COLUMN

『タイガーマスク』を語る
第9回 「幸せの鐘が鳴るまで」についてもう少し

 第50話「此の子等へも愛を」、第54話「新しい仲間」、第55話「煤煙の中の太陽」、第64話「幸せの鐘が鳴るまで」について、改めてまとめておく。
 第50話では被爆者家族が、第54話では過保護が、第55話では四日市の公害が、第64話では交通遺児がモチーフとなった。これらのエピソードについて「社会的な問題を取り上げており、それが素晴らしい」と言われることが多いが、前回までで触れたように、この4本の価値はそれだけではない。社会的な問題を取り上げつつ、それと同時に主人公である伊達直人がそれまでやってきたことに対しての疑問を提示し、彼の無力を描き、そして、本当に何をやるべきかについて模索し、ひとつの結論に達した。その結論は不幸な境遇にいる人達に対して、一人の人間が何ができるのか、というものであり、視聴者に対するメッセージでもあった。
 この一連のコラムでは、第50話に関して「他人の不幸を娯楽として消費すること」が皮肉を込めて描かれていたとしている。娯楽として消費するのがよくないことだとしたら、我々はどのように不幸な境遇にいる人達と向き合えばいいのか。第64話で到達した結論はそれに対する回答であったと考えることもできる。

 第64話「幸せの鐘が鳴るまで」について、僕が最も語りたかったことは前回のコラムで書いた。以下は前回のコラムから溢れた内容だ。
 まず、第64話の脚本を執筆した安藤豊弘についてだ。このコラムの第5回で『タイガーマスク』DVD BOX第2巻の解説書の斉藤侑プロデューサーのインタビューを参照して、彼が各話のプロット(それは設定書と呼ばれていた)を書いたと記したが、改めてLD BOXの解説書に掲載された斉藤侑プロデューサーと脚本・安藤豊弘のWインタビュー(それはDVD BOX第2巻の解説書に再録した)を読むと、シリーズの途中から斉藤侑、安藤豊弘と脚本の三芳加也の三人が籠もって、設定書を1クールずつくらい作っていったとある。三芳加也は第52話で『タイガーマスク』の脚本から外れているようであり、第5クール以降は斉藤侑、安藤豊弘が物語を構成していったと推測できる。第6クールのクライマックスである第78話、最終話の第105話も安藤豊弘が脚本を執筆。『タイガーマスク』の作品のカラーについて、彼が作り上げた部分も大きかったのだろうと思われる。

 次は個々のシーンに触れる。孝のアパートで、直人が食卓を囲んだ場面についてだ。この場面では直人、孝、孝の母親が疑似家族となる。前回のコラムでも触れたように、直人は初めて母の手料理を口にし、夫を亡くしている母親は親子三人の暮らしを懐かしんだ。孝は母親が帰る前から、直人がいることで機嫌がいい。もしも、直人が孝の父親となり、一緒に暮らせば三人は幸せになれるだろう。しかし、直人がこの家に留まることはできないし、父親になるのも現実的なことではない。さらに言えば、それが実現したとしても、直人が幸福にすることができるのは、世界に大勢いる不幸な子供の内のたった一人でしかないのだ。すなわち、第50話からの一連のエピソードで描かれている「直人の無力」のひとつである。
 この場面は「直人が孝の父親になれば三人が幸せになれるが、それは実現できないことであるし、できたとしても……」ということを示しているわけだが、劇中の誰かがセリフやモノローグで「父親になってあげれば……」と言葉にしているわけではない。それはシチュエーションで示されるのみだ。シチュエーションから視聴者が「ああ、直人が父親になってあげれば……」と考え、そして「それは現実味がないことだな」と思い、さらに何かを感じてくれることを作り手は期待しているのだろう。このような仕掛けをドラマに施すあたりが、『タイガーマスク』の作劇の真骨頂だ。ドラマの作りが大人だと、僕は思っている。

