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【ARCHIVE】 「この人に話を聞きたい」
第51回 平田敏夫(前編)


●「この人に話を聞きたい」は「アニメージュ」(徳間書店)に連載されているインタビュー企画です。
このページで再録したのは、2003年1月号掲載の第五十一回 平田敏夫(前編)のテキストです。




『花田少年史』のオープニングを見て「おおっ!」と思った人は少なくないだろう。イラスト調に描かれたキャラクターが奔放に動く、アーティスティックな味わいのフィルムである。このフィルムを作ったのが彼、平田敏夫だ。彼は『金の鳥』『ボビーに首ったけ』等、既成の枠にはまらぬ面白味のある作品をいくつも残してきた。また、個人作家として活動するのではなく、職人的に様々な作品に関わり、その中で時折実験的な手法等を見せる、というスタンスも興味深い。今月と来月のふた月かけて、今までの仕事についてじっくりとお聞きする事にしよう。




PROFILE

平田敏夫(Hirata Toshio)

  1938年(昭和13年)2月16日生まれ。血液型A型。山形県天童市出身。武蔵野美術大学洋画科を卒業後、東映動画に入社。その後、虫プロダクションへ籍を移す。次いでジャガードでCM制作に関わり、やがてアニメ界に復帰。ズイヨー映像、サンリオを経て、マッドハウスへ。監督としての代表作は『ユニコ』『グリム童話 金の鳥』『ボビーに首ったけ』『はだしのゲン 2』『リトルツインズ』等。変わった仕事として、『あずきちゃん』全話におけるエピローグのイラストレーションがある。

取材日/2002年11月12日 | 取材場所/東京・マッドハウス | 取材・構成/小黒祐一郎





―― 今日は、平田さんの今までのお仕事について、うかがいたいんですが。

平田 いいですよ。でも僕はね、ポリシーとかそういうものってあんまりないの。やっている仕事に関しても系統とかないでしょ。なんでもかんでも、おいしいものをやっている感じで。

―― でも、平田さんのお仕事は、はっきりしていますよね。汗臭いものとか、暑苦しいものはやらないんですね。

平田 「正解!」だね(笑)。時々絵コンテを描いて、監督とかチーフディレクターに言われる事があるの。「ええ! この場面、そんなにサーっと行っちゃっていいの?」とか、「もっと舐めるようにPANすればいいのに」と言われて。僕、体質的にそういうのはできないんですね。

―― マッドハウスが手塚治虫さんの『火の鳥』を3本作っているじゃないですか。りん(たろう)さん、川尻(善昭)さん、平田さんで。川尻さんが『宇宙編』をハードな感じでやって。(注1)

平田 そうでしたね。ケレン味のあるやつを、りんたろうさんがやって。

―― ええ。で、見やすいやつと言うか、喉越しのいい『ヤマト編』を平田さんがお作りになっているんですよね。

平田 うん。自己流だけど、基本的に綺麗に撮ろうかなあとは思っていて……。つい数日前に、今度の『鉄腕アトム』の監督の小中(和哉)さんに「『火の鳥』を観ました。平田さんってニューシネマだったんだ」と言われて、なるほど……と。僕はアニメーションでも赴くままカメラを回してみようとか、ちょっとアドリブで撮ったのをインサートしちゃうとか、そういうのを割と平気でやっちゃうの。ルールを無視しちゃうんですよ。映画のモンタージュ理論みたいなのを勉強してないから、自己流なんだよね。それにしても、ニューシネマって、いい言葉だなあ。

―― ドラマに関しても、過剰にドラマを盛り上げる、という事もあんまりなさらないのではないかと。

平田 嫌いなんですよ。

―― 嫌いなんですか(笑)。

平田 ええ。所詮作り物だし、エンターテインメントなんだから、「さあ、ここで泣いてくれよ」みたいに作っていくのもあるんだろうけど。でも、そういうのは嫌い。積み上げて盛り上げて、押して押して押しまくるのは嫌いというか、体質に合わないというか。「余韻とかニュアンスとか雰囲気で、十分伝わるんじゃないの?」なんて思うんですよ。僕は映画にしても、そういう系統の映画が好きですから。そんな好みが、つい出てしまうかもしれない。やっぱり、昔、夢中になったのはヌーベルバーグなんだよね(笑)。

