COLUMN

第31回 「統制」の及ばないひとつの世界

 映画の本を手に取るとき、完成した映画についての言説よりも、作り手側があれこれ苦労した話を読むのが好きだ。むしろ、そうした中にこそ「表現」の本質が横たわっていると思うからだ。
 衣装、セット、結髪。いかにひとつの時代を作り上げるか、というようなことは実写の方がずっと熱心であり、内部への蓄積も行われてきたのだと思う。
 高畑勲さんが作りつつある『かぐや姫の物語』の遠い原点は、1982年頃の東京ムービー新社・藤岡豊プロデューサーが抱いた「『竹取物語』をSFチックに」という発想にさかのぼるのではないかとついつい想像してしまうのだが、あのとき藤岡さんは、高畑さんをも巻き込みつつ、いきなり黒澤明に監督を依頼しようとしていた。黒澤監督は、自分でアニメーションを監督することはないと思うが、時代考証くらいには協力してよい、と答えたのだという話を当時聞いていた。たぶん、黒澤さんの中には、あるいは日本映画の伝統の中には、平安時代を描くための一定の蓄積がすでにあったのだろうと思う。
 一般に空想性に多くを賭けてきたアニメーションの現場内部には、時代考証について蓄積されたものは何ひとつないといってよい。ヤクザ者の背中に彫りものを施すにしたって、「あのときのアレね」とひっぱり出してくるものがないから、いちいち基本的なことから勉強しなくてはならない。
 こうの史代さんのマンガ「この世界の片隅に」は、そうしたことを実にねちっこく作家個人の作業として調べ抜いた結果として成立している。こうしたものを目の前に置かれて、あらためてそれを受け止めるだけの現場的蓄積のなさを感じてしまう。結局、こちらも作り手側の個人的な作業として、自らの中に蓄積を作り出すことから始めるしかないのだろう。
 そう思って始めてからそろそろ1年8ヶ月。
 先日、朝日新聞の連載記事で取り上げてもらったときには、「写真4000枚を集めて」というような書き方になっていたのではないかと思うのだけど、実際、どれくらいの量の写真を集めてしまったのか、数えるのももはや無理な感じになってしまっている。朝日新聞でははじめ記者の方が「2000枚」と書いてこられたのだが、2000枚くらいはうっかりすると『魔女の宅急便』のロケハン1回分くらいだから、今、こちらのパソコンに収まっているのはたぶんそんなものじゃすんでないはずであってしまう。
 今では姿を変えてしまった呉や広島の町のかつての姿の写真もそこにあるのはもちろんなのだが、もっと場所を問わずに広く「ふつうの人々」の写真、「ふつうの町のたたずまい」の写真もできる限り集めてみてもいる。

 前にも書いたのだけど、今回行おうとしているのは「戦時中」とかいった大雑把な切り取りではなく、「何年何月頃の雰囲気」を読み取って画面に移すことなので、写真はただ集めて持っていても仕方なく、それがいつ撮られたものなのかはっきりさせておきたくなってくる。
 撮影日付がある程度わかっている、あるいはわかってきた写真は、何年何月という順番に並べられるようにしてみる。それをパソコンに上でスライドショーにして映し出してみる。
 すずさんが生まれた大正末年に始まって、終戦後にまで至る長い長い幻燈がはじまる。
 昭和の初年はまだ着物を着ていた人が大部分を占めていた時代だが、すぐに若い人々がおしゃれな洋装を楽しむようになる。つづいて、尋常小学校へ通う子どもたちが洋服に変わる。モボとかモガとかいいつつも、若い彼らのおしゃれの仕方も一定ではなく、時を追って移ろってゆく。
 昭和6年に陸軍が満州事変を、翌年に海軍が上海事変を引き起こし、しだいに「非常時」という言葉が時代の表面に押し出されてくる時期が訪れてしまうのだが、「ふつうの人々」の装いは変わらない。昭和7年12月の白木屋の火事だってクリスマスセールの飾りつけに引火したものだったし、8年には空前のヨーヨー・ブームとなる。彼らは無知で鈍感なのかといえば、これはむしろ「ふつうに生活しているだけ」なのだと思う。昭和10年が近づいてくると、人々の装いもすっかり開明的に垢抜けてくる。
 百貨店の食堂で、遊園地で、歳末大売り出しで、ごくふつうの玄関口や縁側に見られる人々の顔。
 支那事変と呼ばれた事実上の日中戦争が始まった昭和12年の夏、国鉄が夏休みの子どもたちのために走らせていた「おとぎ列車・ミッキーマウストレイン」ってどんなものだったのだろう。
 国家総動員法などというものができて、個々人の生活の上に直接影をさしはじめて、髪にパーマネントを当てるのが「自粛」の対象になると、すぐに、別の方法で髪をクルクルさせたロール巻きがはやる。戦費調達のために政府が売り出した戦時国債は、売れない。
 国民服という無粋なものが現れて法制化されるが、ほとんどの人はそんなものは着ない。
 かわいそうなのは、服装を統制されやすい立場にあった中等学校の生徒たちだ。昭和16年度からは文部省通牒で、全国の女学校(13歳から17歳)でセーラー服や襞つきスカートも廃止されてしまう。代わりに定められたへちま襟と襞なしスカートの標準服はあまりにもスマートでない。
 16年の暮れには戦争がさらに拡大するが、ふつうの人々はやはり国防色に染まろうとはせず、ふつうに背広を着、ワンピースを着て生活している。
 昭和18年2月、今度は文部省ではなく商工省(学校の制服の製造を統括していた)が「決戦下衣料生活最低標準案」として「米英模倣主義を一掃して、女子学生のスカートはすべてモンペにする」という布告をする。途端、統制型標準服のスカートをはかなくてもよくなった女学生たちは、それぞれ思い思いのズボンを仕立てはじめる。
 当時の雑誌『衣服研究』の昭和18年3月記事でさえ、
 「街頭にズボン穿きの女性が大分増えてきた。燃料不足の折柄温かいということ、弱くて高い靴下の消耗が防げることなどの実用性からにも違いないが、一つには若い女性のあいだの戦時流行であることも否めないと思う。(中略)普及策を講じないと着ない女子標準服と、誰も奨励しない中に女性自身実践に移してしまったズボンと、大変面白い問題が含まれるように感じられる」
 と、こうした傾向を愉快に感じているようだ。
 同じ雑誌の街頭調査では、その若い一般女性たち(これはさすがに女学校を卒業した人たち)は、表向き「もんぺ」と称したズボンの足元にハイヒールを多く履いていた、とも述べられている。
 スライドショーの写真たちは、たしかにそんなふうだったと伝えてくれる。

 19年末から本土空襲が全国的に行われるようになる。この頃になると布地は欠乏していて、ついに女学生たちも和服の古着からとった布でもんぺを仕立てなければならなくなる。
 20年8月広島に原爆が落とされて、その下にいた人々が着ていた衣服が平和記念資料館に集められ、それを写真家・石内都さんが写真集「ひろしま」として編んでいる。そこに写された女性たちの衣服は、泣きたくなるくらい可愛らしい柄物だったり、華やかなワンピースだったりして、言葉に詰まる。
 統制が最後の最後まで及ばなかった世界がひとつ、確実にそこにある。

 すずさんは、尋常小学校の頃、同級生たちが洋服に変わっても、自分もブラウスになりながらも最後まで綿入れ半纏を着ていたような奥手な子だから、きっとそうしたものを、ちょっと離れたところから眺めていたのだと思う。

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