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佐藤順一の昔から今まで(3)演助進行時代と演出デビュー

小黒 81年の春から東映動画の第1期研修生となるわけですが、その時点で「入社」されたんですか。

佐藤 その時点では研修生という身分で、社会保険等の条件が整うのはもうちょっと後ですから、入社と言っていいかというと、微妙な立場ですね。10年ぐらいずっと研修生扱いだったんです。会社と折衝して、社会保険諸々の待遇が付いた時点で、研修生ではなくなってるはずなんですね。

小黒 そうだったんですね。

佐藤 社内的にはその後も、自分達は研修生と呼ばれ続けてはいましたけど(笑)。最初は2年契約の契約社員的な感じで、諸々の保証はその時から付き始めています。

小黒 入った時は社会保険等は付いてなかったんですね。

佐藤 契約料みたいなものが最低賃金であって、それに加えて制作進行や演出をやった分がインセンティブで付いてくるような契約形態だったと思います。

小黒 フリーよりは保証されているけど、社員ほどしっかりしている立場ではなかったということですね。研修生で同期にいたのが、西尾さん、貝澤幸男さん、芝田(浩樹)さん、梅澤(淳稔)さん、有迫(俊彦)さんですね。アニメーターではどなたがいらっしゃるんですか。

佐藤 新井浩一君、濱洲英喜君、中鶴(勝祥)君、井手(武生)君、鈴木郁乃さんといった感じです。

小黒 名倉(靖博)さんは違うんですね?

佐藤 名倉さんは1期前ですね。

小黒 安藤正浩さんと名倉さんが一緒ですか。

佐藤 いや、安藤さんは我々と同期です。

小黒 島田満さんはどういう立場なんですか。

佐藤 島田さんは、僕が受けた試験の時に演出で受かってるんです。でも、当時の感覚として「女性には演出の仕事はハードすぎるだろう」というのがあって、それでシナリオのほうに行くことになったんだと思いますね。
 僕は最初の試験の結果では落ちていたんですけど、島田さんがシナリオになって席がひとつ空いたんで「佐藤君、来る?」みたいな感じで、補欠で入ったんです。だから、僕は1回落ちてるんです。落ちた時には「試験で説明っぽいコンテを描いたな」と思っていて、そのために落ちたと思ったんですよ。「商業的アニメーションできちんとテーマを語るのは大事なことだろう。分かってない奴らめ」とも思っていて。

小黒 (笑)。

佐藤 だけど、「1人空いたんで入る?」と言われたので「ありがとうございます」と演出に行ったんです(笑)。

小黒 もう一度聞きますけど、説明的な絵コンテっていうのは、1カット1カットの問題じゃなくて、説教臭いとか、テーマを前に出すとか、そういうことなんですね。

佐藤 そうですね。「この短編はこういう問題について語ってるのね」と観ている人が分かるような内容というか。

小黒 なるほど。

佐藤 試験の審査結果を後で見たら「よく分からんけど面白い」ものが評価されてたんですけどね。貝澤のは意味が分からなくて面白いみたいな。

小黒 ああ、貝澤さんの後々の作品に繋がりますねえ。

佐藤 そうですね(笑)。そういう意味で言うと、私のが弾かれたのは分かるんですけど。

小黒 研修期間というのは、あったんですか。

佐藤 ありました。りんたろうさんやライターさん、撮影さん等が講師で来てくれて、授業みたいなものがありましたかねえ。

小黒 その時に島田満さんもいるんですか。

佐藤 どうだったかなあ。島田さんはもう『Dr.スランプ(アラレちゃん)』(TV・1981年)のシナリオチームに行ってたんじゃないんですかねえ。

小黒 すぐさま本番に投入みたいな感じだったのかもしれないんですね。

佐藤 だったと思いますけどねえ。七條(敬三)さんがすぐに現場に連れて行ってたんじゃないかなあ。

小黒 研修生が東映に入ったのが1981年。島田さんが最初に書いた回が放送されるのが82年の2月。TVアニメの脚本だったら、書いたのは半年ぐらい前ですね。確かにすぐに実戦投入だったのかもしれない。研修生の方々と横の繋がりはあったんですか。

佐藤 そうですね。研修生は研修期間で仲良くなったり、飯食ったりもしました。アニメーターは、別の部屋にいたのでよく分からないですが、交流はあったでしょうね。むしろその頃よりも1本2本作るようになってからのほうが、相手を意識することが強くなるというか。「おもしれえもん作りやがって」とかね(笑)。