―― なるほど。

平田 ハリウッド映画とヨーロッパ映画のどちらが好きかといえば、絶対的にヨーロッパ映画。ヨーロッパ映画って言い方も変だけど、アメリカ以外の映画の方が好きでしたね。イギリス映画も好きだし、フランス映画も好き、イタリア映画も大好きだし。ひと頃のポーランド映画とかね。そういったものに夢中になりましたね。

―― 昔の事からうかがっていいですか。平田さんは元々アニメーターで、東映出身なんですよね。

平田 そうなんです。東映に入って、最初に森康二さんのとこに配属されたのね(注2)。これが運命の分かれ目だった。今思うと森康二さんのところへ配属されなかったら、もうアニメをやっていないかもしれない。森さんは芸大を出てるんだよね。だけど、アニメーションを馬鹿にしてないというか、アニメーションというものをすごく厳しい目で見ていた。人間的にもとても素敵な人でしたよ。人を怒った事がない。僕は森さんが、怒ったところを見た事がない。だけど、すごく恐いというか(笑)。ニコニコした森さんに澄んだ目でじぃ~っと見られると、誤魔化しが効かない。そういう人だった。

 森さんはアニメーションというものを高度に捉えていたんだと思うんです。僕はアニメーションのアの字も知らないで森班に入って、その影響で、アニメーションって高級なものなんだと思うようになったんだと思う。今でもその想いはありますよ。

―― 話が前後しますが、平田さんは学校はどちらだったんですか。

平田 武蔵美です。油絵をやっていました。

―― 平田さんも美大卒なんですね。アニメの仕事を選んだ理由は何なんですか。

平田 出会い頭。

―― そうなんですか(笑)。

平田 大学4年の夏休みが終わって学校へ出ていくと、就職の募集が掲示板に張り出されていて、その中に「東映動画スタジオ」とていうのがあったんです。みんな、「なんだ、アニメーションスタジオって?」「漫画を描いて給料もらえるんだってよ」って、そういうノリだったね。それで何人か一緒に受けたんだと思う。受験者は、すごい人数でしたよ。

―― 他にも美大から東映動画に入った人は多かったんですか。

平田 うん。女子美、多摩美、芸大、日大。まるで美大生のたまり場みたいな感じでしたね。だから、あの頃の東映は面白かったんじゃないかな。大塚(康生)さんみたいに麻薬の捜査官をやってた人もいたし、宮崎(駿)さんや高畑(勲)さんみたいみたいな……。

―― 学習院と東大ですね。

平田 そうそう。早稲田や立教もいたね。芸大卒にしてもグラフィックデザインをやってた奴や、僕みたいに漫画じゃなくて油絵を描いてた奴もいて。画を描くにしても、みんな違う目的を持ってたから、人材の幅が広かったんでしょうね。その中にはアニメーションが好きで好きでしょうがない月岡貞夫とか、ひこねのりおとか。そういうアニメーションの仕事を目指して東映に入った連中もいた。宮崎さんもその口なのかな? 僕には分かんないんですけど。

―― そうだと思います。宮崎さんは『白蛇伝』を観て東映に入ったそうですから。

平田 そうだよね。それに高畑さんは、映画が作りたくって東映に入ったんでしょうね。あの頃は、そういう映画青年もいたんです。そんな人達に対して、僕は志が低かった。映画を撮りたいわけでもないし、アニメーションに関する知識もゼロに近かった。東映に入るまで、アニメーションなんて、日本で公開されたディズニーの映画を観た事があるくらいのものでしょ。試験を受けた時に、森さんや大塚さんが、どういう基準で僕を選んだのか未だに分かんない。結果的には、今も続けているんだから(笑)、きっと……。

―― アニメに向いてたんでしょうねえ。

平田 向いてたんでしょうね。でも僕以外にも、高畑勲、宮崎駿、りんたろう、杉井ギサブロー、月岡貞夫、ひこねのりおとか、当時の連中にはしぶとく生き残ってるのがいっぱいいますから。彼等の事を思い出すと「ああ、才能集団だったんだあ」と思うんです。「アニメーションというのは、アートである」みたいな志を持った人達もゴロゴロいましたよ。

―― 「アートである」と語るのは、どなただったんですか。たとえば月岡貞夫さんとか?

