COLUMN

第45回 生きていた中島本町

●2013年7月28日(日) 1088日目

 朝、広島のホテルを出ると、雨が降っていた。天気予報を見て予想していたよりも本降りに近い。傘は東京から乗ってきた車の中にあるのだけれど、車を停めたホテル指定の駐車場がちょっと遠いので、コンビニまで濡れていって透明傘を買う。本通りまで出ればアーケードの屋根もあるだろう。
 新天地。本通り。少し時間が早い。いつもは前を通り過ぎるだけだった、戦前は三井銀行だった広島アンデルセンに入って、お茶を飲んでみることにする。ここは戦時中に帝国銀行に変わっていたので、その名で記憶されることが多いのだけど、それでいえば、今は平和記念公園レストハウスになっている建物も自分の中では、戦時中の名称「燃料会館」ではなく「大正屋呉服店」であってほしいように思うし、国家総動員的戦時体制で色々なものが転換させられてしまったより前の姿で心覚えしておきたいように思ってしまう。
 今日のヒロシマ・フィールドワークの会場は、平和記念公園レストハウスのすぐ隣、旧・中島本町の南東の端近くにある国立広島原没死没者追悼平和祈念館の研修室。13時からの予定だったが、12時には部屋が使えるようになる、ということで、何人かの方々に先に来ていただいてお話をうかがえるように、中川先生が段どってくださっている。が、それよりもさらに早く着いてしまった。
 地下へ降りてみる。らせん状に下る階段をたどった底に「追悼空間」と呼ばれる大きな円筒形の空間があって、この施設の中核になっている。ただ空間があり、周囲の壁面は全周360度に渡って被爆後のパノラマ写真になっている。ここへ来るたびにいつも思うのだけれど、追悼されるべき方々のことは、この惨状以前の、生きていた町の中にある姿として思い描いてさしあげたいように思ってしまう。

 戦前は元安橋の向こう側に住んでおられた森冨さん、この方は戦前戦中のこの付近の姿を何枚もの絵で描かれている。それから、中島本町の南隣りの材木町の齋藤さん。中島本町では、中島本通りのつるや履物店の息子さんである上田さん、つるやさんの脇の道を相生橋の方へ抜ける道の右側にあった鍇井理髪館の息子さんの浜井さん、その道のもう少し先左側の高橋写真館の高橋さん。昭和一ケタ生まれの方々が口をそろえて「誰々がガキ大将だった」「どこどこの布団部屋へ上がり込んで遊んだ」と喋っておられる話を聞いて、ああ、学童疎開というのは確かに意味があったのだな、と思う。
 想定しているすずちゃんの歩く道は、元柳町の森永製菓広島支店の前の雁木から上陸、本川橋東詰から中島本通りに入って西へ向かい、吉岡幸助ネル店、立野玩具店、ヒコーキ堂の前を通って大正屋呉服店の前あたりで道に迷って途方に暮れる。このとき、手前に大津屋モスリン堂をなめた構図になる。それから慈仙寺鼻へ向かう道を通り、民衆別館の前で望遠鏡をのぞきながら相生橋に出る。この相生橋がまだ「T」字型にも「H」字型にもなってない「くI」の形の時期なのでいったん産業奨励館の方へ向かうちょっとややこしい道をたどらせることになり、「I」の方の大きな橋を通るときには広電の櫓下変電所の煉瓦造りが見える。
 わからないのは、まずは「大津屋の看板」。これについては、不鮮明な写真しか手に入らないのだが、「黒っぽい看板に金文字だったような」というお話を得ることができた。
 次いでの不明点は、慈仙寺鼻への道の民衆別館より少し手前にある山田歯科あたりの家並み。このあたりは写真がない、と思っていたら今日来てくださった浜井さんの理髪店はそのすぐ隣だった。写真もあるという。急遽、ロケーションを1軒分だけずらしてこのカットの背景には鍇井理髪館を描くことにする。
 民衆別館はたまたま写真が残っている目立つ建物なので、背景に描くことにしていたのだが、向かいに住んでおられた高橋さんから様子を聞くことができた。なんだか作りが凝った木造の建物なので、ひょっとして色も凝っていたらどうしよう、と思っていたのだが、
 「ふつうの木の色」
 と、複数の口から聞くことができた。
 「黒っぽい木の色でしょうか?」
 「いいや、普通の木の色」
 と、念を押された。写真で民衆別館の横に写る黒い板塀については、この店のものなのか、それとも隣の西村歯科のものなのか、少し定まらなかった。ただ、このあたりから元安川に降りる道があって、そこに「うきよ」というの名の「牡蠣船みたいな料理船」が浮かんでいた、という話はこちらで手に入れていた写真資料と合致していて、そこに当時の雰囲気をプラスすることができた。ここは陸軍の将校だとかが宴会に利用していて、そのリッチな残飯を漁ってガンモンと呼ばれる手長エビがたくさん棲息していただとか。
 そうだ、水の流れのことも透明度のことも聞くことができた。トンボもギンヤンマ級のものが結構いたこと。トンボを取るトリモチはどこで買ったか、竹とんぼや模型飛行機を作る竹はどこで手に入れたか。
 いつしか始まっていたヒロシマ・フィールドワークでは斎藤さんと上田さんが話をされ、その多くは子供の頃のたくさんの遊びのことだった。聴衆は毎年は60名くらい、と中川先生は行っていたのだが、この年は80名もの参加があった。
 本来なら研修室で話を聞いたあと、すぐ目の前にある中島本町だった現地を歩いてみる、という予定だったのだが、あいにくの雨でそれは取りやめになった。
 かわりに、追悼平和祈念館の中、研修室の隣の閲覧室で、そこにファイルが置いてある戦前のこのあたりの写真や、自分が持参した写真を眺めながら、旧住民の方々のお話をもう少し聞くことができた。

