1968年は、スポ根アニメの金字塔『巨人の星』が放映開始された年である。
原作は梶原一騎と川崎のぼるが、講談社の「少年マガジン」に連載していた看板作品。厳しい特訓やライバルとの死闘を通じて名投手への道を突き進む少年・星飛雄馬の物語は“スポーツ根性もの”という新ジャンルを開拓し、声優・古谷徹の出世作ともなった。製作は東京ムービー。実制作の中核を担ったのは、同社専属の制作会社Aプロダクションだ。作画監督の楠部大吉郎、演出の長浜忠夫らは、力強く量感のある魔球のアクション、闘志や情念の視覚イメージに果敢に挑戦。本作はまた、在阪の読売テレビがキー局を務める初の作品でもあった。
『巨人の星』に見られる物語や絵柄の重厚さは、“劇画”の台頭というマンガ界の流れとも連動していた。牽引役となった雑誌「ガロ」の創刊は64年。白土三平、水木しげるなど貸本マンガ家出身者が同誌で活躍、みるみる時代の寵児となっていった。白土が61〜66年に「少年」に連載した『サスケ』がアニメ化されるのも本年9月のことである。また、それに先立つ1月には、水木が紙芝居時代から執筆していた代表作『ゲゲゲの鬼太郎』の放映がスタート。本作に登場する個性的な妖怪たちは視聴者を魅了し、一大“妖怪ブーム”を巻き起こす。10月より始まった『妖怪人間ベム』はその片翼を担う存在であり、こちらは西洋怪奇色あふれる画面が異彩を放った。
こうした潮流は、虫プロにも影響を及ぼした。手塚マンガの持つ丸みを帯びた画風は次第にTV界から敬遠され始め、同社は非・手塚原作のアニメ企画に乗り出すことになる。2月には江戸川乱歩原作の『わんぱく 探偵団』を、4月には川崎のぼる原作の『アニマル1』を発表(製作は系列の虫プロ商事)。そして10月には石森章太郎原作の『佐武と市 捕物控』に参加している。ちなみに本作は、虫プロ、スタジオゼロ、東映動画の3社分担で制作が行われ、虫プロ側はりんたろう監督のもと、村野守美がキャラデザインと作画監督を担当。その荒削りな描画スタイルは東映動画の木村圭市郎に刺激を与え、翌年以降、同社に劇画タッチを浸透させていくのである。
4月には、同じく石森原作の『サイボーグ 009』がスタート。先に公開された劇場版2作を受けて東映動画が製作したTVシリーズであり、本作の成功は、東映グループと石森プロとの末永い連携の出発点となった。
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データ原口のサブコラム
怪獣ブームと妖怪ブーム、その境界線は明確ではない。
妖怪ブームは、怪獣ブームとダブりながら、1967年から69年にかけて盛り上がっていった、と考えるのが妥当と思われる。
その起点となる時期はいつか。
67年4月1日、『悟空の 大冒険』の裏番組として始まった『黄金バット』が、すでに怪奇色を帯びたヒーローアニメであること。その人気に対抗すべく『悟空』が第22話(6月3日放映)より行った路線変更が、その名も「妖怪連合シリーズ」だったこと。それらを考え併せれば、67年春頃から妖怪ブームは始まっていたといえる。
妖怪ブームの立役者である『ゲゲゲの鬼太郎』に眼を向けると、もっと事態はわかりやすい。
水木しげるが紙芝居や貸本などのマイナーな媒体ではなく、メジャーな全国誌である講談社「週刊少年マガジン」に初めて『鬼太郎』の原作を発表するのが65年8月1日号(第32号)。この時のタイトルは『墓場の鬼太郎』であり、しばらくは不定期掲載という形であった。完全な週刊連載に切り替わるのが67年5月7日号(第19号)で、23週連載が行われた後、67年11月12日号(第46号)よりタイトルを『ゲゲゲの鬼太郎』に変更している。つまり、『墓場の鬼太郎』の週刊連載が本格化する時期がまさに67年春であり、上記の『黄金バット』や『悟空』の「妖怪連合シリーズ」の時期とも符合するのである。
もうひとつ、妖怪ブームを考察する上で注目しておくべき作品は、同じ水木原作による「悪魔くん」だ。同作もまた貸本漫画としての発表時期の後、「週刊少年マガジン」で不定期連載が始まっている。その最初が66年1月1日号(第1号)であり、ちょうど『鬼太郎』の休載期間に挟まる形だ。これは、『鬼太郎』のアニメ化企画が暗礁に乗り上げ、代わりに「悪魔くん」のTV映画化の企画が浮上した時期に相当する。
