COLUMN

『タイガーマスク』を語る
第4回 第50話「此の子等へも愛を」

 『タイガーマスク』のドラマについて考える上で、第50話「此の子等へも愛を」、第54話「新しい仲間」、第55話「煤煙の中の太陽」、第64話「幸せの鐘が鳴るまで」が特に重要だ。前回も触れたが、第50話は被爆者家族を、第54話は過保護を、第55話は四日市の公害を、第64話は交通遺児をモチーフにしている。ではあるが、これらのエピソードに注目したいのは社会的な問題を扱った話だから、だけではない。
 伊達直人はここまで、不幸な子供達のために自分のファイトマネーを使ってきた。第64話の直人自身の言葉を借りれば、彼は不幸な境遇にいる子供達を幸せにするためにリングの上で戦ってきたのである。だが、その行為にどれほどの価値があるのだろうか。直人がやってきたことは本当に子供達のためになることだったのだろうか。この4本のエピソードは直人の行いに対する疑問を提示する。「伊達直人がいかに無力であるか」を描き、最終的に彼がやるべきことは何なのかに辿り着く。『タイガーマスク』のドラマの中核をなすエピソード群なのである。  

 ひとつひとつ観ていこう。第50話「此の子等へも愛を」(脚本/柴田夏余、美術/遠藤重義、作画監督/我妻宏、演出/白根徳重)はタイガーがワールドリーグ戦に参戦している時期のエピソードである。舞台となるのは広島だ。ファーストシーンは広島平和記念資料館である。キノコ雲、焼けただれた身体、焼け野原になった街、平和の願いを捧げる母と娘。タイガーは広島平和記念資料館に展示されたそれらの写真を目の当たりにして息を吞む。精巧な原爆ドームの模型が土産物屋で売られていることを知った直人(ここからは伊達直人の姿だ)は模型を手に入れてそれでちびっこハウスの子供達に戦争の悲惨さを伝えたいと考える。だが、土産物屋に模型は残っておらず、それでも模型を手に入れようとする直人は製造元を調べてそこに赴く。模型を作っていたのは玩具会社でもなければ町工場でもなく、長屋暮らしの夫婦だった。
 直人は模型を売ってほしいと夫婦に頼み込むが、買い手が決まっているので売ることはできないと断られる。この場合の買い手とは、模型を土産物屋に卸している問屋のことだ。夫婦が作業をしている部屋の中に、赤ん坊が入った籠がぶら下げられている。赤ん坊が泣き出す。どうやら腹を空かせており、オムツも汚れているらしい。しかし、夫婦は赤ん坊の相手をせず、模型を作り続けるのだった。
 その後、直人は平和記念公園で幼い兄妹と知り合う。名前は三郎とめぐみだ。直人は兄妹を食堂に連れて行く。彼等は原爆ドームの模型を作っている夫婦の子供だった。模型を作る邪魔になるので、三郎達は昼間は家に帰ることができないのだ。三郎達の母親は被爆者であり、いつ原爆症が発症するか分からない。そのために父親は意地になって模型を作っているのだ。父親は自分達が作っている模型を「平和への祈りの千羽鶴だ」と言っているのだという。ここまでが第50話の前半である。後半ではタイガーの試合があり、更に直人と三郎達、夫婦との関わりが描かれる。

