小黒 「佐藤順一の昔から今まで」2度目の取材です。よろしくお願いします。
佐藤 よろしくお願いします。
小黒 少し話を戻します。東映動画は東映株式会社と深い関係があり、 そのために体育会系的なところがあったのではないかと思うんですが、そこの空気には馴染めたんですか。
佐藤 確かに最初は慣れなかったですね。体育会系というよりも、映画屋なんですね。入ってからそれが分かるまで、そんなに時間は掛からなかった。当時は「演出は丁稚奉公から始めるのである」「背中を見て学べ」みたいなことが普通にあった世界だったね。上下関係も含めて、上司で面倒くさい人もいたから、「それは僕の仕事じゃないと思います」とか言って反抗したりしましたけど。
小黒 佐藤さんが入る前に新人を採用しない時期があったので、演出家の先輩はベテランばかりだったわけですよね。
佐藤 そうですね。久々に若手が入ってきたみたいな状況でしたね。
小黒 「東映の演出家はドシッと構えてなくてはいかん」といった空気もあったのでは?
佐藤 TVの各話演出であっても「1話1話が俺の作品だ」という監督気分でやってるんだなっていうのは、最初の頃から感じていましたよね。でも、そもそも東映に入って仕事を始めた頃は、東映が特殊なもんだとは思っていないから(笑)。外に出てから「東映ってそういうとこだったのか」と感じたことのほうが多かったかもしれない。
小黒 (各話演出ではなく)TVアニメ1話分の監督だっていうのは、昔からの東映動画の思想ですよね。
佐藤 そうです。1話毎に「なんとか組」って名前を付けたがる感じですよ。
小黒 ああ、勝間田組とか。
佐藤 そうそう。でもそれは、勝間田(具治)さんよりも次の世代の人達に多かったかも。
小黒 なるほど。『セーラームーン』の頃に、佐藤さんが「俺達が若かった頃は、会社で寝る時も腕を組んで、胸を張って寝たもんだ」と言っていたので、そういう心意気でやっていたのかと思っていました。
佐藤 どうだろうね。そもそも仕事を始める前の学生時代も、自分の部屋では座って寝てましたからね。
小黒 え、腕を組んで?
佐藤 横にならずに寝て。腕も組んでたでしょうし。
小黒 どうしてですか。
佐藤 横になって寝るのが面倒くさいんです。広い部屋でもないので、座ったら座ったまま寝落ちして、起きたらまた作業を始められるのが、自分の性分に合っていたので。だから、東映に入っても椅子で寝たりすることがまったく苦じゃなくて。「それじゃ疲れが取れないだろ」って言われますけども、疲れが取れるということの意味が分からないような感じですね。
小黒 アニメ界に入る前からそうなんですね。学生時代は、ずっとアニメを作ったりマンガを描いていたわけじゃないですよね?
佐藤 そうだけど、例えばクロッキー帳にイメージ画を描いてみたり、企画の原案のような画を描いてみたり、パラパラマンガを描いてみたりということはやっていました。自分のいつも使ってる机は、普通のデスクじゃなかったんです。両側に箱を置いて、その上に7ミリぐらいの厚さのすりガラスを載せて、ガラスの下に蛍光灯を置いて、それを机として使っていたんです。いつでも透写台として使えるようにはなってましたからね。
小黒 「人間というのは基本的に横にならないものだ」と。
佐藤 そういうものだと思って生きていましたね(笑)。
小黒 それはいつぐらいまでなんですか。
佐藤 結婚するまでは、そんな感じです。結婚した時に、ようやく横になって寝る習慣がつきました。
小黒 佐藤さんは眠りの時間が短いですよね?
佐藤 歳とともに寝る時間は短くなっていて、今は3時間から4時間ぐらい。年齢的なこともあると思いますけど、4時間以上継続して寝ることはあんまなくて、横になって寝てても必ず目が覚めるよね。
小黒 なるほど。面白いので深堀りしますが、若い頃は座ったまま8時間とか寝たんですか。
佐藤 寝ました寝ました。
小黒 体力があったんですね(笑)。
佐藤 まあそういうことですね。若いので何やっても無理が効きますからね(笑)。考えごととか、ものを読んだりすると寝落ちしちゃうんだけど。単純に画を描いてる作業をしてると意外と眠くならないというか。30時間ぐらい寝ないでいられたりしますね。
小黒 タフですね!
佐藤 もう今はできないですけど(笑)。
小黒 その頃の無理が今になって来ているんじゃないですか。
佐藤 まあ、それはあるかもしれないですけどね(笑)。それはしょうがないね。
小黒 でも、60歳まで現役で来られたんだから、プラマイでいったらプラスですよ。
佐藤 確かに50歳過ぎたら引退の道を行くのかなと思っていたから、それよりは長くやれてますよ。
小黒 で、前回『ビックリマン』まで話がきました。この前後に『魔女の宅急便』(劇場・1989年)があると思うんですが、これは話して大丈夫でしょうか。
佐藤 これに関しては、スタジオジブリの都合もあるだろうから分かんないですね。聞いてみてもらって、OKだったらいいですけど。
小黒 じゃあ、載せていいかどうか(鈴木)敏夫さんに聞いてみますよ(編注:鈴木敏夫プロデューサーに快諾していただきました)。これはいつぐらいでしたっけ?