その「悪魔くん」だが、特撮TV番組として放映されたのは66年10月7日〜67年3月30日だ。これは、怪獣ブーム元年の後半に位置し、ちょうど円谷プロの「ウルトラマン」(66年7月17日〜67年4月9日)やピープロの「マグマ大使」(66年7月4日〜67年9月25日)などと放映時期が重なる。そのため、妖怪もののTV映画化とはいいつつ、登場する妖怪には巨大な怪獣タイプのものも多数存在した(第4話の大海魔、第5話のペロリゴン、第10話のシバの大魔神、第16話のモルゴン、第18話の雪女、第23話の化ぐも など)。つまり、「悪魔くん」は水木漫画の映像化でありながら、多分に“怪獣ブーム”寄りの番組作りが行われていたのだ。
一方、同じ水木原作のTV映画作品「河童の三平 妖怪大作戦」(68年10月4日〜69年3月28日放映)のほうは、登場妖怪も人間と等身大のものが主流で、こちらは“妖怪ブーム”寄りに仕上げられていたことがわかる。どちらも東映テレビ部の製作作品なので、ブームの影響がはっきり比較できるのである。『鬼太郎』のTVアニメ放映期間は68年1月3日〜69年3月30日であり、「河童の三平」はその範囲にすっぽり含まれている。このことからも、“妖怪ブーム”寄りの作風は必然的だったのだ。
TVアニメでは、『妖怪人間ベム』(68年10月7日〜69年3月31日)や『どろろ(どろろ と 百鬼丸)』(69年4月6日〜69年9月28日)が“妖怪ブーム”のまっただ中に位置する作品である、ややマイナーな例では、日放映が製作した『冒険少年 シャダー』(67年9月18日〜68年3月16日)が、悪魔や妖怪、超常現象を扱った世界観としてブームの傾向を反映した作品になっている。
本来は怪獣番組であるはずの作品に、“妖怪”的なエピソードが顔をのぞかせ始めるのも、怪獣ブームから妖怪ブームへのゆるやかな移行期を示す傍証になる。例えば、「ジャイアントロボ」の第23話「宇宙妖怪博士ゲルマ」(68年3月11日放映)、第25話「宇宙吸血鬼」(68年3月25日放映)、「ウルトラセブン」第33話「侵略する死者たち」(68年5月19日放映)、第41話「水中からの挑戦」(68年7月14日放映)など、そのネーミングや登場怪獣(宇宙人)の設定に妖怪(オカルト)的な味つけがされていることに注目したい。両番組とも、68年に入ってからその頻度が増すことは単なる偶然ではないだろう。また、実写+アニメ併用番組『コメットさん』でも第47話「妖怪がでたぞ」(68年5月27日放映)、第60話「妖怪大行進」(68年8月19日放映)、第63話「妖怪の森」(68年9月9日放映)と、68年春以降に“妖怪”寄りのエピソードが3本も作られている(もちろん、夏向きなので怪談ネタを、という企画意図も介在しているだろうが……)。
特撮怪獣番組では、顕著な例がもうひとつある。「ウルトラQ」「ウルトラマン」「キャプテン ウルトラ」「ウルトラセブン」と、基本的に怪獣路線で続いてきた日曜19時枠・TBS系の後番組が「怪奇大作戦」(68年9月15日〜69年3月9日)へと変わったことだ。これは怪獣ブームから妖怪ブームへの変化を一番端的に表している。
では、怪獣ブームと妖怪ブームの終点はいつか。
ブームの終焉ほど特定しにくいものはない。ただし、怪獣&妖怪ブームが鎮静化するのと入れ替わりにスポ根ブームが盛り上がり、そのスポ根に翳りが見え始めた時に再び復活してきたのが怪獣&変身ブーム(第2次怪獣ブーム)である、という相関関係を前提にすれば、それぞれの境界時期は69年と71年となる。
特徴的な番組の終了をもって区切りの目安にする、という考え方もある。
第1次怪獣ブーム期において、頻繁に怪獣が登場する特撮番組として最後と思われるのは「戦え!マイティジャック」第24話「ハプニング島へ進路をとれ!!」(68年12月7日放映)である。同話に登場する巨大ワニが、この時期の最後の怪獣ではないだろうか。ただし、日本電波映画製作のお蔵入り作品「ジャングルプリンス」(製作は64年)が遅れて集中放映された例(70年7月6日〜70年8月10日)があり、これに登場する怪獣ロボラや鋼鉄人間ザックなどを加えると、時期はもっとずれ込んでしまうのだが。
同様に、頻繁に妖怪が登場する番組として最後のものは『どろろ と 百鬼丸』であり、その第26話「最後の妖怪」(69年9月28日)に出てきた47匹目の妖怪・鵺、あるいは妖怪と化した百鬼丸の父・醍醐景光が、ブーム期最後の妖怪ということになろうか。
上記2つの番組が終わった時、2つのムーブメントにも区切りがついたのだ。