐ヶ谷ロフトA。今回のイベントも「メインパート」の後に、ごく短い「アフタートーク」をやるという構成になります。配信もありますが、配信するのはメインパートのみです。アフタートークは会場にいらしたお客様のみが見ることができます。

 配信はリアルタイムでLOFT CHANNELでツイキャス配信を行い、ツイキャスのアーカイブ配信の後、アニメスタイルチャンネルで配信します。なお、ツイキャス配信には「投げ銭」と呼ばれるシステムがあります。「投げ銭」による収益は出演者、アニメスタイル編集部にも配分されます。アニメスタイルチャンネルの配信はチャンネルの会員の方が視聴できます。また、今までの「ここまで調べた~」イベントもアニメスタイルチャンネルで視聴できます。

 チケットは6月8日(土)昼12時から発売となります。チケットについては、以下のロフトグループのページをご覧になってください。

■関連リンク
LOFT HP  https://www.loft-prj.co.jp/schedule/lofta/286063
会場チケット(LivePocket)  https://t.livepocket.jp/e/phz0i
配信チケット(ツイキャス)  https://twitcasting.tv/asagayalofta/shopcart/313711

 なお、会場では「この世界の片隅に 絵コンテ[最長版]」上巻、下巻を片渕監督のサイン入りで販売する予定です。「この世界の片隅に 絵コンテ[最長版]」についてはこちらの記事をどうぞ→ https://x.gd/57ICr

第224回アニメスタイルイベント
ここまで調べた『つるばみ色のなぎ子たち』7 【センチメートル単位で描き出す平安京 編】

開催日

2024年7月6日(土)
開場12時30分/開演13時 終演15時~16時頃予定

会場

阿佐ヶ谷ロフトA

出演

片渕須直、高橋夕香、前野秀俊、小黒祐一郎

チケット

会場での観覧+ツイキャス配信/前売 1,500円、当日 1,800円(税込・飲食代別)
ツイキャス配信チケット/1,300円

■アニメスタイルのトークイベントについて
 アニメスタイル編集部が開催する一連のトークイベントは、イベンターによるショーアップされたものとは異なり、クリエイターのお話、あるいはファントークをメインとする、非常にシンプルなものです。出演者のほとんどは人前で喋ることに慣れていませんし、進行や構成についても至らないところがあるかもしれません。その点は、あらかじめお断りしておきます。

第855回 『(劇)ジョー2』の魅力(5)

 前回からの続き。

0:43:04~電車通過後、紀子の台詞、

私、付いて行けそうもない……

劇場用・藤田淑子版紀子の方がTV版より、精神的な決別感が強く出ていると思います! が、やや大人っぽい? 下町三つ編み娘には、似つかわしくない艶っぽさが……。
0:43:29~金竜飛戦。本当に「それで終わり」ですか!? でも、これだけの端役に追いやられた “劇場版・金竜飛”役に「“舞々(チョムチョム)”でジョーを苦しめます!」的な意気込みを語ったCV.古川登志夫のコメント(劇場パンフレットより)は微笑ましいですね。
0:43:57~ここで“金竜飛の過去インサート”は初見のお客には辛かろう、とも思うくらい、「?」な編集。過酷な減量話を丸々カットしたこと以上に謎。でも、「分かんないなら分かんなくっていいよ!」って、出﨑統監督なら仰るでしょう。はい、TVシリーズで2話分使った金竜飛戦も、出﨑監督の手に掛かれば締めて(看板から入れても)37秒!
0:44:05~ここからのテレビ関東によるパーティー、TVシリーズでは金竜飛戦の前(減量前)に入るシーンでした。“矢吹丈(丹下ジム)・連戦連勝祝賀会”の看板のカットから、テレ関・大橋部長「強敵・韓国の金竜飛選手を厳しい減量に耐え、第6ラウンドKO勝ち!」のスピーチを重ねて無理矢理“金竜飛戦後の祝勝パーティー”に置き換えることに成功(?)しています。
0:44:59~この窓に映り込むジョーのド寄りなめ、ホセ・メンドーサ。前々カットの跳ねる鯉からO.L(オーバーラップ)して窓際に無言で立つ葉子とジョー~の流れでホセを背後に感じるジョー! ここ一連の呼吸が実に良い!! 逆算してTVシリーズ~己の体重から話を逸らそうとするジョーの「今、池の鯉が跳ねやがった」が邪魔に感じるくらい。実はそれ位『ジョー2』に関してはTVより、劇場版の方をより繰り返し観ている板垣です。
0:45:16~サングラスを外して再度こちら(ジョー)を見るホセ。ダンディでカッコ良いカット。なのですが、カット尻の3回T.Uが、多分“目をセンター”にしてT.Uを繰り返したつもりなのでしょう。ところがコレ、

“おでこにT.U”して見える!!(※TVフレーム4:3でも!)

 と。もう少しラストフレームを下げる(てことは目を上へ、むしろ“鼻”に寄るようにする)方が“目にT.U”するように見えるものです。その昔、自分がテレコム(・アニメーションフィルム)時代に『SUPER MAN』(1996)で“死刑囚の顔にT.Uする”という、コレと同様のカットを描きました。そのラッシュ・チェックの際、(ジブリ作品でもご活躍の)田中敦子先輩から「板垣君! あそこのT.U、おでこに向かってる!」と指摘されたのを思い出します。そう、“画で映画を作る”ということは考えてる以上に微妙な映像センスが必要なモノなのです。
0:45:54~段平によるデタラメ英語も、劇場版の方が要領よく纏っています! それと、こんなコミカルなシーンなのに段平背中……しかもピンボケなめ、アオリ・入射光とか妙な迫力で、個人的に可笑しい。
0:46:34~ジョーの肩を握るホセ、横3回PAN。横3回PAN自体は好きではないけど、この緊張感漂うムード・BGMにスピード感のある3回PANはカッコ良い!! 一種、音楽的なリズム感と映像のそれとの不一致が面白く感じる俺です。
0:46:43~ホセ・メンドーサの「GOOD LUCK……」。劇場版ホセの岡田真澄バージョンは粘っこく「グーッド・ラック……」、TV版は華麗に「グ―(ッ)・ラー(ッ)」。どっちも良い! 言い終わってのアオリ・付けPANも!
0:47:02~前カットでジョーのド寄りから既に丹下ジム内、バサバサッ置かれる礼服(段平の貸衣装)。このシーン繋ぎも軽快。
0:47:37~ここで漸く丹下ジム外観。BGMも相まって、“一旦リセット”感が結構好き。つまり、ホセが両肩握り、それを持ったままジムにて“痣”発見までを一塊にしたかったのかと。
0:48:19~ここの台詞回し最高!

へ(は)っ……、俺だったら肩に痣なんて気取った真似はしねぇ。
奴の鼻っ先へでっかい青い痣をプレゼントしただろうぜ……!

このニヒルで軽やかな言い回し、ルパン三世役は山田康雄以外があり得ても、ジョー役は本当にあおい輝彦以外に考えられません!
0:49:13~???ここ、TV版の“止め+ハーモニー処理”が数コマ残ってるのは、ビデオレンタルの昔から気になって、気になって。
0:49:24~ミラーに映るTV屋さんとジョー。後部座席シートの実線が、“合成ミス(動画・仕上げ用語)”です、多分。もちろん、出﨑監督も俺も気にしません!!
0:49:29~この“逆光シルエット+全面透過光の海”、1981年当時の出﨑監督の“映像観”が分かるカットの一つかと。

 あれ? これでまだ半分行ってない!? ダメですね、好き過ぎる作品の分解は! 次、頑張ります(汗)。

 ってとこで、新作のオープニング・コンテ作業に戻ります! また色々敬称略で、すみません。

『タイガーマスク』を語る
第10回 第6クールの展開とクライマックス

 第6クールの物語の流れは、このコラムの第3回 第5クール~第8クール( http://animestyle.jp/2024/05/01/27031/ )でも触れている。第71話で大門大吾が伊達直人の仲間となり、第74話で高岡拳太郎が仲間となる。拳太郎がケン・高岡としてリングに立つのが第74話の終盤で、第77話と第78話でビッグ3と対決する。第78話で大門がこの世を去ってしまうので、直人、大門、拳太郎の三人が仲間でいるのは、第74話から第78話のたった5話分でしかない。そして、直人、大門、拳太郎のドラマがたっぷりと用意されているのが、前回のコラム( http://animestyle.jp/2024/05/30/27241/ )でも話題にした第76話「幻のレスラー達」だ。

 前回のコラムで、大門大吾と違って伊達直人は恐らく大工仕事は不得手だったはずだと書いたが、それだけではなく、直人と大門はタイプがかなり違う。第76話ではちびっこハウスにおいて、室内で子供達が騒いでいるのに対して、大門が大きな声で怒鳴りつける場面もある。「キザ兄ちゃん」を演じていなかったとしても、直人はそんなふうに子供を叱りつけるようなことはしないだろう。同じ第76話ではガウン姿の大門が、リラックスして自分に届いたファンレターを読む場面がある。終始緊張感を纏った直人に関しては、そんな場面が描写がされたことはない。
 第76話の見どころのひとつが、試合の控え室での出来事である。ミスター不動のマスクを被った大門が、直人に対してタイガーマスクのマスクを被せてやると言い出す。それを聞いた直人は、今まで自分が伊達直人の姿からタイガーマスクに変わる瞬間は誰とも共有できていなかったことに気づく。しかし、今はその瞬間に大門が立ち合ってくれるのだ。自分の戦いが孤独なものであったことと、大門という仲間を得たことの感慨に直人は涙を滲ませる。涙を見せたくなかった直人が、大門に先に試合に行くように促したため、大門がタイガーのマスクを被せてやるというシチュエーションは実現しなかったが、もしも、実現したならば、さぞや照れくさい場面になっただろう。立場が逆だったとしても、直人は大門に対してマスクを被せてやるとは言わなかったはずだ。彼と大門は他人との距離の取り方が違うのだ。
 前回のコラムで話題にした大門が子供達と一緒に離れを作ったエピソードを含めて、第76話はキャラクターへの踏み込みと、描写の細やかさが素晴らしい。これも柴田夏余の脚本の力だと僕は受け止めている。

 『タイガーマスク』は第5クールで「直人と市井の人々とのドラマ」を重ねて、その上で伊達直人がやってきたことを振り返り、その意味を考え直し、彼が本当にやるべきことは何かに辿り着いた。そうして人間としての厚みを得た直人が、第6クールでは大門、拳太郎という頼もしい仲間を得て、上記のようなかたちで孤独な戦いにも終止符を打った。その上で最強の敵であるビッグ3との対決に雪崩れ込むという展開である。
 第5クールで日常的なドラマを重ねたのは「人間・伊達直人」を描くためでもあったはずだが、それと同時に第6クール終盤をアクション物として盛り上げるための「タメ」でもあったはずだ。第69話でタイガーマスクが戦ったナチス・ユンケル、第71話で戦ったキングジャガー、第73話で戦ったイエローデビル(拳太郎)はいずれも虎の穴の若手レスラーだった。劇中では強敵として扱われていたかもしれないが、タイガーの相手としてはやや小者であり、視聴者がちょっと物足りないと思っているところに、虎の穴最強のビッグ3が登場するのだ。拳太郎が仲間になってからの物語の密度の高さ、テンポのよさも素晴らしいもので、実に見事なシリーズ構成である。
 キャラクターの特殊性についても触れておこう。ビッグタイガー、ブラックタイガー、キングタイガーのビッグ3は、それぞれが主人公のタイガーマスクをパワーアップさせたようなキャラクターである。タイガーの敵はさらに強いタイガー。しかも、それが三人同時に登場したのだ。後年の特撮ヒーロードラマ、アクションアニメ等で類似のキャラクターや展開もあったが、『タイガーマスク』放映当時としては、非常に斬新な敵キャラクターであり、展開だった。自分自身のことで言えば、少年時代の僕にとってビッグタイガー、ブラックタイガー、キングタイガーの登場は衝撃的ですらあった。

 『タイガーマスク』が第6クールラストで完結していたならば、伊達直人という一人の人間のドラマとしても、タイガーマスクを主人公としたヒーローアクション物としても綺麗なかたちで完結したに違いない。ではあるが、このコラムの第3回でも触れたように放映が延長され、第7・8クールで、ビッグ3よりもさら強いタイガー・ザ・グレートが登場することになる。後年のアクションマンガ等で繰り返される「強さのインフレ」の先駆けと言っていいかもしれない。
 第6クールのラス前が第77話「死闘のタッグ」(脚本/辻真先、美術/秦秀信、作画監督/小松原一男、演出/及部保雄)だ。タイガー&ミスター不動と、ビッグタイガー&ブラックタイガーのタッグマッチで、ミスター不動が捨て身の戦いで二人の強敵に止めを刺す。『タイガーマスク』の試合について、プロレスの枠を飛び出していると思うことが多いが、身動きが取れなくなったミスター不動に、凶器を持ったビッグタイガー、ブラックタイガーが同時に襲いかかる部分は正しく死闘。命の奪い合いであった。ここから死闘の結果が分かるまでの部分は、演出的な仕掛けが効いており、凄まじく緊張感のあるものとなっている。演出的な仕掛けについてはここでは説明はしない。是非とも映像で確かめて欲しい。
 第78話「猛虎激突」(脚本/安藤豊弘、美術/浦田又治、作画監督/森利夫、演出/勝間田具治)が、第6クールのラストエピソード。タイガーマスクとキングタイガーの凄絶な死闘が描かれるが、キングタイガーが自滅するというかたちで決着が付く。
 斉藤侑プロデューサーはかなり以前から、最終回でタイガーマスクのマスクが剥がされる展開にすることを考えていたのだそうだ。『タイガーマスク』DVD BOX第2巻の解説書の斉藤プロデューサーのインタビューで、もしも、第78話が最終回になっていたならば、キングタイガーとの試合でマスクを剥がされていたのかと訊いたところ「多分、そうなっていたでしょう」と答えてくれた。
 予定されていた第78話がどんなものだったかは分からないが、放映の延長が決まったところで、第7クール以降に繋がる内容に変更されたのだろう。勝負がキングタイガーの自滅で終わるかたちではなかったのかもしれない。
 すでに完成した作品について「もしも、こうなっていたら」を考えても仕方がないのかもしれないが、もしも、『タイガーマスク』が第6クールで終わっていたら、どんなかたちの最終回になったのだろうか。それについては考えずにはいられない。

●第11回 小休止(あるいは、僕と『タイガーマスク』の50年) に続く

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第854回 『(劇)ジョー2』の魅力(4)

