第281回 不穏なアクセント 〜牧場の少女カトリ〜

 腹巻猫です。5月29日にSOUNDTRACK PUBレーベルよりCD「冬木透 アニメ音楽の世界 牧場の少女カトリ」が発売されます。TVアニメ『牧場の少女カトリ』の初の完全版音楽集です。今回は、その内容と聴きどころを紹介します。


 1984年に放送されたTVアニメ『牧場の少女カトリ』は、日本アニメーション制作の「世界名作劇場」シリーズ第10作。同シリーズで『ペリーヌ物語』『トム・ソーヤ—の冒険』などを手がけた、脚本・宮崎晃、監督・斎藤博のコンビによる作品である。
 舞台は1910年代のフィンランド。9歳になる少女カトリは、ドイツに出稼ぎに出た母の帰りを待ちながら、祖父母とともに暮らしていた。しかし、第一次世界大戦が始まってから、母からの連絡は途絶え、家の暮らしも厳しくなっていった。カトリは家計を助けるために、ひとりで働きに出る決心をする。ライッコラ屋敷の家畜番として雇われたカトリは、さまざまな経験や出逢いを重ねながら、将来への夢を育んでいく。
 原作はフィンランドの作家、アウニ・ヌオリワーラが1936年に発表した小説。日本ではあまり知られていない作品だし、格別ドラマティックな展開があるわけでもない。アニメ化にあたり、スタッフは舞台を原作より現代に近い時代に変更し、キャラクター設定をふくらませるなどして、視聴者が興味を持ちやすい内容にアレンジしている。特にカトリが類型的な「働きものの少女」に収まらない、夢見がちで気の強い一面を持ったキャラクターに描かれているのがいい。それがユーモアにつながり、本作の魅力になっている。

 音楽は「ウルトラセブン」「ミラーマン」などの特撮ドラマ音楽で知られる作曲家・冬木透が担当した。
 冬木透がアニメ作品の音楽を手がけるのは、『恐竜探検隊ボーンフリー』(1976)、『ザ☆ウルトラマン』(1979)、『太陽の牙ダグラム』(1981)に続いて4作目だった。冬木透といえばSFヒーローものの印象が強いので、「世界名作劇場」への参加は意外に思われるかもしれない。が、もともと冬木は多彩なドラマ音楽で活躍した作曲家。ホームドラマや探偵ドラマ、時代劇、朝の連続テレビ小説(「鳩子の海」)なども担当している。『牧場の少女カトリ』への参加も、実写ドラマの延長と考えれば意外ではない。
 本作の音楽の大きな特徴は、フィンランドの作曲家、ジャン・シベリウスの作品が劇中音楽に取り入れられていることである。
 特にシベリウスの代表作である交響詩「フィンランディア」の中に登場する「フィンランディア賛歌」と呼ばれるメロディが、本作のメインテーマ的な位置づけになっている。このメロディが楽器編成やテンポやリズムを変えてアレンジされ、さまざまな場面に使用されているのだ。
 本作では、交響詩「フィンランディア」以外にも、シベリウスのいくつかの作品をアレンジして劇中に使用している。クラシック音楽を劇中に使用する演出は珍しくないが、本作ではTVシリーズの溜め録りの音楽としてシベリウスの曲をアレンジして使っているのがユニークな点である。溜め録り音楽の場合は、劇中で必要になりそうな、さまざまな心情、情景、シチュエーションに合った曲をあらかじめ用意しておく必要がある。そこで冬木透は、「淋しいカトリ」や「夕暮れの情景」といったシーンに合いそうな曲をシベリウスの作品の中から探し、それを劇中で使いやすい1分から1分半くらいの長さに編曲するという手間をかけている。映像音楽の経験が豊富な冬木透であれば、選曲・編曲するより一から作曲したほうが早いと思うが、それだけの手間をかけても、スタッフはシベリウスの音楽がほしかったのだろう。
 なぜ、このような音楽作りが行われたのか? 冬木透に取材してみたが、冬木自身も詳しい事情はわからないということだった。冬木に音楽の依頼が来たときには、シベリウスの作品を使用すること、なかでも「フィンランディア賛歌」のメロディを使うことは、すでに決まっていたという。交響詩「フィンランディア」以外のシベリウスの作品の選曲はすべて冬木にまかされた。本作の依頼が来たのがぎりぎりのタイミングだったので時間の余裕がなく、大変だったと冬木はふり返っている。
 筆者の想像だが、フィンランドという、子どもたちにとってあまりなじみのない土地が舞台になる作品なので、作品世界を象徴するメロディやサウンドがほしいと考えて、スタッフはシベリウスの作品を使おうと考えたのだと思う。「フィンランディア賛歌」のメロディはシンプルで親しみやすく、子どもにも覚えやすい。このメロディが流れてきたら、TVを観ていなくても「カトリの曲だ」とすぐにわかる。メインテーマとしては最適だ。また、海外への番組販売を考えたときにも、シベリウスの音楽は世界共通の音楽的アイコンになる。
 結果として、シベリウスの音楽の使用は、よかった面とよくなかった面があったと思う。よかった面は、音楽によって視聴者にフィンランドの風土や歴史を感じさせることができたこと。これは映像だけでは難しいことだろう。よくなかった面は、音楽の表現の幅が狭くなってしまったこと。本作の音楽には冬木透のオリジナル音楽もあるのだが、それもシベリウスの作品と違和感がないように書かれている。冬木透の個性は抑え気味なのである。そうはいっても、冬木透ならではのサウンドがそこここに現れていて、冬木透ファンにとっては、それが本作の音楽を聴く楽しみになっている。
 『牧場の少女カトリ』は長らく音楽の復刻が待たれた作品だった。放送当時、キャニオンレコードから本作の音楽集アルバム(LPレコード)が発売されていたが、30年以上CD化の機会に恵まれず、2019年に日本コロムビアより発売された10枚組CD-BOX「ウルトラ・マエストロ 冬木透 音楽選集」にて、初めてBGM20曲がCD化された。しかし、それも本作の音楽の一部にすぎず、『牧場の少女カトリ』ファン、冬木透ファンのあいだでは、完全版音楽集の発売が熱望されていた。
 5月29日に発売される「冬木透 アニメ音楽の世界 牧場の少女カトリ」は、『牧場の少女カトリ』の初の完全版音楽集である。構成・解説は筆者が担当した。
 CD2枚組で、ディスク1は放送当時発売された音楽集アルバムをオリジナルのままの構成で復刻。主題歌とBGMをステレオ音源で収録した。ディスク2は本編で使用されたオリジナルBGMを完全収録。主題歌のTVサイズも収録した。ディスク2は全曲モノラル音源である。
 詳しい収録内容は下記を参照。
https://www.soundtrack-lab.co.jp/products/cd/STLC056.html

 本アルバムの聴きどころを紹介しよう。
 ディスク1は、上述のとおり「ウルトラ・マエストロ 冬木透 音楽選集」で大半の楽曲がCD化されている。しかし、同商品は10枚組セットだったために、「カトリだけのために買うのはちょっと……」と躊躇した人もいたと思う。今回のCD化ではポニーキャニオンからマスター音源を取り寄せ、新たにマスタリングを行った。曲間(曲と曲のあいだの無音部分)の長さもレコードと同じにしてあるので、続けて再生していただければ、アナログ盤の演奏を再現できる。収録曲の中では、本作のために録音された交響詩「フィンランディア」が初CD化である。また、ボーナストラックとして主題歌2曲のオリジナル・カラオケを、コーラスあり、なしの2タイプ収録した。主題歌のアレンジは『エヴァンゲリオン』シリーズでおなじみの鷺巣詩郎。鷺巣詩郎ファンにも聴いてほしい音源だ。
 ディスク2に収録したBGM音源は全曲初商品化。約80曲を50トラックに構成した。「全曲初商品化」と書いたが、楽曲としては、ディスク1に収録したBGMとディスク2に収録したBGMは重複がある。重複した曲はミックスが異なるだけで、演奏は同じである。観賞用のステレオ音源と本編ダビング用のモノラル音源の聴感の違いを比べてみるのも(マニアックだが)興味深いと思う。
 以下はすべてディスク2から。
 トラック3「夜明け」は今回初収録となった曲。第1話冒頭の夜明けのシーンに流れていたフルートとストリングスによる「フィンランディア賛歌」のアレンジである。後半はオーボエによる変奏になる。
 先に書いたように「フィンランディア賛歌」は本作のメインテーマであり、そのアレンジも10曲以上作られている。印象的なものとしては、ホルンの温かい音色で奏でられる「あこがれ」(トラック31)、ハープが爪弾く「トゥルクへの旅立ち」(トラック42)、弦のピチカートが3拍子で奏でる「故郷へ」(トラック51)などがある。「故郷へ」は最終話のラストシーンに流れていた曲だ。
 トラック8「アベルはともだち」は、カトリの愛犬アベルのシーンによく使われた曲。シベリウス作曲の組曲「レンミンカイネン」の1曲「レンミンカイネンとサーリの乙女」に登場するメロディをアレンジした曲である。テンポの異なる2曲を1トラックに編集した。音楽集LPにはテンポのゆったりした1曲目が「ともだちアデル」のタイトルで収録されている。「アデル」はカトリの劇中に登場しない名前で、おそらく「アベル」の誤記(もしくは初期設定の名前?)と思われるが、一度商品になったタイトルなので、そのまま掲載した。ディスク2のほうはあらためて「アベル」をタイトルにした次第。
 トラック37「白鳥のように」も初収録。シベリウス作曲の組曲「カレリア」の1曲「バラード」をアレンジした曲である。女医ソフィアと出会ったカトリは、自分も勉強すれば医者になれるだろうかと考える。しかし、それは今のカトリの境遇では到底かなわない夢だった。童話「みにくいアヒルの子」を読みながら、カトリは自分が白鳥になりたかったのだと気がつき、涙する。カトリの切ない想いを描写する曲である。同じ原曲をアレンジした「雪景色」という曲が音楽集LPに収録されていたが、「白鳥のように」はそれとは異なるアレンジ。個人的に「こちらのアレンジも聴きたいなあ」と思っていたので、今回収録できてうれしかった。
 このアルバムでは、冬木透のオリジナル曲もたっぷり収録することができた。本作の音楽はこれまで、その全貌が明らかでなかったために、「ほぼすべてがシベリウスの楽曲のアレンジ」と思われていた節がある。たしかに劇中に流れる音楽はシベリウスの曲のアレンジが多く、その印象が強いのだが、実は約80曲のうち半数は冬木透のオリジナル曲なのである。ただ、冬木はシベリウス風の旋律や響きを意識して作曲し、ときには曲の中にシベリウスの曲のモチーフを忍ばせているため、劇中では冬木透の曲とシベリウスの楽曲が溶け合い、混然となっている。
 初収録となった曲では、「カトリと母」(トラック5)、「やすらぎ」(トラック15)、「胸に秘めた悲しみ」(トラック19)、「望郷」(トラック27)、「春のおとずれ」(トラック28)、「いじわるな人」(トラック46)などが冬木透のオリジナル曲である。ただ、筆者が気づいていないだけで、実はシベリウスの曲のアレンジという可能性もあるので、お気づきの方はご一報ください。
 冬木透ファンにぜひ聴いていただきたいのが、場面転換や映像にアクセント(強弱)を加えるために使われる「ブリッジ」と呼ばれる短い曲である。本作では20曲ほど作られている。その大半が冬木透によるオリジナル曲なのだが、これが実に冬木透らしくてしびれるのだ。
 本作のブリッジ音楽には、なぜか不穏な曲調のものが多い。「怪しい影」(トラック22)、「助けてくれた人」(トラック29)、「暗い予感」(トラック39)などを聴いていると、SFサスペンスドラマを観ているような気分になる。劇中では、牛が崖から落ちそうになったり、羊が狼にねらわれたり、泥棒が暗躍したりといった緊迫したシーンがあり、こうした曲は主にそういう場面に使われている。だが、それだけでなく、カトリがふと不安を感じたり、ちょっとした異変に気づいたりするシーンにも不穏なブリッジ音楽が使われていて、それが独特の雰囲気をかもしだしている。カトリは劇中でしょっちゅうトラブルに巻き込まれているような印象があるのだが、それはこの音楽のせいかもしれない、と思うのだ。

 なお、本アルバムは諸般の事情により、アニメのキャラクターやタイトルロゴなどを使用しないで制作している。代わりに、解説書にはフィンランドの実景写真を掲載した。フィンランドの風景と、その中で働くカトリの姿を想像しながら、音楽をお楽しみいただきたい。

冬木透 アニメ音楽の世界 牧場の少女カトリ
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第853回 『(劇)ジョー2』の魅力(3)

 前回からの続き。
0:14:20~タイガー尾崎戦T.K.O負けから、ポンとタクシーで引き上げるジョーの寄り……の窓ガラスに映る雨・夜景へ。そこにジョーのモノローグを被せて繋ぐテンポの良さ。「所詮ただのTVシリーズの編集ですから~」的に拗ねるのではなく、

TVシリーズの無数にあるカットの山から“新しい映画の論法”を開闢しよう!

という強い意思を、出﨑監督の総集編映画からは感じます!
0:14:39~1981年はタクシー初乗り¥380でした。
0:14:51~ほら。もうタクシー降りて河原に座ってるでしょ、ジョー。
0:14:59~「矢吹よ、どうしたい?」「……どうもしねえさ」「ふん、そうかい。(ほい)じゃあな……」
 残念ながら、劇場版での力石の台詞はここで終わり。本当に何しに現れたんだ、力石!? とも思いますが、ジョーにとっての“力石の位置”みたいなのが良く出ているシーンとも言えます。
0:15:16~リングライトを浴びて佇む力石のT.B(トラック・バック)。その後、河原のジョーも立ち上がる。なぜかカッコいい。理屈を超えた説得力が出﨑アニメの真骨頂!
0:16:19~「そんなボクサーが、1人——」と葉子ド寄りからグウ~ンとカメラ回り込んで、葉子とロバートの俯瞰ロングへ。痺れる! ここも“理屈を超えた~”カット。実は、板垣はこういうカットがやりたくてアニメ監督を目指しました!
0:17:59~画面9割を“青パラ”で覆ったジョーのド寄りにOFFでゴングを被せて、次カットで試合中! なんて心地よい展開でしょうか。で、~0:18:45で試合シーン終わり。1分もない!凄い!
0:19:18~ここの汗だくジョーも、本当に良い“杉野(昭夫)顔”! 絶望に独り立ち向かう男の不敵な笑み……。ダンディズム感じます!こんな演出・作画が出来るスタッフも作品も随分と減りました。
0:20:13~「おめえの対戦相手は、——もう何処にもいねえよ」と言われて目を見開くジョー。この時さえも、口元は“笑み気味”に結んで見えます。良い!!
0:24:22~「このままでは終われない」のカーロスを受けて、間髪入れず “繰り返しPAN”ジョーから“同T.U”カーロス! 出﨑監督お得意の呼吸です。
0:25:23~あ、台詞はないけど“少年院時代の力石”回想。これで画としても劇場版力石のラスト。
0:25:40~ぶっ飛んだジョーの滞空時間をスライドで表現。芝山努監督が(出﨑監督に関するインタビューで)仰ってた“引っぱりの出﨑”の技がコレです。憧れます!
0:26:52~窓越しに夕日を眺める葉子。前後の余計な段取りなし。この1カットのみで、しかも後ろ向き。
0:27:43~ここのカーロスは、冒頭のジョーよりさらに大胆に口パクもなしで「おお、そうか……」と無理矢理。この後の0:29:41「オー、スノー……」も。ところで、カーロスの声——TVの中尾隆聖版ももちろん良いけど、劇場版のジョー山中版も好きです。後半パンチ・ドランカーになって、ジョーの元に返って来てからは特に。
0:29:30~「ここで決着をつけようぜ、この公園でよ」受けで、ジョーに視線を送るカーロス。そして雪が降り始めて、ジョーとカーロスが戯れる(?)シーン。荒木一郎音楽による劇場用BGMが大人のムードを醸し出してて、TV版の同シーンより好き。TV版では選曲がジングルベル~で、2人の子供っぽさが強調されてる気がして、それはそれで有りだとは思うのですが、ここは劇場版の選曲の方が良いと思うんですよ。特に0:30:26辺り~この後の悲劇を予兆する様ようで、何処か暗く、悲しくて……。当時、初見で俺はそう感じました。決して単なる“楽しいひと時”で終わらせないと。
0:30:46~見てくださいよ! この大人の男のカッコ良さ!! 後のOVA『ブラック・ジャック』7巻でもテントを出て尻もちを着いたブラック・ジャックが同様の笑みを浮かべます。やっぱり出﨑&杉野コンビは最高!!