小黒 なるほど。佐藤さんの最初の仕事は『新竹取物語 1000年女王』(TV・1981年)なんですか。

佐藤 『1000年女王』の演助進行ですね。8話の演出助手進行が最初かな(編注:8話はノンクレジット)。

小黒 製作進行ではなくて、演助進行なんですね。クレジットでは『1000年女王』の佐藤さんの役職は製作進行のようですが。

佐藤 当時の東映の製作進行の仕事内容が、演助進行だったんです。製作進行をしながら演出助手もするのが普通のスタイルだった。演出助手だけという役職は、当時はないんじゃないかな。

小黒 『とんがり帽子のメモル』(TV・1984年)の頃には製作進行と別に、演出助手の役職があるけれど、佐藤さんが入った頃にはなかったということですね。

佐藤 そういうことです。製作進行だけ、演出助手だけをやるのではなく、演助進行をやってよかったと思っています。製作進行だから、仕事の流れをコントロールするし、演出助手だからカットの中身を見るし、個々のカットの枚数をチェックしたりもするんです。だから、すげえ数の原画を見るんですね。例えば、稲野(義信)さんや兼森(義則)さんの原画を見ながら「あっ、この枚数でこう動かすのか」と思ったり。作画の効率のよさ、悪さのようなことも分かるようになったし、勉強になりましたね。
 兼森さん達のスタジオバードに行って、直接話を聞きながら出来上がりを待つとかね。そういうことも演出助手だけだったらなかったと思います。演助進行だったのでそういう経験できたので、演助進行のシステムは個人的にはすげえよかったと思うんですよね。

小黒 なるほど。

佐藤 製作進行でもあるから、例えばアニメーターさんが「このカットはもうちょっと粘りたいんで、待ってほしい」と言った時に、その判断ができるわけです。それで「じゃあ、先にこっちのやつを上げてもらっていいですか」と交渉したり(笑)。あるいは話をしていて「こういうコンテはアニメーターがつらいんだよね」なんて愚痴を聞いたりしてね。そうやってアニメーターとコミュニケーションが取れたというのが大きいですね。

小黒 演助進行として参加した『1000年女王』と『パタリロ!』(TV・1982年)は、両方とも作画のメインがスタジオバードですね。

佐藤 そうですね。だから、東長崎にあった頃のスタジオバードはよく行きました。

小黒 両作とも西沢信孝さんがチーフディレクターですが、西沢さんの仕事ぶりはいかがでした。

佐藤 例えば『1000年女王』にミライというキャラクターがいて、オール色トレスなんです。後々を考えると「これ、大変だな」って思うわけですよ(笑)。セルの時代にオール色トレスをやるわけですから。原作サイドのオーダーもあったのかもしれないけれど、そういった制作的に越えなきゃいけないハードルがあるものを、やっていく。その結果として、世界観を作ることができるんです。それが西沢さんの仕事を見て勉強になったことですね。『パタリロ!』ではスクリーントーンのようなフィルムを背景に載せることで『パタリロ!』独自の画面を作っていたんです。それは美術の土田(勇)さんのオーダーを、西沢さんが受けて実現していった。「効率も大事だけども降りちゃいけないところは、降りちゃいけないんだ」。そういうことが、勉強になったかな。

小黒 『パタリロ!』の美術は独特でしたね。

佐藤 『パタリロ!』に関しては、やっぱり美術からのオーダーが凄く多かったね。土田さんのほうから、レイアウトを平面的なものや奥行きを出さないものにしてほしいというオーダーが来て、西沢さんがそれを実現していくんですけど、慣れていない作業なので大変でした。西沢さんはそういう前例のないものをスマートにやっていくんです。伊東誠さんだったかな、『パタリロ!』のコンテを見ながら、アニメーターの誰かが言っていたのを覚えているんですよ。東映はコンテの画があまり巧くないのが普通で、丸チョンに近い画で描いてあるものも珍しくなかったんです。だけど、その人は「西沢さんのコンテは大人っぽいんだよね」ということをボソッと言ったんです。画が巧いわけではないんだけど、画面コントロールがされていて、他よりもちょっと大人っぽい雰囲気があるんですよね。その時には「謎だなあ」と思いながらも「演出って、そういうことかあ。監督をやるのは、西沢さんみたいな人なんだなあ」と感じました。考えるきっかけを沢山もらいましたね。

小黒 なるほど。西沢さんが監督に相応しいのは、大人っぽいからだけじゃなく……。

佐藤 だけじゃなく「世界観をちゃんと構築してるんだ」っていうことが分かった。

小黒 なるほど。美術や画面の作り方も含めてということですね。

佐藤 そうです。『とんがり帽子のメモル』でも、葛西治さんが美術の土田勇さんからのオーダーをきちんと拾い上げてたんですけど、西沢さんのインパクトはやっぱり強かったですねえ。

