COLUMN

第750回 藤子先生……

 急遽、書(描)きかけだった原稿を後に回して、やはりこちらを。

訃報・藤子不二雄(A)先生、逝去

藤子不二雄(A)(本名・安孫子素雄)先生がお亡くなりになられました。昭和を生きた方なら誰もが知る『怪物くん』『忍者ハットリくん』『プロゴルファー猿』『まんが道』『笑うせぇるすまん』などを描かれた先生です。
 代表作のひとつ『オバケのQ太郎』は藤子・F・不二雄(藤本弘)先生との共著と言うより、何年前かにも書いたとおり、我々世代ではF先生と(A)先生の区分けはなく、2人で1人の“藤子不二雄”先生なんですが。
 その藤子不二雄先生が板垣に与えた影響は多大でした。自分だけでなく、昭和50年代に子供時代を過ごした方々——早い話、俺らの同年代は皆、藤子不二雄先生で育っています。何せ1979年の『ドラえもん』以降、『怪物くん』『忍者ハットリくん』『パーマン』『オバケのQ太郎』『プロゴルファー猿』『エスパー魔美』『ウルトラB』『チンプイ』『ビリ犬』と、毎年のように“藤子アニメ”の新作が発表された時期ですから(今、若い方々、信じられます? 2人分とは言え、これだけ立て続けにアニメ化される作家って存在したんですよ、昭和は)。そんな訳で当然俺も、小学生の頃、丸々6年間はドハマりしました(もちろんアニメに狂う前の話です)。ハマっただけでなく、

“マンガ”というエンタメを描く“マンガ家”という職業がある!

要はTVでやってる『ドラえもん』や『怪物くん』と、それらを描いて作っている原作者の存在を同時に初めて知ったんです。だから、名前を憶えた最初の作家が藤子不二雄(故にF先生と(A)先生に別れても板垣に取っては、藤子不二雄は藤子不二雄なワケ)。
 これも何年か前にここで書(描)いた話のリバイバルですが、いつの時代でもどこのクラスにも1人は必ずいる“お絵描きが得意な子”だった板垣の小学生生活は、藤子不二雄キャラを描きまくる日々となっていた! の話。朝、登校すると「伸君、ドラえもん描いて」「俺はハットリくん!」とクラスメイトたちが、らくがき帳を俺の机の上に置いていくのです。

その皆からの注文のノートを、休み時間を使って1ページずつ消化して帰る毎日。ちなみに模写ではありません(今も昔も模写は嫌い!)。キャラを全て暗記して、オリジナルのポーズを考えたり、そのクラスメイトの希望するモノを描くんです。現在の仕事に就く時も就いた後も「何か描いていれば、自分は食いっぱぐれることがない」とどこかで思い続けているのも、実はこんなことばかり子供の頃からやってたせいでもあります。もちろん、その頃はお金なんて貰っていませんが。
 で、小学生の板垣が

いちばん好んで描いたキャラが
藤子不二雄(A)先生の『プロゴルファー猿』!

今でも空で描けます。『猿』は藤子不二雄(A)先生“独自のカッコ良さ”に満ちています。F先生が天才的ストーリーテリングの作家なら、(A)先生は“情念で描かれる”作家。ストーリーの独自性や意外性とかではなく、「自分が自然に囲まれて暮らしたい」「野生の猿と温泉に入りたい」「こんなスーパーショットを打ってみたい」などの願望・欲望の具現化で、漫画を描かれた先生だと思います。例えば、『猿』は是非原作を読んで頂きたいのですが(特に1974〜80年「週刊少年サンデー」連載版)、各ショットの描き方を見てください。“アングル”も“ポーズ”も“動き表現”も、毎ショット全部違う画で見せています。作品順で言うと『猿』の前作品『魔太郎がくる!!』も同様で、この時期(昭和40〜50年代)の(A)作品は劇画的な見せ方(アニメで言うなら演出)が良く工夫されていて、いわゆる“正確なデッサン云々”じゃない“藤子流”劇画で、唯一無二の面白さにあふれています。『黒イせぇるすまん』(1991年のアニメ『藤子不二雄(A)の笑うせぇるすまん』の原題)もこの時期(昭和45年)の作品だったりします。
 ジャンル的にも(A)先生は幅広く、ギャグ・スポーツ・青春モノから、もちろんブラック・ユーモア、昔はSFも。でも、そのどれもが嫌味なインテリ感がなく、迫力あるエンタメ作品に特化してるのが特徴かと。『劇画・毛沢東伝』(1971年、大好き!)なども、ともすると歴史インテリマンガになりがちな題材のハズが、(A)先生が描くと骨太な黒い男(あくまで黒ベタ影多めの意)の迫力あるドラマになります。食糧難で食うものがなくて、「こりゃ、イケる!」と革のベルトや革靴をムシャムシャ食って笑うシーンとか、間違いなく(A)先生しか描けないムードってあるんです!

 と、時間切れ。コンテ・チェックに戻ります! やっぱり、(A)先生の話は1回じゃあ語り尽くせません。次週へ、