 前回からの続き。

0:31:19~カーロス(OFF)「ジョー・ヤブキともう約束をした」の後ろ姿のジョー。なぜか鉄柱(?)に添えられた右手が、妙に艶っぽいと思うの、俺だけ? 女性の手の描き方っぽい。
0:31:39~葉子「矢吹君とカーロス選手へのクリスマスプレゼントとして」はTVの放送時期に合わせた話で、この劇場版公開時では7月。なるべく軽く触れる程度にしてあるようです。
0:31:54~はい。これもゴングを鳴らす手元とくれば、試合開始! かと思いきや、もう既に何ラウンドかの終了ゴング!『(劇)エースをねらえ!』級の端折り方です。
0:32:05~前カットの段平「大丈夫か、ジョー?」を受けてのジョー「へっへ……、大丈夫だよ」から即モノローグ! インターバルすら描かずに再びジョーのモノローグを被せて試合中! へ。
0:32:20~もうここから訳分かりません! いきなり一切の説明なしで“ロープ際攻防線戦”ですからね! 「経緯はTVで観たでしょ?」とかな感じではなく、「説明なんかしないから、観たまま感じて受け取ってくれ!」なんだと思います、出﨑監督は。
0:33:44~ここもインターバルのシーンを途中で切り上げてゴングすら切って、次ラウンド開始! ジョー(モノローグ)「決まってるよ……。このカーロスをぶっ倒す夢さぁっ!」
0:33:48~カーロスの光る(見えない)パンチがジョーにヒット! ~0:33:52で倒れ……の、
0:33:54~もう受けて(躱して)る!! 戦略を一切描かず・説明せず! いったい何が起こったんだ!? と突っ込みつつも、カッコイイ! 説明よりフィーリングなんです!
0:34:09~いつもよりさらに光で飛ばした感じの“止め+ハーモニー”の連続! こーいう瞬間の切り取り方が、純粋にフィルムとして面白い。
0:34:37~画面分割は好きではない! が俺の前提ですが、どーせやらなきゃならないならセンターの分割線は消したい。
0:35:10~ここからのファイト・シーンのコラージュは『ロッキー』シリーズ以上に大胆でスピーディーな編集に仕上がっています。
0:36:14~この“カメラ回り込みの激闘10数秒間”が板垣の人生を変えました! この“アニメならではの迫力”に魅せられ、そして自分をアニメ業界に引きずり込んだカットと言っても過言ではありません! この手のアクションを何度も“パラパラ漫画”で描いては家族やクラスメイトによく見せていました。中学・高校の同級生らに「俺、アニメーターになった~」と言って驚く奴は誰もいないでしょう。
0:37:11~で試合の結果すら知らせずに、そのリング上を見つめる葉子——を見つめる白木翁が“ボケ”で居てピン送りすらしない! “語らずに魅せる”クールな演出の宝庫です。
0:37:15~走行する電車内に立つジョー。そこへ被る乗客(OFF)「あれ矢吹丈じゃねーか?」。このカット一発で場所移動・時間経過だけでなく、世間の人々のジョーに対する現状の認知度向上を自然と入れてくる演出。これ書ける脚本家にも、俺はお会いしたことないです。
0:38:26~ジョー「何かの、間違いじゃねえのかい!?」の表情。こちらも秀逸!
0:39:18~出﨑監督作品超お馴染み“走行する電車車輪ショット”。激しい効果音と画面の明滅でキャラクターの動揺を表現しています。「演出って何する仕事?」という問いに「出﨑作品を観れば分かる!」の一言で片付くのがコレ、いい例です。同じ電車車輪ショットの使い回しでも入る場面・シチュエーションによって違う意味を伝えられるし、キャラの別の側面が感じられもするのです。「クレショフ効果」で検索しましょう。
0:39:23~この戦慄しつつも口元に微かに浮かべた笑み(のように見える)が、ザ・杉野昭夫作監!
0:39:27~この一連“深い青パラ”も良い!
0:39:44~前シーンの締めが閉まる扉で、このシーンの始まりが冷蔵庫のドアが開く。冒頭(第851回の[1])からの説明どおり、これも明らかに意図的な繋ぎ。それが証拠に(?)冷蔵庫のドアは閉まる前にカットしています。
0:40:27~前カットの紀子「矢吹君に誘われたの初めてだもん」に応えもしないで、一気に夕方。しかも次カット(0:40:29~)も何か言った後のような不穏なカットに。TVシリーズではあった会話を削って違う意味にしてまで、敢えてこの2カットを残したのが意味深。
0:40:47~暴走族シーン。後の出﨑作品OVA『B.B』3巻のアバンで同様のシーンがありますが、こっちの方が良い。
0:42:18~ジョーの名台詞、

燃えカスなんか残りゃあしない。真っ白な灰だけだ。
——力石だって、あのカーロスだってきっとそうだったんだ……!

ここで被る電車の走行音は“ジョーと紀子の断絶——埋めようがない距離感”を表現していて何度観ても痺れます。本当に単純な画(構図)の連続と動きと音……これで無限に心情を表現できることを出﨑作品は観る度教えてくれます!

 で、またチェックの時間! また色々敬称略で、すみません。

『タイガーマスク』を語る
第9回 「幸せの鐘が鳴るまで」についてもう少し

 第50話「此の子等へも愛を」、第54話「新しい仲間」、第55話「煤煙の中の太陽」、第64話「幸せの鐘が鳴るまで」について、改めてまとめておく。
 第50話では被爆者家族が、第54話では過保護が、第55話では四日市の公害が、第64話では交通遺児がモチーフとなった。これらのエピソードについて「社会的な問題を取り上げており、それが素晴らしい」と言われることが多いが、前回までで触れたように、この4本の価値はそれだけではない。社会的な問題を取り上げつつ、それと同時に主人公である伊達直人がそれまでやってきたことに対しての疑問を提示し、彼の無力を描き、そして、本当に何をやるべきかについて模索し、ひとつの結論に達した。その結論は不幸な境遇にいる人達に対して、一人の人間が何ができるのか、というものであり、視聴者に対するメッセージでもあった。
 この一連のコラムでは、第50話に関して「他人の不幸を娯楽として消費すること」が皮肉を込めて描かれていたとしている。娯楽として消費するのがよくないことだとしたら、我々はどのように不幸な境遇にいる人達と向き合えばいいのか。第64話で到達した結論はそれに対する回答であったと考えることもできる。

 第64話「幸せの鐘が鳴るまで」について、僕が最も語りたかったことは前回のコラムで書いた。以下は前回のコラムから溢れた内容だ。
 まず、第64話の脚本を執筆した安藤豊弘についてだ。このコラムの第5回で『タイガーマスク』DVD BOX第2巻の解説書の斉藤侑プロデューサーのインタビューを参照して、彼が各話のプロット(それは設定書と呼ばれていた)を書いたと記したが、改めてLD BOXの解説書に掲載された斉藤侑プロデューサーと脚本・安藤豊弘のWインタビュー(それはDVD BOX第2巻の解説書に再録した)を読むと、シリーズの途中から斉藤侑、安藤豊弘と脚本の三芳加也の三人が籠もって、設定書を1クールずつくらい作っていったとある。三芳加也は第52話で『タイガーマスク』の脚本から外れているようであり、第5クール以降は斉藤侑、安藤豊弘が物語を構成していったと推測できる。第6クールのクライマックスである第78話、最終話の第105話も安藤豊弘が脚本を執筆。『タイガーマスク』の作品のカラーについて、彼が作り上げた部分も大きかったのだろうと思われる。

 次は個々のシーンに触れる。孝のアパートで、直人が食卓を囲んだ場面についてだ。この場面では直人、孝、孝の母親が疑似家族となる。前回のコラムでも触れたように、直人は初めて母の手料理を口にし、夫を亡くしている母親は親子三人の暮らしを懐かしんだ。孝は母親が帰る前から、直人がいることで機嫌がいい。もしも、直人が孝の父親となり、一緒に暮らせば三人は幸せになれるだろう。しかし、直人がこの家に留まることはできないし、父親になるのも現実的なことではない。さらに言えば、それが実現したとしても、直人が幸福にすることができるのは、世界に大勢いる不幸な子供の内のたった一人でしかないのだ。すなわち、第50話からの一連のエピソードで描かれている「直人の無力」のひとつである。
 この場面は「直人が孝の父親になれば三人が幸せになれるが、それは実現できないことであるし、できたとしても……」ということを示しているわけだが、劇中の誰かがセリフやモノローグで「父親になってあげれば……」と言葉にしているわけではない。それはシチュエーションで示されるのみだ。シチュエーションから視聴者が「ああ、直人が父親になってあげれば……」と考え、そして「それは現実味がないことだな」と思い、さらに何かを感じてくれることを作り手は期待しているのだろう。このような仕掛けをドラマに施すあたりが、『タイガーマスク』の作劇の真骨頂だ。ドラマの作りが大人だと、僕は思っている。

 以下は別の話だ。第64話のBパートでタイガーマスクの試合が描かれる。孝と母親も会場で試合を観戦する。直人がチケットを送ったのだ。この日のタイガーの対戦相手は強敵ではなかったが、恵まれない子供達のために何ができるかを考えていたためか、タイガーは苦戦してしまう。腕がロープに絡んだ状態で対戦相手によって痛めつけられる。彼は「こんな無様なタイガーの姿を見たら、孝君はどう思うだろう……」と考えはしたが、遂に反撃に転じることはできなかった。試合はタイガーの反則勝ちで終わったが、その勇姿を観ることができなかったため、孝は失望する。ここで活躍できなかったことが、後のシーンで直人が「たった一人の子供にでも夢を与えることができれば……」と思うことに繋がるのだが、直人が自分の無力を痛感するエピソードで、さらにタイガーマスクとして活躍ができなかった試合を描くとは、この作品の作り手達は容赦が無い。子供に夢を与えようと思ってもそれを実現できるとは限らない。現実とはかくも厳しいものなのだ。

 第64話の舞台になった甲府には謝恩碑と呼ばれる建築物がある。明治40年代に山梨で度重なる水害があり、それを知った明治天皇が御料地を下賜した。謝恩碑はその感謝等を後世に残すため建造されたものだ。この話の冒頭で、寂しげな孝が謝恩碑を見上げる描写がある(その前に直人が武田信玄の銅像を見る描写もある)。謝恩碑を見せるために数カットを使っており、PAN DOWNで謝恩碑を見せたカットの後に、孝のカットがあり、謝恩碑のPAN UPのカットがあり、さらに孝のカットと謝恩碑のカットを繰り返す。いかにも、何か意味がありそうな描写であり、冒頭で孝が謝恩碑を見上げていることと、ラストシーンで直人が教会を見上げていることが対になっていると考えて、それを解釈することは可能だが、あまりにも手がかりが少ない。このコラムではその意味について触れることはせず、僕にとっての宿題としたい。

 そして、第64話で直人が到達した結論の、その続きについて触れよう。第64話で直人は全ての恵まれない子供達、全ての不幸な境遇にいる人達を救うことを諦めた。そして、皆が他人の幸せを考えるようになることに期待して、自分ができることをやっていこうと思った。そして、第76話「幻のレスラー達」(脚本/柴田夏余、美術/浦田又治、作画監督/我妻宏、演出/新田義方)である。大門大吾が直人の仲間になった後のエピソードであり、この第76話で初めて大門がちびっこハウスを訪れている(実は大門は第38話でルリ子、健太、チャッピーと会ってはいる)。ハウスが狭いため、雨の日に大勢の子供が遊ぶには手狭だった。そのことで子供達が喧嘩をしていることを知った大門は、若月先生に対してハウスの庭に、雨の日に遊ぶことができる離れを作ることを提案する。大門は大工などには頼まず、自分の手でそれを作るのだという。彼は子供達にも声をかけ、子供達も離れの建設に参加する。離れが完成するまでの日々が描写される。大門も子供達も楽しそうだ。
 大門も虎の穴を裏切っており、虎の穴の追っ手から逃れるために土木作業員、庭師、板前等、職業を転々としてきた。ハウスでの離れの建設では彼の器用さと、様々な職業に就いてきた経験が活かされるかたちとなった。
 それまでの『タイガーマスク』なら、直人は子供達が雨の日に遊ぶ場所がないと知ったところで、大工を雇って作らせていたはずだ。つまり、ファイトマネーを使っていたはずだ。前回のコラムで触れたように、第64話以降、直人が恵まれない子供達、不幸な境遇にいる人達のためにファイトマネーを使う描写はない。もしも、作り手と直人が、無闇矢鱈にファイトマネーを使うべきではないと考えたのだとしたら、雨の日に子供達が遊ぶ場所が無いという問題に対して、どう対応するべきなのか。
 ここまで書けば、分かっていただけるのではないかと思う。大門と子供達が、自分達の手で離れを作ったことは『タイガーマスク』の物語の中で画期的な出来事だったのだ。作り手達は第64話で到達した結論の、さらに次の段階を描いたのだ。
 離れのための資材は大門がファイトマネーで用意したものであるはずだが、それは大きな問題ではない。まず、直人が一人で問題を解決するのではなく、大門という第三者が動いてくれた。小規模なものではあるが、直人がそうなることを望んだ「自分以外の人間が不幸な境遇にいる人のために何かをする」の実現である。そして、金銭で全てを解決してそれで満足するのではなく、子供達に歩み寄り、苦楽を共にすることを大門は示した。子供達にとっても有意義な体験になったはずだ。直人に大工仕事ができるかどうかは分からないが、恐らくは不得手だろう。直人が大門という仲間を得たからこそ実現した新しい一歩だった。

●第10回 第6クールの展開とクライマックス に続く

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第281回 不穏なアクセント 〜牧場の少女カトリ〜

 腹巻猫です。5月29日にSOUNDTRACK PUBレーベルよりCD「冬木透 アニメ音楽の世界 牧場の少女カトリ」が発売されます。TVアニメ『牧場の少女カトリ』の初の完全版音楽集です。今回は、その内容と聴きどころを紹介します。


 1984年に放送されたTVアニメ『牧場の少女カトリ』は、日本アニメーション制作の「世界名作劇場」シリーズ第10作。同シリーズで『ペリーヌ物語』『トム・ソーヤ—の冒険』などを手がけた、脚本・宮崎晃、監督・斎藤博のコンビによる作品である。
 舞台は1910年代のフィンランド。9歳になる少女カトリは、ドイツに出稼ぎに出た母の帰りを待ちながら、祖父母とともに暮らしていた。しかし、第一次世界大戦が始まってから、母からの連絡は途絶え、家の暮らしも厳しくなっていった。カトリは家計を助けるために、ひとりで働きに出る決心をする。ライッコラ屋敷の家畜番として雇われたカトリは、さまざまな経験や出逢いを重ねながら、将来への夢を育んでいく。
 原作はフィンランドの作家、アウニ・ヌオリワーラが1936年に発表した小説。日本ではあまり知られていない作品だし、格別ドラマティックな展開があるわけでもない。アニメ化にあたり、スタッフは舞台を原作より現代に近い時代に変更し、キャラクター設定をふくらませるなどして、視聴者が興味を持ちやすい内容にアレンジしている。特にカトリが類型的な「働きものの少女」に収まらない、夢見がちで気の強い一面を持ったキャラクターに描かれているのがいい。それがユーモアにつながり、本作の魅力になっている。

