COLUMN

第610回 アニメ監督の仕事、令和元年(1)

 予定どおりこちらの話題でいきます。

アニメ監督が「監督としてやらなければ(できなければ)ならない仕事」は時代の空気に合わせて年々変わる。当たり前だと思います!

 アニメ監督とはいったい何をする仕事なのでしょうか? この問いに対する様々な答えを先輩・後輩から聞きます。例えばメジャーな返答は「監督は画を描く仕事じゃない」と。アニメーター出身監督&現役アニメーターの俺に対してだから、あえて仰ってるのか分かりませんが、自分より年配の方によく言われました。もっと端的に「監督は画を描くべきではない!」と力説された方も。「自分で画を描いたら演出が巧くならないよ!」と。これは一理あると思いますし、少し前までは自分も結構信じてました。でも「監督は画描きじゃない」主張って本当に信憑性あるのでしょうか? 俺に言わせると、それを本気で仰っているのであれば、その監督は「画を作る現場の苦労」を全然知らないだろうし、もしかするとおのれ自身を脅かす存在になるであろう監督志望の有望アニメーターに諦めさせて、自分の地位を守りたいだけの発言でしょうと。少し考えれば分かる話だと思いますが、歴史上、アニメーションが発祥した時は基本皆「素人」なはずです。つまり「これから始まるアニメという文化はワシがすべてを取り決める! これがマニュアルじゃ! まずイマジナリーラインは守るべしっ! カメラは無駄に動かしてはならーぬ!」と仰った文字どおりのアニメ様が存在した? そんなわけがないでしょう。どんな文化も最初は手探り。始めは小品な短編アニメならアニメーターが演出(監督)も兼ねてたものはもちろんありましたが、商業ベースの映画を作る時でしょう——「画描きじゃない監督」がまるで演出のスタンダードであるかのような勘違いが生まれたのは。だって昔の映画興行サイドの偉い人たちがアニメーターに映画を作らせるわけありませんから。映画として長編アニメ映画を作る際、それがたとえアニメであろうと映画として公開されるのであれば「画が描ける、コンテ切れる云々」よりも、興行側としては「映画を撮ってお客に観せた」という実績のほうが断然優先なのは当然のこと。アニメの現場にしても、まだ「画で映画を作るって、演出(監督)は何をするのか?」が誰も分かっていなかった時代、今のようにレイアウトチェックができることが監督の条件ではなかったはず。そこでは必ずしも演出家がコンテを描かなければならないというルールも概念もなかったでしょうし、ましてや原画に手を入れるなど——。アニメ史に興味がある方なら当然ご存知かと思いますが、日本アニメの黎明期、アニメ会社(スタジオ)によってそれぞれ監督として立てた人材が違います。例えば虫プロダクションやタツノコプロはマンガ家、つまり手塚治虫先生や吉田竜夫先生らが監督として最初立ってました。東京ムービー(現・トムス・エンタテインメント)は初代社長の藤岡豊さん繋がりで、人形劇方面からおおすみ正秋さんや長浜忠夫さん。そして東映動画(現・東映アニメーション)は当然実写方面から薮下泰司さん。薮下さんは実写映画のなかでも教育映画出身だと大塚康生さんから聞いたことがあります。つまりアニメーション=まんが映画=子ども向け。「教育映画は実写とはいえ同じ子ども向け」というわけです。もっと遡ると、戦中には国産アニメ初の長編映画といわれる『桃太郎 海の神兵』(1945年公開/74分)があり、こちらの監督の瀬尾光世さんはすでに作画もご自身でやられています。ちなみに瀬尾さんは、後に「せお・たろう」のペンネームで絵本作家としてご活躍された方で、手塚治虫先生は自身のインタビューで「せお・たろう」さんと呼んでました。
 また話がバラバラになりましたが、早い話、初の長編カラー映画『白蛇伝』(1958年)の薮下監督が実写出身であったとしても、それより13年前に自ら画も描く瀬尾監督が『桃太郎』を作ってたということは、単純に前述の「監督は画を描くべきではない」論はまったく根拠がないということが分かります。そして後のTVシリーズにおいても演出を担ったのはマンガ家や人形劇作家と様々であると。特に絵コンテに関しては「画が描ける描けないに関わらず、演出家自身が描くべき」という概念は東映以外は見当たりません。他はほぼアニメーターが(マンガ感覚で、かもしれませんが)描いていたようです。前述の長浜監督はコンテは描かれませんが音響にはかなり拘ったらしく、色が付かない(線撮り)状態では絶対アフレコはせず、役者さんの前で芝居の手本を見せたり、遂には音響監督もされてました。これもひとつのスタイル。