小黒 この頃の土田さんは、次々と凄い作品を送り出してますね。

佐藤 そうですね。演出家は「土やん、土やん」と言っていました。土田さんの世界を画にしていきたいという「気分」が演出側にもあったのかなと、今になってみると思いますね。

小黒 話は前後しますけど、佐藤さんが演出するにあたって、宮崎駿さんの絵コンテを見る機会はあったんですか。

佐藤 その当時、書籍になっているのは『未来少年コナン』(TV・1978年)の黒本だったかな(編注:1979年にアニドウが刊行した『未来少年コナン』の書籍。書名は「未来少年コナン」)。

小黒 黒本もあるし、『コナン』の絵コンテが文庫サイズで「アニメージュ」の付録になっているんですよ。

佐藤 それじゃあ、見ていますね。

小黒 宮崎さんのレイアウトも書籍に載る機会は多かったですね。佐藤さんもそれらに触発されたりしたのでしょうか。

佐藤 されていると思います。既に『未来少年コナン』や『どうぶつ宝島』はひととおり観ていて「やっぱり宮崎駿という人は凄い人だ」という認識は既にありましたからね。

小黒 演出デビューしてすぐの佐藤さんには構図や芝居までコントロールしようという意気込みがあって、宮崎駿の影響下にあるように見えるんですね。

佐藤 あります、あります。その当時、冒険活劇みたいなものが好きだという空気感が、自分やアニドウの周りにもあったような気がするんですが、その部分でも宮崎さんの作品に共感できるところがありましたね。冒険活劇こそやっぱり「まんぐわえいぐわ(まんが映画)」みたいな(笑)。

小黒 「まんぐわえいぐわ」はアニドウっぽい言い回しですね(笑)。

佐藤 当時は宮崎駿さんの画作りが好きだったので、追いつこうじゃないですけど、トレスしていこうみたいな気持ちはあったでしょうね。

小黒 『世界名作童話まんがシリーズ』の『ねむり姫』が佐藤さんの演出デビュー作で、『ベムベムハンター こてんぐテン丸』(TV・1983年)がTV初演出ですね。『ねむり姫』が世に出たのが1983年らしいんですが、いつ頃の作品なんですか。

佐藤 じゃあ、82年中に作ってるのかもしれません。『ねむり姫』は研修生の卒業制作みたいなもので、演出デビューと言っていいのかどうかは分からないですね。これを作る前に「アニメーターと演出の登用試験的な意味もあるよ」と制作に言われたんですよ。だから自分が担当する時に「この画、ちょっと手入れたいな」と思っても、それをやっちゃうと昇進試験にならないので(笑)、アニメーターの画に極力手を入れないようにしようと思って作ってるんですね。

小黒 なるほど。

佐藤 昇進試験だと言われなければ、手を入れてたと思うんですけど。でもやってみたら、貝(貝澤幸男)ちゃんは貝ちゃんの画のテイストのものを作ってるから「なんだよお!」と思いましたけど(笑)。

小黒 じゃあ、佐藤さんは絵コンテを描いて、アニメーターさんが描いた原画の動きをチェックしていたんですね。

佐藤 そうですね。芝居的なことをチェックしましたけど、基本的なレイアウトとか構図については、ほぼ手を入れてないはずですね。

小黒 脚本打ち合わせには参加しているんですか。

佐藤 多分参加してないですね。

小黒 監修で芹川有吾さんがクレジットされてるらしいんですけど、やりとりはあったんですか。

佐藤 どうだったかなあ? アフレコ、ダビングには芹川さんが来て、指示を出してくれた記憶はあります。コンテのチェックもしてくれたかもしれませんが別に直しがあるわけでもなかったと思います。

小黒 アフレコは行かれてるんですね。

佐藤 行きましたね。

小黒 岸田今日子さんに指示出しをしたんですか。

佐藤 したんですよ。大物すぎてびっくりですよね(笑)。

小黒 超大物ですね(笑)。

佐藤 岸田さんから「演出様?」と言われて「ハハ~」ってなるみたいな(笑)。

小黒 「演出様、これでよいのですか?」なんて言われるわけですね(笑)。

佐藤 そうです。しかももう1人は橋爪功さんですからね(笑)。とんでもない現場です。でも、芹川さんが特にフォローしてくれるわけでもないですし、頑張ってやりきる。

小黒 なるほど。手応えはありました?