 このエピソードには注目したいポイントがふたつある。ひとつは「最後まで伊達直人と被爆者家族夫婦の気持ちが通うことがなかった」という点である。もうひとつが「直人が子供達に嘘をついた」という点だ。
 まずは「最後まで伊達直人と夫婦の心が通うことがなかった」ことについて触れよう。他のエピソードなら、直人は旅先で知り合った人々の境遇や悩みを理解し、その上で行動を起こすのだが、この話では最後まで模型を作り続ける夫婦の心中について思い至ることはない。夫婦が赤ん坊が泣いても模型を作る手を止めないのは、そして、自分達の子供の面倒を見る時間を惜しんでいるのは模型作りに対して真剣に取り組んでいるからだ。直人は最後までその必死さに気づかない。戦争をあってはいけないものだと考え、「平和への祈りの千羽鶴」という言葉に胸を打たれはするけれど、それを言った夫の想い、目の前にいる被爆者である妻の気持ちを考えようとはしないのだ。夫婦にとって直人は、最後まで「問屋を通さずに模型を売ってほしいと言う迷惑な観光客」でしかない。
 終盤において、直人は夫婦に対して、土産物屋で売っているのと同じ金額で買うから直接売ってほしいと言う。金の力でどうにかしようとしたのだ。どう考えても、その言動は俗物のものだ。このエピソードで、作り手が直人をネガティブに描いているのは間違いないだろう。

 「直人が子供達に嘘をついた」について述べる。直人が三郎とめぐみを食堂に連れて行ったのは、母が食事を用意してくれないため、兄妹は外で毎日同じようなものを食べており、めぐみが不満を募らせていたからだ。直人は食事を奢ろうとしたが、三郎は貧しくても他人の世話にはならないという。そこで直人は「100円で食べられる店に行こう」と言って、二人を町の食堂に連れて行った。勿論、100円で食べられるというのは嘘であり、直人は三郎達には分からないようにして、足りない分を支払うのだった。翌日、三郎は数人の友達を連れてその店に行く。彼等は100円で食べられると信じているのだ。彼等がまた食堂に行くのではないかと気づいた直人も店を訪れて、食堂の店員に現金を渡す。これからも彼等に100円で食べさせてほしいというわけだ。以下は劇中で描かれていないことだ。食堂が100円で食事を提供するのは直人が渡した金が尽きるまでだろう。これからも子供達が食堂を訪れ続けるならば、店員はいつか「100円で食事ができるのは嘘だったのだ」と子供達に告げることになるはずだ。自分が騙されていたことを知れば三郎は傷つくだろう。しかし、この話の直人はそこまでは考えが及ばないのだ。  

 第50話は序盤の平和記念資料館のシーンこそセンセーショナルだが、それ以外は淡々とした語り口で進んでいく。直人が夫婦の心中について思い至らないことについて、劇中で誰かが指摘しているわけではない。三郎達にいつかはバレる嘘をついたことについても、劇中で問題視されてはいない(厳密に言うと、食堂の店員が直人の嘘に対して納得していないことが少しだけ描写されている)。後半で宿題をする場所のない三郎達のために、直人がファイトマネーを使う展開があり、エピソード全体としては直人が活躍したかたちになっている。だから、直人の言動がネガティブなものとして描かれていることに気がつかなかった視聴者は多いはずだ。ではあるが、すっきりとしない読後感を残すエピソードであるのは間違いない。
 このエピソードは必ずしも反戦を訴えるものではない。被爆者を登場させて、平和への祈りを込めて原爆ドームの模型を作っていることを描いているのだから、戦争の悲惨さや被爆者の想いを視聴者に提示しているのは間違いないのだが、作劇の力点はそこには置かれていない。三郎の言動が悲観的でないのも重要だ。彼は両親が作る原爆ドームの模型を誇りこそすれ、直人の前で自分達の境遇を嘆いたりはしない。自分の人生や生活を、当たり前のものとして受け止めてるようだ。だから、反戦をテーマにし、戦争の悲惨さを伝える話だと思って観ると面食らうかもしれない。
 直人が模型についてどのようなかたちで決着を付けたのかについては、作品を観て確認してもらいたいが、呆れるくらいにあっさりしたものだ。そんなことで済むなら、模型の製造元を訪れる必要はなかったのではないかと思うくらいだ。そして、模型について決着を付けた後、タイガーが(ここでは直人ではなく、タイガーの姿だ)これからのワールドリーグ戦について想いを巡らしたところで、このエピソードは幕を下ろす。ラストシーンにおいて、彼の心中には被爆者家族の不幸も「平和への祈りの千羽鶴」もすでに存在しない。意地悪な言い方をすれば、原爆ドームの模型に決着が付いたところで、彼の反戦に対する想いは一段落してしまったのだ。反戦を訴えるための話だったら、こんな終わらせ方にはしないはずだ。例えば直人が戦争の悲惨さについての想いや反戦についての考えをモノローグで語り、それを視聴者にアピールする。そんなかたちで終わらせるはずだ。