 駆け足で色々敬称略。すみません。でっ、またチェックの時間です(汗)!

『タイガーマスク』を語る
第8回 第64話「幸せの鐘が鳴るまで」

 それまでもアニメ『タイガーマスク』には「直人と市井の人々とのドラマ」があったが、第5クールは特にそれが多い。第64話「幸せの鐘が鳴るまで」は(脚本/安藤豊弘、美術/沼井一、作画監督/木村圭市郎、演出/新田義方)は「直人と市井の人々とのドラマ」の最後のエピソードであり、伊達直人のドラマの集大成である。多くの人々と触れ合いが直人の視野を広げ、彼はみなしご以外の不幸な境遇にする人達にも目を向けるようになっていった。長期シリーズとなり、オリジナルエピソードを積み重ねたことにより、アニメ『タイガーマスク』は作品としての、伊達直人は人間としての厚みが増していった。

 第64話「幸せの鐘が鳴るまで」は交通遺児をモチーフにしたエピソードである。冒頭では交通遺児作文集「天国にいるおとうさま」の一文が読み上げられ、画面にもその文面が映し出される。この文集は1968年に刊行されて話題になったものだ。日本では昭和30年代から交通事故による死亡者が増え続けており、「交通戦争」と呼ばれていた。第64話が放映された1970年は交通事故の死亡者数がピークに達した年であり、交通事故や交通遺児は人々にとって身近な問題だったのだ。
 このエピソードの後半で直人が交通事故によって子供達が親を喪っていることについて痛ましく思う場面では、実際に事故に遭った自動車の写真が何枚も挿入される。このエピソードで扱っている交通事故が現実のものであり、恐ろしいものであることを強調する描写である。余談だが、翌年に放映された『天才バカボン』5話Aパートでも、交通事故の悲惨さを伝えるために実写の交通事故が使われている。アニメプロダクションは違うが『タイガーマスク』も『天才バカボン』も、よみうりテレビ制作の作品だ。さらに余談を重ねるが『タイガーマスク』ではこの後のエピソードでも、物語の中で交通戦争や交通遺児が話題になっている。

 第64話のプロットはシンプルだ。舞台は直人が遠征のために訪れた甲府。クリスマスを間近に控えた時期のエピソードだ。直人は街で孝という名の少年と出会う。孝は父親を交通事故で喪っており、現在は母親と二人暮らしだ。母は残業で帰りが遅くなることが多く、彼はその日も夜まで一人で過ごすことになる。それを知った直人は孝に沢山のクリスマスプレゼントを買い、孝のアパートで一緒に遊んでやる。そこに孝の母親が帰ってくる。直人は帰ろうとするが、母親の勧めで夕食を共にすることになる。
 直人と一緒にいることで孝が楽しそうにしているのを見て、母親は、父親がいない息子が大人の男性に甘えたがっているのだと思う。直人は、孝の母親が茶碗にご飯をよそう様子を見て「夢にまで見た母の手料理……」と思う。みなしごとして育った直人は母親の手料理を口にしたことがなかった。一度でいいから、母の手料理を食べてみたいと思っていたのだ。直人はゆっくりと箸で夕食を口に運ぶ。そして、孝の母親は、直人と孝がいる食卓を目の当たりにして「これが家庭というものだわ……」と思う。彼女は亡夫と孝と三人で暮らしていた頃を思い出す。
 どこにでもあるごく当たり前のアパートの一室で、直人と孝の母親は、この一瞬の幸せを噛みしめる。みなしごとして育ち、現在は虎の穴の裏切り者として追われ続けている直人の人生の中で、これが最も幸福な時間であったかもしれない。そんな一時を描いただけでも、このエピソードは価値がある。この場面の深みが分かるには視聴者の年齢が必要かもしれない。僕が直人の感慨に胸を打たれたのは40歳を過ぎてからだった。
 遊び疲れた孝が眠りついた頃、母親は亡夫と交通事故について語る。自分達の小さな幸福が一瞬のうちに失われたこと。今も自動車を憎んでおり、片っ端から壊したいと思っているということ。そんな激しい感情を抱いて彼女は生きているのだ。直人には彼女にかけてやれる言葉を持ち合わせてはいなかった。

 孝のアパートからの帰り道、雪が降る中で直人は思い耽る。タイガーマスクとしての試合を挟み、再び雪の中を歩きながら直人は考える。そして、ひとつの結論に辿り着く。
 直人の思索を整理すると以下の内容となる。全国には交通戦争の犠牲者が大勢いるに違いない。自分は恵まれない子供を一人でも幸せにするためにリングで戦ってきた。しかし、自分の手が届かないところで、今この瞬間にも不幸な子供が増えているのだ。そんな子供達に対して自分は何ができるというのだ。交通事故を無くすことはできないが、それに対して顔を背けてはいけない。たった一人の子供にでも夢を与えることができれば、それだけでもいいではないか。皆がそんな気持ちになれば、いつか交通事故も無くなり、皆が幸せになれる。それを信じて、皆が自分ができることを精一杯やることが大事なのだ。
 彼の思索は交通事故とその被害者についてから始まっているが、一人の人間が、恵まれない子供達、全ての不幸な境遇にいる人達に対して何ができるか、そして、皆が幸せになるにはどうすればよいのかについての結論に辿り着いている。
 一人の人間にできることは限られている。死に物狂いでやったからといって、全ての恵まれない子供を、全ての不幸な境遇にいる人達を救うことはできない。だからといって努力をやめてはいけない。世界中の人達が、他人の幸せを考えるようになるのは難しいことかもしれない。だが、そうなることを信じて、自分ができることをやらなくてはいけない。それが直人の結論である。

 僕の解釈も交えて、更に解説しよう。
 第50話「此の子等へも愛を」では、直人が恵まれない子供のためだと思ってやってきたことは本当に正しい行いであったのか、自己満足に過ぎなかったのではないか、という疑問が提示された。
 第54話「新しい仲間」では、自分は金を使うことでしか子供達に何かをしてやることができないと思っていた直人が、それ以外の何かができるのかもしれないと気づいた。それ以外の何かとは、タイガーマスクとしてリングの上で活躍し、全国の子供達に勇気を与えることだろう。
 第55話「煤煙の中の太陽」では、金銭で解決できることではあるが、タイガーのファイトマネーではどうにもならない問題に直面した。
 以上を踏まえた上で、この第64話があり、先ほど触れた結論がある。世の中には直人の手が届かないところにも、大勢の不幸な子供がいる。手が届くところにいたとしても、直人のファイトマネーで幸せにしてやれるとは限らない。直人は自分の無力を痛感したはずだ。自分の限界を知り、できないことがあまりに多いをことを知っても、力を尽くすことを諦めはしない。全ての子供達の幸せを望む彼にとって、その選択は辛いものだ。辛いものではあるが、それを選ぶのが伊達直人の強さであり、そういった厳しい生き方を描くのが『タイガーマスク』という作品なのだ。
 第64話のラストシーン。雪の街を歩きながら思索を重ねた直人の前には、教会があった。教会から鐘の音が聞こえ、やがてそれが賛美歌に変わる。思索が結論に至った直人が教会を見上げると、幸福になった孝と母親の姿が浮かぶ。賛美歌の歌声が高まる。その時に響き渡った賛美歌の歌詞は「仰ぎ見ん 神の御顔」。教会を仰ぎ見る直人と歌詞が重なり、そこで第64話は幕を下ろす。

 更に解説を続ける。
 第54話のミクロに必要だったのは、例えば身近にいる大人が寄り添ってやることだった。第64話の孝に必要だったのは、例えば父親のような存在だった。そういった子供に対して直人にできることは、やはり、タイガーマスクとしてのファイトで勇気を与えることなのだろう。実際に彼のリングの上での活躍がミクロが立ち直るきっかけになったではないか。第64話で直人が思い至った「たった一人の子供にでも夢を与えることができれば」とは、例えばそういうことなのだろう。
 第55話では郎太とタイガーのことが新聞に報じられ、それがきっかけで市議会が動き、日本プロレス協会も寄付をしてくれた。第64話の結論である「皆がそんな気持ちになれば、いつか皆が幸せになれる」とは、例えばそういったことなのだ。直人はタイガーマスクとして、すでに多くの人の心を動かすきっかけ作り出しているのだ。そういったことも、直人がタイガーマスクとしてやるべきことであるのかもしれない。

 『タイガーマスク』のこの後の展開で、注目してもらいたいポイントがある。この作品の物語について考える上で、非常に重要なポイントだ。第64話「幸せの鐘が鳴るまで」以降では、直人が恵まれない子供や不幸な境遇にする人達のためにファイトマネーを使う描写が一度もないのだ。直人の生き方がここで変わったと見ることができる。
 直人は自分一人だけで全ての子供を幸せにしようとしてきたが、第64話で現実に直面し、自分の行いを見つめ直した。そして、無闇矢鱈にファイトマネーを使うことをやめようとも思ったのだろう。すなわち『タイガーマスク』のスタッフ達が「もうそれを描くべきではない」と判断したのだろう。つまり、物語の出発点からあった「みなしごに使うファイトマネーを手に入れるため、マットで死に物狂いで戦うヒーロー」という主人公の在り方を『タイガーマスク』のスタッフ達が半ば否定したのである。
 直人がファイトマネーで救うことができるのは、ごく一部の人達に過ぎない。だとしたら、本当に直人がやるべきことは何なのか。『タイガーマスク』のスタッフ達は直人の生き様に向き合い、人はどのように生きるべきなのかを考え、ここに辿り着いたのだろう。『タイガーマスク』のスタッフ達は物語に対して、直人の生き様について、実に真摯だ。
 第64話「幸せの鐘が鳴るまで」は決して派手なエピソードではない。分かりやすい話でもない。ではあるが、テーマに対する取り組み方に関して、信じられないほどの高みに達したエピソードである。アニメ『タイガーマスク』の作劇面での頂点であると僕は考えている。

 第64話の作品内についての解説はここまでだ。以下は作品外での物語だ。

 原作「タイガーマスク」でも、直人はみなしごのためにファイトマネーを使うことを目的にして戦っているのだが、原作ではちびっこハウス以外の子供達のためにそれを使っている描写は、実はほぼ無い(希望の家にいる目が見えない少女のためには使っているはずだ)。伊達直人が日本各地のみなしごや、みなしご以外の不幸な境遇にする人達のためにファイトマネーを使っているイメージは、アニメ『タイガーマスク』が作り上げたものなのだ。言うまでもないが、第64話の「皆がそんな気持ちになれば……」という主張もアニメオリジナルのものである。
 直人は「皆がそんな気持ちになれば……」と言ってはいるが、アニメ『タイガーマスク』のスタッフ達が「この番組を観ているあなたにも、他人の幸せを考えてほしい」と、善意や友愛を押しつけるようなスタンスで物語を紡いでいるわけではない。ではあるが、直人の生き様を通じて伝えたいことのひとつはそれだったはずだ。

 ここで現実世界の出来事に目を移そう。思い出してもらいたい。2010年から「伊達直人」を名乗った匿名の人物が全国の児童養護施設に寄付を行い、それが全国に広がり、「タイガーマスク現象」と呼ばれるようになった。さらに「タイガーマスク現象」は企業やNPO法人、国会議員までも動かした。つまり、第64話における直人の「皆がそんな気持ちになれば……」という想いが、40年の月日を経て現実世界で結実したのだ。第55話の劇中でタイガーが市議会や日本プロレス協会を動かしたように、物語の中で描かれた直人の生き様が、現実世界で人々の心を動かしたのだ。第64話で直人が言ったことは絵空事ではなかったのだ。
 直人の戦いは孤独なものであったが、多くの賛同者を生んだ。直人の物語は我々が生きる現実世界で続いているのだ。

●第9回 「幸せの鐘が鳴るまで」についてもう少し に続く

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【新文芸坐×アニメスタイル vol. 177】キラめく舞台に生まれて変わる!
『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』ライティング上映!!

 2024年6月29日(土)に「【新文芸坐×アニメスタイル vol.177】キラめく舞台に生まれて変わる!『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』ライティング上映‼」を開催します。
 新文芸坐では、以前より『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』のライティング上映を展開しており、6月29日(土)のこのプログラムは、ライティング上映に古川知宏監督のトークをプラスしたスペシャル企画となります。

 ライティング上映とは映像にあわせて、天井と壁のライトが点灯するというもの。単に光るだけではありません。場面ごとに違った「演出」で光が動き、光の色が変わります。6月29日(土)のプログラムでは古川監督にもライティング上映を観ていただき、トークはライティング上映の感想を交えてのものとなる予定です。

 チケットは6月22日(土)から発売。チケットの発売方法については新文芸坐のサイトで確認してください。

●関連リンク
新文芸坐オフィシャルサイト
http://www.shin-bungeiza.com/

●WEBアニメスタイル
【最新号の詳細発表!】「アニメスタイル016」の巻頭特集は中村豊!(『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の記事有り)
http://animestyle.jp/news/2022/03/31/21779/

【新文芸坐×アニメスタイル vol. 177】
キラめく舞台に生まれて変わる!『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』ライティング上映‼

開催日

2024年6月29日(土)15時30分~

会場

新文芸坐

料金

2500円均一

上映タイトル

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(2021/120分)

トーク出演

古川知宏(監督)、小黒祐一郎(聞き手)

備考

※トークショーの撮影・録音は禁止

●関連サイト
新文芸坐オフィシャルサイト
http://www.shin-bungeiza.com/

第223回アニメスタイルイベント
ANIMATOR TALK 平松禎史

 「ANIMATOR TALK」はアニメーターの方達に話をうかがうトークイベントシリーズです。今回は『新世紀エヴァンゲリオン』『フリクリ』『ユーリ!!! on ICE』『アリスとテレスのまぼろし工場』等で活躍している平松禎史さんがメインのゲストです。聞き手として沓名健一さん、今村亮さんも出演。沓名さん、今村さんが、平松さんに質問をするというかたちでトークを進めます。トークを進めていくうちに、平松さんの作画についての考えや、アニメーションについての考えをうかがうことができるはずです。

 当日は平松禎史さんがプライベートで描いたイラストをまとめた書籍「平松禎史 PRIVATE ILLUSTRATION」を先行発売する予定。「平松禎史 PRIVATE ILLUSTRATION」は2017年に刊行した「平松禎史 SketchBook」を再構成したものです。「平松禎史 SketchBook」はアニメ関連のイラストラフ、デザインも収録していましたが、「平松禎史 PRIVATE ILLUSTRATION」はオリジナルイラストのみを収録しています。



 イベントは2024年6月2日(日)昼に開催。会場は阿佐ヶ谷ロフトAです。チケットは5月20日(月)20時から発売。購入方法については阿佐ヶ谷ロフトAのサイトをご覧になってください。

 今回のイベントも配信があります。配信はリアルタイムでLOFT CHANNELでツイキャス配信を行い、ツイキャスのアーカイブ配信の後、アニメスタイルチャンネルで配信します。なお、ツイキャス配信には「投げ銭」と呼ばれるシステムがあります。「投げ銭」による収益は出演者、アニメスタイル編集部にも配分されます。アニメスタイルチャンネルの配信はチャンネルの会員の方が視聴できます。
■関連リンク
LOFT  https://www.loft-prj.co.jp/schedule/lofta/284656
LivePocket(会場)  https://t.livepocket.jp/e/v57nm
ツイキャス(配信)  https://twitcasting.tv/asagayalofta/shopcart/310386

アニメスタイルチャンネル  https://ch.nicovideo.jp/animestyle

第223回アニメスタイルイベント
ANIMATOR TALK 平松禎史

開催日

2024年6月2日(日)
開場12時/開演13時 終演15時~16時頃(予定)

会場

阿佐ヶ谷ロフトA

出演

平松禎史(演出、アニメーター)、沓名健一(演出、アニメーター)、今村亮(アニメーター)、小黒祐一郎(アニメスタイル編集長)

