COLUMN

第32回 窓ガラスの話

 写真に残る人々の姿を、時の流れの順に並べてみる。
 写真に残る呉の町並みの1軒1軒を、通りごとに分類して、番地順に並べてみる。
 そんなふうにして並べることを繰り返して、浸り込む。感触を味わえるまで眺め回してみる。そんな空間から這い出てみると、今のこの世の中がちょっと時代がズレてしまっているように感じられたりして不思議だ。自分が一体どっちの「世界」に生きているのだか浮世離れしてしまっている。
 などという作業をひたすら行って、物語のある本も読まない映画も見ない生活をしばらくつづけてしまった。『花は咲く』だとか、いったん別の仕事の方に離れてしまうと、「あの世界」が遠ざかって、細かな感触が思い出せなくなってしまっている。
 アメリカのSF作家コニー・ウィリスの「ブラックアウト」とその続編「オール・クリア」という本(邦訳は大森望訳、早川書房刊)を手にとってみる。これはタイムマシンが発明された時代の史学生たちの話だ。史学生たちは、研究対象となる時代が実際どんな感じだったのかを調べる、というより味わうためにタイムトラベルして、そこでしばらく生活する。ブラックアウトは「灯火管制」、オール・クリアは「空襲警報解除」の意味であり、この話の主人公は1940年、空襲下のロンドンにとぶのだった。その時代の人に紛れて暮らさなければならないので、当然、当時の地理や、生活の細々したことを調べ上げた上で挑まなくてはならない。何月何日何時のどの空襲で爆弾がどこに落ちたか把握してかからないと自らの生命が危険になる。そうしたことを事前準備として覚え込んだのちに、研究対象の時代に向かい、しばらくそこで暮らす。ときどき中間報告のために「現代」に帰ってきてみると、変な感じがする。なんだか、そのまんまなのだった。
 「ブラックアウト」「オール・クリア」の登場人物は、空襲のときにショーウィンドーや窓ガラスのそばにいることを、ものすごく怯える。脇道して1940年頃のブリッツ(英本土空襲)の実際のことを書いたものを読んでみると、爆撃機から投下された爆弾の爆風でガラスが吹き飛んで、人体に対して大きな被害を出していたことがわかる。自分たちの家々、町並みにふつうにあったガラスが自分たち自身に向けられる凶器に変わるのだ。