 第50話はアニメ『タイガーマスク』全話の中で、最も受け止めるが難しい話であるはずだ。作り手はこのエピソードに込めた全てを理解してもらいたいとは思っていなかったのかもしれない。むしろ、このエピソードを観て、何かひっかかるものを感じてくれればそれでよい。そんなつもりで作ったのかもしれない。ではあるが、何かの狙いがあってこのエピソードを作ったのも間違いないはずだ。以下で、このエピソードについて「解釈」してみたい。
 第50話については、色々なかたちで解釈することができる。僕はこれを「他人の不幸を娯楽として消費すること」を描いたものであると受け止めている。そして「不幸な出来事の当事者と第三者の距離感」を描いたものであると考えている。『タイガーマスク』が放映された頃に「娯楽として消費」というような言い回しはなかったはずだ。ではあるが、その概念によって、この話が理解しやすくなる。
 直人が戦争についてあってはならないものだと考えて、戦争の悲惨さを子供達に伝えたいと考えたのは間違ったことではないが、それ以降の直人の言動は「安易に他人の不幸を娯楽として消費しようとしている」ものとして描かれている。つまり、浅薄なもの、愚かなものとして扱われている。
 しかし、その浅薄さや愚かさは我々が日々実践していることではないか。例えばテレビやネットで世間の不幸を知れば心が動く。それについて何かを言ったり、SNSに書いたりするかもしれない。ではあるが、しばらくすればそのことは忘れてしまう。我々はそれを当たり前のこととしてやっているのではないか。それを「他人の不幸を娯楽として消費している」とは言えないだろうか。報道で知った他人の不幸には心を痛めるが、目の前にいる人の不幸については親身になって考えようとはしない。それもよくあることではないのか。
 第50話「此の子等へも愛を」は直人の言動を通じて、我々の「他人の不幸を娯楽として消費すること」や「不幸な出来事の当事者との距離感」を皮肉を込めて描いたものではないのか。

 『タイガーマスク』の物語として考えると、第50話は他のエピソードと少し違った視点で伊達直人を描き、彼がそれまでやってきたことに対して疑問を投げかけるエピードであると考えることができる。ハウスの子供達のために原爆ドームの模型を手に入れようとしたのも、三郎達に100円で食事ができると嘘をついたのも、直人がよかれと思ってやったことだ。彼自身は普段と同じように行動しているつもりなのだろう。しかし、第三者の目で見ればそれらは自己満足のための行為でしかない。原爆ドームの模型を手に入れようとしたのが自己満足のためでしかないのなら、これまでのエピソードで彼がファイトマネーを子供達のために使ってきたのも自己満足に過ぎないのではないか。自分の正体を偽ってハウスの子供達に接しているのも、三郎達にいつかはバレる嘘をついたと同様に、つかなくていい嘘をついているだけなのではないか。
 つまり、『タイガーマスク』という作品の根本となっている部分について疑問を投げかけたのではないか。そういった意味で第50話「此の子等へも愛を」は問題作であり、異色作である。『タイガーマスク』の全話の中で、最も尖ったエピソードであると僕は考えている。

 直人の行動についての結論は、このエピソードでは出ない。ただ、視聴者にモヤモヤとしたものを残すだけだ。

●『タイガーマスク』を語る 第5回「此の子等へも愛を」についてもう少し に続く

[関連リンク]
Amazon prime video(アニメタイムチャンネル) 『タイガーマスク』
https://amzn.to/4bjzNEM

タイガーマスク DVD‐COLLECTION VOL.1
https://amzn.to/4biO18J

原作「タイガーマスク」(Kindle)
https://amzn.to/3w3BJlV