チケット

会場での観覧+ツイキャス配信/前売 1,500円、当日 1,800円(税込・飲食代別)
ツイキャス配信チケット/1,300円

■アニメスタイルのトークイベントについて
 アニメスタイル編集部が開催する一連のトークイベントは、イベンターによるショーアップされたものとは異なり、クリエイターのお話、あるいはファントークをメインとする、非常にシンプルなものです。出演者のほとんどは人前で喋ることに慣れていませんし、進行や構成についても至らないところがあるかもしれません。その点は、あらかじめお断りしておきます。

アニメ様の『タイトル未定』
439 アニメ様日記 2023年10月15日(日)

2023年10月22日(日)
ワイフとTOHOシネマズ池袋で『北極百貨店のコンシェルジュさん』を鑑賞。アニメーションとしてのレベルは高い。 作画ファンとしては、特に映画序盤を絶賛したい。色使いや美術もよい。珍しくパンフレットと別にグッズも買った。それはそれとして、公開後最初の日曜なのに劇場は空席のほうがずっと多い。1本の映画としては決して悪くないけれど、お客が入らない理由も分かるので歯がゆい。
TVアニメの『ONE PIECE』は「ワノ国編」の後がどうなるかについては、まだアナウンスされてないはずだが、どうするのだろうか。原作を確認すると「ワノ国編」の後は単行本が2冊しか出ていなくて、11月に出る分を入れても3冊分。そのまま続けると、またまたあっという間に追いつくわけで、冷静に考えたらしばらく総集編をやるか、オリジナルシリーズに入るところだけど、さあ、どうなる。最近の『ONE PIECE』のテンションを考えると「攻め」で行くのではないかとも思えるけど。

2023年10月23日(月)
整形外科に行く。壊れた椅子を使っていたこともあって、腰を痛めたのだろう。診察の結果としては、椅子のせいではなくて、加齢が原因だった。妙にテンションが高い先生がレントゲン写真を見ながら「ここの骨がくっついる」とか「ここの隙間の空き方がおかしい」とか「この部分の何とかが半分以上無くなっている」とか、怖いことを沢山言っていたけど「まあ、この年齢ならしかたないですね」でシメる。ええっ! そうなの? それから、まだまだ動けるそうだ。その後は電気治療。コルセットを付けるかと聞かれたのでお願いする。人生初の整形外科、初の電気治療、初のコルセットだった。

2023年10月24日(火)
この日の仕事は書籍の表紙まわりのデザイン出しを2件、取材の予習。それから、書籍の編集作業の進行、イベントの進行など。とにかくやることが多い。
『北極百貨店のコンシェルジュさん』の作画について。井上俊之さんや本田雄さんといったベテランもクレジットされているけど、本編序盤のやたらと動きまくっているところには不参加で、あれは若い原画マンの仕事らしい。橋本晋治さんはやっぱりプロローグを描いているらしい。
U-NEXTで『鋼の錬金術師 嘆きの丘(ミロス)の聖なる星』を観たら、最近のバキバキのハイビジョンみたいな画質(誉めています)で「ええっ、『ミロス』って、こんなに綺麗だったっけ?」と思って、念のためにHuluで『ミロス』を観たらちょっと画がぼんやりしたバージョンだった。これが僕が何度か観た『ミロス』だ。ちなみにHuluの『シャンバラを征く者』も同様。配信に関して『ミロス』のマスターが2種類あることが分かった。U-NEXTのマスターはこれからリリースされるらしい4K Ultra HDと同じマスターだったりするのだろうか。ちなみにNetflixのアニメ『鋼の錬金術師』シリーズは『鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST』のみ。配信会社によって配信しているタイトルが違うようだ。
ところで、自分はデジタルアニメ初期の解像度が低い映像を「アナログっぽい」と感じてしまうことが時々あるけど、それはかなり間違っている。間違っているけど、今観ると、VHS時代の映像に近いんだよなあ。

2023年10月25日(水)
午前9時から病院Bで診察。ワイフも同行。1月末に切除したポリープはその一部のみが癌だったそうだ。再発はしていないので、もう一度検査をして問題なければ、この病院での大腸癌の治療は終了。その後は地元の病院で検査を受けてほしいとのこと。散歩と食事の後、ワイフが前から行きたがっていた喫茶店「丘」に。後で調べたら、この店は1964年創業。僕と同い年だった。確かに雰囲気のある店だし、面白い空気感だったけれど、できたころはそんなには変わった店ではなかったんだろうなあ。事務所に戻って、デザインのチェック、電話連絡等。15時過ぎに整形外科に行ってリハビリ(電気治療)。これでリハビリは3日連続。腰の痛みは減っているが、引き続き、床の上のものを拾ったりするのはしんどい。

TOKYO MXの録画で『マジンガーZ』52話「甲児ピンチ! さやかマジンガー出動!」を視聴。大好きな話で、今までに何度も観てるが、改めて「凄い」と思った。やはり特筆すべきはクライマックスの空中サーカスだが、それだけではなく、エピソード全体に見どころを詰めこんで、高テンションで走りきっている点が素晴らしい。
「さやかマジンガー」のストーリーのポイントは「マンガをヒントにした真剣白刃取り」と「さやかがマジンガーで出撃」のはずなんだけど、空中サーカスが凄すぎて、真剣白刃取りとさやかマジンガーが霞んでいる。いや、ファンとしてはそれでいいんだけど。プロットや初期シナリオは「真剣白刃取り」と「さやかがマジンガーで出撃」だけで、「空中サーカス」はシナリオで稿を重ねる段階で足されたのか、コンテ段階で足されたものではないのかなあ。他にも色々と足されているような気がするけど。

2023年10月26日(木)
「この人に話を聞きたい」で小西賢一さんの取材をした日。予習で『ホーホケキョ となりの山田くん』をBlu-rayで視聴した。昼からスタジオポノック取材。小西さんには作品単位で何度も話をうかがっているが、ご自身の歩みをまとめて話してもらったのは初めてだった。点と点が繋がって線になった感じもある。
『PLUTO』は2話から3話の途中まで観た。『PLUTO』には西村聡さんの絵コンテ回があるに違いないと予想していたけど、やっぱりあった。

2023年10月27日(金)
仕事の合間に、グランドシネマサンシャインで「君たちはどう生きるか Guide Book」を購入する。アニメ出版物マニアとして「君たちはどう生きるか Guide Book」で使われているスチールの解像度の高さに感心する。今までのジブリ作品のスチールもハイレベルだったのだけれど、今回も凄い。
都内某所に行って、井上俊之さんに「千年女優 アーカイブス」に載せる資料を見てもらう。どれが今 敏さんが描いたものかが、大体分かった。他の方にも確認してもらう予定だ。
TOKYO MXで始まった『超普通都市カシワ伝説R』。そもそもアニメかアニメでないかが微妙なんだけど、内容についても疑問があってネットで検索したら「千葉県柏市を舞台にしたご当地アニメの第3弾」であるらしい。第3弾で初めてTOKYO MXで放送されたということだろうか。第1弾、第2弾もTOKYO MXで放送していて、僕が見逃していた可能性もある。

2023年10月28日(土)
午前5時くらいに事務所の前の道で二人の女の子が酒盛りしていた。信号の下に座り込んで、缶のチューハイとつまみを並べていた。寒いのに元気だなあ。 事務所スタッフが作ってくれたスケジュールを見て、11月6日(月)から9日(木)で普段の一月分以上の原稿とページ構成をやらなくてはいけないことが判明。しかも、このスケジュールから漏れている作業もあるはず。
ワイフと新文芸坐で「メメント」(2000・米/113分/BD)を観る。この映画はこれが初見。記憶を維持できなくなった男が主人公であることぐらいしか知らなかったけど、それだけでなく、物語が過去に向かって進んでいくのね。最初はそのルールが分からなかったので、ただでも難しい話の難易度が更に上がった。そういった難しさを含めて、キレキレの映画。若きクリストファー・ノーランの自信満々ぶりが素晴らしい。久しぶりに映画充した。
『カードファイト!! ヴァンガード will+Dress Season3』5話「a glorious day」(再放送)のメグミのセリフ「涙も怒りも憧れも、全部まとめて受け取れアニキ!」がよかった。このセリフからの数カットはカット割りも表情もよかった。5話のメグミについては「こじらしているなあ」と思った記憶があるので本放送でも観ているはず。

第852回 『(劇)ジョー2』の魅力(2)

 先日買った、ぴあCOMPLETE DVD BOOKシリーズの『劇場版あしたのジョー2』のレビュー続き。

0:05:56~実は、マンモス西は岸部シロー版の方が個人的に好き!
0:06:25~ここも前回同様、
0:06:35~ここのジョー、TVシリーズ版・1話では「へへ、へへへ……!」と笑ってるだけ。劇場版では「へへ……、一年振りだな」とTV版の“笑いのブレ”に無理矢理台詞を入れており、80年代アニメの大らかさと出﨑監督の豪快さが伺えます。「顔全体動いてれば台詞なんて何でも入るよ~」と。“一年振り”の辻褄は前の劇場版『あしたのジョー』(旧作の劇場用再編集)の公開から数えて、かと。だとすると、正確には1年と4ヶ月ですね。もしかすると、本当は『(劇)ジョー2』も春に公開したかったのかも? と邪推してしまいます。
0:06:47~ここ、テレビシリーズでは1話と2話の境目。段平が右から左へ(#1)、次のキノコが左から右へ(#2)——と真逆の繋ぎは多分意図的な編集かと。ここだけに限らず、この『(劇)ジョー2』は何しろ編集が気持ち良いです。
0:07:07~「ジョー!」と子供が駆けて行っても、それを受けず、ジョーは力石の墓参り! この飛躍(?)が素晴らしい! こうすることでジョーの勝手気ままな性格が浮き立つでしょう。
0:07:40~ジョー、本当に良い顔!! こんな表情、当時(1980年)のアニメ業界、杉野(昭夫)さん以外で誰が描けたでしょう?
0:07:47~ジョーと葉子の立ち位置も、テンポ良く切っています。
0:08:14~前シーンの「ただ、もう一度リングへ——って気持ちだけが残った……」を受けての復帰第1戦への繋ぎ。アオリの葉子から試合会場俯瞰の葉子へ。この繋ぎも見事!
0:08:19~めり込む様なボディーブロー! 重さのあるアクション作画の冴え! 心地良いっ!
0:08:28~ここでまた別の試合。今、ここまで大胆な繋ぎ(編集)をする監督っています?
0:09:04~真ん中の髭の人は小林七郎(美術)さん? 画面上下カットで紀ちゃんの顔が切れてる。
0:09:11~ここも前シーンのリング上でマンモス西の肩車~自転車に乗ったジョーへの“回転”繋ぎ。間違いなく意図的。

 ここまでで、まだ10分足らず。驚異的な構成力! とにかく、『(劇)ジョー2』は

次、どこに飛ぶのか分からない理屈を超えた“映画を見る楽しみ”に満ちている!

から、何度でも観れるんだと思います。

0:10:59~パチンコに興じるジョー。80年俺自身が子供の頃(5~6歳?)、このガキ連中同様に親父のパチンコのお供をさせられてたのを思い出すシーンで、板垣の原体験的風景。
0:12:32~もう、タイガー尾崎戦のゴング! しかも1分半程(~0:13:57)で終わり!
0:12:38~そのたった1分半に「へっへ……俺がこの試合に勝てば、次はタイトルを懸けていいだとよ。悪いが軽く貰うぜ——この試合!」のモノローグを被せた上、力石のインサートを入れるだけで、どれだけ“濃い1分半”に仕上がってることか! これ以降もモノローグを効果的に使って、情報量の凝縮に成功しています。

 例えば、多めな情報量をモノローグと編集そして音楽、あらゆる手練手管を使って決められた尺に“面白く収める”ことができる演出家・脚本家さんには、残念ながらなかなかお目にかかれません。巧くできたかはともかく、去年作った『異世界でチート能力(スキル)を手にした俺は、現実世界をも無双する』#10の原作物量圧縮は、出﨑監督の影響がデカいと我ながら思っています。脚本&演出家から「(この物量)入んない、入んない!」と泣きが入ったので、引き上げて全面的に俺の方で脚本もコンテも描き直したものでした(無理させてしまい、ごめんなさい)。

0:14:12~次カットと“尾崎の上がっている腕”が繋がっていない! とか、全然気にしない出﨑監督大好きです!!

あっ、そろそろまた時間です~(汗)。

『タイガーマスク』を語る
第7回 第55話「煤煙の中の太陽」

 第55話「煤煙の中の太陽」(脚本/市川久、美術/浦田又治、作画監督/我妻宏、演出/勝間田具治)は四日市の公害をモチーフにしたエピソードである。1960年代から70年代の東映動画はTVアニメの各エピソードで、社会派の意欲作を何本も残しており、第55話はその一連の作品を代表するものだ。
 前話についた予告からして強烈だ。以下に予告ナレーションを引用する。

「汚される空、汚される海。何故汚してしまうのか。何故、何故……。タイガーよ、この少女の苦しみが分かるか。タイガーよ、一体、お前には何ができるのか。次回『煤煙の中の太陽』。お楽しみに」

 予告の映像は第55話から抜粋された公害に覆われた四日市のカット、苦しむ子供等で構成されている。本編に負けないくらいに強い印象を与えるフィルムだ。

 本編の内容に触れよう。第55話のファーストカットは歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」の四日市宿だ。次のカットから現在(放映当時の現在)の四日市の描写が始まる。陰鬱なBGMと共に薄暗い空、工場の煙突から輩出される煤煙、海に流される廃液が描かれる。そして、工場のシルエットの向こうに夕陽が見える映像に「煤煙の中の太陽」のサブタイトルが乗る。このサブタイトルカットはかなりのインパクトだ。最初に「東海道五十三次」の四日市宿を見せたのは、綺麗だった景観から現在の状況への変化を見せるためだろう。
 そんな四日市を遠征試合のためにジャイアント馬場、アントニオ猪木、坂口征二、タイガーマスクが訪れる。四日市の駅前で坂口が「うえ~、酷い空気だ。先輩、こんな酷いところじゃ、立派なファイトはできないですよ」と愚痴を言い、それを馬場と猪木が窘める。
 その後も四日市の公害の描写は続く。中でも凄まじいのが、公害のために息子を亡くし、その息子の遺体が入った棺桶を背負って街を練り歩いている老婆の存在である。これは演出の勝間田具治がロケハンの成果を取り入れたものだそうだ。四日市公害裁判が行われたのが1967年から1972年。第55話「煤煙の中の太陽」が放映されたのが1970年10月15日。現在進行形の問題を取り入れたエピソードなのだ。
 あすなろ院は四日市にある孤児院だ。そこで暮らす孤児の陽子は喘息で苦しんでいた。院長は空気のいいところに孤児院を建て直したいと考えているが、それを実現するのは難しいようだ。陽子と共にあすなろ院で暮らしている郎太は、彼女の喘息の原因が工場が出す煤煙だと考えて、コンビナートの煙突に登る。そして、コンビナートの煙を止めなければ自分は煙突から降りないと言うのだ。煙突に登ったのが孤児院のみなしごだと知ったタイガーは現地に急ぐ。
 一人の大人が郎太を宥めるために、今日はもう煙を出さないと言う。それを聞いた郎太は叫ぶ。「今日だけじゃ、嫌だよ。ずっと煙を出さないと約束してくれなきゃ。それにこの煙突だけじゃなく、あの火を吐く煙突も! あの白い煙突も! みんな、みんな、無くなってしまえばいいんだよ!」
 郎太を見つめる街の人々のカットが重ねられる。彼等からは生気が感じられない。タイガーは街の人々が声を上げないのは、公害に苦しむうちに抵抗することを諦めてしまったためだろうかと考え、そのことに怒りすら感じるが、すぐに街の人々が声なき叫びを抱えて生きているのだと思い直す。
 タイガーは自分が郎太を連れ戻すと言って煙突を登る。郎太はタイガーのファンであったが、その説得を聞こうとはしない。それだけ郎太の決意は固いのだ。そして、煙突の上から煤煙に包まれた街を見たタイガーは、改めて公害の悲惨さを感じ、悲惨であればあるほど、郎太の想い、声なき人々の想いが強くなるのだろうと悟る。そして、リングの上ではレスラーを投げ飛ばしている自分が、一人の少年の決意に対しては何もできないことに気づくのだった。
 タイガーは街から離れたところにある丘に気づく。その丘は煤煙に冒されていないようだ。彼は「あの丘に郎太君達の学園を……」と呟いてしまう。それを聞いた郎太は、タイガーが丘に孤児院を建て直してくれると思い込んでしまう。郎太は地上に降りてくれたが、タイガーは実現できないことを約束してしまった。彼のファイトマネーを以てしても、孤児院を建て直すことはできないのだ。
 その後、タイガーの試合を挟んで、郎太達の描写があり、嘘をついてしまった直人の後悔が描かれる(ここで彼は直人の姿だ)。直人は悪夢を見る。夢の中では街の人々が、棺桶を背負った老婆が、そして、郎太が、直人を非難する。「たかがプロレスラーにそんな施設など、建てられるわけがない」「タイガーさん、約束は嘘なんですか」「タイガーの馬鹿野郎、嘘つき野郎、お前にはこの陽子ちゃんの悲しみが分からないのか、お前なんか死んじまえ!」。その悪夢が第55話のクライマックスだ。

