COLUMN

第28回 周作さんの服の色

 前回書いたみたいなふつうの庶民の女性たちが着ていた衣服はまだしもとして、ほんとうに面倒なのは、広島県呉市というメインの舞台がらやたらと海軍の人が登場することだったりする。その服装、軍服とか軍装とかはとにかくめんどくさい。この方面にはマニアな人も多くって、うっかりしたことをすれば重大なご指摘をいただいてしまいかねないのだが、戦時中に何度となくお達しが出て、その都度変化してしまっていて、複雑でありすぎるのだった。
海軍の服装の変更は、大きな部分ではまず天皇の勅令という形で定められ、それを海軍省で「達」という形にし、さらに官報である海軍公報で公表される。さらに、そうしたルールは海軍の軍人ならそのどれかに所属しているはずの四鎮守府のそれぞれがときどき発行する「〇〇鎮守府例規」に収められることになる。
 水兵なんかがうっかりした格好をしていると、軍港の営門のところにいる軍港衛兵だとか、軍港のある町をパトロールしている巡邏衛兵だとかに服装の乱れを指摘され、糾弾されてしまう。
 ところが時として、「水兵の1人がこれこれの服装をしていて衛兵にとがめられたのだけど、この格好じゃ駄目なのか?」というおうかがいが末端の方から中央に向けて立てられことがある。中央である海軍省からの返答がまた「問い合わせのあった服装はルールどおりではないけれど、それでもよいのじゃないかと思う」というようなものだったりしてしまって、どうも実際に服装を扱っていた本人たちの間でもあいまいだったりよくわからないことがたくさんあったようなのだ。
 ましてや主要登場人物の1人である周作さんという人などは、海軍は海軍でも、軍人ではなくて、法務関係の文官であってしまう。軍人の軍服でも厄介なのに、歴史の端っこの方にいていっそう資料が少ない海軍軍属の服装については密林のような迷宮に彷徨いこまなくてはならなくなってしまう。
 海軍軍人の軍服などというものは「海軍の伝統」だとか「気風」みたいなものがわかってくればある程度理解できるようになるのではないか、と思ってしまうのだが、実は昭和18年6月に、国全体で挑むべきものとして「戦時衣生活簡素化」という方針が定められていて、ここでそうしたもののかなりの部分がなし崩しになっているような感じがある。
 この「戦時衣生活簡素化」というのは、「食糧対策応急要綱」と並べて同日に内閣閣議決定で実施要綱が定められたもので、国民全体に向かって食糧と衣服はこの先かなり供給が難しくなるのでなんとかしのぎなさい、ということを暗黙の危機感とともに示している。この時期よりずっと以前に放たれていた「欲しがりません勝つまでは」だとか「贅沢は敵だ」とかのスローガンですら空しくなるくらいに、「欲しがろうにももう物はないから。贅沢のしようもないから」と開き直っているようにさえ見える。
 18年6月4日付「戦時衣生活簡素化実施要綱」の中身はかなり具体的なもので、
 「着物地は大衆需要品である銘仙に生産を集中」
 「反物一反の長さ、帯の幅や長さを短くすること」
 「男性の洋服の新調は国民服乙号に限る。ただし、以前には国民服は茶褐色(陸軍の軍服と同じカーキ色)しか許されなかったが、これからは質素な色合いならば茶褐色でなくてもよいからありあわせの服地を使ってよいことにする。男子学生にも同じものを着せる」
 「学童服は制服を限定しないようにしたい」
 「婦人服も婦人標準服の普及を図ること」
 「衣料の新調を抑制し、極力ありあわせの品の更生活用をはかること」
 スカートの丈はこれくらい、靴下の色は何色という校則めいたものを、わざわざ閣議決定でお達ししているのだった。
この連載の前回に紹介した婦人標準服がこの要綱にもとづいているのだが、著しくカッコ悪かったので実際にはほとんど誰も着なかった。わざわざ新調するのを避けたのだ、といえばそれまでのことだったのかもしれない。