佐藤 手応えも覚えてないなあ。どうだった?

小黒 『ねむり姫』は観ているはずなんだけど、記憶にないんですよ。

佐藤 そう。そういう意味では、研修生が作った作品の中で、多分一番薄いんですよ。

小黒 大久保(唯男)さんの『こびとと靴屋』が、凄く動いてませんでした?

佐藤 そうそう。ほとんど「止め」でいって、最後にバーッと動かすようにしてたのかな。『オズの魔法使い』を貝澤がやってたんですが、さっきも言ったように貝澤ワールド全開でしたね。

小黒 このシリーズの『魔法のじゅうたん』って作画監督が中鶴さんと濱洲さんなんですね。当時、東映のファンクラブで売っていた『魔法のじゅうたん』のセル画を見て、めちゃめちゃ巧いなあと思ったのを覚えてます。

佐藤 演出は江幡(宏之)君ですね。

小黒 『世界名作童話まんがシリーズ』って、最初は8mmフィルムを売って、後にビデオソフトになったんでしたね。

佐藤 そのあたりの経緯は覚えてないけど、元々、東映本社に教育映像的なセクションがあって、そこの仕事だったと記憶しています。

小黒 『ねむり姫』が佐藤さんの初演出作品で、その次に『ベムベムハンター こてんぐテン丸』でTVシリーズの演出に抜擢ですね。

佐藤 抜擢というか、全19話で終わりのところの18話ですからね。

小黒 (笑)。終わるのが見えてたので「お前、1本やってみるか?」みたいなノリだったんですか。

佐藤 元々このシリーズで1本やるという話があったけど、16話で最終回になるらしいという話が出て。

小黒 そんなに早く!?(笑)

佐藤 15話を梅澤がやってるんだったかな。「16話で最終回になったら、回ってこないじゃん」と思ってたら、枠の関係か何かで数本延びて、機会が回ってきたのが18話なんですね。

小黒 なるほど。でも、16話で終わりということは「ニーナちゃんがやってきた!」で終わるはずだったんですか。

佐藤 そうなんです。

小黒 16話と19話は作画監督の尾鷲(英俊)さんが凄く弾けた感じでしたよね。

佐藤 うん。尾鷲さんのオープロダクションは、ある意味傍若無人で、コンテのカット割りを全然変えた作画を上げてきましたからね。遠藤(勇二)さんが演出した回だったと思うけど、コンテでS3−C1(Scene3のCut1の意味)だったものが、S3−C1A、B、Cというふうに、原画が上がったらカット数が増えていたんですよ。どうするんだろうと思ったら、遠藤さんはOKしていた(笑)。

小黒 作画のアドリブでカットを増やしてきたんですね。

佐藤 勝手にカット割りして、カットを増やして原画を上げてくるような人が、当時のオープロに何人かいたんですよね。「凄いことするなあ」と思いました(笑)。

小黒 後の『ルパン三世 PARTIII』(TV・1984年)でスパークされる方々ですね。話を戻すと、『こてんぐテン丸』で佐藤さんが演出したのが18話「倒せ!妖怪グータラ」。佐藤さんが演出されたTVアニメの中で、最も観る機会がないのがこれだと思うんです。

佐藤 まあ、そうですかね(笑)。

小黒 だって、再放送もしてないでしょ?

佐藤 してないでしょうねえ。19本じゃ放送する枠ないですからね。

小黒 ビデオソフトにもDVDソフトにもなってないし、配信もない。

佐藤 それは残念ですね。

小黒 ここで、いきなり読者に呼び掛けますけど、このインタビューを読んでるあなた! 「倒せ!妖怪グータラ」は面白いですよ。

佐藤 (笑)。

小黒 『テン丸』の中でも弾んだ回になってます。

佐藤 『ねむり姫』とは逆で、初演出の癖に、画にガンガン直しやアタリを入れてますし、作監の画にまで手を入れてますからね。

小黒 ああ、酷い(笑)。

佐藤 酷いですね(笑)。まあ、作品のためだと思ってやったことですが。

小黒 この回は及川(博史)さんが作監ですか。

佐藤 そうですね。原画マンの名前は忘れましたけど、そんなに大勢じゃなかったです。

小黒 この頃のスタジオバードは、兼森さんと別班で及川さんも作監をされてて、及川班は原画2人に作監1人ぐらいですよね。僕の記憶が正しければ、ギャグマンガ的なテイストで、やる気満々な感じだったと思います。

佐藤 そうそう(笑)。


●佐藤順一の昔から今まで (4)『とんがり帽子のメモル』と『ステップジュン』 に続く


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