 音楽は「ウルトラセブン」「ミラーマン」などの特撮ドラマ音楽で知られる作曲家・冬木透が担当した。
 冬木透がアニメ作品の音楽を手がけるのは、『恐竜探検隊ボーンフリー』(1976)、『ザ☆ウルトラマン』(1979)、『太陽の牙ダグラム』(1981)に続いて4作目だった。冬木透といえばSFヒーローものの印象が強いので、「世界名作劇場」への参加は意外に思われるかもしれない。が、もともと冬木は多彩なドラマ音楽で活躍した作曲家。ホームドラマや探偵ドラマ、時代劇、朝の連続テレビ小説(「鳩子の海」)なども担当している。『牧場の少女カトリ』への参加も、実写ドラマの延長と考えれば意外ではない。
 本作の音楽の大きな特徴は、フィンランドの作曲家、ジャン・シベリウスの作品が劇中音楽に取り入れられていることである。
 特にシベリウスの代表作である交響詩「フィンランディア」の中に登場する「フィンランディア賛歌」と呼ばれるメロディが、本作のメインテーマ的な位置づけになっている。このメロディが楽器編成やテンポやリズムを変えてアレンジされ、さまざまな場面に使用されているのだ。
 本作では、交響詩「フィンランディア」以外にも、シベリウスのいくつかの作品をアレンジして劇中に使用している。クラシック音楽を劇中に使用する演出は珍しくないが、本作ではTVシリーズの溜め録りの音楽としてシベリウスの曲をアレンジして使っているのがユニークな点である。溜め録り音楽の場合は、劇中で必要になりそうな、さまざまな心情、情景、シチュエーションに合った曲をあらかじめ用意しておく必要がある。そこで冬木透は、「淋しいカトリ」や「夕暮れの情景」といったシーンに合いそうな曲をシベリウスの作品の中から探し、それを劇中で使いやすい1分から1分半くらいの長さに編曲するという手間をかけている。映像音楽の経験が豊富な冬木透であれば、選曲・編曲するより一から作曲したほうが早いと思うが、それだけの手間をかけても、スタッフはシベリウスの音楽がほしかったのだろう。
 なぜ、このような音楽作りが行われたのか? 冬木透に取材してみたが、冬木自身も詳しい事情はわからないということだった。冬木に音楽の依頼が来たときには、シベリウスの作品を使用すること、なかでも「フィンランディア賛歌」のメロディを使うことは、すでに決まっていたという。交響詩「フィンランディア」以外のシベリウスの作品の選曲はすべて冬木にまかされた。本作の依頼が来たのがぎりぎりのタイミングだったので時間の余裕がなく、大変だったと冬木はふり返っている。
 筆者の想像だが、フィンランドという、子どもたちにとってあまりなじみのない土地が舞台になる作品なので、作品世界を象徴するメロディやサウンドがほしいと考えて、スタッフはシベリウスの作品を使おうと考えたのだと思う。「フィンランディア賛歌」のメロディはシンプルで親しみやすく、子どもにも覚えやすい。このメロディが流れてきたら、TVを観ていなくても「カトリの曲だ」とすぐにわかる。メインテーマとしては最適だ。また、海外への番組販売を考えたときにも、シベリウスの音楽は世界共通の音楽的アイコンになる。
 結果として、シベリウスの音楽の使用は、よかった面とよくなかった面があったと思う。よかった面は、音楽によって視聴者にフィンランドの風土や歴史を感じさせることができたこと。これは映像だけでは難しいことだろう。よくなかった面は、音楽の表現の幅が狭くなってしまったこと。本作の音楽には冬木透のオリジナル音楽もあるのだが、それもシベリウスの作品と違和感がないように書かれている。冬木透の個性は抑え気味なのである。そうはいっても、冬木透ならではのサウンドがそこここに現れていて、冬木透ファンにとっては、それが本作の音楽を聴く楽しみになっている。
 『牧場の少女カトリ』は長らく音楽の復刻が待たれた作品だった。放送当時、キャニオンレコードから本作の音楽集アルバム(LPレコード)が発売されていたが、30年以上CD化の機会に恵まれず、2019年に日本コロムビアより発売された10枚組CD-BOX「ウルトラ・マエストロ 冬木透 音楽選集」にて、初めてBGM20曲がCD化された。しかし、それも本作の音楽の一部にすぎず、『牧場の少女カトリ』ファン、冬木透ファンのあいだでは、完全版音楽集の発売が熱望されていた。
 5月29日に発売される「冬木透 アニメ音楽の世界 牧場の少女カトリ」は、『牧場の少女カトリ』の初の完全版音楽集である。構成・解説は筆者が担当した。
 CD2枚組で、ディスク1は放送当時発売された音楽集アルバムをオリジナルのままの構成で復刻。主題歌とBGMをステレオ音源で収録した。ディスク2は本編で使用されたオリジナルBGMを完全収録。主題歌のTVサイズも収録した。ディスク2は全曲モノラル音源である。
 詳しい収録内容は下記を参照。
https://www.soundtrack-lab.co.jp/products/cd/STLC056.html

 本アルバムの聴きどころを紹介しよう。
 ディスク1は、上述のとおり「ウルトラ・マエストロ 冬木透 音楽選集」で大半の楽曲がCD化されている。しかし、同商品は10枚組セットだったために、「カトリだけのために買うのはちょっと……」と躊躇した人もいたと思う。今回のCD化ではポニーキャニオンからマスター音源を取り寄せ、新たにマスタリングを行った。曲間(曲と曲のあいだの無音部分)の長さもレコードと同じにしてあるので、続けて再生していただければ、アナログ盤の演奏を再現できる。収録曲の中では、本作のために録音された交響詩「フィンランディア」が初CD化である。また、ボーナストラックとして主題歌2曲のオリジナル・カラオケを、コーラスあり、なしの2タイプ収録した。主題歌のアレンジは『エヴァンゲリオン』シリーズでおなじみの鷺巣詩郎。鷺巣詩郎ファンにも聴いてほしい音源だ。
 ディスク2に収録したBGM音源は全曲初商品化。約80曲を50トラックに構成した。「全曲初商品化」と書いたが、楽曲としては、ディスク1に収録したBGMとディスク2に収録したBGMは重複がある。重複した曲はミックスが異なるだけで、演奏は同じである。観賞用のステレオ音源と本編ダビング用のモノラル音源の聴感の違いを比べてみるのも(マニアックだが)興味深いと思う。
 以下はすべてディスク2から。
 トラック3「夜明け」は今回初収録となった曲。第1話冒頭の夜明けのシーンに流れていたフルートとストリングスによる「フィンランディア賛歌」のアレンジである。後半はオーボエによる変奏になる。
 先に書いたように「フィンランディア賛歌」は本作のメインテーマであり、そのアレンジも10曲以上作られている。印象的なものとしては、ホルンの温かい音色で奏でられる「あこがれ」(トラック31)、ハープが爪弾く「トゥルクへの旅立ち」(トラック42)、弦のピチカートが3拍子で奏でる「故郷へ」(トラック51)などがある。「故郷へ」は最終話のラストシーンに流れていた曲だ。
 トラック8「アベルはともだち」は、カトリの愛犬アベルのシーンによく使われた曲。シベリウス作曲の組曲「レンミンカイネン」の1曲「レンミンカイネンとサーリの乙女」に登場するメロディをアレンジした曲である。テンポの異なる2曲を1トラックに編集した。音楽集LPにはテンポのゆったりした1曲目が「ともだちアデル」のタイトルで収録されている。「アデル」はカトリの劇中に登場しない名前で、おそらく「アベル」の誤記(もしくは初期設定の名前?)と思われるが、一度商品になったタイトルなので、そのまま掲載した。ディスク2のほうはあらためて「アベル」をタイトルにした次第。
 トラック37「白鳥のように」も初収録。シベリウス作曲の組曲「カレリア」の1曲「バラード」をアレンジした曲である。女医ソフィアと出会ったカトリは、自分も勉強すれば医者になれるだろうかと考える。しかし、それは今のカトリの境遇では到底かなわない夢だった。童話「みにくいアヒルの子」を読みながら、カトリは自分が白鳥になりたかったのだと気がつき、涙する。カトリの切ない想いを描写する曲である。同じ原曲をアレンジした「雪景色」という曲が音楽集LPに収録されていたが、「白鳥のように」はそれとは異なるアレンジ。個人的に「こちらのアレンジも聴きたいなあ」と思っていたので、今回収録できてうれしかった。
 このアルバムでは、冬木透のオリジナル曲もたっぷり収録することができた。本作の音楽はこれまで、その全貌が明らかでなかったために、「ほぼすべてがシベリウスの楽曲のアレンジ」と思われていた節がある。たしかに劇中に流れる音楽はシベリウスの曲のアレンジが多く、その印象が強いのだが、実は約80曲のうち半数は冬木透のオリジナル曲なのである。ただ、冬木はシベリウス風の旋律や響きを意識して作曲し、ときには曲の中にシベリウスの曲のモチーフを忍ばせているため、劇中では冬木透の曲とシベリウスの楽曲が溶け合い、混然となっている。
 初収録となった曲では、「カトリと母」(トラック5)、「やすらぎ」(トラック15)、「胸に秘めた悲しみ」(トラック19)、「望郷」(トラック27)、「春のおとずれ」(トラック28)、「いじわるな人」(トラック46)などが冬木透のオリジナル曲である。ただ、筆者が気づいていないだけで、実はシベリウスの曲のアレンジという可能性もあるので、お気づきの方はご一報ください。
 冬木透ファンにぜひ聴いていただきたいのが、場面転換や映像にアクセント(強弱)を加えるために使われる「ブリッジ」と呼ばれる短い曲である。本作では20曲ほど作られている。その大半が冬木透によるオリジナル曲なのだが、これが実に冬木透らしくてしびれるのだ。
 本作のブリッジ音楽には、なぜか不穏な曲調のものが多い。「怪しい影」(トラック22)、「助けてくれた人」(トラック29)、「暗い予感」(トラック39)などを聴いていると、SFサスペンスドラマを観ているような気分になる。劇中では、牛が崖から落ちそうになったり、羊が狼にねらわれたり、泥棒が暗躍したりといった緊迫したシーンがあり、こうした曲は主にそういう場面に使われている。だが、それだけでなく、カトリがふと不安を感じたり、ちょっとした異変に気づいたりするシーンにも不穏なブリッジ音楽が使われていて、それが独特の雰囲気をかもしだしている。カトリは劇中でしょっちゅうトラブルに巻き込まれているような印象があるのだが、それはこの音楽のせいかもしれない、と思うのだ。

 なお、本アルバムは諸般の事情により、アニメのキャラクターやタイトルロゴなどを使用しないで制作している。代わりに、解説書にはフィンランドの実景写真を掲載した。フィンランドの風景と、その中で働くカトリの姿を想像しながら、音楽をお楽しみいただきたい。

冬木透 アニメ音楽の世界 牧場の少女カトリ
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第853回 『(劇)ジョー2』の魅力(3)

 前回からの続き。
0:14:20~タイガー尾崎戦T.K.O負けから、ポンとタクシーで引き上げるジョーの寄り……の窓ガラスに映る雨・夜景へ。そこにジョーのモノローグを被せて繋ぐテンポの良さ。「所詮ただのTVシリーズの編集ですから~」的に拗ねるのではなく、

TVシリーズの無数にあるカットの山から“新しい映画の論法”を開闢しよう!

という強い意思を、出﨑監督の総集編映画からは感じます!
0:14:39~1981年はタクシー初乗り¥380でした。
0:14:51~ほら。もうタクシー降りて河原に座ってるでしょ、ジョー。
0:14:59~「矢吹よ、どうしたい?」「……どうもしねえさ」「ふん、そうかい。(ほい)じゃあな……」
 残念ながら、劇場版での力石の台詞はここで終わり。本当に何しに現れたんだ、力石!? とも思いますが、ジョーにとっての“力石の位置”みたいなのが良く出ているシーンとも言えます。
0:15:16~リングライトを浴びて佇む力石のT.B(トラック・バック)。その後、河原のジョーも立ち上がる。なぜかカッコいい。理屈を超えた説得力が出﨑アニメの真骨頂!
0:16:19~「そんなボクサーが、1人——」と葉子ド寄りからグウ~ンとカメラ回り込んで、葉子とロバートの俯瞰ロングへ。痺れる! ここも“理屈を超えた~”カット。実は、板垣はこういうカットがやりたくてアニメ監督を目指しました!
0:17:59~画面9割を“青パラ”で覆ったジョーのド寄りにOFFでゴングを被せて、次カットで試合中! なんて心地よい展開でしょうか。で、~0:18:45で試合シーン終わり。1分もない!凄い!
0:19:18~ここの汗だくジョーも、本当に良い“杉野(昭夫)顔”! 絶望に独り立ち向かう男の不敵な笑み……。ダンディズム感じます!こんな演出・作画が出来るスタッフも作品も随分と減りました。
0:20:13~「おめえの対戦相手は、——もう何処にもいねえよ」と言われて目を見開くジョー。この時さえも、口元は“笑み気味”に結んで見えます。良い!!
0:24:22~「このままでは終われない」のカーロスを受けて、間髪入れず “繰り返しPAN”ジョーから“同T.U”カーロス! 出﨑監督お得意の呼吸です。
0:25:23~あ、台詞はないけど“少年院時代の力石”回想。これで画としても劇場版力石のラスト。
0:25:40~ぶっ飛んだジョーの滞空時間をスライドで表現。芝山努監督が(出﨑監督に関するインタビューで)仰ってた“引っぱりの出﨑”の技がコレです。憧れます!
0:26:52~窓越しに夕日を眺める葉子。前後の余計な段取りなし。この1カットのみで、しかも後ろ向き。
0:27:43~ここのカーロスは、冒頭のジョーよりさらに大胆に口パクもなしで「おお、そうか……」と無理矢理。この後の0:29:41「オー、スノー……」も。ところで、カーロスの声——TVの中尾隆聖版ももちろん良いけど、劇場版のジョー山中版も好きです。後半パンチ・ドランカーになって、ジョーの元に返って来てからは特に。
0:29:30~「ここで決着をつけようぜ、この公園でよ」受けで、ジョーに視線を送るカーロス。そして雪が降り始めて、ジョーとカーロスが戯れる(?)シーン。荒木一郎音楽による劇場用BGMが大人のムードを醸し出してて、TV版の同シーンより好き。TV版では選曲がジングルベル~で、2人の子供っぽさが強調されてる気がして、それはそれで有りだとは思うのですが、ここは劇場版の選曲の方が良いと思うんですよ。特に0:30:26辺り~この後の悲劇を予兆する様ようで、何処か暗く、悲しくて……。当時、初見で俺はそう感じました。決して単なる“楽しいひと時”で終わらせないと。
0:30:46~見てくださいよ! この大人の男のカッコ良さ!! 後のOVA『ブラック・ジャック』7巻でもテントを出て尻もちを着いたブラック・ジャックが同様の笑みを浮かべます。やっぱり出﨑&杉野コンビは最高!!

 駆け足で色々敬称略。すみません。でっ、またチェックの時間です(汗)!

