去年の「あまちゃん」は、うちの奥さんの知り合いがスタッフの中に加わっていたという縁で観はじめたのだが、なんだかそのあと夫婦で朝の連ドラを観るのが習慣づいてしまった。BSで過去番組の再放送もやっているので、朝7時15分から45分までで2番組観られてしまうわけで、朝ちゃんと起きてその前までに朝飯の仕度を終えてしまわなければならない健康生活が実現できてしまっている。
番組は半年ごとに交代するので、再放送合わせるとこの1年ちょっとで足かけ6番組観ることができてしまってるのだが、そうやって俯瞰してみると、脚本の出来と美術の出来が割と正比例しているような気がしてきた。脚本だってただ脚本家の力量だけで存在しているのでなく、プロデュースとか演出側がそもそも作品に対して明確な方向性を抱いているかどうかがものをいっている部分が大きいみたいで、メインスタッフのその同じ熱量が作品を構成する別の分野にも同じだけ影響しているのだろうなあとか、つい思ってしまう。
「あまちゃん」の演出の原型がいろいろあるように聞いていたので、再放送の「ちりとてちん」というのを観はじめたのだが、これが冒頭いきなり、自分も繰り返し訪れていて懐かしい妻の故郷が舞台となっていて、ちょっと思い入れることになってしまったのだが、今は電化されてしまった小浜線に、物語の時代どおりのディーゼル列車を走らせたり(自分もよく乗ったので懐かしい)、なかなか急所を突いてくるのだった。そのディーゼル車の小浜線で故郷を去る主人公の娘に沿線から大漁旗を振って見送るあたりで、なるほどこれが原型か、と思ったりもしたのだった。
そうこうするうちに、なんだか「ちりとてちん」がとても気になってきて、再放送中の番組なのではあるが、NHKオンデマンドでガーッと通し観してしまった。全部観てしまうとこれはいけない、またアタマに戻って、オンデマンドだけで全編を計4回観てしまった。再放送も観通したから、結局半年間で5回通して観てしまったことになる。
なんでそんなに入れ込んでしまったかというと、自分たちの仕事につながるところがあるみたいに感じてしまったからだった。
「ちりとてちん」のストーリーを純自分流の解釈でかいつまむと、こんな感じになる。
まるで落語の世界と思しいところからやってきた1人の少女が、とあるつぶれかけていた上方落語の一門をよみがえらせ、さらには上方落語界全体に救いをもたらし、また去ってゆく。
すでに廃業していた落語家たちに、あなたがほんとうに得たかったのはなんだったのですかと問うて、1人ひとり呼び戻す過程にはじんときたし、その結果、酒びたりに逼塞していた師匠がまた道に戻ってくるのにも涙した。
そういえばと、ちょっと脇道にそれるのだけれど、以前、こうの史代さんの「さんさん録」のことを、よりによってこうのさんご本人の前で話していたことがある。初老の男が、妻が残してくれたノート1冊を片手に、主夫となって家事をがんばる、というマンガなのだが、うちの浦谷さんが、
「あの主人公は実写でいえば岩城滉一さんみたいな」
といったら、こうのさんが、
「いえいえいえいえ」
と、いったのだった。
「それじゃカッコよすぎます。もっといいかげんでズボラな……俳優でいえば渡瀬恒彦みたいな」
渡瀬恒彦もじゅうぶん格好いい部類だと思うのだが、「ちりとてちん」で呑んだくれのダメ人間の師匠を演じていた渡瀬恒彦を見て、「あのときこうのさんがいっていた渡瀬恒彦はこれだったのか」と理解できてしまったのだった。
で、このドラマの後半戦は、上方落語の常打ち小屋を作りたい、という師匠の悲願をかなえるべく、弟子たちががんばる話になる。このドラマの中では、上方お笑い界のなかでも落語は傍流にある。落語をやろうとすると、まずは演芸場のプログラムに混ぜてもらうことになるのだが、演芸場に足を運ぶお客たちは、落語が始まるとまるで休憩時間であるかのように、トイレに立ったりしてしまう。それ以外では、落語家たち自身が自分たちで落語をできる場所を探して、たとえばスーパーマーケットの上の階とかで「落語の会」を開くしかない。自分たちでポスターも貼る、座布団も敷く。
『マイマイ新子と千年の魔法』のとき、自分たちで上映してもらえる場所を探したり、上映してもらえるとなったらとにかくその場に行って舞台挨拶させてもらったりを繰り返していた頃が二重写しになってしまう。ああいうのは楽しい。お客さんとの距離も近いし、実に楽しい。
とはいえ、自分の作るような作品が、今の日本のアニメ界の中で、そういうがんばりをしなければならないことに多少の理不尽を感じてしまう……と書いたとしても怒られるほどのことはないのじゃないかと思いたい。
今の日本のアニメーション事情は「いわゆるコア」「いわゆる子ども向け」「一般向け」の3ジャンルくらいになるのじゃないかと勝手に分類しているのだが、「いわゆる子ども向け」はTVも劇場版もここ20年くらいタイトルが固定されて動かなくなっている。
「一般向け」的なものは『マイマイ新子と千年の魔法』のみならず、観てくださった人の評判がよかったとしても、全般的には苦戦を強いられる状況になっている。ああ、えっとジブリというブランドがついているもの以外は。ここは重要なことだと思うのだが、日本のアニメーションの中で、そうした作品群が、もはやひとつのジャンルといってよいほど数作られていることには、ほとんど興味抱かれてないのじゃないだろうか。
けれど、「ちりとてちん」のこの一門は、落語だけを毎日演じる場所「常打ち小屋」を自分たちの手で打ち立てようとするのだった。「それが必要なんです」という彼らの声が、興行界に取り上げられることはない。自分らでやるしかないのか。
彼らが自分たちの預金通帳を取り出して「全然足らへん」とうなだれたとき、彼らのことを知る故郷の人たちが、近所の人たち皆々が、これを使え、と金一封やらガマ口の中の小銭まで提供してくれるのだった。
『マイマイ新子』は、かつては「続映希望」の署名活動に支えていただいたし、英語圏版Blu-rayの発売もクラウドファンディングで実現できることになった。 そういうことまで二重写しになってしまうのだった。
だから、「ちりとてちん」のこの場面には、何度見ても思わず涙してしまう。
その挙句に、自分たちのとっての「常打ち小屋」とはどんなものなのだろうかと考えてしまうのだった。作品だけ作ってればよいのかどうか、よくわからなくなってきた。
なんなのだろうね、いったい。
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