COLUMN

第16回 もうひとつの町への入り口

 広島の中島本町について書いてきたのだけれど、とはいえ『この世界の片隅に』という物語のほとんどは呉を舞台にしている。
 呉は広島の中心街から南東におよそ20キロ。三方を山に囲まれた盆地、というより、むしろ南西側が海に向かって開いた谷間に街があるといってよい。
 やっかいなことに、この谷の口である南西側の海面は日本海軍の根拠地だった。何がやっかいかというと、軍港があるがために、このあたり一帯は軍機保護法の対象区域にあたっていた。

 軍機保護法(昭和12年8月改正条文)

 第八条 陸軍大臣又ハ海軍大臣ハ軍事上ノ秘密保護ノ為必要アルトキハ命令ヲ以テ左ニ掲グルモノニ付測量、撮影、模写、模造若ハ録取又ハ其ノ複写若ハ複製ヲ禁止シ又ハ制限スルコトヲ得

 一 軍港、要港又ハ防禦港
 二 堡塁、砲台、防備衛所其ノ他ノ国防ノ為建設シタル防禦営造物
 三 軍用艦船、軍用航空機若ハ兵器又ハ陸軍大臣若ハ海軍大臣所管ノ飛行場、電気通信所、軍需品工場、軍需品貯蔵所其ノ他ノ軍事施設

 カタカナ交じりの文語体の文は読みにくいだろうか。こちらはこんなものばっかり眺めていたので、すっかり慣れてしまっている。当時の物事がどうなったかを理解するためには、こんな感じのものを読み解くことから始めてみるしかないのだった。ちなみに、この法律については、添え書きされた改正時期にポイントがある。明治時代に作られた法律が、昭和12年の七夕の日に始まった中国との戦争をうける形でさらに頑強に強化されているのである。さらにいえば、ものすごく厳重に機密保護された戦艦大和の建造が呉で始まったその頃にあたる。
 それでどんなことになったか、というひとつの結果が、昭和12年頃の呉の新聞に載っていた。広島からの呉線の汽車の乗客が呉の手前の狩留賀浜あたりの海水浴場にむけて車中からカメラを構えて写真を撮った、というだけで、呉駅のホームには憲兵が待ち受けていて、この男性を連行してしまったことなどが載っている。
 『この世界の片隅に』の主人公すずは、よりにもよって、写真ひとつ撮るのも困難な町に住まいを定めてしまうのだった。
 町を描こうにも写真がない。

 町の姿を写した写真はほんとうにないのだろうか。
 まず、昔の絵葉書ならいくらかある。そういうものを手に入れてみる。すると、それが絵葉書であるという限界にすぐぶつかってしまう。「本通四ツ道路」「二河公園」「中通千日前」と、同じようなところを写したものばかりなのだ。それから、時代がやや古いものが多い。もっと大事なことに、町の背後の山がたいてい消されてしまっている。
 『マイマイ新子と千年の魔法』で防府を描いたときに、何よりもポイントを置いたのは「その場所から見える山の姿」だった。ここを真面目にやったおけがで、映画を観た現地の人から、
 「今、自分が画面の中でどこに立っていて、どっちの方向を向いてるのかわかる」
 といってもらうことができた。
 その山が呉の場合、絵葉書のみならず様々な写真から消去されてしまっていた。これは、もし敵国の軍艦が近くまでやってきたとして、山の位置を目印に三角測量で軍港の位置を割り出して砲撃することができてしまうから、という理由によるのだという。やっかいだ。
 山ならば今でもそこにあるではないか、ということもできる。行って見てくればいいだろう、と。たしかに山のシルエットは変わらないのだけれど、今現在では尾根まで登るように家が増えてしまっている。反面、昔はあったはずのこの地域に独特の段々畑が減ってしまっている。防府の例でいえば昔の方が山に生えている木が少なかったはず、などとも思ってしまう。
 そもそも自分が『この世界の片隅に』という作品の存在を知ったのは、防府市文化財郷土資料館館長である吉瀬勝康さんとの会話の中からだったのだが、そのとき『マイマイ新子』ファンの1人として同席しておられた宮坂浩司さんは、昔の飛行機のガレージモデルを作っておられる模型屋さんだ。その宮坂さんが、進駐軍が戦後すぐに撮影した写真があることに気づいて、教えてくださった。
 進駐軍、というとGIとかヤンキーとかマッカーサーだとか、要するにアメリカを思い浮かべてしまうのだが、中国地方と四国4県に関してはイギリス連邦軍が戦後の占領を行っていた。
 『マイマイ新子』の山口県はニュージーランド軍の担当で、貴伊子の住む社宅がある工場は戦後しばらくニュージーランド軍に接収されていた。
 呉を含む広島県はオーストラリア軍の占領担当だった。本来ならば広島県で最大の都市である広島は原爆の痛手を被っている。そこで、オーストラリア軍の司令部は呉や江田島に置かれていた。
 オーストラリアのデジタルアーカイブを訪ねてみる。
 写真が豊富にあった。ただし、町中は少ないようだった。ほとんどは彼らが占領という事業の拠点にした、旧日本海軍の鎮守府、海軍病院、軍港、海軍工廠、軍需部みたいなものばかりだった。さかさまにいえば、戦時中までの写真が最も残りにくい場所ばかりだった。
 こうしたものが、『この世界の片隅に』に描かれた日々の呉の姿を目にした最初のものとなった。とはいえ、一見しても何が写っているのかよくわからない。実際には、海兵団の場外練兵場でスポーツ大会だとかパレードしている(こちらから見れば)退屈な写真ばっかりだったし、岡山県を占領するインド軍に送るために大量の羊を陸揚げしてる写真なんかもあってそれはそれでおもしろかった。