『タイガーマスク』を語る
第8回 第64話「幸せの鐘が鳴るまで」

 それまでもアニメ『タイガーマスク』には「直人と市井の人々とのドラマ」があったが、第5クールは特にそれが多い。第64話「幸せの鐘が鳴るまで」は(脚本/安藤豊弘、美術/沼井一、作画監督/木村圭市郎、演出/新田義方)は「直人と市井の人々とのドラマ」の最後のエピソードであり、伊達直人のドラマの集大成である。多くの人々と触れ合いが直人の視野を広げ、彼はみなしご以外の不幸な境遇にする人達にも目を向けるようになっていった。長期シリーズとなり、オリジナルエピソードを積み重ねたことにより、アニメ『タイガーマスク』は作品としての、伊達直人は人間としての厚みが増していった。

 第64話「幸せの鐘が鳴るまで」は交通遺児をモチーフにしたエピソードである。冒頭では交通遺児作文集「天国にいるおとうさま」の一文が読み上げられ、画面にもその文面が映し出される。この文集は1968年に刊行されて話題になったものだ。日本では昭和30年代から交通事故による死亡者が増え続けており、「交通戦争」と呼ばれていた。第64話が放映された1970年は交通事故の死亡者数がピークに達した年であり、交通事故や交通遺児は人々にとって身近な問題だったのだ。
 このエピソードの後半で直人が交通事故によって子供達が親を喪っていることについて痛ましく思う場面では、実際に事故に遭った自動車の写真が何枚も挿入される。このエピソードで扱っている交通事故が現実のものであり、恐ろしいものであることを強調する描写である。余談だが、翌年に放映された『天才バカボン』5話Aパートでも、交通事故の悲惨さを伝えるために実写の交通事故が使われている。アニメプロダクションは違うが『タイガーマスク』も『天才バカボン』も、よみうりテレビ制作の作品だ。さらに余談を重ねるが『タイガーマスク』ではこの後のエピソードでも、物語の中で交通戦争や交通遺児が話題になっている。

 第64話のプロットはシンプルだ。舞台は直人が遠征のために訪れた甲府。クリスマスを間近に控えた時期のエピソードだ。直人は街で孝という名の少年と出会う。孝は父親を交通事故で喪っており、現在は母親と二人暮らしだ。母は残業で帰りが遅くなることが多く、彼はその日も夜まで一人で過ごすことになる。それを知った直人は孝に沢山のクリスマスプレゼントを買い、孝のアパートで一緒に遊んでやる。そこに孝の母親が帰ってくる。直人は帰ろうとするが、母親の勧めで夕食を共にすることになる。
 直人と一緒にいることで孝が楽しそうにしているのを見て、母親は、父親がいない息子が大人の男性に甘えたがっているのだと思う。直人は、孝の母親が茶碗にご飯をよそう様子を見て「夢にまで見た母の手料理……」と思う。みなしごとして育った直人は母親の手料理を口にしたことがなかった。一度でいいから、母の手料理を食べてみたいと思っていたのだ。直人はゆっくりと箸で夕食を口に運ぶ。そして、孝の母親は、直人と孝がいる食卓を目の当たりにして「これが家庭というものだわ……」と思う。彼女は亡夫と孝と三人で暮らしていた頃を思い出す。
 どこにでもあるごく当たり前のアパートの一室で、直人と孝の母親は、この一瞬の幸せを噛みしめる。みなしごとして育ち、現在は虎の穴の裏切り者として追われ続けている直人の人生の中で、これが最も幸福な時間であったかもしれない。そんな一時を描いただけでも、このエピソードは価値がある。この場面の深みが分かるには視聴者の年齢が必要かもしれない。僕が直人の感慨に胸を打たれたのは40歳を過ぎてからだった。
 遊び疲れた孝が眠りついた頃、母親は亡夫と交通事故について語る。自分達の小さな幸福が一瞬のうちに失われたこと。今も自動車を憎んでおり、片っ端から壊したいと思っているということ。そんな激しい感情を抱いて彼女は生きているのだ。直人には彼女にかけてやれる言葉を持ち合わせてはいなかった。

 孝のアパートからの帰り道、雪が降る中で直人は思い耽る。タイガーマスクとしての試合を挟み、再び雪の中を歩きながら直人は考える。そして、ひとつの結論に辿り着く。
 直人の思索を整理すると以下の内容となる。全国には交通戦争の犠牲者が大勢いるに違いない。自分は恵まれない子供を一人でも幸せにするためにリングで戦ってきた。しかし、自分の手が届かないところで、今この瞬間にも不幸な子供が増えているのだ。そんな子供達に対して自分は何ができるというのだ。交通事故を無くすことはできないが、それに対して顔を背けてはいけない。たった一人の子供にでも夢を与えることができれば、それだけでもいいではないか。皆がそんな気持ちになれば、いつか交通事故も無くなり、皆が幸せになれる。それを信じて、皆が自分ができることを精一杯やることが大事なのだ。
 彼の思索は交通事故とその被害者についてから始まっているが、一人の人間が、恵まれない子供達、全ての不幸な境遇にいる人達に対して何ができるか、そして、皆が幸せになるにはどうすればよいのかについての結論に辿り着いている。
 一人の人間にできることは限られている。死に物狂いでやったからといって、全ての恵まれない子供を、全ての不幸な境遇にいる人達を救うことはできない。だからといって努力をやめてはいけない。世界中の人達が、他人の幸せを考えるようになるのは難しいことかもしれない。だが、そうなることを信じて、自分ができることをやらなくてはいけない。それが直人の結論である。

 僕の解釈も交えて、更に解説しよう。
 第50話「此の子等へも愛を」では、直人が恵まれない子供のためだと思ってやってきたことは本当に正しい行いであったのか、自己満足に過ぎなかったのではないか、という疑問が提示された。
 第54話「新しい仲間」では、自分は金を使うことでしか子供達に何かをしてやることができないと思っていた直人が、それ以外の何かができるのかもしれないと気づいた。それ以外の何かとは、タイガーマスクとしてリングの上で活躍し、全国の子供達に勇気を与えることだろう。
 第55話「煤煙の中の太陽」では、金銭で解決できることではあるが、タイガーのファイトマネーではどうにもならない問題に直面した。
 以上を踏まえた上で、この第64話があり、先ほど触れた結論がある。世の中には直人の手が届かないところにも、大勢の不幸な子供がいる。手が届くところにいたとしても、直人のファイトマネーで幸せにしてやれるとは限らない。直人は自分の無力を痛感したはずだ。自分の限界を知り、できないことがあまりに多いをことを知っても、力を尽くすことを諦めはしない。全ての子供達の幸せを望む彼にとって、その選択は辛いものだ。辛いものではあるが、それを選ぶのが伊達直人の強さであり、そういった厳しい生き方を描くのが『タイガーマスク』という作品なのだ。
 第64話のラストシーン。雪の街を歩きながら思索を重ねた直人の前には、教会があった。教会から鐘の音が聞こえ、やがてそれが賛美歌に変わる。思索が結論に至った直人が教会を見上げると、幸福になった孝と母親の姿が浮かぶ。賛美歌の歌声が高まる。その時に響き渡った賛美歌の歌詞は「仰ぎ見ん 神の御顔」。教会を仰ぎ見る直人と歌詞が重なり、そこで第64話は幕を下ろす。

 更に解説を続ける。
 第54話のミクロに必要だったのは、例えば身近にいる大人が寄り添ってやることだった。第64話の孝に必要だったのは、例えば父親のような存在だった。そういった子供に対して直人にできることは、やはり、タイガーマスクとしてのファイトで勇気を与えることなのだろう。実際に彼のリングの上での活躍がミクロが立ち直るきっかけになったではないか。第64話で直人が思い至った「たった一人の子供にでも夢を与えることができれば」とは、例えばそういうことなのだろう。
 第55話では郎太とタイガーのことが新聞に報じられ、それがきっかけで市議会が動き、日本プロレス協会も寄付をしてくれた。第64話の結論である「皆がそんな気持ちになれば、いつか皆が幸せになれる」とは、例えばそういったことなのだ。直人はタイガーマスクとして、すでに多くの人の心を動かすきっかけ作り出しているのだ。そういったことも、直人がタイガーマスクとしてやるべきことであるのかもしれない。

 『タイガーマスク』のこの後の展開で、注目してもらいたいポイントがある。この作品の物語について考える上で、非常に重要なポイントだ。第64話「幸せの鐘が鳴るまで」以降では、直人が恵まれない子供や不幸な境遇にする人達のためにファイトマネーを使う描写が一度もないのだ。直人の生き方がここで変わったと見ることができる。
 直人は自分一人だけで全ての子供を幸せにしようとしてきたが、第64話で現実に直面し、自分の行いを見つめ直した。そして、無闇矢鱈にファイトマネーを使うことをやめようとも思ったのだろう。すなわち『タイガーマスク』のスタッフ達が「もうそれを描くべきではない」と判断したのだろう。つまり、物語の出発点からあった「みなしごに使うファイトマネーを手に入れるため、マットで死に物狂いで戦うヒーロー」という主人公の在り方を『タイガーマスク』のスタッフ達が半ば否定したのである。
 直人がファイトマネーで救うことができるのは、ごく一部の人達に過ぎない。だとしたら、本当に直人がやるべきことは何なのか。『タイガーマスク』のスタッフ達は直人の生き様に向き合い、人はどのように生きるべきなのかを考え、ここに辿り着いたのだろう。『タイガーマスク』のスタッフ達は物語に対して、直人の生き様について、実に真摯だ。
 第64話「幸せの鐘が鳴るまで」は決して派手なエピソードではない。分かりやすい話でもない。ではあるが、テーマに対する取り組み方に関して、信じられないほどの高みに達したエピソードである。アニメ『タイガーマスク』の作劇面での頂点であると僕は考えている。

 第64話の作品内についての解説はここまでだ。以下は作品外での物語だ。

 原作「タイガーマスク」でも、直人はみなしごのためにファイトマネーを使うことを目的にして戦っているのだが、原作ではちびっこハウス以外の子供達のためにそれを使っている描写は、実はほぼ無い(希望の家にいる目が見えない少女のためには使っているはずだ)。伊達直人が日本各地のみなしごや、みなしご以外の不幸な境遇にする人達のためにファイトマネーを使っているイメージは、アニメ『タイガーマスク』が作り上げたものなのだ。言うまでもないが、第64話の「皆がそんな気持ちになれば……」という主張もアニメオリジナルのものである。
 直人は「皆がそんな気持ちになれば……」と言ってはいるが、アニメ『タイガーマスク』のスタッフ達が「この番組を観ているあなたにも、他人の幸せを考えてほしい」と、善意や友愛を押しつけるようなスタンスで物語を紡いでいるわけではない。ではあるが、直人の生き様を通じて伝えたいことのひとつはそれだったはずだ。

 ここで現実世界の出来事に目を移そう。思い出してもらいたい。2010年から「伊達直人」を名乗った匿名の人物が全国の児童養護施設に寄付を行い、それが全国に広がり、「タイガーマスク現象」と呼ばれるようになった。さらに「タイガーマスク現象」は企業やNPO法人、国会議員までも動かした。つまり、第64話における直人の「皆がそんな気持ちになれば……」という想いが、40年の月日を経て現実世界で結実したのだ。第55話の劇中でタイガーが市議会や日本プロレス協会を動かしたように、物語の中で描かれた直人の生き様が、現実世界で人々の心を動かしたのだ。第64話で直人が言ったことは絵空事ではなかったのだ。
 直人の戦いは孤独なものであったが、多くの賛同者を生んだ。直人の物語は我々が生きる現実世界で続いているのだ。

●第9回 「幸せの鐘が鳴るまで」についてもう少し に続く

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【新文芸坐×アニメスタイル vol. 177】キラめく舞台に生まれて変わる!
『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』ライティング上映!!

 2024年6月29日(土)に「【新文芸坐×アニメスタイル vol.177】キラめく舞台に生まれて変わる!『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』ライティング上映‼」を開催します。
 新文芸坐では、以前より『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』のライティング上映を展開しており、6月29日(土)のこのプログラムは、ライティング上映に古川知宏監督のトークをプラスしたスペシャル企画となります。

 ライティング上映とは映像にあわせて、天井と壁のライトが点灯するというもの。単に光るだけではありません。場面ごとに違った「演出」で光が動き、光の色が変わります。6月29日(土)のプログラムでは古川監督にもライティング上映を観ていただき、トークはライティング上映の感想を交えてのものとなる予定です。

 チケットは6月22日(土)から発売。チケットの発売方法については新文芸坐のサイトで確認してください。

●関連リンク
新文芸坐オフィシャルサイト
http://www.shin-bungeiza.com/

●WEBアニメスタイル
【最新号の詳細発表!】「アニメスタイル016」の巻頭特集は中村豊!(『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の記事有り)
http://animestyle.jp/news/2022/03/31/21779/

【新文芸坐×アニメスタイル vol. 177】
キラめく舞台に生まれて変わる!『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』ライティング上映‼

開催日

2024年6月29日(土)15時30分~

会場

新文芸坐

料金

2500円均一

上映タイトル

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(2021/120分)

トーク出演

古川知宏(監督)、小黒祐一郎(聞き手)

備考

※トークショーの撮影・録音は禁止

●関連サイト
新文芸坐オフィシャルサイト
http://www.shin-bungeiza.com/

第223回アニメスタイルイベント
ANIMATOR TALK 平松禎史

 「ANIMATOR TALK」はアニメーターの方達に話をうかがうトークイベントシリーズです。今回は『新世紀エヴァンゲリオン』『フリクリ』『ユーリ!!! on ICE』『アリスとテレスのまぼろし工場』等で活躍している平松禎史さんがメインのゲストです。聞き手として沓名健一さん、今村亮さんも出演。沓名さん、今村さんが、平松さんに質問をするというかたちでトークを進めます。トークを進めていくうちに、平松さんの作画についての考えや、アニメーションについての考えをうかがうことができるはずです。

 当日は平松禎史さんがプライベートで描いたイラストをまとめた書籍「平松禎史 PRIVATE ILLUSTRATION」を先行発売する予定。「平松禎史 PRIVATE ILLUSTRATION」は2017年に刊行した「平松禎史 SketchBook」を再構成したものです。「平松禎史 SketchBook」はアニメ関連のイラストラフ、デザインも収録していましたが、「平松禎史 PRIVATE ILLUSTRATION」はオリジナルイラストのみを収録しています。



 イベントは2024年6月2日(日)昼に開催。会場は阿佐ヶ谷ロフトAです。チケットは5月20日(月)20時から発売。購入方法については阿佐ヶ谷ロフトAのサイトをご覧になってください。

 今回のイベントも配信があります。配信はリアルタイムでLOFT CHANNELでツイキャス配信を行い、ツイキャスのアーカイブ配信の後、アニメスタイルチャンネルで配信します。なお、ツイキャス配信には「投げ銭」と呼ばれるシステムがあります。「投げ銭」による収益は出演者、アニメスタイル編集部にも配分されます。アニメスタイルチャンネルの配信はチャンネルの会員の方が視聴できます。
■関連リンク
LOFT  https://www.loft-prj.co.jp/schedule/lofta/284656
LivePocket(会場)  https://t.livepocket.jp/e/v57nm
ツイキャス(配信)  https://twitcasting.tv/asagayalofta/shopcart/310386

アニメスタイルチャンネル  https://ch.nicovideo.jp/animestyle

第223回アニメスタイルイベント
ANIMATOR TALK 平松禎史

開催日

2024年6月2日(日)
開場12時/開演13時 終演15時~16時頃(予定)

会場

阿佐ヶ谷ロフトA

出演

平松禎史(演出、アニメーター)、沓名健一(演出、アニメーター)、今村亮(アニメーター)、小黒祐一郎(アニメスタイル編集長)

チケット

会場での観覧+ツイキャス配信/前売 1,500円、当日 1,800円(税込・飲食代別)
ツイキャス配信チケット/1,300円

■アニメスタイルのトークイベントについて
 アニメスタイル編集部が開催する一連のトークイベントは、イベンターによるショーアップされたものとは異なり、クリエイターのお話、あるいはファントークをメインとする、非常にシンプルなものです。出演者のほとんどは人前で喋ることに慣れていませんし、進行や構成についても至らないところがあるかもしれません。その点は、あらかじめお断りしておきます。

アニメ様の『タイトル未定』
439 アニメ様日記 2023年10月15日(日)