 全部終わったあと、浜井徳三さんが「自宅にはもう少し写真があるから」と、自分で運転してきた車に乗せてくださった。中川先生とその息子さんである高校生の新君も車に乗る。廿日市の浜井さんのお宅には、戦時中に荷物疎開させていた中にあった、というアルバムがあった。
 理髪店の外観。ちょび髭でスタイルのよいお父さん。ハワイから来た美人のお母さん。お姉さん。お兄さん。それから理髪店のお弟子さんたち。元安川で泳ぐための浮き輪。小さな男の子たちのための自動車の玩具。20年になってから撮られたお姉さんの高等女学校の制服。昭和20年8月6日で絶たれてしまう家族の歴史。
 けれど、末っ子の徳三さんは、育ての親となったおじさんに援助されて床屋さんの4代目になったのだった。
 防府の「マイマイ新子探検隊」の広島・呉版である仮称「このせか探検隊」の実行委員のみなさんもヒロシマ・フィールドワークに来てくださっていて、この時間にも僕が廿日市から戻るのをフィルムコミッションで待っているらしい。もう一度市内まで乗せてあげよう、という浜井さんのお言葉に甘える。
 中川新君は『BLACK LAGOON』のファンとのことで、その後、「このせか探検隊」チームの皆さんとお茶を飲んだり、夕飯を食べる間もずっと同席してくれて、すっかり一同の仲間に入っていた。広島の友人たちが着実に広がっているようでありがたい。

 
●2013年7月29日(月) 1089日目

 ホテルをチェックアウトして、駐車場から車をひっぱり出すと、呉に向かう。
 戦時中の呉市内の写真はほとんど残っていないのだが、それは防諜上撮影を禁じられていたからで、写真を撮ってもお構いなしだったのは海軍の士官で、その後遺族が遺品のアルバム類を大和ミュージアムに持ち込まれているはず、という話を以前、広島で聞いていた。呉の街の風景は戦前のものはかなり写真を手に入れているのだが、戦時中に起こっていたはずの変化の度合いが知りたかった。
 館長の戸高さん、事務局長の上元さんには以前からお世話になっている。しかし、戸高さんによれば、
 「そういう写真がうちに持ち込まれた記憶はないなあ」
 とのことだった。この線はこれ以上追いかけようがなく、けれど、お2人にはずいぶん長い時間話し相手になっていただいた。
 上元さんが以前、呉市内で工事中の二河橋で、路面のアスファルトを剥がした下から、昔の市電の線路がのぞいている、と教えてもらっていたので見に行く。軌間の距離を測ってやろうかと思っていたのだが、さすがに工事中なので近寄れなかった。まあ、呉市電の軌間はわからないものではない。
 それからさらに長ノ木の方へ自分の車を走らせてみる。いつもの8人乗りではなく、今回は軽自動車なので、いくらか走りやすいだろうか、というテストのつもりで。結果、行けないことはないのだが、ほとんどジェットコースターの最初の上り坂みたいな急こう配があって、車の鼻先がほとんど空を向いてしまってちょっと怖かった。まったく幅のない坂道で対向車を避けるのも、さすがにこのあたりを十数度訪れた上でのことだからなんとかなるが、呉の高地部はやはり部外者が車でうろつくものではない。

 あとは車を走らせて東京へ戻るだけ。
 お昼前に呉を発って、午前3時前に家に着いた。

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