 翌日になり、事態は急転直下。郎太とタイガーの事件が新聞に報じられ、それをきっかけにあすなろ院の移転が市議会で満場一致で可決される。事件を知った日本プロレス協会も四日市での興行の収益の一部を寄付してくれることになった。あすなろ院は丘の上に移転できることになり、タイガーは郎太の一途な願いが神に通じたのだと思うのだった。あすなろ園は移転できることになったが、四日市ではまだ多くの人達が苦しんでいる。この公害の街に青い空と澄んだ水を取り戻すために、自分達は立ち上がらなくてはならない。そのタイガーの想いと共に第55話「煤煙の中の太陽」は幕を下ろす。

 第50話「此の子等へも愛を」と第54話「新しい仲間」では、社会的な問題をモチーフにしつつも直人の行い、あるいはルリ子の行いに重きが置かれていた。それに対して第55話「煤煙の中の太陽」は直人のドラマよりも、むしろ、公害の問題を描くことに力を注いでいるように思える。第50話と第54話が日常的な描写を積み重ねて、テーマに迫っているのに対して、第55話はプロットがシンプル。ダイナミックな演出で視聴者に伝えるべきことをグイグイと伝えていく。画作りや選曲も凝っており、ドラマチックな仕上がりだ。あすなろ院についての問題が解決した後で、さらに四日市の公害そのものに対して取り組まなくてはいけないことを提示するところに関しても、それを訴える力の強さに関しても、まさしく社会派。社会派の力作だ。映像作品としての歯切れのよさが心地よい。
 勝間田具治は東映動画を代表する演出家であり、『タイガーマスク』でも凝ったエピソードを、あるいは熱いエピソードを数多く残している。第55話もその1本だ。DVD BOX第2巻の解説書の斉藤侑プロデューサーのインタビューによれば、この話で脚本を担当した市川久は、斉藤プロデューサーがやっていたシナリオ講座の生徒だったのだそうだ。東映動画ではプロデューサーや演出家がペンネームで脚本を書くことがあるが、この話はそうではなかった。そして、同じインタビューで、斉藤プロデューサーは第55話に関して、勝間田が物語に手を加えて作り上げたのだろうと語っている。

 伊達直人の物語としては、第55話は彼が自分一人の力では解決できない問題に直面したことが重要だ。郎太とタイガーの事件が報じられたことによって、直人は助けられるかたちとなった。第64話「幸せの鐘が鳴るまで」で、そのことの意味が分かることになる。

●『タイガーマスク』を語る 第8回 第64話「幸せの鐘が鳴るまで」 に続く

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第280回 攻めたプログラム 〜コードギアス 反逆のルルーシュ〜

 腹巻猫です。5月4日に仙台銀行ホール イズミティ21大ホールで開催された仙台フィルハーモニー管弦楽団のコンサート「シンフォニック コードギアス リベリオン」を聴きました。アニメ『コードギアス 反逆のルルーシュ』『コードギアス 反逆のルルーシュR2』の音楽をオーケストラ組曲に編曲して演奏するコンサートです。大変な力演で、仙台まで足を運んだ価値がありました。同時に『コードギアス 反逆のルルーシュ』の音楽の魅力を再認識するきっかけにもなりました。
 今回は、『コードギアス 反逆のルルーシュ』の音楽を紹介するとともに、コンサートの感想もお話ししたいと思います。


 『コードギアス 反逆のルルーシュ』は2006年10月から2007年7月にかけて放映されたTVアニメ(2007年3月にいったん終了し、7月に未放映だった2話を放映)。続編『コードギアス 反逆のルルーシュR2』が2008年4月から2008年9月にかけて放映された。その後も、同じ世界観を背景にしたOVA『コードギアス 亡国のアキト』、TVシリーズを再編集し、新規カットを追加した劇場版『コードギアス 反逆のルルーシュ』3部作、その続編となる劇場版『コードギアス 復活のルルーシュ』などが制作され、現在も新作『コードギアス 奪還のロゼ』が公開中という、人気シリーズである。
 日本が神聖ブリタニア帝国に占領された近未来。日本人はイレブンと呼ばれ、ブリタニアの支配に屈していたが、一部の日本人はブリタニアを相手にレジスタンス活動を展開していた。ブリタニアの貴族出身でありながら、その地位を追われ、日本(エリア11)で育った少年ルルーシュは、ある日、謎の少女C.C.(シーツ—)と出会ったことで、不思議な力「ギアス」を発現する。それは、目を合わせた相手に、一度だけ、どんな命令でも従わせることができる力だった。ルルーシュはこの力を使って、自分と家族を虐げた者たちに復讐しようと、ブリタニアへの反逆を開始する。レジスタンス組織「黒の騎士団」を指揮して活動するルルーシュの前に立ちふさがったのは、ルルーシュの旧友であり、今はブリタニア軍に所属するイレブンの少年・スザクだった。
 復讐を動機に、手段を選ばず、冷静沈着にことを進めていくルルーシュのキャラクターが新鮮。ピカレスクロマンであり、SFメカアクションであり、青春ものの一面も持つ、多様な魅力を持った作品である。

 音楽は中川幸太郎と黒石ひとみが共同で担当。中川幸太郎は本作の監督・谷口悟朗とTVアニメ『スクライド』『ΠΛΑΝΗΤΕΣ』『ガン×ソード』などですでに仕事をした経験があった。黒石ひとみは、『ΠΛΑΝΗΤΕΣ』『ガン×ソード』に楽曲を提供をしており、TVアニメ『LAST EXILE』の劇伴を担当した実績がある。『コードギアス 反逆のルルーシュ』における2人の音楽の役割分担について、谷口監督は「男性主観の部分を中川さん、女性主観の部分を黒石さんメインでお願いしました」と語っている。
 中川幸太郎は東映スーパー戦隊シリーズや仮面ライダーシリーズの音楽でも知られる作曲家。ブラスサウンドを駆使したダイナミックな音楽が持ち味だ。いっぽうで東京藝術大学音楽学部で作曲を学んだ経歴から、精巧なスコアによる現代音楽的な曲も得意としている。『ΠΛΑΝΗΤΕΣ』や『GOSICK』といった作品にその方面の個性が生かされていると思う。『コードギアス 反逆のルルーシュ』は主人公がダークヒーローで、物語も暗くシリアスな展開が多い。そこで音楽もダイナミックなサウンドと現代音楽的なサウンドが融合した歯ごたえのある曲調になっているのが特徴だ。中川幸太郎サウンドのエンターテインメント志向の側面と現代音楽志向の側面が合体したおいしい作品なのである。
 黒石ひとみはシンガーソングライターとしても活動する音楽家。『コードギアス 反逆のルルーシュ』では自ら歌う挿入歌のほかに、女声コーラスを使った柔かいトーンの曲や神秘的な曲を劇伴として提供している。黒石ひとみの曲は、劇中ではC.C.やユーフェミア、シャーリーといった、戦闘に参加しない女性キャラクターのシーンによく使われていた。
 本作のサウンドトラック・アルバムは「コードギアス 反逆のルルーシュ O.S.T.」「同2」のタイトルで、2006年12月20日と2007年3月24日にビクターエンタテインメントから発売された。
 収録曲は下記ページを参照(いずれも再発盤)。
https://www.jvcmusic.co.jp/flyingdog/-/Discography/A012120/VTCL-60485.html
https://www.jvcmusic.co.jp/flyingdog/-/Discography/A012120/VTCL-60486.html

 コンサートでも演奏された印象深い曲を紹介していきたい。
 1枚目の「O.S.T.」では、なんといっても1曲目「0」。ルルーシュが黒の騎士団のリーダーとして活動するときの姿「ゼロ」のテーマであり、本作のメインテーマでもある。勢いのあるイントロからピアノと打楽器によるスリリングなリズムに転じ、ストリングスとギターによるスパニッシュなメロディが現れる。トランペットがメロディを引き継いだあとギターのアドリブが入り、キレのあるフレーズのコーダへ。本作のダークなイメージを象徴する楽曲だ。スピード感と緊張感たっぷりのパワフルな演奏に魅惑される。このメロディはアレンジを変えて劇中のさまざまな場面に使われている。
 トラック3「Prologue」はタイトルどおり、第1話のアバンタイトルに流れたプロローグの曲。もの憂いストリングスのメロディを中心に奏でられる。ブリタニアに支配されたイレブン(日本人)の現況を表現する重苦しい曲になっている。
 トラック4「Stream of Consciousness」は第1話の本編冒頭に流れた曲。ミステリアスな女声コーラスがこれから始まる物語が神秘的な要素を秘めていることを伝える。
 トラック6「The First Signature」は第1話のルルーシュとC.C.との出会いの場面に流れた。ここでも女声コーラスが使われて、C.C.の不思議なキャラクターを印象づける。「Stream of Consciousness」と「The First Signature」の2曲は映像の展開に合わせて作られたような雰囲気がある。どちらも黒石ひとみ作曲である。
 黒石ひとみの曲では、トラック16「Stray Cat」も耳に残る。弦と木管楽器によるユーモラスな曲で、本編ではルルーシュの学校生活など日常シーンによく使われている。使用頻度の高い曲だったが、仙台フィルのコンサートでは演奏されなかった。
 中川幸太郎らしさが出たのが、バトルシーンに流れる曲だ。トラック8「Outside Road」は「タンタン タタタン」というリズムにブラスや男声コーラスが重なるサスペンス曲。同じリズムが続くボレロ的な展開で緊迫感を盛り上げる。ゼロたちがブリタニア軍に向かっていく場面や逆にブリタニア軍が進撃する場面など、敵味方に限定せず使われている。『コードギアス 反逆のルルーシュ』では、この曲のように、同じ曲がルルーシュ側にもブリタニア側にも使われる演出がたびたび見られる。本作が単純な善悪対立の物語でないことの表れだろう。
 トラック9「In Justice」はスザクが愛機ランスロットで出撃する場面によく流れていたサスペンス曲。緊迫したイントロに続いてミリタリー的なリズムと悲壮感のあるメロディが展開する。
 次の「Nightmare」も戦闘シーンに多用された曲で、スパニッシュなメロディとギターやカスタネットによるリズムが特徴的。人型機動兵器ナイトメアフレームの活躍を熱く彩った。
 バトル曲では、ブリタニア軍侵攻の場面によく流れたトラック18「Shin Troop」、ランスロットのテーマ的に使われているトラック20「Elegant Force」も印象深い。
 ほかには、ルルーシュの苦悩や思考を描写するメインテーマアレンジの曲「Occupied Thinking」(トラック17)、ルルーシュがギアスを発動する場面に流れる、やはりメインテーマの変奏である「Devil Created」(トラック21)が重要な曲として挙げられる。
 サントラ2枚目「O.S.T.2」も1曲目の「Previous Notice」が聴きどころ。ショッキングなイントロから激しいリズムをバックにしたスパニッシュなギターの演奏に続く曲で、毎回の次回予告に使われて強烈な印象を残した。もともとは次回予告用に別の曲が用意されていたが、谷口監督の考えでこの曲が使われたとのこと。劇中でもルルーシュ(ゼロ)やスザクの活躍場面にしばしば使用されている。
 ブリタニア軍の空中戦艦アヴァロンのテーマとして使われた「Avalon」(トラック20)は弦合奏と低音のブラスを中心にした重厚な曲。アヴァロンの登場シーンだけでなく、ドラマティックな曲想を生かして、事態が大きく動くシーンなどに使われた。
 ほかには、第22話、23話の皇女ユーフェミアの悲劇を彩った「Bad Illusion」(トラック15)、「State of Emergency」(トラック18)、「Final Catastrophe」(トラック21)がファンには忘れられない曲だろう。悲劇を連想させるワーグナー的な「Bad Illusion」、スザクの怒りの突撃に重なる「State of Emergency」、ルルーシュの憤りが爆発する「Final Catastrophe」と、曲を聴いているだけで、トラウマになるような暗い展開が思い出される。
 「O.S.T.2」の劇伴パートのラストを飾る「Innocent Days」(トラック22)は黒石ひとみの詞・曲とボーカルによる讃美歌風の美しい曲である。劇中ではユーフェミアの束の間の幸せを象徴する曲として使われていて、全編を観てから聴くとかえって涙を誘う。アルバムの構成としては、ありえたかもしれないハッピーエンドを思わせる、秀逸な終わり方だと思う。『コードギアス 反逆のルルーシュ』の最終回は、明快な決着も救いもないまま終わってしまう(そして『R2』に続く)のだから。

 さて、冒頭に紹介した仙台フィルハーモニー管弦楽団のコンサート「シンフォニック コードギアス リベリオン」の話。
 実は2019年にも『コードギアス 反逆のルルーシュ』のオーケストラコンサートが開催されたことがある。編曲を中川幸太郎とピアニート公爵(森下唯)、タカノユウヤの3人が手がけ、オーケストラにドラム、ギター、ベースのリズムセクションを加えた約70人編成で演奏された。スクリーンにアニメの映像を投影し、ルルーシュ(福山潤)によるモノローグも流れる、コードギアスファンのためのイベントである。
 今回の「シンフォニック コードギアス リベリオン」は、それとはだいぶ趣が違う。まず。アニメの映像や音声を使った演出は一切なし。完全に演奏だけを楽しむコンサートだ。演奏されたスコアは今回のための新アレンジ。ポップスのリズムセクションを入れない、クラシカルなオーケストラ曲として編曲されている。
 オーケストラ編成は、2019年のコンサートのほうがサウンドトラックに近く、サントラの演奏を担当したミュージシャンも何人か参加していた。「シンフォニック コードギアス リベリオン」の演奏は仙台に拠点を置く仙台フィルハーモニー管弦楽団が主体で、客演奏者が加わる編成。総勢100名近い大編成である。
 2019年のコンサートはサウンドトラックの再現をねらったスタイルだったのに対し、「シンフォニック コードギアス リベリオン」は純然たるクラシックコンサートのスタイルだった。会場を訪れたコードギアスファンの中にはとまどった人もいたかもしれない。
 しかし、結論から言えば、すごくよかった。これはありだと思った。
 映画音楽のジャンルでは昔から、本編用に書かれたサウンドトラックのスコアをオーケストラコンサート用の管弦楽曲に編曲する試みが行われている。日本のアニメでいえば、『ジャングル大帝』の音楽が「子どものための交響詩 ジャングル大帝」に編曲され、さらに「交響詩 ジャングル大帝」に改訂されて現在もたびたび演奏されている例がある。『コードギアス 反逆のルルーシュ』の音楽は、もともと現代音楽的な要素の強い、歯ごたえのある音楽だった。だから管弦楽曲に編曲しても違和感がなく、聴きごたえがある。
 仙台フィルハーモニー管弦楽団の公式サイトにコンサートのセットリストが公開されている。
https://www.sendaiphil.jp/e1/
 1曲目はサウンドトラック盤でも1曲目に置かれている「0」(「序曲」とされている)。すさまじい熱演で心をつかまれた。ほぼ原曲どおりのテンポでリズムを刻むパーカッション群の上でストリングスと管楽器が演奏する旋律がうねる。思わず息をつめて聴いてしまい、演奏が終わるとため息がこぼれた。
 続いて、第1幕の第1場「Prologue」〜「Stream of Consciousness」〜「The First Signature」〜「In Justice」という流れ。コーラスは女声2人(ソプラノ、メゾソプラノ)と男声1人(バス)が担当していて、コーラス入りの曲も再現されている。
 うっかり再現と書いてしまったが、これは原曲の「再現」ではない。管弦楽曲に生まれ変わったコンサート用の音楽作品である。全体に原曲より重厚になり、マイクとスピーカーを通さないオーケストラの生音で勝負する編曲になっている(編曲はクラシック系の佐野秀典が担当)。随所にソロを聴かせるパートが設けられているのは、演奏者へのリスペクトだろう。演奏会を意識したアレンジなのだ。
 アニメの映像を使う演出がなかったことも好印象だった。演奏に集中することができるし、演奏者の手元や表情や息を合わせるようすなどを見ることができる。これが生でコンサートを鑑賞する楽しみのひとつなのである。
 「シンフォニック コードギアス リベリオン」は仙台フィルハーモニー管弦楽団の「エンターテインメント定期 第1回」と位置づけられている。「エンターテインメント定期」とは、「日本のアニメーションを中心としたジャンルの『音楽』にスポットを当て、オーケストラによる生演奏で仙台から世界へと発信」するプロジェクトなのだそうだ。そして、エンターテインメントパートナーとして、バンダイナムコフィルムワークス、バンダイナムコミュージックライブ、バンダイナムコピクチャーズの3社の名が挙げられている。
 近年、クラシックのオーケストラが演奏会でアニメ音楽をとりあげるケースがちらほら見られるようになった。筆者も「組曲 銀河鉄道999」や「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」の演奏会を聴いたことがある。しかし、プロオケによるアニメ音楽の定期演奏会の試みはたぶん日本初だろう。
 その第1回が『コードギアス 反逆のルルーシュ』というのは、なかなか攻めたプログラムだと思う。仙台フィルの「本気」を感じさせる熱気あふれるコンサートだった。オーケストラサウンドの迫力を存分に味わい、原曲の魅力を再認識するきっかけにもなった。ついでに仙台名物の牛タンを食べることもできたので言うことない。
 8月10日には、「エンターテインメント定期 第2回」として『機動戦士Ζガンダム』『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』のコンサートが決まっている。この試み、これからどう展開していくか、楽しみに応援していきたいと思う。