2023年10月22日(日)
ワイフとTOHOシネマズ池袋で『北極百貨店のコンシェルジュさん』を鑑賞。アニメーションとしてのレベルは高い。 作画ファンとしては、特に映画序盤を絶賛したい。色使いや美術もよい。珍しくパンフレットと別にグッズも買った。それはそれとして、公開後最初の日曜なのに劇場は空席のほうがずっと多い。1本の映画としては決して悪くないけれど、お客が入らない理由も分かるので歯がゆい。
TVアニメの『ONE PIECE』は「ワノ国編」の後がどうなるかについては、まだアナウンスされてないはずだが、どうするのだろうか。原作を確認すると「ワノ国編」の後は単行本が2冊しか出ていなくて、11月に出る分を入れても3冊分。そのまま続けると、またまたあっという間に追いつくわけで、冷静に考えたらしばらく総集編をやるか、オリジナルシリーズに入るところだけど、さあ、どうなる。最近の『ONE PIECE』のテンションを考えると「攻め」で行くのではないかとも思えるけど。

2023年10月23日(月)
整形外科に行く。壊れた椅子を使っていたこともあって、腰を痛めたのだろう。診察の結果としては、椅子のせいではなくて、加齢が原因だった。妙にテンションが高い先生がレントゲン写真を見ながら「ここの骨がくっついる」とか「ここの隙間の空き方がおかしい」とか「この部分の何とかが半分以上無くなっている」とか、怖いことを沢山言っていたけど「まあ、この年齢ならしかたないですね」でシメる。ええっ! そうなの? それから、まだまだ動けるそうだ。その後は電気治療。コルセットを付けるかと聞かれたのでお願いする。人生初の整形外科、初の電気治療、初のコルセットだった。

2023年10月24日(火)
この日の仕事は書籍の表紙まわりのデザイン出しを2件、取材の予習。それから、書籍の編集作業の進行、イベントの進行など。とにかくやることが多い。
『北極百貨店のコンシェルジュさん』の作画について。井上俊之さんや本田雄さんといったベテランもクレジットされているけど、本編序盤のやたらと動きまくっているところには不参加で、あれは若い原画マンの仕事らしい。橋本晋治さんはやっぱりプロローグを描いているらしい。
U-NEXTで『鋼の錬金術師 嘆きの丘(ミロス)の聖なる星』を観たら、最近のバキバキのハイビジョンみたいな画質(誉めています)で「ええっ、『ミロス』って、こんなに綺麗だったっけ?」と思って、念のためにHuluで『ミロス』を観たらちょっと画がぼんやりしたバージョンだった。これが僕が何度か観た『ミロス』だ。ちなみにHuluの『シャンバラを征く者』も同様。配信に関して『ミロス』のマスターが2種類あることが分かった。U-NEXTのマスターはこれからリリースされるらしい4K Ultra HDと同じマスターだったりするのだろうか。ちなみにNetflixのアニメ『鋼の錬金術師』シリーズは『鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST』のみ。配信会社によって配信しているタイトルが違うようだ。
ところで、自分はデジタルアニメ初期の解像度が低い映像を「アナログっぽい」と感じてしまうことが時々あるけど、それはかなり間違っている。間違っているけど、今観ると、VHS時代の映像に近いんだよなあ。

2023年10月25日(水)
午前9時から病院Bで診察。ワイフも同行。1月末に切除したポリープはその一部のみが癌だったそうだ。再発はしていないので、もう一度検査をして問題なければ、この病院での大腸癌の治療は終了。その後は地元の病院で検査を受けてほしいとのこと。散歩と食事の後、ワイフが前から行きたがっていた喫茶店「丘」に。後で調べたら、この店は1964年創業。僕と同い年だった。確かに雰囲気のある店だし、面白い空気感だったけれど、できたころはそんなには変わった店ではなかったんだろうなあ。事務所に戻って、デザインのチェック、電話連絡等。15時過ぎに整形外科に行ってリハビリ(電気治療)。これでリハビリは3日連続。腰の痛みは減っているが、引き続き、床の上のものを拾ったりするのはしんどい。

TOKYO MXの録画で『マジンガーZ』52話「甲児ピンチ! さやかマジンガー出動!」を視聴。大好きな話で、今までに何度も観てるが、改めて「凄い」と思った。やはり特筆すべきはクライマックスの空中サーカスだが、それだけではなく、エピソード全体に見どころを詰めこんで、高テンションで走りきっている点が素晴らしい。
「さやかマジンガー」のストーリーのポイントは「マンガをヒントにした真剣白刃取り」と「さやかがマジンガーで出撃」のはずなんだけど、空中サーカスが凄すぎて、真剣白刃取りとさやかマジンガーが霞んでいる。いや、ファンとしてはそれでいいんだけど。プロットや初期シナリオは「真剣白刃取り」と「さやかがマジンガーで出撃」だけで、「空中サーカス」はシナリオで稿を重ねる段階で足されたのか、コンテ段階で足されたものではないのかなあ。他にも色々と足されているような気がするけど。

2023年10月26日(木)
「この人に話を聞きたい」で小西賢一さんの取材をした日。予習で『ホーホケキョ となりの山田くん』をBlu-rayで視聴した。昼からスタジオポノック取材。小西さんには作品単位で何度も話をうかがっているが、ご自身の歩みをまとめて話してもらったのは初めてだった。点と点が繋がって線になった感じもある。
『PLUTO』は2話から3話の途中まで観た。『PLUTO』には西村聡さんの絵コンテ回があるに違いないと予想していたけど、やっぱりあった。

2023年10月27日(金)
仕事の合間に、グランドシネマサンシャインで「君たちはどう生きるか Guide Book」を購入する。アニメ出版物マニアとして「君たちはどう生きるか Guide Book」で使われているスチールの解像度の高さに感心する。今までのジブリ作品のスチールもハイレベルだったのだけれど、今回も凄い。
都内某所に行って、井上俊之さんに「千年女優 アーカイブス」に載せる資料を見てもらう。どれが今 敏さんが描いたものかが、大体分かった。他の方にも確認してもらう予定だ。
TOKYO MXで始まった『超普通都市カシワ伝説R』。そもそもアニメかアニメでないかが微妙なんだけど、内容についても疑問があってネットで検索したら「千葉県柏市を舞台にしたご当地アニメの第3弾」であるらしい。第3弾で初めてTOKYO MXで放送されたということだろうか。第1弾、第2弾もTOKYO MXで放送していて、僕が見逃していた可能性もある。

2023年10月28日(土)
午前5時くらいに事務所の前の道で二人の女の子が酒盛りしていた。信号の下に座り込んで、缶のチューハイとつまみを並べていた。寒いのに元気だなあ。 事務所スタッフが作ってくれたスケジュールを見て、11月6日(月)から9日(木)で普段の一月分以上の原稿とページ構成をやらなくてはいけないことが判明。しかも、このスケジュールから漏れている作業もあるはず。
ワイフと新文芸坐で「メメント」(2000・米/113分/BD)を観る。この映画はこれが初見。記憶を維持できなくなった男が主人公であることぐらいしか知らなかったけど、それだけでなく、物語が過去に向かって進んでいくのね。最初はそのルールが分からなかったので、ただでも難しい話の難易度が更に上がった。そういった難しさを含めて、キレキレの映画。若きクリストファー・ノーランの自信満々ぶりが素晴らしい。久しぶりに映画充した。
『カードファイト!! ヴァンガード will+Dress Season3』5話「a glorious day」(再放送)のメグミのセリフ「涙も怒りも憧れも、全部まとめて受け取れアニキ!」がよかった。このセリフからの数カットはカット割りも表情もよかった。5話のメグミについては「こじらしているなあ」と思った記憶があるので本放送でも観ているはず。

第852回 『(劇)ジョー2』の魅力(2)

 先日買った、ぴあCOMPLETE DVD BOOKシリーズの『劇場版あしたのジョー2』のレビュー続き。

0:05:56~実は、マンモス西は岸部シロー版の方が個人的に好き!
0:06:25~ここも前回同様、
0:06:35~ここのジョー、TVシリーズ版・1話では「へへ、へへへ……!」と笑ってるだけ。劇場版では「へへ……、一年振りだな」とTV版の“笑いのブレ”に無理矢理台詞を入れており、80年代アニメの大らかさと出﨑監督の豪快さが伺えます。「顔全体動いてれば台詞なんて何でも入るよ~」と。“一年振り”の辻褄は前の劇場版『あしたのジョー』(旧作の劇場用再編集)の公開から数えて、かと。だとすると、正確には1年と4ヶ月ですね。もしかすると、本当は『(劇)ジョー2』も春に公開したかったのかも? と邪推してしまいます。
0:06:47~ここ、テレビシリーズでは1話と2話の境目。段平が右から左へ(#1)、次のキノコが左から右へ(#2)——と真逆の繋ぎは多分意図的な編集かと。ここだけに限らず、この『(劇)ジョー2』は何しろ編集が気持ち良いです。
0:07:07~「ジョー!」と子供が駆けて行っても、それを受けず、ジョーは力石の墓参り! この飛躍(?)が素晴らしい! こうすることでジョーの勝手気ままな性格が浮き立つでしょう。
0:07:40~ジョー、本当に良い顔!! こんな表情、当時(1980年)のアニメ業界、杉野(昭夫)さん以外で誰が描けたでしょう?
0:07:47~ジョーと葉子の立ち位置も、テンポ良く切っています。
0:08:14~前シーンの「ただ、もう一度リングへ——って気持ちだけが残った……」を受けての復帰第1戦への繋ぎ。アオリの葉子から試合会場俯瞰の葉子へ。この繋ぎも見事!
0:08:19~めり込む様なボディーブロー! 重さのあるアクション作画の冴え! 心地良いっ!
0:08:28~ここでまた別の試合。今、ここまで大胆な繋ぎ(編集)をする監督っています?
0:09:04~真ん中の髭の人は小林七郎(美術)さん? 画面上下カットで紀ちゃんの顔が切れてる。
0:09:11~ここも前シーンのリング上でマンモス西の肩車~自転車に乗ったジョーへの“回転”繋ぎ。間違いなく意図的。

 ここまでで、まだ10分足らず。驚異的な構成力! とにかく、『(劇)ジョー2』は

次、どこに飛ぶのか分からない理屈を超えた“映画を見る楽しみ”に満ちている!

から、何度でも観れるんだと思います。

0:10:59~パチンコに興じるジョー。80年俺自身が子供の頃(5~6歳?)、このガキ連中同様に親父のパチンコのお供をさせられてたのを思い出すシーンで、板垣の原体験的風景。
0:12:32~もう、タイガー尾崎戦のゴング! しかも1分半程(~0:13:57)で終わり!
0:12:38~そのたった1分半に「へっへ……俺がこの試合に勝てば、次はタイトルを懸けていいだとよ。悪いが軽く貰うぜ——この試合!」のモノローグを被せた上、力石のインサートを入れるだけで、どれだけ“濃い1分半”に仕上がってることか! これ以降もモノローグを効果的に使って、情報量の凝縮に成功しています。

 例えば、多めな情報量をモノローグと編集そして音楽、あらゆる手練手管を使って決められた尺に“面白く収める”ことができる演出家・脚本家さんには、残念ながらなかなかお目にかかれません。巧くできたかはともかく、去年作った『異世界でチート能力(スキル)を手にした俺は、現実世界をも無双する』#10の原作物量圧縮は、出﨑監督の影響がデカいと我ながら思っています。脚本&演出家から「(この物量)入んない、入んない!」と泣きが入ったので、引き上げて全面的に俺の方で脚本もコンテも描き直したものでした(無理させてしまい、ごめんなさい)。

0:14:12~次カットと“尾崎の上がっている腕”が繋がっていない! とか、全然気にしない出﨑監督大好きです!!

あっ、そろそろまた時間です~(汗)。

『タイガーマスク』を語る
第7回 第55話「煤煙の中の太陽」

 第55話「煤煙の中の太陽」(脚本/市川久、美術/浦田又治、作画監督/我妻宏、演出/勝間田具治)は四日市の公害をモチーフにしたエピソードである。1960年代から70年代の東映動画はTVアニメの各エピソードで、社会派の意欲作を何本も残しており、第55話はその一連の作品を代表するものだ。
 前話についた予告からして強烈だ。以下に予告ナレーションを引用する。

「汚される空、汚される海。何故汚してしまうのか。何故、何故……。タイガーよ、この少女の苦しみが分かるか。タイガーよ、一体、お前には何ができるのか。次回『煤煙の中の太陽』。お楽しみに」

 予告の映像は第55話から抜粋された公害に覆われた四日市のカット、苦しむ子供等で構成されている。本編に負けないくらいに強い印象を与えるフィルムだ。

 本編の内容に触れよう。第55話のファーストカットは歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」の四日市宿だ。次のカットから現在(放映当時の現在)の四日市の描写が始まる。陰鬱なBGMと共に薄暗い空、工場の煙突から輩出される煤煙、海に流される廃液が描かれる。そして、工場のシルエットの向こうに夕陽が見える映像に「煤煙の中の太陽」のサブタイトルが乗る。このサブタイトルカットはかなりのインパクトだ。最初に「東海道五十三次」の四日市宿を見せたのは、綺麗だった景観から現在の状況への変化を見せるためだろう。
 そんな四日市を遠征試合のためにジャイアント馬場、アントニオ猪木、坂口征二、タイガーマスクが訪れる。四日市の駅前で坂口が「うえ~、酷い空気だ。先輩、こんな酷いところじゃ、立派なファイトはできないですよ」と愚痴を言い、それを馬場と猪木が窘める。
 その後も四日市の公害の描写は続く。中でも凄まじいのが、公害のために息子を亡くし、その息子の遺体が入った棺桶を背負って街を練り歩いている老婆の存在である。これは演出の勝間田具治がロケハンの成果を取り入れたものだそうだ。四日市公害裁判が行われたのが1967年から1972年。第55話「煤煙の中の太陽」が放映されたのが1970年10月15日。現在進行形の問題を取り入れたエピソードなのだ。
 あすなろ院は四日市にある孤児院だ。そこで暮らす孤児の陽子は喘息で苦しんでいた。院長は空気のいいところに孤児院を建て直したいと考えているが、それを実現するのは難しいようだ。陽子と共にあすなろ院で暮らしている郎太は、彼女の喘息の原因が工場が出す煤煙だと考えて、コンビナートの煙突に登る。そして、コンビナートの煙を止めなければ自分は煙突から降りないと言うのだ。煙突に登ったのが孤児院のみなしごだと知ったタイガーは現地に急ぐ。
 一人の大人が郎太を宥めるために、今日はもう煙を出さないと言う。それを聞いた郎太は叫ぶ。「今日だけじゃ、嫌だよ。ずっと煙を出さないと約束してくれなきゃ。それにこの煙突だけじゃなく、あの火を吐く煙突も! あの白い煙突も! みんな、みんな、無くなってしまえばいいんだよ!」
 郎太を見つめる街の人々のカットが重ねられる。彼等からは生気が感じられない。タイガーは街の人々が声を上げないのは、公害に苦しむうちに抵抗することを諦めてしまったためだろうかと考え、そのことに怒りすら感じるが、すぐに街の人々が声なき叫びを抱えて生きているのだと思い直す。
 タイガーは自分が郎太を連れ戻すと言って煙突を登る。郎太はタイガーのファンであったが、その説得を聞こうとはしない。それだけ郎太の決意は固いのだ。そして、煙突の上から煤煙に包まれた街を見たタイガーは、改めて公害の悲惨さを感じ、悲惨であればあるほど、郎太の想い、声なき人々の想いが強くなるのだろうと悟る。そして、リングの上ではレスラーを投げ飛ばしている自分が、一人の少年の決意に対しては何もできないことに気づくのだった。
 タイガーは街から離れたところにある丘に気づく。その丘は煤煙に冒されていないようだ。彼は「あの丘に郎太君達の学園を……」と呟いてしまう。それを聞いた郎太は、タイガーが丘に孤児院を建て直してくれると思い込んでしまう。郎太は地上に降りてくれたが、タイガーは実現できないことを約束してしまった。彼のファイトマネーを以てしても、孤児院を建て直すことはできないのだ。
 その後、タイガーの試合を挟んで、郎太達の描写があり、嘘をついてしまった直人の後悔が描かれる(ここで彼は直人の姿だ)。直人は悪夢を見る。夢の中では街の人々が、棺桶を背負った老婆が、そして、郎太が、直人を非難する。「たかがプロレスラーにそんな施設など、建てられるわけがない」「タイガーさん、約束は嘘なんですか」「タイガーの馬鹿野郎、嘘つき野郎、お前にはこの陽子ちゃんの悲しみが分からないのか、お前なんか死んじまえ!」。その悪夢が第55話のクライマックスだ。