平田 そうでした。それから、永沢まことという人(注3)。彼は、今、スケッチ講座をやったり本を出したりしているんだけどね。彼なんかは「アニメーションはアートだ」と言っていたね。ユーゴスラビアの実験映画の上映会や草月ホールのアニメフェスティバルなどに、みんなを強引に連れて行ってましたよ。「アニメーションでこんなすごい事やってるんだ。もっと勉強しよう」って。

―― 率先してみんなを連れていったのが、永沢さんなんですね。他にはどなたが、そういった上映会に行っていたんですか。

平田 小田克也とか、白川大作とか。そういうところには、森卓也さんや手塚治虫さんもいて。そういう事があって、僕はアニメーションに実験映画的なものもあるんだと知ったんだ。それはその時に自分達がやっている仕事とは全然違うものかもしれないけれど、僕はそれでアートフィルム的なアニメーションに興味を持つようになったんです。そういう事に興味を持つ事に関して、同じ会社の中に「何を気取ってるんだよ」と思っていた人がいたのかもしれないけれどね。あるいはディズニーこそが至上の世界だという人もいたし、『雪の女王』が好きな人もいたなあ。僕はエンターテインメント系統の劇場作品だと、『やぶにらみの暴君』が好きだった。やっぱり、アメリカよりも、フランスの方がいいんだね(笑)。短編アニメーションだとトルンカとかゼーマンが大好きでね。そういう風に当時の東映や、あるいはちょっと後の虫プロにも色んな人がいた。だけど、『アトム』以降、テレビアニメって隆盛になって、大勢の人がアニメの世界に入れるようになると、逆に間口が狭くなったかなあ、と思うんだよね。

―― なるほど。テレビアニメ時代になってからの方が、入ってくる人材の幅が狭くなったかもしれないという事ですね。

平田 うん。そんな気がする。でも、今頃になって、短編アニメが見直されてきたみたいでね。ラピュタ阿佐ヶ谷とかで、新人が面白い短編を発表したりしているじゃない。ああ、やっぱりそうは変わっていないんだ。僕の見えるところになかっただけで、作っている人はいたんだ、みたいに思ったりしたね。

 大藤信郎とか川本喜八郎とか、日本の短編アニメーション、実験アニメーションにもすごい人は沢山いたんだよね。だけど、アートとしてグレードの高い作品を作る場所ってあまりなかったみたいで、そういう事をやりたい人がコマーシャルの方に行く事があったの。僕も虫プロから離れた後に、4年ぐらいコマーシャルの世界に行っているんだ。

―― 話はちょっと脇道にそれますが、『わんぱく王子の大蛇退治』と『ガリバーの宇宙旅行』って、ちょっとアートフィルム寄りの部分があるじゃないですか。

平田 そうですね。

―― やっぱり当時、原画をお描きになっていた方達に、そういう志向性があったんですよね。

平田 ありました。当時の東映では、班システムっていうのがあって、原画をチーフにして第二原画がついてチームを組むんです。班によって傾向の違いがありましたね。『わんぱく王子』や『ガリバー』で、だいたい永沢まことがチーフの班は、そんな事をやってましたね。

―― 踊ったりとか歌ったりとか(笑)。

平田 そうそう。で、ある時期は僕もそこへ入れられていたと思います。永沢班にいる時に、草月のアニメフェスティバルに誘われたりしたのかもしれない。それから永沢班と別に、月岡貞夫、杉井ギサブロー、りんたろう達のグループがあって。あの連中は、絶えず欲求不満というか。「もっと新しい事したい」と思っていた。彼等とつき合ったら、これがまた面白かった。彼等は才能の塊だから、みんな、キラキラと光っていて。僕なんか、どんどん引っ張られていったんですよ。20代の青春時代に馬鹿をやりながら刺激し合って。そういう事があったから僕みたいな凡人でも、色んな発想をできるような訓練ができた。今思えば、そう言えるという事ですけどね。