佐藤 正確には覚えてないですね。
小黒 『魔女の宅急便』が公開されたのが1989年なので、佐藤さんに声が掛かったのはおそらく87年ぐらいじゃないかと。
佐藤 そうかもしれない。『メイプルタウン物語』は、もうやってたかもしれないなあ。
小黒 『パームタウン編』の頃じゃないですか。
佐藤 かもしれないですね。やるかやらないかについての話し合いをする期間が結構長かったんですよ。僕と鈴木さんとだけの話じゃなくて、交渉の窓口を徳間書店と東映に持っていって、上ですったもんだやった後に、さらにもう1回制作とやり取りするようなことを繰り返していたんです。
小黒 ここで読者に説明すると、当時、注目の若手演出家だった佐藤さんに、スタジオジブリで『魔女の宅急便』の監督をやらないかというオファーがあったんです。実はその人選には僕も関わっています。
佐藤 結局、ジブリでは監督をしなかったんだけどね。それが難しいのには別の事情もあったんです。当時、東映と自分達の待遇について交渉していたんですよ。組合にも入って、研修生という身分から、ちゃんと保証の付いた契約に切り替えてほしいと、我々研修生サイドと東映の総務との交渉が始まっていた頃なんですね。僕が研修生サイドの交渉の窓口になっていたので「ジブリで仕事をするので東映は辞めます」とは言いづらい状況でした。それで宮崎さんには「宮崎さんも組合をやってた方だから、その辺の事情は分かりますよね?」という気分で話してたんです。鈴木さんからは「東映を辞めないで出向というかたちにするから大丈夫だよ」と言ってもらい、交渉してもらったんですが、最終段階でやっぱり「東映動画としては人を貸し出すようなことはしない」ということになったんです。僕は東映を辞める訳にいかない状況だったので降りることになりました。
小黒 降板するまでの間にも、宮崎さんとの打ち合わせはあったんですよね。
佐藤 交渉を進めている間に「この原作をどうアレンジする?」とか「ライターは誰にしようかね?」等、ざっくりとした打ち合わせはありました。ただ、ライターさんが決まる前に外れたと思います。
小黒 そうだったんですね。
佐藤 僕も映画をどういうかたちにするか、まとめてるんですよ。確か、おソノさんの出産シーンをクライマックスに持っていったはずです。主人公が魔法が使えなくなっているところで、おソノさんが出産する。新しい命を生むということは、どうしてそんなことができるのか分からないような凄いことだ。それも一つの魔法ですよ、ということをクライマックスで見せて、それを主人公のラストに繋げていく構成で考えていました。
小黒 なるほど。
佐藤 「僕だったらこうする」という話はしてましたが、内容を詰める前の段階で終わっています。鈴木さんは脚本家の候補を挙げていましたが、オーダーまではしてないんじゃないかな。
小黒 その時は、実写映画と2本立てという話だったんですか。その後、片渕(須直)さんが監督候補になった時には、実写映画と2本立てだったらしいんですよ。
佐藤 いや、それは全然知らない。あったとしても聞いてない。プロジェクト自体がまだまだ組み立て中だったと思いますよね。「宅急便」がヤマト運輸の商標なので、何か関わってもらわないとできないなあ、みたいなことを言ってる段階ですよ。宮崎さんと話をしたのは組合のこととか、「じゃあ、君はどういう身の振り方をするのか」といった話でしたね。
小黒 作品の内容以外のことを話したんですね。
佐藤 そうでした。「この作品で何を描くの?」とか、「自分のモチベーションはなんだ?」みたいなことを話す機会はあったけど。
小黒 その時、宮崎さんは別の新作を作ってたんですか。
佐藤 僕の記憶だと、鈴木さんから「宮崎さんは自分で監督はやらないで後進の育成にあたると言ってる」と聞いているんです。「だから、宮さんが今後演出するということはないんだ。この先のジブリを支えていく若者や、アニメを支えていく若者にバトンを渡すための作品なんだよ」という説明を受けて、それは大変なことだと思って、臨んだ記憶があります。
小黒 なるほど。
佐藤 全然違ってましたけど。
小黒 宮崎さんはその後もずっと監督をやってますものね。『魔女の宅急便』も結局はご自身で監督をされたし。
佐藤 そうですね。自分がやってても、最終的には宮崎さんが監督になっていたかもしれないですしね。
小黒 『魔法使いTai!』で、主人公の沙絵がほうきにまたがるとお尻が痛くなるという描写がありましたよね。あれって『魔女の宅急便』の準備段階で考えたことだったのではないですか。
佐藤 ああ、そうだったかもしれないですね。その時に思いついたのかどうかは覚えてないけど。魔法使いがほうきに乗ったら、当然痛いだろうなあと思っていたはずです。
小黒 やっぱりそうですか。
佐藤 (笑)。それが特別なことだとは思ってないですからね。『魔法使いTai!』ではそこをクローズアップして、ちょっとエロチックにやりましたけれども。
小黒 それから『魔女の宅急便』に参加せず、本格劇場長編をやらなかったことが、『ユンカース・カム・ヒア』(劇場・1995年)に繋がったんじゃないですか。
佐藤 繋がりますね。まず、東映の状況が変わりました。『魔女宅』の頃の制作部長は「東映内で育てた人間を外に貸すようなかたちで活躍させることは映画屋としてやるべきではない」という考えを持っていたんです。その後『ユンカース』の頃には、タバックから来た千蔵(豊)さんが制作部長になられて、千蔵さんは「いや、どんどん外に行って武者修行してくるべきである。そして帰ってきた東映でさらに大きな仕事をしてくれればよい」と考えていたんですよ。だから『ユンカース』は東映在籍のままでやれたんです。ギャラも東映に1回払われて、東映から僕がもらうかたちになっていたんですね。
小黒 なるほど。