 翌日になり、事態は急転直下。郎太とタイガーの事件が新聞に報じられ、それをきっかけにあすなろ院の移転が市議会で満場一致で可決される。事件を知った日本プロレス協会も四日市での興行の収益の一部を寄付してくれることになった。あすなろ院は丘の上に移転できることになり、タイガーは郎太の一途な願いが神に通じたのだと思うのだった。あすなろ園は移転できることになったが、四日市ではまだ多くの人達が苦しんでいる。この公害の街に青い空と澄んだ水を取り戻すために、自分達は立ち上がらなくてはならない。そのタイガーの想いと共に第55話「煤煙の中の太陽」は幕を下ろす。

 第50話「此の子等へも愛を」と第54話「新しい仲間」では、社会的な問題をモチーフにしつつも直人の行い、あるいはルリ子の行いに重きが置かれていた。それに対して第55話「煤煙の中の太陽」は直人のドラマよりも、むしろ、公害の問題を描くことに力を注いでいるように思える。第50話と第54話が日常的な描写を積み重ねて、テーマに迫っているのに対して、第55話はプロットがシンプル。ダイナミックな演出で視聴者に伝えるべきことをグイグイと伝えていく。画作りや選曲も凝っており、ドラマチックな仕上がりだ。あすなろ院についての問題が解決した後で、さらに四日市の公害そのものに対して取り組まなくてはいけないことを提示するところに関しても、それを訴える力の強さに関しても、まさしく社会派。社会派の力作だ。映像作品としての歯切れのよさが心地よい。
 勝間田具治は東映動画を代表する演出家であり、『タイガーマスク』でも凝ったエピソードを、あるいは熱いエピソードを数多く残している。第55話もその1本だ。DVD BOX第2巻の解説書の斉藤侑プロデューサーのインタビューによれば、この話で脚本を担当した市川久は、斉藤プロデューサーがやっていたシナリオ講座の生徒だったのだそうだ。東映動画ではプロデューサーや演出家がペンネームで脚本を書くことがあるが、この話はそうではなかった。そして、同じインタビューで、斉藤プロデューサーは第55話に関して、勝間田が物語に手を加えて作り上げたのだろうと語っている。

 伊達直人の物語としては、第55話は彼が自分一人の力では解決できない問題に直面したことが重要だ。郎太とタイガーの事件が報じられたことによって、直人は助けられるかたちとなった。第64話「幸せの鐘が鳴るまで」で、そのことの意味が分かることになる。

●『タイガーマスク』を語る 第8回 第64話「幸せの鐘が鳴るまで」 に続く

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第280回 攻めたプログラム 〜コードギアス 反逆のルルーシュ〜

 腹巻猫です。5月4日に仙台銀行ホール イズミティ21大ホールで開催された仙台フィルハーモニー管弦楽団のコンサート「シンフォニック コードギアス リベリオン」を聴きました。アニメ『コードギアス 反逆のルルーシュ』『コードギアス 反逆のルルーシュR2』の音楽をオーケストラ組曲に編曲して演奏するコンサートです。大変な力演で、仙台まで足を運んだ価値がありました。同時に『コードギアス 反逆のルルーシュ』の音楽の魅力を再認識するきっかけにもなりました。
 今回は、『コードギアス 反逆のルルーシュ』の音楽を紹介するとともに、コンサートの感想もお話ししたいと思います。


 『コードギアス 反逆のルルーシュ』は2006年10月から2007年7月にかけて放映されたTVアニメ(2007年3月にいったん終了し、7月に未放映だった2話を放映)。続編『コードギアス 反逆のルルーシュR2』が2008年4月から2008年9月にかけて放映された。その後も、同じ世界観を背景にしたOVA『コードギアス 亡国のアキト』、TVシリーズを再編集し、新規カットを追加した劇場版『コードギアス 反逆のルルーシュ』3部作、その続編となる劇場版『コードギアス 復活のルルーシュ』などが制作され、現在も新作『コードギアス 奪還のロゼ』が公開中という、人気シリーズである。
 日本が神聖ブリタニア帝国に占領された近未来。日本人はイレブンと呼ばれ、ブリタニアの支配に屈していたが、一部の日本人はブリタニアを相手にレジスタンス活動を展開していた。ブリタニアの貴族出身でありながら、その地位を追われ、日本(エリア11)で育った少年ルルーシュは、ある日、謎の少女C.C.(シーツ—)と出会ったことで、不思議な力「ギアス」を発現する。それは、目を合わせた相手に、一度だけ、どんな命令でも従わせることができる力だった。ルルーシュはこの力を使って、自分と家族を虐げた者たちに復讐しようと、ブリタニアへの反逆を開始する。レジスタンス組織「黒の騎士団」を指揮して活動するルルーシュの前に立ちふさがったのは、ルルーシュの旧友であり、今はブリタニア軍に所属するイレブンの少年・スザクだった。
 復讐を動機に、手段を選ばず、冷静沈着にことを進めていくルルーシュのキャラクターが新鮮。ピカレスクロマンであり、SFメカアクションであり、青春ものの一面も持つ、多様な魅力を持った作品である。

 音楽は中川幸太郎と黒石ひとみが共同で担当。中川幸太郎は本作の監督・谷口悟朗とTVアニメ『スクライド』『ΠΛΑΝΗΤΕΣ』『ガン×ソード』などですでに仕事をした経験があった。黒石ひとみは、『ΠΛΑΝΗΤΕΣ』『ガン×ソード』に楽曲を提供をしており、TVアニメ『LAST EXILE』の劇伴を担当した実績がある。『コードギアス 反逆のルルーシュ』における2人の音楽の役割分担について、谷口監督は「男性主観の部分を中川さん、女性主観の部分を黒石さんメインでお願いしました」と語っている。
 中川幸太郎は東映スーパー戦隊シリーズや仮面ライダーシリーズの音楽でも知られる作曲家。ブラスサウンドを駆使したダイナミックな音楽が持ち味だ。いっぽうで東京藝術大学音楽学部で作曲を学んだ経歴から、精巧なスコアによる現代音楽的な曲も得意としている。『ΠΛΑΝΗΤΕΣ』や『GOSICK』といった作品にその方面の個性が生かされていると思う。『コードギアス 反逆のルルーシュ』は主人公がダークヒーローで、物語も暗くシリアスな展開が多い。そこで音楽もダイナミックなサウンドと現代音楽的なサウンドが融合した歯ごたえのある曲調になっているのが特徴だ。中川幸太郎サウンドのエンターテインメント志向の側面と現代音楽志向の側面が合体したおいしい作品なのである。
 黒石ひとみはシンガーソングライターとしても活動する音楽家。『コードギアス 反逆のルルーシュ』では自ら歌う挿入歌のほかに、女声コーラスを使った柔かいトーンの曲や神秘的な曲を劇伴として提供している。黒石ひとみの曲は、劇中ではC.C.やユーフェミア、シャーリーといった、戦闘に参加しない女性キャラクターのシーンによく使われていた。
 本作のサウンドトラック・アルバムは「コードギアス 反逆のルルーシュ O.S.T.」「同2」のタイトルで、2006年12月20日と2007年3月24日にビクターエンタテインメントから発売された。
 収録曲は下記ページを参照(いずれも再発盤)。
https://www.jvcmusic.co.jp/flyingdog/-/Discography/A012120/VTCL-60485.html
https://www.jvcmusic.co.jp/flyingdog/-/Discography/A012120/VTCL-60486.html

 コンサートでも演奏された印象深い曲を紹介していきたい。
 1枚目の「O.S.T.」では、なんといっても1曲目「0」。ルルーシュが黒の騎士団のリーダーとして活動するときの姿「ゼロ」のテーマであり、本作のメインテーマでもある。勢いのあるイントロからピアノと打楽器によるスリリングなリズムに転じ、ストリングスとギターによるスパニッシュなメロディが現れる。トランペットがメロディを引き継いだあとギターのアドリブが入り、キレのあるフレーズのコーダへ。本作のダークなイメージを象徴する楽曲だ。スピード感と緊張感たっぷりのパワフルな演奏に魅惑される。このメロディはアレンジを変えて劇中のさまざまな場面に使われている。
 トラック3「Prologue」はタイトルどおり、第1話のアバンタイトルに流れたプロローグの曲。もの憂いストリングスのメロディを中心に奏でられる。ブリタニアに支配されたイレブン(日本人)の現況を表現する重苦しい曲になっている。
 トラック4「Stream of Consciousness」は第1話の本編冒頭に流れた曲。ミステリアスな女声コーラスがこれから始まる物語が神秘的な要素を秘めていることを伝える。
 トラック6「The First Signature」は第1話のルルーシュとC.C.との出会いの場面に流れた。ここでも女声コーラスが使われて、C.C.の不思議なキャラクターを印象づける。「Stream of Consciousness」と「The First Signature」の2曲は映像の展開に合わせて作られたような雰囲気がある。どちらも黒石ひとみ作曲である。
 黒石ひとみの曲では、トラック16「Stray Cat」も耳に残る。弦と木管楽器によるユーモラスな曲で、本編ではルルーシュの学校生活など日常シーンによく使われている。使用頻度の高い曲だったが、仙台フィルのコンサートでは演奏されなかった。
 中川幸太郎らしさが出たのが、バトルシーンに流れる曲だ。トラック8「Outside Road」は「タンタン タタタン」というリズムにブラスや男声コーラスが重なるサスペンス曲。同じリズムが続くボレロ的な展開で緊迫感を盛り上げる。ゼロたちがブリタニア軍に向かっていく場面や逆にブリタニア軍が進撃する場面など、敵味方に限定せず使われている。『コードギアス 反逆のルルーシュ』では、この曲のように、同じ曲がルルーシュ側にもブリタニア側にも使われる演出がたびたび見られる。本作が単純な善悪対立の物語でないことの表れだろう。
 トラック9「In Justice」はスザクが愛機ランスロットで出撃する場面によく流れていたサスペンス曲。緊迫したイントロに続いてミリタリー的なリズムと悲壮感のあるメロディが展開する。
 次の「Nightmare」も戦闘シーンに多用された曲で、スパニッシュなメロディとギターやカスタネットによるリズムが特徴的。人型機動兵器ナイトメアフレームの活躍を熱く彩った。
 バトル曲では、ブリタニア軍侵攻の場面によく流れたトラック18「Shin Troop」、ランスロットのテーマ的に使われているトラック20「Elegant Force」も印象深い。
 ほかには、ルルーシュの苦悩や思考を描写するメインテーマアレンジの曲「Occupied Thinking」(トラック17)、ルルーシュがギアスを発動する場面に流れる、やはりメインテーマの変奏である「Devil Created」(トラック21)が重要な曲として挙げられる。
 サントラ2枚目「O.S.T.2」も1曲目の「Previous Notice」が聴きどころ。ショッキングなイントロから激しいリズムをバックにしたスパニッシュなギターの演奏に続く曲で、毎回の次回予告に使われて強烈な印象を残した。もともとは次回予告用に別の曲が用意されていたが、谷口監督の考えでこの曲が使われたとのこと。劇中でもルルーシュ(ゼロ)やスザクの活躍場面にしばしば使用されている。
 ブリタニア軍の空中戦艦アヴァロンのテーマとして使われた「Avalon」(トラック20)は弦合奏と低音のブラスを中心にした重厚な曲。アヴァロンの登場シーンだけでなく、ドラマティックな曲想を生かして、事態が大きく動くシーンなどに使われた。
 ほかには、第22話、23話の皇女ユーフェミアの悲劇を彩った「Bad Illusion」(トラック15)、「State of Emergency」(トラック18)、「Final Catastrophe」(トラック21)がファンには忘れられない曲だろう。悲劇を連想させるワーグナー的な「Bad Illusion」、スザクの怒りの突撃に重なる「State of Emergency」、ルルーシュの憤りが爆発する「Final Catastrophe」と、曲を聴いているだけで、トラウマになるような暗い展開が思い出される。
 「O.S.T.2」の劇伴パートのラストを飾る「Innocent Days」(トラック22)は黒石ひとみの詞・曲とボーカルによる讃美歌風の美しい曲である。劇中ではユーフェミアの束の間の幸せを象徴する曲として使われていて、全編を観てから聴くとかえって涙を誘う。アルバムの構成としては、ありえたかもしれないハッピーエンドを思わせる、秀逸な終わり方だと思う。『コードギアス 反逆のルルーシュ』の最終回は、明快な決着も救いもないまま終わってしまう(そして『R2』に続く)のだから。