 戦時中の日本を映画やドラマで描いたものだと、たいていの家々の窓には、

 米米米米 米米米米
 米米米米 米米米米
 米米米米 米米米米
 米米米米 米米米米

 と、ガラスの飛散を防ぐための紙テープが貼ってあるのをふつうに見かける。
 ところで、この紙テープはいつ頃からあんなふうに貼られるようになったのだろうか。「この世界の片隅に」は、昭和18年12月から21年1月までの14ヶ月間の移ろいを、「ふつうの人のふつうの暮らし」の側から見つめる、というものなのだから、そうしたことも、日常の風景の変化として押さえておきたい。スタッフたち(といっても、浦谷、白飯くらいしかいなかったのだが)に、写真だとか本棚に集めた本の記述を見直して、このあたりから窓に「米」が貼られるようになったというおおよその時期を調べてみてほしい、と頼んでみた。2人ともいろいろ眺めたりメモを取ったりしているのだが、いつまでたっても「わかった!」という声が聞こえてこない。
 「?」
 となって、自分でやっていた別の調べものを放り出して、窓の「米」探しに取り組んでみた。しばらくして、2人がなぜいつまで経っても微妙な顔をしてるのかわかった。
 結論から述べてしまうと、「戦時中の日本のふつうの家屋の窓には、窓ガラスの飛散よけの紙など一般的に貼られていない」。
 そうした写真は、ほぼ見つからないといってよい。最近発見された東京大空襲当時の写真がかなり出てきた、といわれれば手にとってみる。そこに撮された町並みの窓に紙テープなど貼られていない。
 ああしたものは、「作られたイメージ」だったのである。
 丸山正雄さんなどは、
 「作り上げたイメージだとしても、秀逸だと思う。それを考えた奴はたいしたものだ」
 というのだが、多分それは戦争初期の大政翼賛会の仕業なのだろうと思う。日中戦争の時期には、戦費調達のための国債を売り出してもなかなか売れなかったりして、国民に意識を抱かせようと、まだそれほど必要性のない防空演習などが大々的に行われていて、そうした訓練の際に一時的に窓ガラスに細切りの紙を貼ったりもしている。
 昭和18年には国の意思決定機関がかなり焦り出す。シアトルであった飛行機事故の国際報道から、アメリカでB-29という渡洋爆撃機が実機が飛ぶまでに至っていることを察知したからだ。生産能力だとか計算して、生産累計が400機を越えるだろうあたり、つまり19年6月頃に最初の日本本土空襲が開始されるのではないか、と推察するに至っている。これの的中ぶりは、原作「この世界の片隅に」巻末にこうのさんが書いた「補足」を見ていただいたりするとわかると思う。さらには、その際に投下されるのは、イギリスでガラスの被害を出した「爆弾」よりも、木造の家屋を燃やすための「焼夷弾」が主体になり、爆弾は消火活動を妨害するために多少混ぜられる程度だろう、とこれもすごく正確な予見をしている。
 昭和18年7月には、政府技術院が「窓ガラスは何でどう覆ったら効果があるのか」という実験を行って、「和紙を貼る程度では、遠くに落ちた爆弾に効果があるくらい」としているし(そんなものまで一応読んだ)、同じ頃、内務省が編纂して全国に配布した国民向け防空マニュアル「時局防空必携・昭和十八年改訂」にも、
 「爆弾によるガラス破片の飛散防止のために、紙等を貼って置くのも一方法ではあるが、爆風の威力の程度やまた場所によってはなほ飛散するから、十分注意して危害を避けるやうにせねばならぬ」
 それよりも、
 「家の中の襖、障子、ガラス戸で差支へないものは取外して邪魔にならない所に片付ける」
 という方が推奨されている。
 昭和19年2月号の「婦人倶楽部」には写真3のように、ガラス障子に紙をどう貼ればいいかという記事が載っているのだが、美濃紙・和紙ならまだよいが西洋紙ではほどんど効果がないとし、さらにあれこれ紙を貼っても効果がない場合のことが書かれた末に、
 「最も安全な方法は、空襲警報が出たら、ガラス障子は外して、一まとめにして邪魔にならぬ縁の下などに」
 としている。
 だいいち貼る紙など不足していてどこにもない、糊もないはず、と思っていたのだが、こんな書き方では、窓に紙をわざわざ貼る人もほぼいなかっただろう。
 ということで、すずさんは警報のために戸を外したりはめたり大わらわになるのだった。

 全然貼っていなかったか、と問われればそうではなく、爆弾を落とされそうな大きな建物、学校や病院、それに陸海軍の施設では、飛散防止のための紙はよく貼られている。この辺はきっちりと、何を落とされるのかということと兼ね合わせて、考えられていたのだと思う。ただし、その場合でも、貼り方は「米」ではなく「井」、

 井井井井 井井井井
 井井井井 井井井井
 井井井井 井井井井
 井井井井 井井井井

 という方が多くて、特に軍関係ではもっぱらこうだった。

 町中の景観の推移については、長野市の町で時期を追って同じ建物を撮り続けたものが残っていて、すごく参考になる。
 ところが、昭和20年8月終戦頃のこの町の写真では、多くの店々の窓が枠ごと取り払われて、黒々としたあなぼこみたいになっている。一軒二軒じゃなくて、町ごとそうなのだ。
 色々と他のものなども読み合わせているうちに、これは8月6日広島、9日長崎と原爆が落とされて、その傾向が明らかになった11日頃に、一定以上の都市でありながらまだ大規模空襲にみまわれていないところが危ないということになり、新潟だとか長野で「全市民」の市外への退避が行われていたのだったとわかった。市民全員、お年寄りも何もかも町から連れ出す、というのはたいへんなことだと思うのだが、たぶんその際に広島長崎での原爆爆風によるガラス破片被害への対策も語られ、取り外せる窓、そのほか飛散しそうな看板の撤去が行われたのだろうと思うに至った。
 こちらは、呉の町の様子の変化のことばかり考えていたので、とある呉市内の資料館の館長さんに、
 「呉ではその点どうだったんでしょうか?」
 と、聞いてみてしまった。呉も一時的にではあるが、アメリカ側で原爆投下のターゲットとして考えられていた時期があったからだ。尋ねてすぐに自分で気づいてしまった。呉市街は7月2日の空襲で大部分が焼失してしまっていて、残っている窓のことなど考えるまでもなかったのだった。
 「あ、そういえば、その前に呉は町がなくなってたんでしたっけ」
 と、思わず言葉に気をつけずに喋ってしまって、途端「どういう意味です?」とにらまれた。
 そう、建物はなくなろうとも、人がいる限りそこに町はありつづけるのだった。そのことは心しておかなくちゃならない。

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