COLUMN

第643回 同窓会〜想像力を育む

 年始で名古屋に帰ったのに、1月18日(土)風邪引きが少々残る中、再び帰省し行ってきました、愛知県立惟信高等学校の同窓会(?)というか新年会。昨年の秋、台風で新幹線が止まり参加できず、今回こそは! と参加。小学校のも中学校のも同窓会にはできるだけ出席したいと思う板垣です。ただの郷愁の類いとは言い切れない感慨があるのです、同窓生に会うのは。もちろん、現在のアニメ監督という仕事とも無関係ではありません。この連載の中でも何回か触れたかもしれませんが、俺が我を忘れて夢中で楽しめるのは

コンテ切って(描いて)画を作ってる時!

だけなんです。正直、マンガや小説を読んでも、映画を観ても、ゲームをやっても、嫌いってほどでもないのですが、他の人ほど楽しんではいないはず。俺が物語の主人公になりきって遊べるエンタテインメントは、マンガやゲームとかではなく「コンテを切る(描く)こと」。
 で、その次の楽しみが、これまた映画や小説などではなく「人に会うこと」。それは相手が有名無名に関わらずです。これも以前から語っているとおり、実写のように半分以上の役作りを演者さんに委ねることなどできない——原作や脚本などを手がかりに、白紙から人物を描かなければならないアニメのコンテは、各キャラクターのバックグラウンドを想像しつつ掘り下げていかなければなりません。そもそもアニメーターの仕事がそうで、新人の頃、大塚康生さんからも「フレームの外を考えて描くように」と言われました。一事が万事! その時思ったのです。

フィルム(映画・アニメ)作りは、ざっくり言って「トリミングの連続体」! 画作りに限らず、キャラクターの性格も芝居もセリフも物語も、さらに時間もすべて「部分」である!

と。つまり極端に言うと、主人公の画ヅラが出なくても話が進められるのがフィルムってものです(そこが分かってないとコンテはおろか演出処理すらできないでしょう、本来)。これ実社会の人付き合いでも言えると思います。

自分の目の前にいる相手は、自分と会ってない時間の方が多く、その相手は自分のことを考えてない時間の方が長い。ということは自分が「知っている、分かっている」と思い込んでるその相手は2割程度のトリミングでしかない!

「俺は奴のことならすべて分かってる」などと絶対に言えるはずありません。まあ人間とか人生とかそんなもんだと思っています。だからこそなんの波風も立たない普通の日常をおくる人生でも、編集(トリミング)をして繋げば、なんでもドラマにすることができるわけです! とまた話が飛びました(汗)。あ、以前「電車に乗っても乗客それぞれのバックグラウンドを想像する板垣」の話をしたと思います。その訓練(?)を楽しむ(遊ぶ)のに似てます、俺にとっての同窓会は。10代の頃に3年間(6年間の場合もありますが)一緒にいた学友らに30年振りに会う。皆、姿形は多少変わってもすぐ打ち解けます。で、お互いの話の断片から、会っていなかった30年間(正確には20数年)を想像するんです。家庭を築いてたり、社長になってたり、バンドやってる人とかも概ね皆幸せそうで何よりでした。高校の時、自分がどれだけ色恋に疎かったのかも思い知らされました。「惟信(高校)楽しかったもんなぁ〜!」と思いふける人も。参加した人の数だけドラマがありそうでした。

「皆に観てもらえるアニメを作りたい!」と素直に思って、「早く東京に戻ってコンテ切ろう!」と奮起させられました! とても楽しいひとときをありがとうございました!

 KさんFさん、また誘ってください。