 さて、冒頭に紹介した仙台フィルハーモニー管弦楽団のコンサート「シンフォニック コードギアス リベリオン」の話。
 実は2019年にも『コードギアス 反逆のルルーシュ』のオーケストラコンサートが開催されたことがある。編曲を中川幸太郎とピアニート公爵(森下唯)、タカノユウヤの3人が手がけ、オーケストラにドラム、ギター、ベースのリズムセクションを加えた約70人編成で演奏された。スクリーンにアニメの映像を投影し、ルルーシュ(福山潤)によるモノローグも流れる、コードギアスファンのためのイベントである。
 今回の「シンフォニック コードギアス リベリオン」は、それとはだいぶ趣が違う。まず。アニメの映像や音声を使った演出は一切なし。完全に演奏だけを楽しむコンサートだ。演奏されたスコアは今回のための新アレンジ。ポップスのリズムセクションを入れない、クラシカルなオーケストラ曲として編曲されている。
 オーケストラ編成は、2019年のコンサートのほうがサウンドトラックに近く、サントラの演奏を担当したミュージシャンも何人か参加していた。「シンフォニック コードギアス リベリオン」の演奏は仙台に拠点を置く仙台フィルハーモニー管弦楽団が主体で、客演奏者が加わる編成。総勢100名近い大編成である。
 2019年のコンサートはサウンドトラックの再現をねらったスタイルだったのに対し、「シンフォニック コードギアス リベリオン」は純然たるクラシックコンサートのスタイルだった。会場を訪れたコードギアスファンの中にはとまどった人もいたかもしれない。
 しかし、結論から言えば、すごくよかった。これはありだと思った。
 映画音楽のジャンルでは昔から、本編用に書かれたサウンドトラックのスコアをオーケストラコンサート用の管弦楽曲に編曲する試みが行われている。日本のアニメでいえば、『ジャングル大帝』の音楽が「子どものための交響詩 ジャングル大帝」に編曲され、さらに「交響詩 ジャングル大帝」に改訂されて現在もたびたび演奏されている例がある。『コードギアス 反逆のルルーシュ』の音楽は、もともと現代音楽的な要素の強い、歯ごたえのある音楽だった。だから管弦楽曲に編曲しても違和感がなく、聴きごたえがある。
 仙台フィルハーモニー管弦楽団の公式サイトにコンサートのセットリストが公開されている。
https://www.sendaiphil.jp/e1/
 1曲目はサウンドトラック盤でも1曲目に置かれている「0」(「序曲」とされている)。すさまじい熱演で心をつかまれた。ほぼ原曲どおりのテンポでリズムを刻むパーカッション群の上でストリングスと管楽器が演奏する旋律がうねる。思わず息をつめて聴いてしまい、演奏が終わるとため息がこぼれた。
 続いて、第1幕の第1場「Prologue」〜「Stream of Consciousness」〜「The First Signature」〜「In Justice」という流れ。コーラスは女声2人(ソプラノ、メゾソプラノ)と男声1人(バス)が担当していて、コーラス入りの曲も再現されている。
 うっかり再現と書いてしまったが、これは原曲の「再現」ではない。管弦楽曲に生まれ変わったコンサート用の音楽作品である。全体に原曲より重厚になり、マイクとスピーカーを通さないオーケストラの生音で勝負する編曲になっている(編曲はクラシック系の佐野秀典が担当)。随所にソロを聴かせるパートが設けられているのは、演奏者へのリスペクトだろう。演奏会を意識したアレンジなのだ。
 アニメの映像を使う演出がなかったことも好印象だった。演奏に集中することができるし、演奏者の手元や表情や息を合わせるようすなどを見ることができる。これが生でコンサートを鑑賞する楽しみのひとつなのである。
 「シンフォニック コードギアス リベリオン」は仙台フィルハーモニー管弦楽団の「エンターテインメント定期 第1回」と位置づけられている。「エンターテインメント定期」とは、「日本のアニメーションを中心としたジャンルの『音楽』にスポットを当て、オーケストラによる生演奏で仙台から世界へと発信」するプロジェクトなのだそうだ。そして、エンターテインメントパートナーとして、バンダイナムコフィルムワークス、バンダイナムコミュージックライブ、バンダイナムコピクチャーズの3社の名が挙げられている。
 近年、クラシックのオーケストラが演奏会でアニメ音楽をとりあげるケースがちらほら見られるようになった。筆者も「組曲 銀河鉄道999」や「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」の演奏会を聴いたことがある。しかし、プロオケによるアニメ音楽の定期演奏会の試みはたぶん日本初だろう。
 その第1回が『コードギアス 反逆のルルーシュ』というのは、なかなか攻めたプログラムだと思う。仙台フィルの「本気」を感じさせる熱気あふれるコンサートだった。オーケストラサウンドの迫力を存分に味わい、原曲の魅力を再認識するきっかけにもなった。ついでに仙台名物の牛タンを食べることもできたので言うことない。
 8月10日には、「エンターテインメント定期 第2回」として『機動戦士Ζガンダム』『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』のコンサートが決まっている。この試み、これからどう展開していくか、楽しみに応援していきたいと思う。

コードギアス 反逆のルルーシュ O.S.T.
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コードギアス 反逆のルルーシュ O.S.T.2
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『タイガーマスク』を語る
第6回 第54話「新しい仲間」

 前回、前々回で取り上げた第50話「此の子等へも愛を」と同じく、第54話「新しい仲間」も柴田夏余が脚本を書いている。第54話も柴田の力が大きいのだろう。第50話はあまりにも難しいところを狙っていたが、第54話では脚本家としてのよさが、分かりやすいかたちで発揮されている。
 第54話「新しい仲間」(脚本/柴田夏余、美術/浦田又治、作画監督/村田四郎、演出/設楽博)のモチーフは「過保護」である。過保護は今となっては普通に使われている言葉だが、多用されるようになったのは1970年前後であるらしい。そして、このエピソードが放映されたのが1970年10月8日。第54話は放映当時においては最新の話題を取り入れたエピソードであるわけだ。

 ちびっこハウスに新しい仲間がやってきた。母子家庭で育った少女であり、母親が亡くなったのでハウスで暮らすことになったのだ。健太によって、小柄な彼女にミクロというニックネームがつけられる(現在の感覚だと、つけられた側が可哀想に思えるニックネームである)。ミクロはハウスの子供達と馴染むことができず、学校にも行こうとしない。
 この話で物語を進めるのは直人ではなく、ルリ子である。ルリ子は兄である若月先生の許可を得て、ミクロについて調べ始める。まずはミクロが仲間と馴染むことができない様子が、幼い頃の直人に似ていると感じたルリ子は電話で彼に相談する。ただ、ルリ子は直人の連絡先を知らないようで、日本プロレス協会を通じてタイガーが泊まっているホテルを教えてもらい、以前、健太が家出した際(第6話、第7話)に言葉を交わしたタイガーに相談するという体で電話を入れる。ルリ子はタイガーの正体が直人であることに気づいているのだ。直人にアドバイスをしてもらったルリ子はミクロが母親と暮らしていたアパートを訪れて、管理人と住人に、かつての母子の生活についての話を聞く、次に以前に通っていた小学校に行って、当時の担任の先生に学校でのミクロの様子を話してもらう。このあたりの展開はまるで刑事ドラマのようだ。ルリ子はミクロが人付き合いが苦手なのは母親譲りであり、学校を休みがちなのは過保護に育てられたからであることを突き止め、さらにミクロの様子から、ハウスの子供達の仲間に入れない理由に気づき、そのことで涙を流す。
 ミクロが立ち直るきっかけになったのはタイガーのファイトだった。テレビで中継されていたタイガーの試合を健太達と一緒に観戦し、彼の勇姿に感動したのだ。ルリ子がタイガーと親しいことを知っているミクロは、彼女にタイガーについて話をしてほしいとせがむ。ルリ子は彼女の想像も交えて、タイガーのことをミクロに語る。タイガーはミクロと同じ孤児であり、以前は人に嫌われる反則レスラーだった。だが、自分の意志で自分を変えたのだと。それをきっかけにしてミクロは考えを改め、学校へ通うようになった。
 ミクロが学校へ行くことになったことを知って直人は喜ぶ。彼はそれまで、自分は金を使うことでしか子供達に何かをしてやることができないと思っていたが、今回のことで、それ以外の何かができるのかもしれない、そう考えることができるようなった。直人のドラマとしては、この気づきこそが重要であり、それが第64話「幸せの鐘が鳴るまで」で結実することになる。

 このエピソードの序盤で、ハウスに来たばかりのミクロに対して、ルリ子が自分の荷物を押し入れに入れるように言うが、ミクロはそう言われたことが意外だった。「お姉さん(ルリ子)が荷物を押し入れに入れてくれないのは忙しいから?」という意味の質問をする。今までそういったことは母親がやってくれたのだ。ここでのミクロを世間知らずで手がかかる子供として描くこともできたはずだが、そうはしていない。あどけない女の子として描写しているのだ。このあたりの匙加減が巧い。
 少し後の場面でルリ子はミクロの荷物を確認する。彼女の服はどれも綺麗に洗濯され、アイロンがかけられていた。ルリ子はそのことから、亡くなった母親が愛情を込めてミクロを育てていたことを感じ取り、さぞやミクロのことが心残りだっただろうと、ミクロの亡母に想いを馳せる。
 ルリ子がアパートや学校に赴いて、かつての母親とミクロについて話してもらう部分も、少ないセリフで二人の生活をくっきりと描き出している。そして、ここでも母親がミクロを大事にし過ぎていたことを提示しつつ、それだけ娘のことを愛していたという描写にしている。
 第54話で感心するのは問題となっている過保護について、必ずしも否定的に扱っていないことだ。過保護をネガティブに描写し、親が悪いのだとするエピソードにしたほうが、センセーショナルであり、話題になっただろう。だが、この話の脚本はそうはしなかった。過保護であったことは問題であるが、そうなったのは亡母の愛ゆえであり、可愛がられて育ったからミクロは無垢で愛らしい少女に育った。そういったバランスで物語を紡いでいる。そのバランスが好ましい。

 第54話「新しい仲間」について、別の角度からもう少し語りたい。このエピソードは過保護に育てられた少女が立ち直るまでの物語だが、それと同時にルリ子という一人の女性を、ひとつの切り口で描ききったものである。むしろ、このエピソードの価値はそこにある。ルリ子はミクロの問題について、どうしてそうなったのかを調べ、現在のミクロを否定せずに受け止めて、その上でミクロが前に進んでいくことを応援する。その子供に対する誠実さは、フィクションの中の登場人物ではあるが、尊敬に値すると思えるほどだ。そして、この話のエピローグ部分で、ルリ子の価値感や人生観が浮き彫りになる。
 ミクロは立ち直り、学校に通うようになった。ルリ子はそのことを巡業中のタイガーに電報で伝える。学校に行くミクロを見送った際のルリ子のモノローグの一部を引用しよう(なお、ルリ子はミクロのことを、そのニックネームで呼ばず、本名に近い「ミッちゃん」で呼んでいる)。

「………ミッちゃんは軌道に乗って歩き始めた。まだまだ失敗はするでしょうけど、前向きに歩き出した子には、失敗さえも前進する力になるわ」

 歩き出した途端に「まだまだ失敗するだろう」と決めつけているのも凄いが、それだけ、ルリ子は人生を厳しいものだと考えているということだ。注目したいのは「前向きに歩き出した子には、失敗さえも前進する力になる」の部分である。とんでもないセリフだ。彼女は前向きに生きていくことの価値を、前向きに生きる者の力を信じているのだ。
 さらにモノローグは続く。ミクロはハウスに来る前からタオルケットを大事にしていた。どうやら彼女が赤ん坊の頃から使っているもののようで、母親の存命中にも、ミクロはそのタオルケットを洗うことを許さなかった。彼女はそのタオルケットに包まれると安心できるらしい。いわゆる「ライナスの毛布」だ。ミクロを見送った後、ルリ子はタオルケットを洗ってしまう。以下がそれについてのモノローグだ。

「ミッちゃんが洗うなって言うから、亡くなったお母さんは洗ったことのないこのタオルケット。でも、もう洗っても泣かないって、あたし、信じるわ。過保護の垢を洗い落とすのよ」

 「過保護の垢を洗い落とす」というセリフが抜群にいい。タオルケットを洗うということは、ミクロの甘えを断ち切ることを意味しているということだ。この一連のモノローグは本当に素晴らしい。
 ルリ子はミクロに対して、学校に行くことを強要をせず、無理をさせず、自分の力で立ち上がるのを見守ってきた。しかし、ミクロが前に進み出したところで、タオルケットを洗うことで背中を一押ししたのだ。今の目で観るとその一押しは乱暴に思える。しかし、ルリ子にとっても、その一押しをするには勇気が必要だったはずだ。それがモノローグの「あたし、信じるわ」の部分に込められている。彼女が真摯にミクロに向き合っているからこそ、その一押しができたのだと、視聴者の一人として受け止めたい。繊細でありつつも大胆。練りに錬った脚本だ。

●『タイガーマスク』を語る 第7回 第55話「煤煙の中の太陽」 に続く

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第851回 『(劇)ジョー2』の魅力(1)

TV版『あしたのジョー2』のオープニング「傷だらけの栄光」と「Midnight Blues」、どちらがお好みですか?

と訊かれたとしたら、ズルいようですが、自分は「どちらもそれぞれ好き!」と答えます。
 どちらも荒木一郎作詞・作曲であるにもかかわらず方向性が全然違う! シリーズ前半OP「傷だらけの栄光」はやたらスポーティーで、後半OP「Midnight Blues」はやたらとムーディー。映像面でも同様で、前半OPは本編キャラが一切登場しないボクサーのシルエットのみで展開される非常にクールでスタイリッシュな逸品。後半OPはコートに帽子のレギュラー姿のジョーが超望遠の夕陽をバックに延々と歩き続けるメチャクチャ大人なアニメ。まだ未見の方は、是非観て下さい。板垣が「どちらも~」と言う意味が分かっていただけるかと。
 さて、先日買った、

ぴあCOMPLETE DVD BOOKシリーズの『劇場版あしたのジョー2』!

を観ました。観ましたと言っても、俺はこの『ジョー2』——手塚治虫先生が『バンビ』を観た回数の10倍回は観ています! それくらい、板垣にとってのマスターピースで、例えば、もう『ジョー2』以外のアニメがなくなったとしても正直、俺は困りません。それほど、板垣の人生に影響を与えた1981年の出﨑統監督作品!
 ご存じない方に軽く説明すると、『あしたのジョー2』はTVシリーズがバリバリ放送中なところに、ラスト“ホセ・メンドーサ戦”を先行して作画し、

前半TVシリーズの総集編+後半(公開時点では)新作+別班で音響(アフレコ・ダビング・選曲が新録)!

で構成されているのが“劇場版”になります。TVシリーズが1980年10月13日~1981年8月31日放送で、劇場版公開が1981年7月4日。つまり、2ヶ月早く“真っ白に燃え尽きるジョー”が観れたわけ。当時のリアタイ勢は7月4日公開初日に『(劇)ジョー2』を観て感動した2日後、TVでは“ハリマオ戦”の放送を観たことになります。それから最終回までの2ヶ月間は劇場版用先行作画分の間を逆に新作で埋めてレギュラー放送を全うした——それが、アニメ『あしたのジョー2』です。
 が、そんなややこしい、云わば前代未聞の“最終回先行上映スタイル”に翻弄されつつ必死に作り上げられた出﨑・杉野アニメ大作も、結局時代が過ぎて現在改めてTV・劇場の両方を見返すと、

全47話のTVシリーズと、普通にその総集編映画がある!

