COLUMN

第609回 人間は多面的

 前回の続きをもう少々。10数年前の原画仕事の時の、コンテを描かずに飲み歩いて原画マンを手空きにして、アフレコもバラされたダメ監督の話。いきなり話が逸れますが、役者(声優)さんにも「○月〜○月までの○曜日押さえ」があります。だからコンテのスケジュールを引っ張りすぎると、役者さんらの次のレギュラーが始まったりして、結果アフレコを2〜3回に分け、それぞれの空き時間に抜き抜きで収録するハメになります。特に人気声優さんがレギュラーになってる場合は。制作プロデューサーも音響制作も非常に困るわけです。
 実は我々みたいなフリーのアニメーターにとっても「ふざけんなっ!」で。だって「ひと月でこなせるカット数が減る=稼ぎが減る」のですから。このことは現在のアニメーター不足、さらに大手アニメ会社によるアニメーター大量拘束に繋がってるわけですが、その話はまた別途。
 で、ダメ監督の現場の話に戻します。俺個人はそのデスク氏が気の毒だったので、スタジオに入って別作品の仕事をやりつつ、ダメ監督のコンテが上がったところから、できる数だけ描く約束をして待ちました。その際、

 と腹の中で思っていました。これ性格悪いとか裏表のあるイヤな奴? そう思われる方、人間をなんだと思ってるのでしょうか? 俺に言わせると人間なんて誰でも「腹の中」というものがあります。特にアニメーターとかやってると、例えばモブシーンで「この人は何を考え、何をするためにここにいるのか?」を自分なりに考えて描かないとポーズが同じになってしまいます。だから本来は、そこにいて立ってる人数分の役をこなすつもりでないと描けないもの(もちろんどこまで突き詰めるかはアニメーター毎に個人差はありますが)。「ベルセルク」の三浦建太郎先生も、村人・兵士モブのそれぞれのバックグラウンドを考えて、コスチュームや表情・ポーズを描かれているらしいです。これ役者さんがその他大勢を演じてるのにも通じるし、声優さんのガヤ録りにも言えますね。今思い出しましたが、富野由悠季監督も以前(といっても10年以上前)N○Kの番組に出演なさった際、観客席の一角を差し「例えばあの人はなんでここに来たのか? を考え、名前をつけてまわりの人と絡みだして物語になる云々」と仰ってました。そして自分もアニメーター修業のテレコム時代、先輩から

電車の乗客のポーズを見れば、1人として同じポーズはない!

とも言われてましたから、未だに電車に限らず人ごみの中に入ると、人々のポーズを観察するクセが抜けていませんし、「何しにこの人はここに?」「あの人は誰かと待ち合わせ?」などと考えて歩くので、スマホなどイジらなくても退屈しないのです。そう考えて街に出て、いろんなものを感じてると当然思うはずです。

世界には自分以外の思考・感情が何十億、さらに同じ数だけの「腹の中」がある! しかも皆同じ時間を共有しているわけだから、自分が今真剣に考えてる「世の中の問題点」とは別の事柄について、自分と同じ時間考えてくれてる他人がいる!

と。今までのこの連載で語ってきたどれよりも当たり前の話してますよね? 例えば前述のダメ監督にも「役者やアニメーターの都合よりも大事な飲み会がある! そこで決まった仕事を皆に落してあげるんだから」な言い分(彼なりの正義)もあるんでしょう。そう、人間は物事を皆「多面的」に考えるべきで、もし「自分、腹立った!」があるなら、まず「相手の方は?」を同時に考えるのが普通。
 だから! ここからは持論なのですが、真剣に取り組んでるアニメーターやアニメ演出家なら「あれで監督できるなら俺だって」と腹の中で考えてる後輩らが現場には何十人とかいることくらい想像してるべきなんです。

何せ白紙から人の感情を組み立て、
描くのがアニメーターでありアニメ演出家!

ですからね。それぞれのキャラを正面だけでなく、側面や腹の中まで想像して描かなければ、アニメの作画もコンテも演出もできないのです、本来。出崎統監督も『おにいさまへ…』(1991年)で「エイリアン(女性)を想像して描く」と仰ってたし、『おにいさまへ…』を観れば、出崎作品の独特のカメラワークやストップモーションは、そのキャラの多面性を描くのに必要なのだと分かるはず。その腹の中を作画の芝居で表現できるならアニメーターセンスで表現すればいいし、それをカメラワークでこなすのも全然ありだし、脚本が書けるなら演者さんのセリフに託す、それはおのおの自由。「何をどう描いて伝えるのか?」が何よりも優先されるべき作品づくりにおいて、「FIXであることが最優先!」を掲げるだけの者こそ、90年代最高! に取り憑かれた頭デッカチのただのインテリ。

映像作品にとって、やっちゃいけない撮り方なんてありません! 「やっちゃいけないこと」を羅列する消去法的指導から、新しい作品なんて作れるはずがない!

と、また話が逸れて持論でした(読みにくくてすみません)。
 つまり前回・今回で言いたかったことは、他人の気持ちが分かるまでできなくても、少なくとも「分かろうとする」くらいができないとコンテも原画も描けませんし、脚本も書けないと思います、ということです。そして、それに取り組む努力を怠っている監督は、自然淘汰されていくでしょう。当然これは自らを律するためにも言ってることで、それこそ面接の時からウチの新人たちには「俺から仕事を奪ってくれ! 俺を干すことができたら一人前だ!」と言ってるんです。で、次回は

アニメ監督が「監督としてやらなければ(できなければ)ならない仕事」は時代の空気にあわせて年々変わる。当たり前だと思います!

って内容になる確率は60%。