COLUMN

第17回 真鍮の手すりを求めて

 『マイマイ新子と千年の魔法』を作ったとき、山口県では公立小学校にふつうに制服があるのを知った。新子が通っていたことになっている松崎小学校では、校長先生のお許しをいただいて、顔を写さないことを条件に、在校の子どもたちが現に着ている制服を写真に撮らせてもらった。制服というのはそんなようなもので、平成の今の世だろうが、昭和30年だろうが、変わらず同じデザインのものを着ているのだった。
 では、その同じデザインの制服は、さかのぼると一体いつ頃から着られていたのだろうか。それもこの時に調べてみた。松崎小学校の史料室にあったアルバムには、歴代の卒業写真がずらっと並べられていた。今と同じデザインの制服は、昭和5年から着られていた。男の子は襟のある学生服みたいなの。女の子はセーラー服。じゃあ、その前は? というと、昭和4年度の卒業生が卒業式に晴れ着としてきていたのは、和服の着物だった。それより前は明治に至るまでずっと同じ。
 『この世界の片隅に』を手がけるようになって、あらためて、全国各地の小学生の写真をたくさん並べて眺めてみたりもした。だいたい同じ傾向で、昭和になってから昭和ヒト桁の真ん中あたりまでのあいだに、尋常小学校へ通う子どもたちの着るものは、制服私服を問わず、洋服に変わっていたのだった。
 俗に、昭和7年12月の白木屋百貨店火災が日本の女性たちにパンツを普及させたきっかけ、みたいにいわれているのだが、将来「日本の女性」となるべき女児たちは、それより以前から、洋装化とともに下履きもはくようになっていたのだった。初期には太ももまで丈のある「ズロース」だったらしい。
 何より肝心なのは、子どもらの装いが一変するほどに、この時期に世の中のモダン化が進んでいる。白木屋火災だって、クリスマスセールの飾りつけに火がついてしまったからのことだったのだ。
 昭和11年の広島県立商業学校生徒のレポートみたいなものが手元にあるのだが、この頃に広島の商店街の店舗の看板を調べてみた、というものもある。例えば、目抜き通りの看板の文字は、筆書きみたいなものは1割半ほどに減っていて、それ以外はちゃんとレタリングされた「図案文字」を使っている、とある。ネオンサインなんかも多用され始めているのだが、すでに、ただネオンを点しているだけでは珍しくもなく時代遅れの感があり、ネオンとサインランプを組み合わせたり工夫しなければ最先端とはいえない、というような意見まで述べられている。
 昭和初年という時代は、実はかなり近代的な装いなのだ。
 そういう意味では、昭和9年、10年とまだ和服のままでいるすずはやはり垢抜けない子なのだ、とも思うことができる。彼女が画面上洋装に変わるのは、昭和13年の場面まで待たなければならない。

 「この世界の片隅に」で肝心なところは、一見平凡に見える日々が積み重なって時を作っている、という感覚なのかもしれない。時は移ろい、ある日々には平凡と思っていたものが、いつか決定的に手を届かすことのできない「過去」に変わっていってしまう。それゆえ、一日一日は愛おしく大切なのだ。
 それは「戦時中」とひとくくりにされる時期にももちろん当てはまる。日中戦争が始まった昭和12年と、対米戦に踏み切ってしまった昭和16年暮以降が異なるのはもちろん、17年、18年、19年、20年と単にお正月が来たから区切られる以上の各時期の変化が、このいわゆる「戦時中」とくくられてしまう中に起こっている。そうして日々様相を変えるのが、「毎日」なのだったりする。
 「戦前」についても同様で、「毎日」は一色ではない。このあいだから書いている今は広島平和記念公園のレストハウスになっている広島市中島本町の大正屋呉服店についても、その見た目の変化を、戦前という時期に限っても、追っていかなければならない。こちらが画面に表したいのが、「昭和8年12月22日のこの店」だからなのだが。
 昭和4年3月のこの建物の写真は比較的簡単に見ることができる。この建物を建てた清水建設が竣工時に撮影した写真が提供されて、現地の案内板などにも使われているからなのだが、実は写真に添えられたキャプションをはじめから鵜呑みにするのは慎むようにしている。誤伝である場合が多々あるからなのだが、この場合は写真の中に「當店舗落成□ 三月廿日頃 新築記念大売出」と大書された立て看板(□は「喜」の草書体だと思う)が写りこんでいるので、この写真に限っては撮影時期はかなり明瞭だ。
 注目したいのは、建物向かって左側(つまり中島本通りに面した方)のショーウィンドーには手すりがない。けれど、この建物の復元イメージにはたいていここに真鍮製の手すりが取りつけられていたようになっている。たぶん、いつ頃からかそれは取りつけられたのだろう。それはいつ頃なのか? というのが、今回の広島探索行きで調べたい目的のひとつとなった。