コードギアス 反逆のルルーシュ O.S.T.
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コードギアス 反逆のルルーシュ O.S.T.2
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『タイガーマスク』を語る
第6回 第54話「新しい仲間」

 前回、前々回で取り上げた第50話「此の子等へも愛を」と同じく、第54話「新しい仲間」も柴田夏余が脚本を書いている。第54話も柴田の力が大きいのだろう。第50話はあまりにも難しいところを狙っていたが、第54話では脚本家としてのよさが、分かりやすいかたちで発揮されている。
 第54話「新しい仲間」(脚本/柴田夏余、美術/浦田又治、作画監督/村田四郎、演出/設楽博)のモチーフは「過保護」である。過保護は今となっては普通に使われている言葉だが、多用されるようになったのは1970年前後であるらしい。そして、このエピソードが放映されたのが1970年10月8日。第54話は放映当時においては最新の話題を取り入れたエピソードであるわけだ。

 ちびっこハウスに新しい仲間がやってきた。母子家庭で育った少女であり、母親が亡くなったのでハウスで暮らすことになったのだ。健太によって、小柄な彼女にミクロというニックネームがつけられる(現在の感覚だと、つけられた側が可哀想に思えるニックネームである)。ミクロはハウスの子供達と馴染むことができず、学校にも行こうとしない。
 この話で物語を進めるのは直人ではなく、ルリ子である。ルリ子は兄である若月先生の許可を得て、ミクロについて調べ始める。まずはミクロが仲間と馴染むことができない様子が、幼い頃の直人に似ていると感じたルリ子は電話で彼に相談する。ただ、ルリ子は直人の連絡先を知らないようで、日本プロレス協会を通じてタイガーが泊まっているホテルを教えてもらい、以前、健太が家出した際(第6話、第7話)に言葉を交わしたタイガーに相談するという体で電話を入れる。ルリ子はタイガーの正体が直人であることに気づいているのだ。直人にアドバイスをしてもらったルリ子はミクロが母親と暮らしていたアパートを訪れて、管理人と住人に、かつての母子の生活についての話を聞く、次に以前に通っていた小学校に行って、当時の担任の先生に学校でのミクロの様子を話してもらう。このあたりの展開はまるで刑事ドラマのようだ。ルリ子はミクロが人付き合いが苦手なのは母親譲りであり、学校を休みがちなのは過保護に育てられたからであることを突き止め、さらにミクロの様子から、ハウスの子供達の仲間に入れない理由に気づき、そのことで涙を流す。
 ミクロが立ち直るきっかけになったのはタイガーのファイトだった。テレビで中継されていたタイガーの試合を健太達と一緒に観戦し、彼の勇姿に感動したのだ。ルリ子がタイガーと親しいことを知っているミクロは、彼女にタイガーについて話をしてほしいとせがむ。ルリ子は彼女の想像も交えて、タイガーのことをミクロに語る。タイガーはミクロと同じ孤児であり、以前は人に嫌われる反則レスラーだった。だが、自分の意志で自分を変えたのだと。それをきっかけにしてミクロは考えを改め、学校へ通うようになった。
 ミクロが学校へ行くことになったことを知って直人は喜ぶ。彼はそれまで、自分は金を使うことでしか子供達に何かをしてやることができないと思っていたが、今回のことで、それ以外の何かができるのかもしれない、そう考えることができるようなった。直人のドラマとしては、この気づきこそが重要であり、それが第64話「幸せの鐘が鳴るまで」で結実することになる。

 このエピソードの序盤で、ハウスに来たばかりのミクロに対して、ルリ子が自分の荷物を押し入れに入れるように言うが、ミクロはそう言われたことが意外だった。「お姉さん(ルリ子)が荷物を押し入れに入れてくれないのは忙しいから?」という意味の質問をする。今までそういったことは母親がやってくれたのだ。ここでのミクロを世間知らずで手がかかる子供として描くこともできたはずだが、そうはしていない。あどけない女の子として描写しているのだ。このあたりの匙加減が巧い。
 少し後の場面でルリ子はミクロの荷物を確認する。彼女の服はどれも綺麗に洗濯され、アイロンがかけられていた。ルリ子はそのことから、亡くなった母親が愛情を込めてミクロを育てていたことを感じ取り、さぞやミクロのことが心残りだっただろうと、ミクロの亡母に想いを馳せる。
 ルリ子がアパートや学校に赴いて、かつての母親とミクロについて話してもらう部分も、少ないセリフで二人の生活をくっきりと描き出している。そして、ここでも母親がミクロを大事にし過ぎていたことを提示しつつ、それだけ娘のことを愛していたという描写にしている。
 第54話で感心するのは問題となっている過保護について、必ずしも否定的に扱っていないことだ。過保護をネガティブに描写し、親が悪いのだとするエピソードにしたほうが、センセーショナルであり、話題になっただろう。だが、この話の脚本はそうはしなかった。過保護であったことは問題であるが、そうなったのは亡母の愛ゆえであり、可愛がられて育ったからミクロは無垢で愛らしい少女に育った。そういったバランスで物語を紡いでいる。そのバランスが好ましい。

 第54話「新しい仲間」について、別の角度からもう少し語りたい。このエピソードは過保護に育てられた少女が立ち直るまでの物語だが、それと同時にルリ子という一人の女性を、ひとつの切り口で描ききったものである。むしろ、このエピソードの価値はそこにある。ルリ子はミクロの問題について、どうしてそうなったのかを調べ、現在のミクロを否定せずに受け止めて、その上でミクロが前に進んでいくことを応援する。その子供に対する誠実さは、フィクションの中の登場人物ではあるが、尊敬に値すると思えるほどだ。そして、この話のエピローグ部分で、ルリ子の価値感や人生観が浮き彫りになる。
 ミクロは立ち直り、学校に通うようになった。ルリ子はそのことを巡業中のタイガーに電報で伝える。学校に行くミクロを見送った際のルリ子のモノローグの一部を引用しよう(なお、ルリ子はミクロのことを、そのニックネームで呼ばず、本名に近い「ミッちゃん」で呼んでいる)。

「………ミッちゃんは軌道に乗って歩き始めた。まだまだ失敗はするでしょうけど、前向きに歩き出した子には、失敗さえも前進する力になるわ」

 歩き出した途端に「まだまだ失敗するだろう」と決めつけているのも凄いが、それだけ、ルリ子は人生を厳しいものだと考えているということだ。注目したいのは「前向きに歩き出した子には、失敗さえも前進する力になる」の部分である。とんでもないセリフだ。彼女は前向きに生きていくことの価値を、前向きに生きる者の力を信じているのだ。
 さらにモノローグは続く。ミクロはハウスに来る前からタオルケットを大事にしていた。どうやら彼女が赤ん坊の頃から使っているもののようで、母親の存命中にも、ミクロはそのタオルケットを洗うことを許さなかった。彼女はそのタオルケットに包まれると安心できるらしい。いわゆる「ライナスの毛布」だ。ミクロを見送った後、ルリ子はタオルケットを洗ってしまう。以下がそれについてのモノローグだ。

「ミッちゃんが洗うなって言うから、亡くなったお母さんは洗ったことのないこのタオルケット。でも、もう洗っても泣かないって、あたし、信じるわ。過保護の垢を洗い落とすのよ」

 「過保護の垢を洗い落とす」というセリフが抜群にいい。タオルケットを洗うということは、ミクロの甘えを断ち切ることを意味しているということだ。この一連のモノローグは本当に素晴らしい。
 ルリ子はミクロに対して、学校に行くことを強要をせず、無理をさせず、自分の力で立ち上がるのを見守ってきた。しかし、ミクロが前に進み出したところで、タオルケットを洗うことで背中を一押ししたのだ。今の目で観るとその一押しは乱暴に思える。しかし、ルリ子にとっても、その一押しをするには勇気が必要だったはずだ。それがモノローグの「あたし、信じるわ」の部分に込められている。彼女が真摯にミクロに向き合っているからこそ、その一押しができたのだと、視聴者の一人として受け止めたい。繊細でありつつも大胆。練りに錬った脚本だ。

●『タイガーマスク』を語る 第7回 第55話「煤煙の中の太陽」 に続く

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第851回 『(劇)ジョー2』の魅力(1)

TV版『あしたのジョー2』のオープニング「傷だらけの栄光」と「Midnight Blues」、どちらがお好みですか?

と訊かれたとしたら、ズルいようですが、自分は「どちらもそれぞれ好き!」と答えます。
 どちらも荒木一郎作詞・作曲であるにもかかわらず方向性が全然違う! シリーズ前半OP「傷だらけの栄光」はやたらスポーティーで、後半OP「Midnight Blues」はやたらとムーディー。映像面でも同様で、前半OPは本編キャラが一切登場しないボクサーのシルエットのみで展開される非常にクールでスタイリッシュな逸品。後半OPはコートに帽子のレギュラー姿のジョーが超望遠の夕陽をバックに延々と歩き続けるメチャクチャ大人なアニメ。まだ未見の方は、是非観て下さい。板垣が「どちらも~」と言う意味が分かっていただけるかと。
 さて、先日買った、

ぴあCOMPLETE DVD BOOKシリーズの『劇場版あしたのジョー2』!

を観ました。観ましたと言っても、俺はこの『ジョー2』——手塚治虫先生が『バンビ』を観た回数の10倍回は観ています! それくらい、板垣にとってのマスターピースで、例えば、もう『ジョー2』以外のアニメがなくなったとしても正直、俺は困りません。それほど、板垣の人生に影響を与えた1981年の出﨑統監督作品!
 ご存じない方に軽く説明すると、『あしたのジョー2』はTVシリーズがバリバリ放送中なところに、ラスト“ホセ・メンドーサ戦”を先行して作画し、

前半TVシリーズの総集編+後半(公開時点では)新作+別班で音響(アフレコ・ダビング・選曲が新録)!

で構成されているのが“劇場版”になります。TVシリーズが1980年10月13日~1981年8月31日放送で、劇場版公開が1981年7月4日。つまり、2ヶ月早く“真っ白に燃え尽きるジョー”が観れたわけ。当時のリアタイ勢は7月4日公開初日に『(劇)ジョー2』を観て感動した2日後、TVでは“ハリマオ戦”の放送を観たことになります。それから最終回までの2ヶ月間は劇場版用先行作画分の間を逆に新作で埋めてレギュラー放送を全うした——それが、アニメ『あしたのジョー2』です。
 が、そんなややこしい、云わば前代未聞の“最終回先行上映スタイル”に翻弄されつつ必死に作り上げられた出﨑・杉野アニメ大作も、結局時代が過ぎて現在改めてTV・劇場の両方を見返すと、

全47話のTVシリーズと、普通にその総集編映画がある!

というだけな気が……。
 ただ!! 前回その断片だけ紹介したように“ただの総集編”にしないのが出﨑統監督の手腕!
「『ジョー2』と言ったら、TVシリーズの方でしょ!」と仰る人の方が多いかと思うのですが、こちらも、俺的には「どちらも良い!」と。
 先ずド頭0:00:06で“三協映画”のクレジットで「あ『地上最強のカラテ』!!」と俺。
0:00:10~“制作協力 東京ムービー新社”が“トムス~”になっていなくて、ホッ……。
0:00:16~対力石戦~“ダブル・クロス外れてアッパーカット炸裂!”の名シーン。『(旧)ジョー』で2回描かれた(#50吉川惣司演出回と#51崎枕(出﨑統)演出回)名場面を出﨑監督自身で3度目のアニメ化。何度観ても興奮します!
0:00:43~あ、セルバレ(画面左下)!
0:02:09~力石徹追悼テンカウントゴング。テレビシリーズではちゃんと10回フルで聴かせてカット割りのタイミングもそれに合わせてあるのに対し、劇場版の新録ではカット跨いで5回目でF.O。途中で切ることによって、“力石の死を背負ったジョーが返って来る”という直後のオープニングと相まって深みが増します。“画(カット)とタイミングをズラす”ことで、こんなに印象が変わる! 音響演出というモノの奥深さを感じるシーンです。
0:02:50~劇場版OP。前述のテレビ後半OPをベースに、テレビ#01ラスト近辺の夜の街を軽やかに舞うジョーをコラージュ・インサート。主題歌もジョー山中(「~明日への叫び」)で男臭く、やはりこれもTVとは全く違うイメージでとても良い!! 有りモノカットの編集OPとは思えない構成力で、元々劇場版でこう使うのを最初から(テレビ用OP2の)想定してコンテ切ったのかと思うほど。
0:05:36~“脚本 監督・出崎統”のクレジット。どれだけ他人の脚本を使わず“ぶっつけコンテ”で監督して来たか~を表している表記で好き! 俺の記憶ではこれ以前の出﨑監督の“脚本”クレジットは『元祖天才バカボン』#67の“脚本さきまくら”のみ(ですよね?)。

 ——て、とこでそろそろまた時間です(汗)。

『タイガーマスク』を語る
第5回 「此の子等へも愛を」についてもう少し

 第50話「此の子等へも愛を」についてもう少しだけ書いておく。

 細部について触れることにしよう。直人が夫婦の家に辿り着くまでが興味深い。直人が原爆ドームの模型について知ったのは、同じホテルに泊まってるアントニオ猪木が土産物屋で購入して、他のレスラーに見せたことがきっかけだった。直人は猪木が模型を買った産物屋に行く。猪木が買った模型が最後のひとつであり、土産物屋には模型の在庫が無かったので、直人は土産物屋の主人に模型の製造元を教えてほしいと言うのだが、模型は問屋を通してくるので製造元は知らないと主人は答える。問屋の場所を教えてもらった直人はそこに赴き、模型の製造元を訊くが、問屋の男は教えることを渋る。なんとか教えてもらった直人は、ようやく夫婦が暮らす長屋に辿り着く。すんなりと夫婦のところに行かず、土産物屋から問屋、問屋から長屋という段取りを踏んでいるわけだ。『タイガーマスク』の他のエピソードなら、土産物屋の場面で事情をよく知っている人物が偶々現れて、夫婦が住んでいる場所を教えてくれるといったかたちで、物語をショートカットするはずだ。
 また、エピソード後半で、三郎達が宿題をする場所がないことが問題になった時に、直人は地元の民生委員の家を訪ねる。そこで詳しい事情を聞いて一肌脱ぐことになるのだが、民生委員の家を訪ねるという展開が『タイガーマスク』の世界では異様に感じるくらいにリアルだ。いや、『タイガーマスク』以外の他のアニメでも、主人公が民生委員を訪ねるなんて展開は滅多にないはずだ。
 夫婦の許に辿り着くまでの段取りをしっかりと踏んでいるのも、民生委員を登場させたのも、物語をより現実味のあるものにするためだろう。作品に現実感を与えて、視聴者に劇中で起きていることを、自分の身近で起きていることのように感じてもらいたかったのだろう。