 一般市民にだけこんな要求をするのは片手落ちということで、この時期、陸海軍軍人に対しても戦時衣生活簡素化の実施が求められている。
 本来は制服をちゃんと着ていなくてはならない場合でも、夏は上着やネクタイを脱いで仕事してもよいし、冬は室内でもコートを着たままでもよい、みたいなことも含まれていて、今でいう「クールビズ」「ウォームビズ」みたいな感じだ。電力不足が叫ばれた2011年夏のことを思い出してしまうと、なんだかあまり遠い世界のこととは思えなくなる。
 おまけに、戦時衣生活簡素化の一環として、それまでの海軍の正規の服装としては紺色の冬服と白色の夏服しかなかったところに、褐青色の略装というのを作って、夏冬問わずこれを着てよいことになってゆく。褐青色というのは海軍流のカーキ色(緑がかっている)のこと。「紺色を着てもよいし、カーキ色を着てもよい」というあいまいな世界。全海軍の服装を統一するのはもはや無理なことになろうとしている。

 ただでさえややこしい話なのだが、ここからは少しそれ以前の時点に戻った話。
 軍人ではない海軍所属の公務員である海軍文官の服装は、戦前には基本的には私服だったのだが、一定の職種だとか勤務地で着るための限られた制服として「海軍文官従軍服」が定められていた。
 いわゆるところの太平洋戦争に突入してしばらく経った昭和17年の夏に、文官といえども統一した服装をさせたい、という話が起こって、じゃあ何を着せるのか、という議論になっている。せっかく形の決まった制服として文官従軍服があるのだからこれを着せるべきだ。いや、文官従軍服がそもそも入手難なので、文官たちのあいだでは国民服乙型を着るのが大勢になっているけれどこれも仕方ないじゃないか。
 呉の海軍鎮守府で下した結論めいたものとしては、
 「判任官以上の文官は、服地が足らないのどうのと四の五の言わせず、『文官従軍服に統一』。これを整えるための洋服代は支給してやるから」
 「それ以下の軍属は『できれば文官従軍服に統一』と思っていたが、品薄で無理そうなので『国民服乙号で統一』に変更」
 整理すると、海軍の文官の服装には「冬服紺色の文官従軍服」「夏服白色の文官従軍服」「通年着る茶褐色の国民服乙型」があったことになる(実際はもっと複雑なのだが、省かせてほしい)。
 さらに18年中頃の「戦時衣生活簡素化」によって海軍軍人の服装に「褐青色の略装」ができたわけだが、同時に文官従軍服にも「褐青色の略装」が定められて、種類が増えている。

 以上、長々した話だったのだが、さてさて、原作「この世界の片隅に」の18年12月の場面で出てくる円太郎・周作の父子。2人とも海軍の文官であるのだが、父・円太郎は茶褐色の国民服乙型を着ている。この人は技術部門なのでそれでもよさそうだ。一方、息子の周作は文官従軍服を着ている。周作さんは法務部門なので、海軍の威厳とか権威を象徴しなければならない立場で、きちんとした格好をさせられているということのようだ。
 さて、周作さんの文官従軍服の色。法令上に定められた文脈だけでいえば、時期的は「紺色の文官従軍服」「褐青色の文官従軍服」どちらもあり得てしまう。こうの史代さんはスクリーントーンを使わない漫画家さんなのだが、この時の周作さんの服装は紙面上真っ白なままで、よくわからない。あとの方で出てくる紺色の軍服には墨でベタが塗られていた。ということは……?
 ここは思い切って描いたご本人に聞いてみた。たしか、こうのさんとは初対面のときのことだ。
 「紺色です」
 という、きっぱりとした答えが返ってきた。
 あとで漫画を描いたときの取材ノートを見せてもらったのだが、こうのさんのご親戚で海軍軍法会議所勤務だった人があり、その方からの聞き取りをこうのさんは「紺色」と書き留めていた。
 さらに20年5月には命令により周作さんは文官から海軍の下士官(軍人)に任官するのだが、このときの服装もこうのさんのマンガでは、時期的には十分あり得そうな第三種軍装(褐青色)ではなく、紺色の第一種軍装で描かれている。
 「呉の軍人たちはカッコつけたがりだから、古めかしいきちんとした服装したがるんですよね」ということを、最近になってお父さんが呉の海軍軍人だった栩野幸知さんからうかがって、ああ、一致しているなあ、と思った。
 ほんとうは周作さんの帽子の件もあるのだが、じゅうぶん複雑すぎるので、ここはこの辺でやめておきたい。

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