●2012年12月19日水曜日(867日目)

 もう何度目になるのか見当もつかなくなってしまっているのだが、またもや広島に向かっている。今回のメンバーは、監督補佐兼画面構成の浦谷千恵さん、現場プロデューサーの大塚学くん、メイキングビデオ撮影の河崎孝史さん、自分、という4人。ほかは東京に残って仕事している。
 いかんせん、時間がないところを飛び出してきてしまっているので、現地のアーカイブ関係を十分に回ることができなかったのだが、広島市公文書館で、10年以上前の平和記念資料館企画展の図録に、手すりの写真が1枚載っているのを確かめ、市公文書館から広島平和記念資料館に取り次いでいただいて、図録の実物を1部分けてもらえることになった。公刊されたものに載っていたのを見逃していたのだから、ちょっと間抜けな話なのだが、ともあれ、このように各方面からご好意を預かることができている。
 大手町の市公文書館からいったん中島本町のレストハウス(旧・大正屋呉服店)まで歩き、実物を見てみる。今のレストハウスの窓の下に手すりはないのだが、前回に来た時に浦谷さんが「手すりの跡らしいものを見たように思う」といっていたのだった。実物を前に見直してみると、たしかに2本1セットの手すりがついていた丸い窪みが縦にふたつずつ並んでいたのを見ることができた。どうも、元安橋へ向かって道路を嵩上げしたために、かつての大正屋呉服店は今現在、石組みの1段分くらい地面に埋まった感じになっているらしい。浦谷さんは、それを除けば自分がレイアウトに描いた石組みは石の数まで正しく合っていた、と数えていた。
 その後、平和記念資料館で図録の現物をいただくことができ、この出張の次の目的に向かった。この先の資料探索をどう進めればよいのか、識者の方のお話をうかがうというのがさらに大きな目的だった。
 ともあれ、平和記念資料館図録の大正屋呉服店ショーウィンドーの写真には「昭和12年頃」というキャプションがあった。キャプションを鵜呑みにしてかかることはしない。なのだが、この写真には「大正屋呉服店前での千人針の呼びかけ」とタイトルされていて、写っている2人のご婦人がしているのはまさしくそのとおりのことのようだ。なおかつ、片方は日傘を差し夏の簡単服(いわゆるアッパッパ)を着ている。昭和12年7月7日に日中戦争が始まったその夏の写真である感じが濃く漂っている。
 大正屋呉服店のショーウィンドーの真鍮の手すりは、昭和4年3月には確かになく、昭和12年夏にはあったようだ。そこまではわかった。けれども、われわれが求めているのは「昭和8年暮」にはどうだったか、なのだ。さあ、どうなのだろう。
 この件を解くために少し考えるべきポイントがあるような気がする。解けるものかどうかわからないのだが、手元にあるものを見直してもうちょっと考えを進めたいと思う。

 その夜には呉にいた。呉には10年来以上の友人である神田輔君がおり、今年でたばかりの広島電鉄の新しい社史をもらうことができた(自分の分はすでに持っていて、2冊目なのでくれても構わないという)。
 広電の社史だとかそれに類するものはすでに何冊か持っていたのだが、今回の一番新しい社史からは成果大だった。戦時中の昭和18年撮影とされる広島市内の写真が載っていた。
 白島線京口門電停付近から撮られた写真で、画面奥遠くに映るのは、八丁堀の福屋百貨店新館だ。このデパートと金座街の入口をはさんで向かい合う店舗には、さらに以前の写真では「明治チョコレート」の看板と、「Meiji」の横文字ロゴが出ていた(この写真がまた何年のものだか考えなくてはならない)。それがこの「昭和18年」とキャプションされた写真ではきれいさっぱり取り除かれている。「戦時中」のどこかの時期に、こうした街中の看板はかなりが取り払われていたはず、と思っていたので、広島での実態がよくわかって、得るものが大きかった。

この世界の片隅に 上

価格/680円(税込)
出版社/双葉社
Amazon

この世界の片隅に 中

価格/680円(税込)
出版社/双葉社
Amazon

この世界の片隅に 下

価格/680円(税込)
出版社/双葉社
Amazon