 以下はまた別の話だ。プロデュースサイドや演出サイドでは第50話「此の子等へも愛を」をもっと分かりやすく、被爆者家族の悲劇を描いた話にしたかったのではないか。
 『タイガーマスク』DVD BOX第2巻の解説書(僕が構成・編集を担当している)に収録された斉藤侑プロデューサーのインタビューによれば『タイガーマスク』では各話のプロット(斉藤プロデューサーはそれを「設定書」と呼んでいた)を渡して、脚本家はそれを元にして脚本を書いていたのだそうだ。各話のプロットは短いもので、1話につき200文字詰め原稿用紙一枚程度のボリュームだった。
 斉藤プロデューサーが、直人が原爆ドームの模型を作る被爆者家族と出会うプロットを書いた。その段階では被爆者家族の悲劇を描いたエピソードがイメージされていたのではないか。この回の脚本は柴田夏余。柴田夏余は『タイガーマスク』で濃密な仕事を多数残している。柴田が脚本を執筆するにあたってプロットを捻り、さらに捻り、前回紹介したような話に仕上げたのではないか。
 第50話本編を観た後に、第49話についた予告を観てもらいたい。本編の映像を使ったものでありながら、予告では第50話が子供達の悲劇的な境遇を描いたものになっている。本編とはかけ離れたものとなっているのだ。プロデュースサイドが望んだのは、予告で示されたような内容だったのではないか。
 僕は第50話を「他人の不幸を娯楽として消費すること」を皮肉を込めて描いたものだと受け止めているが、メタ的には作り手が不幸な境遇にいる人達をモチーフにして悲劇的なエピソードを作ろうとすることや、視聴者がフィクションを通じて他人の不幸を消費しようとする行為に対する皮肉にもなっているのではないか。

●『タイガーマスク』を語る 第6回 第54話「新しい仲間」 に続く

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『タイガーマスク』を語る
第4回 第50話「此の子等へも愛を」

 『タイガーマスク』のドラマについて考える上で、第50話「此の子等へも愛を」、第54話「新しい仲間」、第55話「煤煙の中の太陽」、第64話「幸せの鐘が鳴るまで」が特に重要だ。前回も触れたが、第50話は被爆者家族を、第54話は過保護を、第55話は四日市の公害を、第64話は交通遺児をモチーフにしている。ではあるが、これらのエピソードに注目したいのは社会的な問題を扱った話だから、だけではない。
 伊達直人はここまで、不幸な子供達のために自分のファイトマネーを使ってきた。第64話の直人自身の言葉を借りれば、彼は不幸な境遇にいる子供達を幸せにするためにリングの上で戦ってきたのである。だが、その行為にどれほどの価値があるのだろうか。直人がやってきたことは本当に子供達のためになることだったのだろうか。この4本のエピソードは直人の行いに対する疑問を提示する。「伊達直人がいかに無力であるか」を描き、最終的に彼がやるべきことは何なのかに辿り着く。『タイガーマスク』のドラマの中核をなすエピソード群なのである。  

 ひとつひとつ観ていこう。第50話「此の子等へも愛を」(脚本/柴田夏余、美術/遠藤重義、作画監督/我妻宏、演出/白根徳重)はタイガーがワールドリーグ戦に参戦している時期のエピソードである。舞台となるのは広島だ。ファーストシーンは広島平和記念資料館である。キノコ雲、焼けただれた身体、焼け野原になった街、平和の願いを捧げる母と娘。タイガーは広島平和記念資料館に展示されたそれらの写真を目の当たりにして息を吞む。精巧な原爆ドームの模型が土産物屋で売られていることを知った直人(ここからは伊達直人の姿だ)は模型を手に入れてそれでちびっこハウスの子供達に戦争の悲惨さを伝えたいと考える。だが、土産物屋に模型は残っておらず、それでも模型を手に入れようとする直人は製造元を調べてそこに赴く。模型を作っていたのは玩具会社でもなければ町工場でもなく、長屋暮らしの夫婦だった。
 直人は模型を売ってほしいと夫婦に頼み込むが、買い手が決まっているので売ることはできないと断られる。この場合の買い手とは、模型を土産物屋に卸している問屋のことだ。夫婦が作業をしている部屋の中に、赤ん坊が入った籠がぶら下げられている。赤ん坊が泣き出す。どうやら腹を空かせており、オムツも汚れているらしい。しかし、夫婦は赤ん坊の相手をせず、模型を作り続けるのだった。
 その後、直人は平和記念公園で幼い兄妹と知り合う。名前は三郎とめぐみだ。直人は兄妹を食堂に連れて行く。彼等は原爆ドームの模型を作っている夫婦の子供だった。模型を作る邪魔になるので、三郎達は昼間は家に帰ることができないのだ。三郎達の母親は被爆者であり、いつ原爆症が発症するか分からない。そのために父親は意地になって模型を作っているのだ。父親は自分達が作っている模型を「平和への祈りの千羽鶴だ」と言っているのだという。ここまでが第50話の前半である。後半ではタイガーの試合があり、更に直人と三郎達、夫婦との関わりが描かれる。

 このエピソードには注目したいポイントがふたつある。ひとつは「最後まで伊達直人と被爆者家族夫婦の気持ちが通うことがなかった」という点である。もうひとつが「直人が子供達に嘘をついた」という点だ。
 まずは「最後まで伊達直人と夫婦の心が通うことがなかった」ことについて触れよう。他のエピソードなら、直人は旅先で知り合った人々の境遇や悩みを理解し、その上で行動を起こすのだが、この話では最後まで模型を作り続ける夫婦の心中について思い至ることはない。夫婦が赤ん坊が泣いても模型を作る手を止めないのは、そして、自分達の子供の面倒を見る時間を惜しんでいるのは模型作りに対して真剣に取り組んでいるからだ。直人は最後までその必死さに気づかない。戦争をあってはいけないものだと考え、「平和への祈りの千羽鶴」という言葉に胸を打たれはするけれど、それを言った夫の想い、目の前にいる被爆者である妻の気持ちを考えようとはしないのだ。夫婦にとって直人は、最後まで「問屋を通さずに模型を売ってほしいと言う迷惑な観光客」でしかない。
 終盤において、直人は夫婦に対して、土産物屋で売っているのと同じ金額で買うから直接売ってほしいと言う。金の力でどうにかしようとしたのだ。どう考えても、その言動は俗物のものだ。このエピソードで、作り手が直人をネガティブに描いているのは間違いないだろう。

 「直人が子供達に嘘をついた」について述べる。直人が三郎とめぐみを食堂に連れて行ったのは、母が食事を用意してくれないため、兄妹は外で毎日同じようなものを食べており、めぐみが不満を募らせていたからだ。直人は食事を奢ろうとしたが、三郎は貧しくても他人の世話にはならないという。そこで直人は「100円で食べられる店に行こう」と言って、二人を町の食堂に連れて行った。勿論、100円で食べられるというのは嘘であり、直人は三郎達には分からないようにして、足りない分を支払うのだった。翌日、三郎は数人の友達を連れてその店に行く。彼等は100円で食べられると信じているのだ。彼等がまた食堂に行くのではないかと気づいた直人も店を訪れて、食堂の店員に現金を渡す。これからも彼等に100円で食べさせてほしいというわけだ。以下は劇中で描かれていないことだ。食堂が100円で食事を提供するのは直人が渡した金が尽きるまでだろう。これからも子供達が食堂を訪れ続けるならば、店員はいつか「100円で食事ができるのは嘘だったのだ」と子供達に告げることになるはずだ。自分が騙されていたことを知れば三郎は傷つくだろう。しかし、この話の直人はそこまでは考えが及ばないのだ。  

 第50話は序盤の平和記念資料館のシーンこそセンセーショナルだが、それ以外は淡々とした語り口で進んでいく。直人が夫婦の心中について思い至らないことについて、劇中で誰かが指摘しているわけではない。三郎達にいつかはバレる嘘をついたことについても、劇中で問題視されてはいない(厳密に言うと、食堂の店員が直人の嘘に対して納得していないことが少しだけ描写されている)。後半で宿題をする場所のない三郎達のために、直人がファイトマネーを使う展開があり、エピソード全体としては直人が活躍したかたちになっている。だから、直人の言動がネガティブなものとして描かれていることに気がつかなかった視聴者は多いはずだ。ではあるが、すっきりとしない読後感を残すエピソードであるのは間違いない。
 このエピソードは必ずしも反戦を訴えるものではない。被爆者を登場させて、平和への祈りを込めて原爆ドームの模型を作っていることを描いているのだから、戦争の悲惨さや被爆者の想いを視聴者に提示しているのは間違いないのだが、作劇の力点はそこには置かれていない。三郎の言動が悲観的でないのも重要だ。彼は両親が作る原爆ドームの模型を誇りこそすれ、直人の前で自分達の境遇を嘆いたりはしない。自分の人生や生活を、当たり前のものとして受け止めてるようだ。だから、反戦をテーマにし、戦争の悲惨さを伝える話だと思って観ると面食らうかもしれない。
 直人が模型についてどのようなかたちで決着を付けたのかについては、作品を観て確認してもらいたいが、呆れるくらいにあっさりしたものだ。そんなことで済むなら、模型の製造元を訪れる必要はなかったのではないかと思うくらいだ。そして、模型について決着を付けた後、タイガーが(ここでは直人ではなく、タイガーの姿だ)これからのワールドリーグ戦について想いを巡らしたところで、このエピソードは幕を下ろす。ラストシーンにおいて、彼の心中には被爆者家族の不幸も「平和への祈りの千羽鶴」もすでに存在しない。意地悪な言い方をすれば、原爆ドームの模型に決着が付いたところで、彼の反戦に対する想いは一段落してしまったのだ。反戦を訴えるための話だったら、こんな終わらせ方にはしないはずだ。例えば直人が戦争の悲惨さについての想いや反戦についての考えをモノローグで語り、それを視聴者にアピールする。そんなかたちで終わらせるはずだ。

 第50話はアニメ『タイガーマスク』全話の中で、最も受け止めるが難しい話であるはずだ。作り手はこのエピソードに込めた全てを理解してもらいたいとは思っていなかったのかもしれない。むしろ、このエピソードを観て、何かひっかかるものを感じてくれればそれでよい。そんなつもりで作ったのかもしれない。ではあるが、何かの狙いがあってこのエピソードを作ったのも間違いないはずだ。以下で、このエピソードについて「解釈」してみたい。
 第50話については、色々なかたちで解釈することができる。僕はこれを「他人の不幸を娯楽として消費すること」を描いたものであると受け止めている。そして「不幸な出来事の当事者と第三者の距離感」を描いたものであると考えている。『タイガーマスク』が放映された頃に「娯楽として消費」というような言い回しはなかったはずだ。ではあるが、その概念によって、この話が理解しやすくなる。
 直人が戦争についてあってはならないものだと考えて、戦争の悲惨さを子供達に伝えたいと考えたのは間違ったことではないが、それ以降の直人の言動は「安易に他人の不幸を娯楽として消費しようとしている」ものとして描かれている。つまり、浅薄なもの、愚かなものとして扱われている。
 しかし、その浅薄さや愚かさは我々が日々実践していることではないか。例えばテレビやネットで世間の不幸を知れば心が動く。それについて何かを言ったり、SNSに書いたりするかもしれない。ではあるが、しばらくすればそのことは忘れてしまう。我々はそれを当たり前のこととしてやっているのではないか。それを「他人の不幸を娯楽として消費している」とは言えないだろうか。報道で知った他人の不幸には心を痛めるが、目の前にいる人の不幸については親身になって考えようとはしない。それもよくあることではないのか。
 第50話「此の子等へも愛を」は直人の言動を通じて、我々の「他人の不幸を娯楽として消費すること」や「不幸な出来事の当事者との距離感」を皮肉を込めて描いたものではないのか。

 『タイガーマスク』の物語として考えると、第50話は他のエピソードと少し違った視点で伊達直人を描き、彼がそれまでやってきたことに対して疑問を投げかけるエピードであると考えることができる。ハウスの子供達のために原爆ドームの模型を手に入れようとしたのも、三郎達に100円で食事ができると嘘をついたのも、直人がよかれと思ってやったことだ。彼自身は普段と同じように行動しているつもりなのだろう。しかし、第三者の目で見ればそれらは自己満足のための行為でしかない。原爆ドームの模型を手に入れようとしたのが自己満足のためでしかないのなら、これまでのエピソードで彼がファイトマネーを子供達のために使ってきたのも自己満足に過ぎないのではないか。自分の正体を偽ってハウスの子供達に接しているのも、三郎達にいつかはバレる嘘をついたと同様に、つかなくていい嘘をついているだけなのではないか。
 つまり、『タイガーマスク』という作品の根本となっている部分について疑問を投げかけたのではないか。そういった意味で第50話「此の子等へも愛を」は問題作であり、異色作である。『タイガーマスク』の全話の中で、最も尖ったエピソードであると僕は考えている。

 直人の行動についての結論は、このエピソードでは出ない。ただ、視聴者にモヤモヤとしたものを残すだけだ。

●『タイガーマスク』を語る 第5回「此の子等へも愛を」についてもう少し に続く

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『タイガーマスク』を語る
第3回 第5クール~第8クール

第5クール(第53話~第65話)
 第56話から第58話がブラックV関連のエピソードで、この3本はアレンジを加えているが、原作に沿ったものだ(原作ではタイガーの弟分として大谷鉄平が登場するが、アニメではその存在はない)。第5クールで原作を使ったのはこの3話だけで、他は全てオリジナルのエピソードである。
 第53話でオリジナルキャラのザ・ミラクルズが登場。彼等は虎の穴の一員であり、第6クール途中までサブレギュラーキャラとして登場する。第61話がオリジナルの敵であるブラックパンサー登場の布石となるエピソードで、第62話でタイガーがブラックパンサーの存在を知り、第65話でブラックパンサーと戦う。
 強敵との戦いのエピソードの合間に第55話「煤煙の中の太陽」、第60話「虎とへんくつ医者」、第61話「王将の道」、第63話「めりけんジョー」、第64話「幸せの鐘が鳴るまで」といった「直人と市井の人々とのドラマ」を描いた大人びたタッチの傑作が連続して生み出される。強敵との戦いと「直人と市井の人々とのドラマ」が組み合わされているのが、第5クールのカラーだ。
 前回も触れたように第4クールの第52話「此の子等へも愛を」は被爆者家族が登場するエピソードであり、第55話「煤煙の中の太陽」では四日市の公害を、第64話「幸せの鐘が鳴るまで」では交通遺児をモチーフにしている。直人と市井の人々の関係を描いたエピソードではないが、第54話「新しい仲間」は過保護がモチーフだ。この第52話、第54話、第55話、第64話に関しては社会的な問題を取り入れていることが興味深いが、むしろ、この4本のエピソードを通じて「伊達直人の無力」を描き、さらに「一人の人間が恵まれない人達に対してできることは何なのか」というテーマに辿り着いていることが『タイガーマスク』という作品にとって重要だ。第64話が「人間・伊達直人」のドラマのクライマックスである。それについては、このコラムの次回以降で語る予定だ。

