COLUMN

第840回 才能と平等

才能がある人は、金も地位も名誉も思いのまま! これが罷り通る世の中はもう終わり!

と、昨今世間で起こっている事例を見て、そう思います。
 今も昔も自分の周りの人は知っているし、憶えているでしょうが、板垣はやたら“平等”に拘る人間です。20年以上前、学生時代友人の一人が「僕は才能否定派だ! 才能なんて不平等なモノ、この世にない!(板垣を指し)お前の画力だって、子供の頃から他人より画をたくさん描いて努力してきたからに違いない」と。これ実は、何年か前にもここ(この連載)で取り上げた話題で、学生の頃どう返したか正確には憶えていませんが(おそらく、カドがたたないように流した?)、俺の本音を改めて言うと、

才能というモノは存在します! しかも“かなり不平等”に親ガチャ同様、“才能ガチャ”として!

 先に言っておくと、俺自身のことを才能に満ち溢れている天才なんて思っていません(強調)!! ただ、学生時代の友人が言う“努力”とやらは、それほどしていませんでした。いや最低限、趣味の延長にあるお絵描きくらいはしていましたよ、確かに。しかしそれまで、努力と言えるほど巧くなるために画を描いてこずとも、学生時代の美術の成績は満点だったし、アニメ業界に入ってからも大塚(康生)さんや友永(和秀)師匠、その他先輩方の言うとおりに描いたら何となく芝居・アクション・エフェクトと大概のモノが迷わず描けるアニメーターになりました。パースでもデッサンでも指摘されたら即理解でき、そもそも「描けない……描けない……」と、苦悩して画を描いた記憶がそれほどない。つまり、一流クリエイターの才能は自分にはないけど、運の良いことに“要領良く普通に画を描く”くらいの才能ガチャは当たって生まれてきたのかも知れない——くらいには思うからです。

 そう、全ては運が良かっただけ。とっくの昔に自覚済み。

所詮、人生なんて努力より運の方が優先……でしょう!

どれだけ努力を促し続けても、やっぱりどうしてもできない人っているんですよ! 俺にとっては“運動・スポーツ”がそうでした。脳筋体育教師が自身ができるのをいいことに、俺ができないことを「こんなこともできないのか?」「皆できて当たり前!」と放課後、居残りまでさせて鉄棒にしがみ付かせるとか。これ、昭和あるあるですよね?
 ところが現在、運良く比較的得意分野の仕事に就けている自分はやっぱり幸せ者。その程度の才能ガチャの当たりは引けた——つまり、ただただ俺は運が良かっただけ、と分かっているからこそ、その時々で“思うようにできなくて苦しんでいる人”を目の前にして毎回考えてしまうのです。その人に対して「どこまで期待するべきか?」を。もう十分努力をして神経をすり減らしている者に別の道・手段を一緒に考えてあげる時期ってのもあるはずですから。例えばAIの導入とかって、ぶっちゃけガチャに外れた人たちにとっては、プラスに働くことも今後期待できるハズです。
 海外ではすでにAIで脚本書いたりとか、それに対してまたプラカードを掲げて反対している脚本家らがいるとかも聞いたことがあります。しかし、これからは脚本に限ったことではなく我々アニメーターや演出家、はたまたマンガ家までもAIによって仕事の在り方が変わっていくと思っています。それは、

AIに「助けてもらって能力格差を埋めてくれる」と取るのか、単に「仕事が奪われる」と取るか?

だと思います。おそらく後者は「今の仕事で豪遊できているのが“運”だと認めたくない人」ではないでしょうか? まあ、何しろ、

才能ガチャに当たっただけの強者だけが勝つこの世の中がひっくり返って、もう少し“平等”になりますように!!

 あ、才能・運に恵まれた人たちが全く努力していないとは一言も言ったつもりはありませんが、そう感じられた強者の方がいらっしゃったら、謝罪します。申し訳ありませんでした。