COLUMN

第734回 温厚な人柄

 また私事の続きで申し訳ありません。先週火曜日、82歳で亡くなった父親の話。WEBアニメスタイルの連載に相応しくない話かも知れませんが、アニメ監督・板垣 伸という人間の人格形成に深く関わる話なので、もう少々お付き合い下さいませ。興味のない方は飛ばして下さい。
 自分の両親は共に山形県出身。父親は集団就職で母親と一緒に名古屋に居着いたようです。因みに自分も生まれた場所は山形(血筋的には完全に東北の人間)。10代の頃までは毎年山形に帰っていた俺にとって山形は第二の故郷のような感じで、夏休みもしくは冬休み(年越し)に家族揃って山形に帰るのが大きな楽しみだったものです。でも、自分が18歳で東京に来てから30年間、一度も山形に行けてないのが本当に残念。むしろ物理的には近付いたはずなのに……。
 ここで無理やりアニメの話にするなら『Wake Up,Girls! 新章』でも、仙台まで取材に行ったのですが、時間的にも金銭面的にも余裕がなく、隣の山形に寄って行けなかった、てのも重ね重ね悔まれます。
 まあ、そんな感じで山形県出身のうちの父は学歴的には中卒(母も)。少なくとも俺の目の前で本の一つでも読んでいる姿を見たことがありません。時代・年代的なものでしょう。そもそも自分らの父親世代で大学卒というのは“学がある”云々より、“お金に余裕がある家の子”の象徴だったのだと思います。そのせいもあってか、父親の口から「勉強しろ」とか「大学行け」とか、これまた聞いたことはありませんでした。それどころか小・中・高の12年間、毎学期末出される成績表(通知表)すら、一度も見たことはなかったと記憶しています。
 かと言って、何かの事柄に関して強く説教されたことも、逆に物心付いた頃ならではの自分の悩みとか相談にのってもらったことも一切ありません。俺のこと、父自身のことに関わらず何事に対しても「な~にを言っとるか(笑)」「だ~いじょーぶだ(笑)」でやり過ごすのが父の性格。母親も傍らでよく呆れてたりイライラしてたりしました。
 つまり、父を一言で言い表すなら、

温厚な人柄!

です。大らかで温厚、細かいことに拘らない楽天家なザ・O型。因みに母はAB、姉・妹はB、そして自分はA。別に血液型性格判断なんて信じてないし、興味もないけどまあまあ“こじつけると面白い(by奥山玲子先生)かと思います。
 そんな、父の趣味はTV(野球・プロレス・相撲)を観るかパチンコ。後は晩酌くらい。それに対して俺の好きなことは、本読んでパソコン(昔の呼称はマイコン)でプログラムを作ったり、絵・マンガを描いたり、ゴルフやったりで、全く趣味が噛み合わず、少年の頃、父親と遊んだ記憶が殆どありません。多分、息子と遊ぶことを夢見る昭和オヤジの父はがっかりしていたと思います。現に俺が小学生になると即、(当時、欲しくもなかった)野球のグローブを無理やり買い与えたくらいです。微かな記憶では1~2回(?)一緒にキャッチボールをやったとは思いますが、ほぼそれが最後。以降、自分が父と同じ目線で遊ぶことはなかった?
 あと、幼少の頃で思い出されるのは、「お父さん、日曜くらい息子をどっか遊びに連れてって」と母が言うと、うちの父が俺を連れて行くのは大概パチンコ屋。父がパチンコに興じてる時、自分は面白がって、知らない大人達の足元に落ちている玉を一つ二つとかき集めては、父に持って行ったり、こっそり自分も打たせてもらったり(令和の今やると世間に怒られるけど)。で、パチンコ終わるとその足で立ち飲み屋。そこでも知らない大人達の足に囲まれてる俺にオレンジジュースを渡してくれる父。でも、その時垣間見た“雑多な大人の世界”は今でも瞼に焼き付いています。だって、普通にヤ●ザとか居ましたから。
 とにかく今思うと、不器用でそんな所にしか連れて行けなかったんでしょう、子供が面白がることや遊びをまるで知らなかった父は。
 ヤク●と言えば、確か自分が中学生の時、それまで無遅刻無欠勤だった父が1ヶ月程、会社を休んで家に居たことがありました。それはある日、父とその友人ら数名で花見をしていた時のこと。その友人の内の一人が酔っ払って、その辺に居た●クザらと喧嘩になり、父一人が「止めなさい、止めなさい」と割って入ったんです。すると喧嘩してた友人らは父一人を残し隙を見て退散(警察を呼びに行ったのでもありませんでした)。結局、残された父が肩を骨折するまでボコられるという事件があり、1ヶ月休職。その時の父は友人らに裏切られたと思ったのか、ちょっと落ち込んだように見えました。静かに耐えてたのでしょう。
 でも、休みが明けたと思うや否や、その友人らを今度は自宅に招き入れて一緒に酒盛り。つまり、父はその友人らを結局許すんです。そこへ肴を出す母が、相当苛立ってたのを自分は覚えています。「お人好しにもほどがある」と。
 今更ですが、父が働いていた会社は名古屋の某コンクリート製品製造会社。コンクリートを捏ねたり、フォークリフト使ったりの肉体労働系会社員で、消して高給取りではありませんし、自分は子供の頃から一度も父親に関する自慢話を他人(ひと)にしたことがありません。ただ、前述の骨折した時以外は風邪一つ引かず無遅刻無欠勤で45年?(定年延ばしてもらったとか言ってたのでもう5年プラス?)。月曜~土曜日が朝6時半に家を出て夜8時半まで、日曜日が昼までの週休半日(?)。今ではこんな働き方を国が許してくれませんが、昭和から見ても、うちの父は働き者だったと思うし、その影響は自分、多大に受けてると思います。更に父からは仕事の愚痴を聞いたことがありません。そりゃあ、たまには「○○さんはダメだぁ~(笑)」とか「○○が悪い~(笑)」的な人並みの陰口は当然出ますが、そんなに陰湿なものでなく、あくまで“(笑)”付き、気持ちよく諦めるためのもののようでした。
 基本的に相手の陽性な部分を信じて他人と付き合い、多くは期待せず、許し、自身の主義・主張は決して相手に押し付けず、愚痴ることなく、いつもニコニコしていた父。そして多くは語らない所で実は耐えていたんだと思います。
 また、ちょっとアニメの話ですが、以前某プロデューサーさんから、ネットでの板垣や会社に対する誹謗中傷について「あのまま放置でいいんですか?」的な訊かれ方をしたことがあります。自分は「放って置きます」と。無意識の内に父と同じ、黙って耐える——を選択します。理屈や言い訳する暇があったらとにかく耐えて、何しろ楽しく働く! そして学識も哲学も語彙力も関係ない——父の口癖、「大丈夫だ!」と。そんな人間になりたい。

 ……だめだ、まとまらない。

次回に続かせて下さい!

 で、イラストもなくて申し訳ありません。