第6クール(第66話~第78話)
 第6クールは、ここまでのアニメ『タイガーマスク』の集大成として作られたと思われるシリーズだ。全てのエピソードがアニメオリジナルで、原作を使った話は1本も無い。
 第6クールでは第14話で登場し、その後、直人を陰で支え続けてきた大門が覆面レスラーのミスター不動としてリングに立ち、第28話で登場してタイガーに対して敵意を抱いてきた高岡拳太郎がイエローデビルとしてタイガーに挑む。虎の穴の三人の支配者がブラックタイガー、ビッグタイガー、キングタイガーのビッグ3であることが判明し、タイガー&ミスター不動はビッグ3と死闘を繰り広げる。ミスター不動も、イエローデビルも、ビッグ3もアニメオリジナルのキャラクターだ。
 話数毎に振り返ってみよう。第66話は総集編的な内容で、直人の回想の中でビッグ3の存在が明らかになる。第67話で高岡拳太郎がイエローデビルとしてアメリカで活動を始め、その一方で、タイガーは虎の穴の若きレスラーであるナチス・ユンケル、キングジャガーと、それぞれ第69話、第71話で戦う。第71話ではセコンドに付いていたザ・ミラクルズが試合に乱入し、止めに入った馬場、猪木、他のレスラー達をなぎ倒すという大乱戦の中、観客として試合を見ていた大門が(何と背広姿で)リングに上がり、タイガーと共にザ・ミラクルズを倒す(第71話はシリーズ屈指の痛快エピソードだ)。それをきっかけに第72話から大門はミスター不動として活躍するようになる。
 第73話でイエローデビルがタイガーによって倒され、第74話で拳太郎は自分が虎の穴に騙されていたことを知る。そして、拳太郎も虎の穴を裏切り、正統派レスラーのケン・高岡としてリングに立つことになる。孤独な戦いを続けてきた直人だが、ここで大門、拳太郎という仲間を得たのだ。
 第75話終盤でビッグ3がタイガーに挑戦状を叩きつける。第77話がタイガー&ミスター不動と、ビッグタイガー&ブラックタイガーのタッグマッチだ。この試合でミスター不動は自らの命を投げ出して、ビッグタイガーとブラックタイガーを葬る。第78話はタイガーマスクとキングタイガーのシングルマッチで、タイガーは激闘の末にキングタイガーを倒すが、その頃、大門は病院で息を引き取っていた。
 第75話でビッグ3が物語の全面に出てから第77話までの緊張感、ドラマの盛り上がりは素晴らしいものだ。この数話のために、ここまで物語を積み上げてきたのだろう。第5クールにあれほどあった「直人と市井の人々とのドラマ」が、第6クールでは一切無くなっている点にも注目したい。

第7・8クール(第79話~第105話)
 新たに「虎の穴のボス=ミラクル3=タイガー・ザ・グレート」という強敵が設定され、彼との対決に向けて改めて物語が積み上げられていく。虎の穴のボスも、タイガー・ザ・グレートもアニメオリジナルの存在だ。第6クールでは原作を使ったエピソードが一切無かったが、第7・8クールでは原作に登場する敵レスラーや試合をアレンジして使っている。第1クールにあった「虎の穴が差し向けた殺し屋がリングの外で直人を狙うエピソード」が復活するのも第7・8クールの特徴だ。話数としては第85話、第88話、第103話である(3本とも辻真先が脚本を担当)。
 それまで謎めいた存在であった虎の穴のボスが、第79話で初めてミスターX達に顔を見せ、タイガーマスク打倒のために直接指揮を取るようになる(なお、それまでにボスが登場したのは第28話、第75話、第78話だ)。ボスは第91話で来日し、覆面レスラーのミラクル3として人々の前に姿を現し、第92話から自分の強さを直人と観客にアピールしていく。そして、第101話で名と姿を変え、タイガー・ザ・グレートとしてリングに立つ。そして、タイガーの弟分として活躍していたケン・高岡を倒すのだった。
 ミラクル3は原作に登場する同名レスラーをアレンジしたキャラクターだ。原作のミラクル3も、力と技と反則を兼ね備えたレスラーとしてタイガーの前に立ち塞がるが、実は技に優れたレスラー、怪力のレスラー、反則魔のレスラーが、三人で一人のレスラーを演じていたことが判明。とんだインチキレスラーであった。それに対して、アニメのミラクル3は本当に力と技と反則を兼ね備えたレスラーなのである(ただし、反則の使い手としての実力を見せるのは、タイガー・ザ・グレートとなってからだ)。
 第102話で直人は自分がタイガーマスクであることをルリ子に明かし、第103話で直人の宿敵であったミスターXが命を落とす。第104話と第105話(最終回)がタイガーマスクとタイガー・ザ・グレートの決戦だ。流血に次ぐ流血の激闘の中、タイガーはその素顔を人々に曝すことになり、テレビで中継を観ていた健太達も、直人がタイガーであったことを知ってしまう。タイガーは反則の限りを尽くし、タイガー・ザ・グレートを倒す。遂に伊達直人の長い戦いに決着が着いたのだ。しかし、反則を犯してリングを血に染めたのは許されることではない。直人はルリ子や健太達に別れを告げることもせず、日本を去るのだった。
 最終回でタイガーマスクの正体が明らかになることの布石が、かなり前から打たれている点にも触れておこう。健太がタイガーの正体を知りたがるのが第80話。第81話と第82話では敵レスラーが、リングでタイガーのマスクを剥がそうとする。再び健太がタイガーの素顔を知りたがるのが第96話で、その時は直人がタイガーと同じ場所に包帯を巻いていることに気づいてしまう。以上を踏まえて第102話、第105話の展開となるわけだ。
 ボスがタイガーのウルトラ・タイガー・ブリーカー攻略は容易いと断言したのが第79話、実際に彼がウルトラ・タイガー・ブリーカーを破るのが第104話だ。これも布石を打ってから、実現までに時間をかけた『タイガーマスク』ならではのシリーズ構成だ(余談だが、すでに第73話でイエローデビルがウルトラ・タイガー・ブリーカーを破っている。キングタイガーもその直後に自滅しているとはいえ、第78話でウルトラ・タイガー・ブリーカーを破っており、ボスが初めて破ったわけではない)。
 虎の穴のボスの登場からタイガー・ザ・グレートと決戦までが、ヒーローである「伊達直人=タイガーマスク」の活躍を描いた第7・8クールの本筋である。そして、それと並行して、ちびっ子ハウスの個々の子供にスポットが当てられて「みなしごがいかに生きるべきか」が語られる。これが第7・8クールの重要なポイントだ。具体的にはミクロの親戚が見つかり、彼女がハウスを去る第83話。ヨシ坊が裕福な夫婦に引き取られる第89話。クラスメートにみなしごは勉強ができても出世はできないと言われた健太が、そのことを直人に問う第93話。第89話でヨシ坊はハウスに戻っているのだが、第100話では彼の本当の両親が現れる(第20話でも、ヨシ坊の母親が現れているが、その時は人違いであることが分かった。ヨシ坊がハウスを去るかどうかが描かれた話が三度もあるのだ)。第100話のラストにおける直人のモノローグで語られたことが「みなしごがいかに生きるべきか」についての結論であり、それはアニメ『タイガーマスク』における「人間はどのように生きるべきか」についての結論にもなっているはずだ。

 『タイガーマスク』は第6クールで完結する予定で制作が進められており、しかし、更なる放映延長が決まって第7、第8クールが作られたのだろう。スタッフ達が第6クールで完結寸前まで進んだ物語を、第7クールで再スタートさせ、次のクライマックスである第8クール終盤に向けて物語を積んでゆき、傑作と評される最終回に辿り着いたことは賞賛に値する。しかし、アニメ『タイガーマスク』の物語が本当の意味で充実しているのは第5クールから第6クールにかけてである。そのことは強く、主張しておきたい。

●『タイガーマスク』を語る 第4回 第50話「此の子等へも愛を」 に続く

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『タイガーマスク』を語る
第2回 第1クール~第4クール

 『タイガーマスク』は1969年10月から1971年9月まで放映された。全105話の長大なシリーズだ。
 本作はアニメオリジナルのエピソードが非常に多い。序盤は原作に沿ったエピソードをメインとし、間にオリジナルのエピソードを挟むかたちであったが、やがて、オリジナルが中心となり、第6クールでは1本も原作が使われていない。そうなったのは原作のストックが少なく、あっという間にアニメが原作に追いついたためだ。アニメの制作スタッフは、原作のストックが無い状況で長期のシリーズを展開するためにオリジナルキャラクターを生み出し、半年後、1年後を見越して物語を構成している。
 クール毎の節目の話数(13の倍数の話数)にクライマックスがくるように構成されている点にも注目してほしい。『タイガーマスク』は何度も放映が延長されており、どこで放映が終わるか分からなかった。そのために1クール毎に(つまり、13話毎に)物語を構成し、各クールの最後が最終回になってもいいようにしていたのだ。

 以下で『タイガーマスク』の物語の流れをクール単位で解説する。


第1・2クール(第1話~第26話)
 第1・2クールは原作を主軸として、アニメのオリジナルエピソード、オリジナルの描写を加えるかたちで展開する。
 第1話のタイガーの帰国から第7話でブラック・パイソンを倒すまでは多少のアレンジはあるが、基本的に原作に沿った展開だ。第6話でタイガーとブラック・パイソンの試合を見るために健太がちびっこハウスを抜け出す。それを追ってリングサイドに姿を現したルリ子は、試合中のタイガーに対して、悪役に憧れる健太を正しい道に導いてほしいと訴える。ルリ子の懇願を受け入れて、タイガーは第7話で反則を使わずにブラック・パイソンに勝利する。これをきっかけにして、彼はフェアプレーの正統派レスラーに転向する。タイガーは虎の穴の裏切り者になった上に、得意の反則を使わないという枷を自分に与えることになったのだ。
 オリジナルエピソードの第8話を挟んで、ゴリラマンが登場する第9話と第10話も原作を使用した話。第11話から第22話が「ワールド大リーグ戦」(ただし、途中で「ワールド大リーグ戦」でない試合が挿入される)で、この時期はオリジナルエピソードが多い。
 第23話から第26話までが第1・2クールのクライマックスとなる「覆面ワールドリーグ戦」であり、ここは原作に沿った内容(ただし、原作で「覆面ワールドリーグ戦」の試合として行われたスカルスター戦が前倒しになり、第13話で単独の試合として描かれている)。「覆面ワールドリーグ戦」にはミスター・ノー、ゴールデンマスク、ザ・ライオンマンといった個性が際立った覆面レスラーが登場。それ以外にも、ジャイアント馬場が覆面レスラーのザ・グレート・ゼブラとして参戦する等、「覆面ワールドリーグ戦」は見どころが多い。
 第1・2クールにおける、アニメのオリジナルエピソードを紹介しよう。直人が恵まれない人達と関わるエピソードが第12話、第19話、第22話だ。第12話では大阪の孤児院の子供達のために傷ついた身体で試合に挑み、第19話では母親の面倒を見るために廃品回収の仕事をしている少年とその周囲の人々と触れ合い、第22話では祖父を捨てて東京に行こうとする漁師町の若者に希望を与える。
 同じくオリジナルで「虎の穴が差し向けた殺し屋が、リングの外で直人を狙うエピソード」が第8話、第15話、第20話。その中の第8話は奇抜な展開が多い異色編だ。刑事ドラマ風の第17話では、ひき逃げ犯人を探し出すために直人と健太が活躍する(脚本は後にミステリ作家となる辻真先だ)。
 オリジナルキャラクターで、後にサブレギュラーとなる嵐老人が初めて登場するのが第11話。同様に重要な存在となるオリジナルキャラの大門大吾の初登場が第14話。原作にもいるキャラクターだが、第14話では虎の穴の3人の支配者も登場。大門大吾とタイガーが試合をするのが第18話だ(大門はこの話数で第72話以降と同じ不動明王のマスクを付けてリングに上がっているが、ミスター不動の名前は使っていない)。

第3クール(第27話~第39話)
 第27話は「覆面ワールドリーグ戦」の後日談だ。第28話、第29話、第30話がアニメオリジナルで、第31話、第32話、第33話は原作に戻って、アポロン兄弟との対戦と必殺技ウルトラ・タイガー・ドロップの完成を描く。第34話と第35話はアニメオリジナルで、第36話から第39話は原作に戻り、インドを舞台に「全アジアプロレス王座決定戦」を描く。第39話がタイガーとミスター?(クエスチョン)の対決で、これが第3クールのクライマックスとなる。
 後にイエローデビルとなる高岡拳太郎の初登場が第28話で、彼にスポットが当たるのが第34話。拳太郎はミスターXに騙され、母親がタイガーのために死んだと思い込む(タイガーとイエローデビルの戦いが描かれるのは、10ヶ月後に放映される第73話である。『タイガーマスク』のシリーズ構成のスケールは凄まじいほどに大きい)。
 第3クールには実在のレスラーの半生を描いたドキュメンタリータッチのエピソードが二本ある。第30話「不滅の闘魂『力道山物語』」、第35話「チャンピオンへの道 -G・馬場の苦闘-」である。

第4クール(第40話~第52話)
 第40話から第43話はインドから凱旋したタイガーが強敵・赤き死の仮面と戦うまで。オリジナルエピソードを挟んでいるが、この部分は原作の映像化だ。赤き死の仮面との死闘で反則を使ってしまったタイガーは、原作でもアニメでも再び海外に旅立つ。原作ではパリの地下プロレスでミスター・カミカゼやマップマンと戦うのだが、アニメでは第44話においてロサンゼルスでミスター・カミカゼと出会い、第45話ではドイツのハンブルグ、第46話ではモナコ、第47話でフランスのパリと、ヨーロッパを転戦。そして、第49話でロサンゼルスに戻ってミスター・カミカゼと対戦する。原作でもアニメでもミスター・カミカゼとの対戦で第2の必殺技ウルトラ・タイガー・ブリーカー(原作では技の名称がフジヤマ・タイガー・ブリーカーである)を完成させることになる。ミスター・カミカゼと対決に至るこの部分は地下プロレス界を舞台にした暗い雰囲気の原作と、各国で現地の人々と交流していくアニメのギャップが激しい。
 帰国後第一戦の第49話は原作をアレンジしたエピソード。第50話、第51話、第52話はオリジナルだ。第49話から第52話では「第13回ワールドリーグ」の模様が描かれており、タイガーは第52話で第4クールの掉尾をワールドリーグ優勝で飾る。
 第50話が被爆者家族が登場する「此の子等へも愛を」だ。このエピソードから「直人と市井の人々とのドラマ」を描いたアニメオリジナルの傑作エピソードが続出することになる。

●『タイガーマスク』を語る 第3回 第5クール~第8クール に続く

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『タイガーマスク』を語る
第1回 この作品について書く理由

 このコラムでは『タイガーマスク』について書く。1969年から1971年に放映されたTVアニメ『タイガーマスク』についてだ。
 僕が「『タイガーマスク』について書きたい」と思うようになったのは10年くらい前のことだ。DVD BOXの解説書等でこの作品について何度か文章を書いているが、自分の原稿として、まとまったかたちで書きたいと思ったのだ。時間に余裕がある時に色々と調べてから書くつもりだったが、そんな「いつか」はこないかもしれない。それに気がついたので、今、書き始める。充分な調査をして執筆するわけではないので、少し粗い原稿になるかもしれない。

 『タイガーマスク』を「虎のマスクをかぶったヒーローが、怪人的な覆面レスラー達と戦いを繰り広げる荒唐無稽なプロレスアニメ」だと思っている人は多いと思う。それは決して間違っていないし、それも本作の魅力ではあるのだが、それだけではないのである。『タイガーマスク』にはハードボイルドタッチの「大人のためのドラマ」という一面がある。そして、「人間はどのように生きるべきか」といったテーマに対して真摯に向き合って作られた作品でもある。巧みに計算されたシリーズ構成の妙についても、多くの人に知ってほしい。
 本作には作画や演出、音楽等、様々な見どころがあるが、今回からのコラムではその中の、主に物語について語ることになる。決して、アニメ『タイガーマスク』の全てを語るものではない。それについても先にお断りしておく。
 この作品は放映当時に大変な人気であったにも関わらず、その後、あまりにも語られる機会が少ない。同時期に放映された同じ梶原一騎原作の『巨人の星』(1968年~1971年)と『あしたのジョー』(1970年~1971年)に比べても語られることが少ない。それが「『タイガーマスク』について書きたい」と思ったきっかけのひとつだ。
 『タイガーマスク』について触れられる時に、ポイントになることが多いのが「最終回が凄い」である。確かに最終回は素晴らしい出来だ。しかし、最終回以外にも素晴らしいところは沢山ある。最終回だけで『タイガーマスク』を語ったことにされるのを、僕は非常に残念に思ってきた。
 「被爆者や公害といった社会的なテーマを描いたエピソードがある」と言われることもある。確かにそれらのエピソードは『タイガーマスク』の中でも重要なものであるのだが、重要なのは被爆者や公害を扱っているからではない。これも是非とも書いておきたいポイントだ。