というだけな気が……。
 ただ!! 前回その断片だけ紹介したように“ただの総集編”にしないのが出﨑統監督の手腕!
「『ジョー2』と言ったら、TVシリーズの方でしょ!」と仰る人の方が多いかと思うのですが、こちらも、俺的には「どちらも良い!」と。
 先ずド頭0:00:06で“三協映画”のクレジットで「あ『地上最強のカラテ』!!」と俺。
0:00:10~“制作協力 東京ムービー新社”が“トムス~”になっていなくて、ホッ……。
0:00:16~対力石戦~“ダブル・クロス外れてアッパーカット炸裂!”の名シーン。『(旧)ジョー』で2回描かれた(#50吉川惣司演出回と#51崎枕(出﨑統)演出回)名場面を出﨑監督自身で3度目のアニメ化。何度観ても興奮します!
0:00:43~あ、セルバレ(画面左下)!
0:02:09~力石徹追悼テンカウントゴング。テレビシリーズではちゃんと10回フルで聴かせてカット割りのタイミングもそれに合わせてあるのに対し、劇場版の新録ではカット跨いで5回目でF.O。途中で切ることによって、“力石の死を背負ったジョーが返って来る”という直後のオープニングと相まって深みが増します。“画(カット)とタイミングをズラす”ことで、こんなに印象が変わる! 音響演出というモノの奥深さを感じるシーンです。
0:02:50~劇場版OP。前述のテレビ後半OPをベースに、テレビ#01ラスト近辺の夜の街を軽やかに舞うジョーをコラージュ・インサート。主題歌もジョー山中(「~明日への叫び」)で男臭く、やはりこれもTVとは全く違うイメージでとても良い!! 有りモノカットの編集OPとは思えない構成力で、元々劇場版でこう使うのを最初から(テレビ用OP2の)想定してコンテ切ったのかと思うほど。
0:05:36~“脚本 監督・出崎統”のクレジット。どれだけ他人の脚本を使わず“ぶっつけコンテ”で監督して来たか~を表している表記で好き! 俺の記憶ではこれ以前の出﨑監督の“脚本”クレジットは『元祖天才バカボン』#67の“脚本さきまくら”のみ(ですよね?)。

 ——て、とこでそろそろまた時間です(汗)。

『タイガーマスク』を語る
第5回 「此の子等へも愛を」についてもう少し

 第50話「此の子等へも愛を」についてもう少しだけ書いておく。

 細部について触れることにしよう。直人が夫婦の家に辿り着くまでが興味深い。直人が原爆ドームの模型について知ったのは、同じホテルに泊まってるアントニオ猪木が土産物屋で購入して、他のレスラーに見せたことがきっかけだった。直人は猪木が模型を買った産物屋に行く。猪木が買った模型が最後のひとつであり、土産物屋には模型の在庫が無かったので、直人は土産物屋の主人に模型の製造元を教えてほしいと言うのだが、模型は問屋を通してくるので製造元は知らないと主人は答える。問屋の場所を教えてもらった直人はそこに赴き、模型の製造元を訊くが、問屋の男は教えることを渋る。なんとか教えてもらった直人は、ようやく夫婦が暮らす長屋に辿り着く。すんなりと夫婦のところに行かず、土産物屋から問屋、問屋から長屋という段取りを踏んでいるわけだ。『タイガーマスク』の他のエピソードなら、土産物屋の場面で事情をよく知っている人物が偶々現れて、夫婦が住んでいる場所を教えてくれるといったかたちで、物語をショートカットするはずだ。
 また、エピソード後半で、三郎達が宿題をする場所がないことが問題になった時に、直人は地元の民生委員の家を訪ねる。そこで詳しい事情を聞いて一肌脱ぐことになるのだが、民生委員の家を訪ねるという展開が『タイガーマスク』の世界では異様に感じるくらいにリアルだ。いや、『タイガーマスク』以外の他のアニメでも、主人公が民生委員を訪ねるなんて展開は滅多にないはずだ。
 夫婦の許に辿り着くまでの段取りをしっかりと踏んでいるのも、民生委員を登場させたのも、物語をより現実味のあるものにするためだろう。作品に現実感を与えて、視聴者に劇中で起きていることを、自分の身近で起きていることのように感じてもらいたかったのだろう。

 以下はまた別の話だ。プロデュースサイドや演出サイドでは第50話「此の子等へも愛を」をもっと分かりやすく、被爆者家族の悲劇を描いた話にしたかったのではないか。
 『タイガーマスク』DVD BOX第2巻の解説書(僕が構成・編集を担当している)に収録された斉藤侑プロデューサーのインタビューによれば『タイガーマスク』では各話のプロット(斉藤プロデューサーはそれを「設定書」と呼んでいた)を渡して、脚本家はそれを元にして脚本を書いていたのだそうだ。各話のプロットは短いもので、1話につき200文字詰め原稿用紙一枚程度のボリュームだった。
 斉藤プロデューサーが、直人が原爆ドームの模型を作る被爆者家族と出会うプロットを書いた。その段階では被爆者家族の悲劇を描いたエピソードがイメージされていたのではないか。この回の脚本は柴田夏余。柴田夏余は『タイガーマスク』で濃密な仕事を多数残している。柴田が脚本を執筆するにあたってプロットを捻り、さらに捻り、前回紹介したような話に仕上げたのではないか。
 第50話本編を観た後に、第49話についた予告を観てもらいたい。本編の映像を使ったものでありながら、予告では第50話が子供達の悲劇的な境遇を描いたものになっている。本編とはかけ離れたものとなっているのだ。プロデュースサイドが望んだのは、予告で示されたような内容だったのではないか。
 僕は第50話を「他人の不幸を娯楽として消費すること」を皮肉を込めて描いたものだと受け止めているが、メタ的には作り手が不幸な境遇にいる人達をモチーフにして悲劇的なエピソードを作ろうとすることや、視聴者がフィクションを通じて他人の不幸を消費しようとする行為に対する皮肉にもなっているのではないか。

●『タイガーマスク』を語る 第6回 第54話「新しい仲間」 に続く

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『タイガーマスク』を語る
第4回 第50話「此の子等へも愛を」

 『タイガーマスク』のドラマについて考える上で、第50話「此の子等へも愛を」、第54話「新しい仲間」、第55話「煤煙の中の太陽」、第64話「幸せの鐘が鳴るまで」が特に重要だ。前回も触れたが、第50話は被爆者家族を、第54話は過保護を、第55話は四日市の公害を、第64話は交通遺児をモチーフにしている。ではあるが、これらのエピソードに注目したいのは社会的な問題を扱った話だから、だけではない。
 伊達直人はここまで、不幸な子供達のために自分のファイトマネーを使ってきた。第64話の直人自身の言葉を借りれば、彼は不幸な境遇にいる子供達を幸せにするためにリングの上で戦ってきたのである。だが、その行為にどれほどの価値があるのだろうか。直人がやってきたことは本当に子供達のためになることだったのだろうか。この4本のエピソードは直人の行いに対する疑問を提示する。「伊達直人がいかに無力であるか」を描き、最終的に彼がやるべきことは何なのかに辿り着く。『タイガーマスク』のドラマの中核をなすエピソード群なのである。  

 ひとつひとつ観ていこう。第50話「此の子等へも愛を」(脚本/柴田夏余、美術/遠藤重義、作画監督/我妻宏、演出/白根徳重)はタイガーがワールドリーグ戦に参戦している時期のエピソードである。舞台となるのは広島だ。ファーストシーンは広島平和記念資料館である。キノコ雲、焼けただれた身体、焼け野原になった街、平和の願いを捧げる母と娘。タイガーは広島平和記念資料館に展示されたそれらの写真を目の当たりにして息を吞む。精巧な原爆ドームの模型が土産物屋で売られていることを知った直人(ここからは伊達直人の姿だ)は模型を手に入れてそれでちびっこハウスの子供達に戦争の悲惨さを伝えたいと考える。だが、土産物屋に模型は残っておらず、それでも模型を手に入れようとする直人は製造元を調べてそこに赴く。模型を作っていたのは玩具会社でもなければ町工場でもなく、長屋暮らしの夫婦だった。
 直人は模型を売ってほしいと夫婦に頼み込むが、買い手が決まっているので売ることはできないと断られる。この場合の買い手とは、模型を土産物屋に卸している問屋のことだ。夫婦が作業をしている部屋の中に、赤ん坊が入った籠がぶら下げられている。赤ん坊が泣き出す。どうやら腹を空かせており、オムツも汚れているらしい。しかし、夫婦は赤ん坊の相手をせず、模型を作り続けるのだった。
 その後、直人は平和記念公園で幼い兄妹と知り合う。名前は三郎とめぐみだ。直人は兄妹を食堂に連れて行く。彼等は原爆ドームの模型を作っている夫婦の子供だった。模型を作る邪魔になるので、三郎達は昼間は家に帰ることができないのだ。三郎達の母親は被爆者であり、いつ原爆症が発症するか分からない。そのために父親は意地になって模型を作っているのだ。父親は自分達が作っている模型を「平和への祈りの千羽鶴だ」と言っているのだという。ここまでが第50話の前半である。後半ではタイガーの試合があり、更に直人と三郎達、夫婦との関わりが描かれる。

 このエピソードには注目したいポイントがふたつある。ひとつは「最後まで伊達直人と被爆者家族夫婦の気持ちが通うことがなかった」という点である。もうひとつが「直人が子供達に嘘をついた」という点だ。
 まずは「最後まで伊達直人と夫婦の心が通うことがなかった」ことについて触れよう。他のエピソードなら、直人は旅先で知り合った人々の境遇や悩みを理解し、その上で行動を起こすのだが、この話では最後まで模型を作り続ける夫婦の心中について思い至ることはない。夫婦が赤ん坊が泣いても模型を作る手を止めないのは、そして、自分達の子供の面倒を見る時間を惜しんでいるのは模型作りに対して真剣に取り組んでいるからだ。直人は最後までその必死さに気づかない。戦争をあってはいけないものだと考え、「平和への祈りの千羽鶴」という言葉に胸を打たれはするけれど、それを言った夫の想い、目の前にいる被爆者である妻の気持ちを考えようとはしないのだ。夫婦にとって直人は、最後まで「問屋を通さずに模型を売ってほしいと言う迷惑な観光客」でしかない。
 終盤において、直人は夫婦に対して、土産物屋で売っているのと同じ金額で買うから直接売ってほしいと言う。金の力でどうにかしようとしたのだ。どう考えても、その言動は俗物のものだ。このエピソードで、作り手が直人をネガティブに描いているのは間違いないだろう。

 「直人が子供達に嘘をついた」について述べる。直人が三郎とめぐみを食堂に連れて行ったのは、母が食事を用意してくれないため、兄妹は外で毎日同じようなものを食べており、めぐみが不満を募らせていたからだ。直人は食事を奢ろうとしたが、三郎は貧しくても他人の世話にはならないという。そこで直人は「100円で食べられる店に行こう」と言って、二人を町の食堂に連れて行った。勿論、100円で食べられるというのは嘘であり、直人は三郎達には分からないようにして、足りない分を支払うのだった。翌日、三郎は数人の友達を連れてその店に行く。彼等は100円で食べられると信じているのだ。彼等がまた食堂に行くのではないかと気づいた直人も店を訪れて、食堂の店員に現金を渡す。これからも彼等に100円で食べさせてほしいというわけだ。以下は劇中で描かれていないことだ。食堂が100円で食事を提供するのは直人が渡した金が尽きるまでだろう。これからも子供達が食堂を訪れ続けるならば、店員はいつか「100円で食事ができるのは嘘だったのだ」と子供達に告げることになるはずだ。自分が騙されていたことを知れば三郎は傷つくだろう。しかし、この話の直人はそこまでは考えが及ばないのだ。  

 第50話は序盤の平和記念資料館のシーンこそセンセーショナルだが、それ以外は淡々とした語り口で進んでいく。直人が夫婦の心中について思い至らないことについて、劇中で誰かが指摘しているわけではない。三郎達にいつかはバレる嘘をついたことについても、劇中で問題視されてはいない(厳密に言うと、食堂の店員が直人の嘘に対して納得していないことが少しだけ描写されている)。後半で宿題をする場所のない三郎達のために、直人がファイトマネーを使う展開があり、エピソード全体としては直人が活躍したかたちになっている。だから、直人の言動がネガティブなものとして描かれていることに気がつかなかった視聴者は多いはずだ。ではあるが、すっきりとしない読後感を残すエピソードであるのは間違いない。
 このエピソードは必ずしも反戦を訴えるものではない。被爆者を登場させて、平和への祈りを込めて原爆ドームの模型を作っていることを描いているのだから、戦争の悲惨さや被爆者の想いを視聴者に提示しているのは間違いないのだが、作劇の力点はそこには置かれていない。三郎の言動が悲観的でないのも重要だ。彼は両親が作る原爆ドームの模型を誇りこそすれ、直人の前で自分達の境遇を嘆いたりはしない。自分の人生や生活を、当たり前のものとして受け止めてるようだ。だから、反戦をテーマにし、戦争の悲惨さを伝える話だと思って観ると面食らうかもしれない。
 直人が模型についてどのようなかたちで決着を付けたのかについては、作品を観て確認してもらいたいが、呆れるくらいにあっさりしたものだ。そんなことで済むなら、模型の製造元を訪れる必要はなかったのではないかと思うくらいだ。そして、模型について決着を付けた後、タイガーが(ここでは直人ではなく、タイガーの姿だ)これからのワールドリーグ戦について想いを巡らしたところで、このエピソードは幕を下ろす。ラストシーンにおいて、彼の心中には被爆者家族の不幸も「平和への祈りの千羽鶴」もすでに存在しない。意地悪な言い方をすれば、原爆ドームの模型に決着が付いたところで、彼の反戦に対する想いは一段落してしまったのだ。反戦を訴えるための話だったら、こんな終わらせ方にはしないはずだ。例えば直人が戦争の悲惨さについての想いや反戦についての考えをモノローグで語り、それを視聴者にアピールする。そんなかたちで終わらせるはずだ。

 第50話はアニメ『タイガーマスク』全話の中で、最も受け止めるが難しい話であるはずだ。作り手はこのエピソードに込めた全てを理解してもらいたいとは思っていなかったのかもしれない。むしろ、このエピソードを観て、何かひっかかるものを感じてくれればそれでよい。そんなつもりで作ったのかもしれない。ではあるが、何かの狙いがあってこのエピソードを作ったのも間違いないはずだ。以下で、このエピソードについて「解釈」してみたい。
 第50話については、色々なかたちで解釈することができる。僕はこれを「他人の不幸を娯楽として消費すること」を描いたものであると受け止めている。そして「不幸な出来事の当事者と第三者の距離感」を描いたものであると考えている。『タイガーマスク』が放映された頃に「娯楽として消費」というような言い回しはなかったはずだ。ではあるが、その概念によって、この話が理解しやすくなる。
 直人が戦争についてあってはならないものだと考えて、戦争の悲惨さを子供達に伝えたいと考えたのは間違ったことではないが、それ以降の直人の言動は「安易に他人の不幸を娯楽として消費しようとしている」ものとして描かれている。つまり、浅薄なもの、愚かなものとして扱われている。
 しかし、その浅薄さや愚かさは我々が日々実践していることではないか。例えばテレビやネットで世間の不幸を知れば心が動く。それについて何かを言ったり、SNSに書いたりするかもしれない。ではあるが、しばらくすればそのことは忘れてしまう。我々はそれを当たり前のこととしてやっているのではないか。それを「他人の不幸を娯楽として消費している」とは言えないだろうか。報道で知った他人の不幸には心を痛めるが、目の前にいる人の不幸については親身になって考えようとはしない。それもよくあることではないのか。
 第50話「此の子等へも愛を」は直人の言動を通じて、我々の「他人の不幸を娯楽として消費すること」や「不幸な出来事の当事者との距離感」を皮肉を込めて描いたものではないのか。

 『タイガーマスク』の物語として考えると、第50話は他のエピソードと少し違った視点で伊達直人を描き、彼がそれまでやってきたことに対して疑問を投げかけるエピードであると考えることができる。ハウスの子供達のために原爆ドームの模型を手に入れようとしたのも、三郎達に100円で食事ができると嘘をついたのも、直人がよかれと思ってやったことだ。彼自身は普段と同じように行動しているつもりなのだろう。しかし、第三者の目で見ればそれらは自己満足のための行為でしかない。原爆ドームの模型を手に入れようとしたのが自己満足のためでしかないのなら、これまでのエピソードで彼がファイトマネーを子供達のために使ってきたのも自己満足に過ぎないのではないか。自分の正体を偽ってハウスの子供達に接しているのも、三郎達にいつかはバレる嘘をついたと同様に、つかなくていい嘘をついているだけなのではないか。
 つまり、『タイガーマスク』という作品の根本となっている部分について疑問を投げかけたのではないか。そういった意味で第50話「此の子等へも愛を」は問題作であり、異色作である。『タイガーマスク』の全話の中で、最も尖ったエピソードであると僕は考えている。

 直人の行動についての結論は、このエピソードでは出ない。ただ、視聴者にモヤモヤとしたものを残すだけだ。

●『タイガーマスク』を語る 第5回「此の子等へも愛を」についてもう少し に続く

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