腹巻猫です。湯浅政明監督の最新作『きみと、波にのれたら』を観ました。これまでの湯浅監督作品のイメージを裏切るストレートなラブストーリー。しかし、随所に現れる凝った映像表現は、まぎれもなく湯浅監督のもの。多くの人に、とりわけ若い人に観てほしい。デートムービーとしてもお奨めしたいです。
湯浅政明監督作品の音楽といえば、『きみと、波にのれたら』(2019)、『夜は短し歩けよ乙女』(2017)、『四畳半神話大系』(2010)を手がけた大島ミチルがまず頭に浮かぶ。メロディアスな大島ミチルの音楽とアーティスティックな映像表現とのマッチングが絶妙だった。いっぽう、『MIND GAME』(2004)、『ピンポン THE ANIMATION』(2014)では、山本精一、牛尾憲輔といったサウンド志向の強い作曲家と組んで効果を上げている。
今回は、湯浅作品の中でも『きみと、波にのれたら』と対極にある『カイバ』を取り上げよう。
『カイバ』は2008年4月から7月までWOWOWで放送されたTVアニメ。湯浅政明原作・監督によるオリジナル作品で、アニメーション制作はマッドハウスが担当した。
舞台は記憶を自由に抽出・移植できる技術が発達した世界。自由に肉体(ボディ)を乗り換えて人生を楽しむ人々がいるいっぽうで、金のために肉体や記憶を売ったり、奪われたりして苦しむ人々もいた。ある日、記憶を失って目覚めたカイバは、理由もわからないまま命をねらわれ、惑星を脱出。星から星へと旅をしながら、記憶を取り戻していく。
簡単には説明できない、不思議な作品である。舞台は地球とはまったく異なる風景・文明が広がる世界として描かれている。記憶を自由に出し入れできる人々のメンタリティ(心理)も独特のものだ。主人公のカイバからして、開幕早々記憶を別のボディに入れ替えて姿が変わってしまうし、「カイバ」と呼ばれる場面もほとんどない。記憶とは、人格とはなんなのか。幸福とはなんなのか。そんなことを考えさせる作品である。この物語全体が、人間の脳の中で起こっていることの隠喩と受け取ることもできる。
このユニークな作品に音楽をつけたのは、吉田潔。劇場アニメ『時をかける少女』の音楽を担当した作曲家である。
1964年生まれの吉田潔は、アメリカのバークリー音楽大学でコンテンポラリー・アレンジ、映像音楽を専攻。帰国後、シンセシスト、プロデューサーとして活動を始めた。「打 ASIAN DRUMS」「祭」「UBUD」などのオリジナル・アルバムを発表するかたわら、イベント音楽、映像音楽などで活躍。映像音楽では、NHKスペシャル「日本人 はるかな旅」(2001)、「新・シルクロード」(2007)、「チャイナ・パワー」(2009)、アニメ『時をかける少女』(2006)、『シグルイ』(2007)、『カイバ』(2008)、『黒塚』(2008)といった作品がある。
『時をかける少女』は生のピアノとストリングスを入れた抒情的な音楽、『シグルイ』は津軽三味線、箏、和太鼓などをフィーチャーしたエスニック風味の強い実験的な音楽だったが、本作はシンセサイザーと女声ボーカルによるエレクトロニカ。シンセシストとしての吉田潔の持ち味が発揮されている。
『カイバ』のサウンドトラック・アルバムは単独商品としては発売されていない。バップから発売されたDVD第1巻にサントラCDが同梱された。この1枚で、重要な楽曲はほぼ網羅されている。収録曲は以下のとおり。
- Never(tv size-KAIBA mix-)
- Initialize Me
- Baby’s Noise
- Night Sound
- Dark Nebula
- Planet (laughing version)
- Planet
- Planet(enjoying version)
- Planet(blueing version)
- Planet(lonely version)
- Gray In Calculation
- Chase to It!
- Catch It up!
- Think It over!