 以下は別の話だ。第64話のBパートでタイガーマスクの試合が描かれる。孝と母親も会場で試合を観戦する。直人がチケットを送ったのだ。この日のタイガーの対戦相手は強敵ではなかったが、恵まれない子供達のために何ができるかを考えていたためか、タイガーは苦戦してしまう。腕がロープに絡んだ状態で対戦相手によって痛めつけられる。彼は「こんな無様なタイガーの姿を見たら、孝君はどう思うだろう……」と考えはしたが、遂に反撃に転じることはできなかった。試合はタイガーの反則勝ちで終わったが、その勇姿を観ることができなかったため、孝は失望する。ここで活躍できなかったことが、後のシーンで直人が「たった一人の子供にでも夢を与えることができれば……」と思うことに繋がるのだが、直人が自分の無力を痛感するエピソードで、さらにタイガーマスクとして活躍ができなかった試合を描くとは、この作品の作り手達は容赦が無い。子供に夢を与えようと思ってもそれを実現できるとは限らない。現実とはかくも厳しいものなのだ。

 第64話の舞台になった甲府には謝恩碑と呼ばれる建築物がある。明治40年代に山梨で度重なる水害があり、それを知った明治天皇が御料地を下賜した。謝恩碑はその感謝等を後世に残すため建造されたものだ。この話の冒頭で、寂しげな孝が謝恩碑を見上げる描写がある(その前に直人が武田信玄の銅像を見る描写もある)。謝恩碑を見せるために数カットを使っており、PAN DOWNで謝恩碑を見せたカットの後に、孝のカットがあり、謝恩碑のPAN UPのカットがあり、さらに孝のカットと謝恩碑のカットを繰り返す。いかにも、何か意味がありそうな描写であり、冒頭で孝が謝恩碑を見上げていることと、ラストシーンで直人が教会を見上げていることが対になっていると考えて、それを解釈することは可能だが、あまりにも手がかりが少ない。このコラムではその意味について触れることはせず、僕にとっての宿題としたい。

 そして、第64話で直人が到達した結論の、その続きについて触れよう。第64話で直人は全ての恵まれない子供達、全ての不幸な境遇にいる人達を救うことを諦めた。そして、皆が他人の幸せを考えるようになることに期待して、自分ができることをやっていこうと思った。そして、第76話「幻のレスラー達」(脚本/柴田夏余、美術/浦田又治、作画監督/我妻宏、演出/新田義方)である。大門大吾が直人の仲間になった後のエピソードであり、この第76話で初めて大門がちびっこハウスを訪れている(実は大門は第38話でルリ子、健太、チャッピーと会ってはいる)。ハウスが狭いため、雨の日に大勢の子供が遊ぶには手狭だった。そのことで子供達が喧嘩をしていることを知った大門は、若月先生に対してハウスの庭に、雨の日に遊ぶことができる離れを作ることを提案する。大門は大工などには頼まず、自分の手でそれを作るのだという。彼は子供達にも声をかけ、子供達も離れの建設に参加する。離れが完成するまでの日々が描写される。大門も子供達も楽しそうだ。
 大門も虎の穴を裏切っており、虎の穴の追っ手から逃れるために土木作業員、庭師、板前等、職業を転々としてきた。ハウスでの離れの建設では彼の器用さと、様々な職業に就いてきた経験が活かされるかたちとなった。
 それまでの『タイガーマスク』なら、直人は子供達が雨の日に遊ぶ場所がないと知ったところで、大工を雇って作らせていたはずだ。つまり、ファイトマネーを使っていたはずだ。前回のコラムで触れたように、第64話以降、直人が恵まれない子供達、不幸な境遇にいる人達のためにファイトマネーを使う描写はない。もしも、作り手と直人が、無闇矢鱈にファイトマネーを使うべきではないと考えたのだとしたら、雨の日に子供達が遊ぶ場所が無いという問題に対して、どう対応するべきなのか。
 ここまで書けば、分かっていただけるのではないかと思う。大門と子供達が、自分達の手で離れを作ったことは『タイガーマスク』の物語の中で画期的な出来事だったのだ。作り手達は第64話で到達した結論の、さらに次の段階を描いたのだ。
 離れのための資材は大門がファイトマネーで用意したものであるはずだが、それは大きな問題ではない。まず、直人が一人で問題を解決するのではなく、大門という第三者が動いてくれた。小規模なものではあるが、直人がそうなることを望んだ「自分以外の人間が不幸な境遇にいる人のために何かをする」の実現である。そして、金銭で全てを解決してそれで満足するのではなく、子供達に歩み寄り、苦楽を共にすることを大門は示した。子供達にとっても有意義な体験になったはずだ。直人に大工仕事ができるかどうかは分からないが、恐らくは不得手だろう。直人が大門という仲間を得たからこそ実現した新しい一歩だった。

●第10回 第6クールの展開とクライマックス に続く

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