 作品の概略について説明する。『タイガーマスク』は同名マンガを映像化したTVアニメである。マンガ「タイガーマスク」の原作は梶原一騎、作画が辻なおきだ。当初は雑誌「ぼくら」に連載され、後に「週刊ぼくらマガジン」「週刊少年マガジン」で連載されている。アニメを制作したのは東映動画(現・東映アニメーション)だ。これは他の当時の東映動画作品も同様ではあるのだが、監督に相当する演出家は存在しない。これはシリーズ全体を統括する監督がいないという意味であり、各話の演出家がそれぞれ自分の担当話数を監督していると考えてほしい。シリーズ構成にあたる仕事は、プロデューサーの斉藤侑が担っていたようだ。番組開始時のキャラクターデザインは木村圭市郎が担当。『タイガーマスク』の作画は斬新なものであり、後のクリエイターや作品に多大な影響を残している。各話の作画スタッフの仕事も素晴らしい。
 物語の導入部分についても触れよう。主人公の伊達直人は孤児であり、ちびっこハウスという孤児院で育てられていた。しかし、ちびっこハウスは借金を抱えており、解散することになる。孤児達が他の施設に引き取られる前の日に彼等は上野動物園に行き、そこで虎を見た直人は「虎のように強くなりたい」と願う。虎のように強くなって、悪い大人達をやっつけたいと考えたのだ(アニメの第1話のこのシーンで、直人は孤児院のことを誉めていた大人達の偽善についても言及している)。動物園で皆の前から姿を消した直人は「虎の穴」に拾われる。虎の穴とは悪役レスラーを世界中のプロレス界に送り込んでいる世界規模の秘密組織だ(なお、アニメの第1話では悪役レスラーを育てているのは虎の穴の活動のひとつであると、ジャイアント馬場が語っている)。
 10年の月日が流れた。虎の穴で特訓の日々を乗り越えた直人は、反則を得意とする覆面レスラーのタイガーマスクとして、アメリカのプロレス界で悪名を馳せていた。直人は久しぶりに帰国し、懐かしのちびっこハウスを訪れる。ちびっこハウスは前院長の子供であり、直人の幼馴染みでもある若月先生とルリ子の兄妹によって再建されていた。しかし、直人が訪れた時、ちびっこハウスは借金のために立ち退きを迫られていた。10年前と同じ状況になっていたのだ。虎の穴には所属するレスラーがファイトマネーの50%を虎の穴に納めなくてはいけないというルールがあった。そのルールを破った者には死の制裁が待っている。だが、直人はちびっこハウスを救うために今まで貯めたファイトマネーを使ってしまい、さらに次の試合のファイトマネーもちびっこハウスのために使わざるを得ない状況となる。ファイトマネーを納めることができなかった直人は、裏切り者として虎の穴に命を狙われることになってしまった。直人はタイガーマスクとして、虎の穴が送り込んでくる怪人的な覆面レスラーと戦い続けることになる。
 ちびっこハウスの子供達はタイガーマスクのファンであり、中でも元気で生意気な健太は熱烈なファンだ。直人は自分がタイガーマスクであることが知られれば、彼等に危険が及ぶかもしれないと考えたのだろう。ルリ子やちびっこハウスの子供達に対して、自分がタイガーマスクであることを隠している。直人は裕福ではあるが頼りない青年を演じており、ちびっこハウスの子供達は彼を「キザにいちゃん」と呼んでいる。なお、ちびっこハウスの健太以外の子供はガボテン、ヨシ坊、チャッピー。他にも何人もの子供がいる。シリーズ中にちびっこハウスに加わるのがミクロと洋子だ。
 他のレギュラーのキャラクターは虎の穴のマネージャーであり、直人にとっての宿敵となるミスターX。実在のプロレスラーであり、タイガーマスクのよき先輩であるジャイアント馬場。そして、アントニオ猪木である。

 次回はシリーズ全体の物語の流れについて触れることにする。なお、この一連のコラムではキャラクター名の「タイガーマスク」を「タイガー」と、「ちびっこハウス」を「ハウス」と省略することがある。本編でもそのように省略されることが多いのだ。主人公の名前を直人と表記する場合は伊達直人として行動している場面、タイガーマスク(タイガー)として表記されている場合はタイガーマスクとして行動している場面だと思っていただきたい。また、固有名詞の表記は同作DVD BOX、単体DVDソフト(DVD‐COLLECTION)の解説書に準ずることとする。
 また、ここまで読まれて作品を興味を持たれた方は、次回以降のコラムを読む前に『タイガーマスク』本編をご覧になってもいいかもしれない。『タイガーマスク』は2024年5月現在、Amazon prime videoのアニメタイムチャンネルで全話を視聴することができる。

●『タイガーマスク』を語る 第2回 第1クール~第4クール に続く

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アニメ様の『タイトル未定』
438 アニメ様日記 2023年10月15日(日)

2023年10月15日(日)
『キボウノチカラ オトナプリキュア’23』2話について。乾杯の場面で「プリティーだった私たちの再会を祝して!」と言っていたけれど、最終的に「あの頃の私達はプリティーだったけど、今の私達もやっぱりプリティーで、なおかつ素敵」のようなところに落ち着くといいなあと思った。
「設定資料FILE」の構成を進める。作業の途中で取り上げた作品の脚本を読む。夕方までやって、仕上げ直前まで構成を進めた。作業の途中で20年ぶりくらいにペーパーボンドを切らした。

2023年10月16日(月)
新文芸坐で「秀子の車掌さん」(1941/54分/35mm)を観た。プログラム「生誕100年記念特集 高峰秀子と名作たち」の1本。想像していたよりもアイドル映画だった。主人公の「おこまさん(高峰秀子)」に恋愛描写はないし、映画全体として生々しい描写もない。たわいないだけの話かと思ったら、バス会社の社長が小悪人で、それと関連して、おこまさんに残念な未来が訪れることが示唆されて終わる。それっている? という感じだったけど、当時としてはこのくらいのオチはつけなくてはいけない、という感じだったのかなあ。全体にのんびりとした話で、特に序盤のバスの運行模様は平和すぎてファンタジー。当時としても誇張した世界を描いた作品であったと思われるけど、今の目で観るとファンタジー度数が上がっているはず。驚いたのは序盤のシークエンスで、運行の途中で客がいるのに実家の近くでバスを停めてもらい、おこまさんが自宅で用事を済ませて戻ってくるという展開。新文芸坐は高齢のお客さんが多かった。映画館スタッフに手を引かれて席に着いた方が二人かな。ちょっとしたユーモラスな描写で後ろの席のお客さんが笑っていて和んだ。
14日(土)に事務所で使っている椅子の背もたれが取れてしまって、そのまま作業をやっていたら腰がヤバい。きちんとした椅子は改めて選ぶとして、このままでは仕事にならないので、よさそうなやつをアスクルに頼んだ。

2023年10月17日(火)
アスクルに注文した椅子が届き、事務所スタッフが組み立ててくれた。背もたれがしっかりしていて快適。腰の痛みも減った。昼から新宿のルノアールの会議室で高橋久美子さんのインタビュー。画集のための取材だ。ずっと聞きたかった話を聞くことができた。

2023年10月18日(水)
録画してあった映画「スプーン一杯の幸せ」を流し観。1975年の映画で主演は桜田淳子さんだ。バトミントン部に所属する梅村乃里子(桜田淳子)と、教師でバトミントン部のコーチになった福島清彦(黒沢年男[現・年雄])がメインで、『エースをねらえ!』みたいな話になるのかと思ったら、乃里子が、福島と母親(浜木綿子)の結婚を許すかどうかという話に展開。恋愛の話ではあるけれど、主人公は憧れを感じるくらいで恋愛はしない。桜田淳子さんの見どころは、離ればなれに暮らしている(両親は入籍しなかった?)実の父親と会った際の白い上下の衣装。清楚でお嬢さんらしくて、お父さん目線としては最高に可愛いのではないか。「やだあ、エッチなお父さん」と言われていたけど、あれは殺し文句だなあ。ラスト直前の喫茶店のシーンで分かりやすく、タイトルを回収していた。
同じく「夢のハワイで盆踊り」を流し観。1964年の東映映画で主演は舟木一夫さん。舟木一夫が舟田夏夫を演じて、本間千代子が風間美代子を演じて、高橋元太郎が高木源一郎を演じている。タイトル通り、登場人物がハワイに行って盆踊りを踊る。堺正章さんが若い。先に「夢のハワイで盆踊り」という曲がヒットして作られた映画かと思ったら、そういうわけでもないみたい。
この日は病院Bに。今回は呼吸器関係の診察。病院の行き帰りと待ち時間に、小説「氷菓」をKindleで読了。予想の倍くらいは面白かった。

2023年10月19日(木)
午前中の散歩で旧古河庭園に行って薔薇を見る。
グランドシネマサンシャインで「ミュータント・タートルズ:ミュータント・パニック!」を【吹替版】を鑑賞。「手描きの絵のような3DCG」のビジュアルがよくできている。線で表現されたラクガキみたいなエフェクトもよかった。内容に関しては、亀達のティーンエイジャーっぽい感じがよくて、『おそ松さん』の六つ子的だと感じた。クライマックスのバトルで、名もなき人間の男性が、巨大化したスーパーフライを倒すことができるアイテムをもって、スーパーフライに向かって走り出したところは不思議な感動があった。クライマックスの「そうだ。『進撃の巨人』だ」のセリフが、僕的にはかなりイケていた。あのセリフから立体機動装置的なバトルに直結したら、感動しただろうなあ。実はあのセリフで脳内に「紅蓮の弓矢」が響いた。映画全体としては「もうちょい」と思うところもあったけど、楽しめた。
TVアニメ『氷菓』で、前日に読了した原作に相当する1話から5話を再視聴した。基本的な物語の流れは原作と同じ。変わりゆく天気を凝った画作りで表現したり、キャラクターをたっぷり動かしたりして、映像的に見映えのあるものにしようと努力している。千反田の家で謎についての調査の発表をしている途中で千反田がおにぎりを作り出したり、図書室での謎解きの途中で、摩耶花が本を書架に戻すのを長回しで見せたり。当時はピンとこなかったんだけど(当時からそれを理解するべきだったんだけど)、『氷菓』って京都アニメーションのアニメ表現で、ロジックが中心のミステリに果敢に挑んだ作品なのね。その結果を成功とみるか、成功ではないとと思うかは人それぞれで違うのだろう。

2023年10月20日(金)
ワイフと一緒に旧古河庭園に行って薔薇を見る。二日連続で旧古河庭園に来たのは、前日に来てワイフに薔薇を見せたいと思ったからだ。アプリ「旧古河バラコレ」も使ってみた。
午後はラクガキ画集のために、今村亮さんとSkype打ち合わせ。個々のイラストの話になってからは、打ち合わせを編集部スタッフに任せて、自分は音声だけを聞いていた。
夜は「Netflixシリーズ「PLUTO」世界最速上映会ジャパンプレミア」に参加。上映された1話に関しては配信作品とは思えない大作感のある仕上がりだった。キャティングもよかった。この日の上映に関して言えば音響もかなりよかった。丸山正雄プロデューサーからの依頼で、僕と事務所のスタッフで『PLUTO』で何度か企画書を作成している。最初に企画書を作ったのが2013年のようだ。とにかく完成してよかった。

2023年10月21日(土)
この日は取材原稿の粗まとめを進めた。
2013年に作った『PLUTO』の企画書のテキストを読んでみた。前夜のトークでは浦沢直樹さんが「最初の企画では120分の企画だった」と語っていたが、2013年の企画書では「120分の劇場アニメーション・全2本」だった。これは誰かから言われてそうしたのではなくて、自分が120分で2本くらいが現実的だと判断したのだと思う。ざっとテキストを読むと、煽りに煽っていて、我ながらいい仕事をしている。
編集作業を進めている書籍について。今回も「お前はこの本のために、どれだけ金を使えるのか」という展開になってきた。この場合の「お前」というのは社長である僕のことだ。本を作るには技術も手間も必要だけど、お金も必要だ。ここで余計にお金を使うと、少しだけ本の充実度が上がるはず。

第850回 集中力散漫なところに届きました!

いや、決して仕事を受け過ぎたつもりはありません(汗)!

いつも、いただいた仕事に対していろんな可能性が見えてしまうんです。だから「お受けできません」ではなく、「こうすればできると思います」と、“やる”前提で話します。すると、現状の板垣が仕上がるという訳。
 この歳になると集中力が益々散漫になって、一つのことを何時間も集中してやり続けることが難しく、そんな時別の仕事(作品)に頭を切り替えるのです。例えば原画修正などの画を描き行き詰まると、脚本やプロットなどのテキスト作業を1~2時間やったり、その後オープニングのコンテ切る、で合計一日とか。
 子供の頃から現在まで、大概のモノに飽きっぽい俺。今までで一番辛かったのは、仕事が監督一本しかなく、キャリアが浅くヒット作がないという政治的理由から、自分の監督作品なのに脚本にも参加させてもらえなかった頃の脚本上り待ち時間の暇。当時のプロデューサーから「まあ、監督には“待ち時間”てのがあるもんで」と窘められた、というか俺の主義として義理を欠きたくないので、さらなる仕事を重ねる場合、現在受けてる仕事のほうのプロデューサーに必ず断りを入れるのですが、入れたのが仇になり了解が得られず、ユル~い暇ができてしまったという訳。
 本来「これに一本集中させてくれよ! それでいて拘束料くれよ!」という監督の方が多いかと思いますが、俺の場合は「拘束料は要らないから、仕事の隙間を埋めてくれよ!」なんです。ま、ミルパンセができてからは、自分にくる仕事が基本“会社の仕事”になってるため、シリーズ構成・脚本や音響監督、はたまた背景の直しまで、隙間を空けるどころか、今度は溢れんばかりの仕事量をやらせてもらってます。
 そんな訳で、制作中2本、脚本・シリーズ構成中2本、その他準備中1本、の今。

 と、そこへまた届きました!

ぴあの『劇場版あしたのジョー2 COMPLETE DVD BOOK』が!

 1981年の出﨑統監督作品! 板垣をアニメの世界に誘(いざな)った大傑作です! この映画で「アニメって凄い!!」と思い、“出﨑統”という名前を覚え、“監督”と言う職業があることを知りました。ビデオレンタルで何度も借り、レーザーディスクからDVD、そしてノーマルのBlu-rayから4K ULTRA HD Blu-ray、さらに今回ぴあDVDと、出る度買ってしまう俺がいます。
 “ぴあ”シリーズ、毎回楽しみのブックレット。唯一劇場版のみの“砂浜〜足跡シーン”のコンテや原画+作監修正、杉野昭夫インタビューと今回も見所満載でした!

 次巻は『劇場版ガンバの冒険』!! “東京ムービー新社(現:トムスエンタテインメント)版・劇場出﨑アニメ”編、まだまだ続きますように!

【新文芸坐×アニメスタイル vol. 176】
破格の超大作OVA ジャイアントロボ THE ANIMATION 地球が静止する日

 5月4日(土・祝)と5日(日・祝)の2日連続で、新文芸坐とアニメスタイルの共同企画で上映プログラムを組みました。
 新文芸坐とアニメスタイルの共同企画による上映プログラムは今年で15周年、アニメスタイル編集部は今年で25年目。それを記念しての特別企画です。

 5日(日・祝)は「【新文芸坐×アニメスタイル vol. 176】破格の超大作OVA ジャイアントロボ THE ANIMATION 地球が静止する日」。コンセプト、映像、音楽、キャスト、全ての点において破格であり、今川泰宏のケレン味と趣味性が遺憾なく発揮されたOVAシリーズです。新文芸坐×アニメスタイルの企画では、今までも何度かオールナイトでこの作品の全話上映を行っていますが、今回は昼間の上映。勿論、全7話を一挙上映します。

 今回はスタッフのトークはありません。アニメスタイルの小黒編集長と、新文芸坐の花俟良王さんが、上映前にご挨拶として少しお話をさせていただきます。  

 チケットは4月28日(日)から発売します。チケットの発売方法については新文芸坐のサイトで確認してください。

●関連リンク
新文芸坐オフィシャルサイト
http://www.shin-bungeiza.com/

【新文芸坐×アニメスタイル vol. 175】今 敏が描いた華麗なる騙し絵 『千年女優』
http://animestyle.jp/2024/04/24/26934/

【新文芸坐×アニメスタイル vol. 176】
破格の超大作OVA ジャイアントロボ THE ANIMATION 地球が静止する日

開催日

2024年5月5日(日・祝)13時35分~20時20分

会場

新文芸坐

料金

3000円均一

上映タイトル

『ジャイアントロボ THE ANIMATION 地球が静止する日』全7話(1992-1998/339分/BD)

備考

※トークショーの撮影・録音は禁止

●関連サイト
新文芸坐オフィシャルサイト
http://www.shin-bungeiza.com/