- Pink Algorithm
- Crazy in Love
- Crazy in Love(light version)
- Memories
- Twinkling Photon
- Nightmare
- The Tree Song(scat)
- The Tree Song(a capella)
- The Tree Song
- The grand soul flits freely
- Hello,Goodbye,My memory
- Carry Me Away(tv size-KAIBA mix-)
1曲目の「Never」と26曲目の「Carry Me Away」はSeira(加賀美セイラ)が歌うオープニング&エンディング主題歌のTVサイズ。作詞もSeiraが担当している。フルサイズは当初、配信のみで発売。加賀美セイラのアルバム「IdeAnimation」で初CD化された。大切な人を想う気持ちを歌った、ファンタスティックな美しい歌である。
BGMはストーリーを追う趣向ではなく、テーマごとにまとめて収録されている。
トラック2「Initialize Me」は本作のメインテーマとも呼べる曲。シンセサイザーによる背景音とSE的なサウンドの中から、大きなうねりを持った抒情的なメロディが浮かび上がってくる。女声ボーカリーズがそれに続き、浮遊感と哀感が入り混じったサウンドが展開する。「Initialize Me」とはいかにも本作らしい意味深な曲名だ。
劇中では第1話でカイバが旅立つラストシーン、第7話でカイバが恋人ネイロの記憶の一部を取り戻す場面などに流れた。第8話以降は毎回ラストシーンに流れて、複雑な味わいのエピソードを締めくくっている。記憶を失うことや思い出がよみがえることへの不安と悲しみを象徴する曲である。
トラック3「Baby’s Noise」は曲名どおりノイズのような音が飛び交う環境音楽風の曲。メロディらしいメロディのないサウンド主体の曲だ。第4話で保安官のバニラがカイバの記憶の中に入っていく、本作ならではの場面に流れている。ざらっとしたサウンドが奇妙で不安な場面をうまく演出していた。
トラック4「Night Sound」は女声スキャットとフルートの音色が入り混じるエスニカルな曲。これもメロディらしいメロディはない。劇中では第2話のカイバの肉体を使って快楽をむさぼる女の場面の使用が印象的。
次のトラック5「Dark Nebula」は、スペーシィなサウンドを使った美しい曲で、宇宙の情景やネイロの心情を表現する曲として使われている。
トラック19の「Twinkling Photon」も同じように空間系のサウンドで奏でられる、心象風景を描いたような曲だ。
トラック6から10は「Planet」と名づけられたテーマのバリエーション。ヨーロッパの民謡のような素朴なメロディを持つ曲である。人々の記憶が消えていく場面や記憶がよみがえる場面、記憶だけになった人格が語り始める場面などに、ときに悲しく、ときにユーモラスに流れて、物語の味わいを深くしている。この曲も、本作の重要なテーマのひとつだ。
トラック12「Chase to It!」とトラック13「Catch It up!」は追っかけシーンによく使われた曲。本作のサントラの中では珍しい、状況描写的な楽曲である。
トラック15「Pink Algorithm」は白玉系のシンセのフレーズと4ビートのベース音で構成されたミステリアスな曲。悪いたくらみが進行する場面などに流れた。
トラック16の「Crazy in Love」とトラック17「Crazy in Love (light version)」はコミカルな恋のテーマ。美少女クロニカにひと目ぼれしたバニラがクロニカにつきまとう場面に流れている。しかし、クロニカの中にはカイバの心が入っているのだから状況はやっかいだ。おかしくも悲しい恋を彩るファンキーな曲である。
トラック18「Memories」はシンセ・ストリングスとボーカリーズが奏でる悲哀曲。第3話でクロニカの肉体を売ってしまった叔母の心にクロニカの想い出がよみがえる場面やカイバとネイロの恋人時代を描く第10話の回想場面などに流れた。本作の中でも数少ない、ストレートな情感描写曲である。
トラック20の「Nightmare」は貧しい市民が住む地下都市の情景や権力に執着する人々の暗い情念を表現する曲。淡々と刻まれるリズムがディストピアを連想させる。
トラック21からトラック23は「The Tree Song」と題されたテーマとそのバリエーション。本作の音楽の中でも特に重要な楽曲だ。この曲は、ボーカルとコーラス・アレンジも担当したシンガー・ソングライターのMinako”mooki”Obataの作詞・作曲によるもの。
「The Tree Song」のメロディは第3話でクロニカが奏でるピアノの曲として初登場する(ピアノ・バージョンはサントラ未収録)。以降、スキャット・バージョン、アカペラ・バージョン、歌入りバージョンなどが劇中の重要なシーンに選曲された。胸にしみるメロディと孤独な心を歌った詩は、カイバの魂の彷徨を描く物語とシンクロしている。まさに『カイバ』という作品を象徴する曲だ。
ダンサブルな「The grand soul flits freely」と明るいマーチ調の「Hello,Goodbye,My Memory」の2曲は和田貴文の作曲。いずれも、町の喧騒の描写などに使われた。
映像作品における音楽の役割には、映像で描かれたことを補強し盛り上げること、映像で描き切れないキャラクターの心情や背後の意味を表現することなどがある。特にTV作品では、ドラマをわかりやすくするために、わかりやすい音楽を付けるケースが多い。
しかし、『カイバ』では、作品自体が一筋縄でいかないこともあって、音楽が映像の説明になっていることはほとんどない。悲劇が同時に喜劇であったり、喜劇が同時に悲劇であったりするのが、本作の世界なのだ。
記憶が自由に入れ替えられたり、操作されたりする世界では、思い出も感情も、本当のものであるかどうかわからない。むしろ、記憶という頼りないものに人生を左右されてしまう人間自体が、はかなく、悲しい存在だとも言える。
吉田潔のたゆたうような音楽は、キャラクターの心情や物語に寄り添うよりも、もっと大きな視点で、人の心のはかなさ、悲しみ、おかしさ、美しさを描いている。第4話でカイバが出逢ったおばあちゃんは、カイバに「本当に広いのは人の心の中」と語りかける(そこに流れる曲は「Planet (lonely version)」)。SF作品では、シンセサイザーの音が宇宙や高度な科学技術を表現するために使用されることが多いが、本作はひと味違う。本作のシンセサウンドが表現するのは、宇宙よりも広く驚異に満ちた世界=人の心の中なのである。
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