 豪州軍の写真群を眺めて最初に思ったのは、これは大塚康生さんの世界だ、ということだった。占領軍のジープやCMPがやたらに走り回っていた。CMPというのは、英連邦各国軍のために、カナダで作られた統制型軍用車(カナディアン・ミリタリー・パターン)のことだ。車台がフォードだろうがシボレーだろうが、上にはまったく同型のキャビンが載る。大塚さんはかつてMAX模型という模型会社の企画開発に関わって、米軍や英連邦軍の軍用車両のプラモデルを盛んに作らせていた。それにしても、CMPのキャブ13・15cwtトラックなんてものをなんでプラモデルにするのだろう、と思っていたのだが、あれは大塚さんが思春期を過ごした占領期の山口県の光景を再現したものだったのだ。そうあらためて気づいた(ちなみにCMPのキャブ13は、『ルパン三世 カリオストロの城』で銭形突撃隊が使っていたりする)。

 けれど、今はトラックを眺めるのが目的ではない。その他の雑多な写真に目を向けてみなくてはならない。他人の昔のアルバムを、解説もまったく添えられることなく眺めさせられても、投げ出したくなってしまうのが普通なのではないだろうか。
 そこを我慢して、夜ごと写真を眺めまくる。
 「この桟橋は」「このクレーンは」「この道は」と、ちょっとずつ土地鑑を養ってゆくことを繰り返した。何より、写真の背後には、無修正の灰ヶ峰や休山、鉢巻山が写っていた。山々の頂や尾根に木がなく、地肌がむき出しになっているところも多かった。
 旧海軍が残した資料も多少はあって、海軍の敷地内を海軍の職員自身が写した写真もいくらかは見ることができる。それから、戦後海軍が占領軍に提出した施設引渡目録もあって、これと照らし合わせて、まったく同じように見える工場や倉庫なんかもひとつずつどこにあった何の建物なのか理解してゆくことが、はなはだ面倒なのだが、できることはできる。
 そのうちに、これは会計部の事務所で、こっちのは酒保だ、とかわかるようになってくる。「kure」とキャプションしてあるが、これは広島の紙屋町だな、とかわかるようにもなる。ジープの写真の背景にピンぼけで写っているのは、被爆してなお使われつづけている広島市八丁堀の福屋百貨店本店の玄関ではないか。
 こうしたことは、土地鑑を養うための作業としては意味があったと思う。しかし、そうしたほとんどは今回自分たちが作る映画の中に直接使われることはないはずだ。
 次は、庶民の生活の場だった市中に探索の目を広げていかなくてはならない。原爆で消えてしまった広島中島本町と同じく、呉の市街も昭和20年7月2日の市街地焼夷弾空襲でほぼ焼失してしまってその姿を留めない。われわれの仕事としては、焼ける前の呉の商店街をひとつ、そっくり描けるようにならなくてはならないのだった。

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