―― 東映にいる間は、ずっと動画なんですか。

平田 月岡貞夫が『狼少年ケン』というテレビシリーズをやった時に、初めて原画を描かせてもらった。その頃には手塚さん達が『鉄腕アトム』を始めていて、そちらに誘われて「チャンスだ」と思って虫プロに行くんです。東映の方は徒弟制度の段階を踏んで、第二原画になって、原画になってと上がっていくんだけど。手塚さんのところは過酷な状況で制作していましたから、もう……。

―― いきなり原画になれたわけですね。

平田 入ったらすぐに原画でしょ。東映では『狼少年ケン』で、数カットしか原画の経験がないのに、虫プロに行ったら即原画。今考えると、相当乱暴だったと思うんですけど。でも、4年間動画をやって、それが基礎になってたんでしょうね。虫プロに行ったら、そこにも才能の塊みたいな連中がゴロゴロしていた。

―― りんさん達はもう先に、虫プロに行ってたわけですよね。

平田 そうそう。りんさんとかギサブローさんがすでに先輩としていた。僕はいつもそういうスタイルなんですよ。あの連中の後をくっついてって、「来いよ」と言われるとついていく。自分から決して行動取らないっていうかね。虫プロには、富野由悠季がいて、出崎統がいて、高橋良輔がいて、丸山正雄がいた。みんな同世代なんだよね。そこにも「新しい事をやりたい」っていう欲求不満の連中が大勢いて。僕もそれに巻き込まれてしまった。彼等もしぶとく生き残ってるんだよね。

―― りんさんや富野さん、今、60歳ぐらいの方達ですね。

平田 そう。還暦を過ぎて、しぶとく「過激なオッサン」をやってるっていうのがすごいなあ。僕は全然違いますよ。その連中とは。

―― そうなんですか。

平田 違いますよ。その連中の後をトコトコとついてきているだけだから(笑)。

―― 虫プロで原画をお描きになって、演出デビューしたという事ですよね。

平田 そうです。だけど、演出の勉強なんてしてない。「エイゼンシュテインなんて全然知りません。モンタージュ理論って何ですか?」という感じでね。そういう奴に「明日から演出やれ」と言うのが虫プロのすごいところでね。そう言われたら、普通はビビるんでしょうけど、「やります」って言っちゃうのが、僕の浅はかさというか(笑)。でも、虫プロの面白さっていうのはそういうところにあったんだと思う。

―― 虫プロ時代には、演出の師匠にあたる方はいらっしゃるんですか。

平田 演出の師匠は山本暎一ですね(注4)。虫プロには漫画家出身の人や、アニメーターから演出家になった人など、色んなタイプの演出家がいましたが、その中で「監督ってのはこういうものなんだ」という事を教えてくれたのが、山本暎一だと思います。

―― それは仕事に対しての取り組み方みたいなものですか。

平田 そうです。「あ、監督って、こういう事をやるんだ」というのを初めて目の当たりにした、みたいな感じかな。

―― 虫プロ時代で、何かお気に入りの作品とかありますか。

平田 自分の仕事というわけじゃないけれど、『ジャングル大帝』で「アニメーションの背景ってのは、こういう発想していいんだ」と知って、目からうろこが落ちた。グラフィックデザインやってた松本強と伊藤信治を起用して、とんでもない発想で美術をやったんですよ。あの起用をした山本暎一って、すごい人だなあと思いますよ。あれはひとつのアニメーションの美術の転換期じゃないかと思うんですけど。

―― とんでもない発想って、色づかいについて、ですか。

平田 いや、背景として克明に描写するだけじゃなくって、「舞台感覚で、フォルムや色彩を使って再構成してしまおう」という発想がすごかった。『ジャングル大帝』ってアフリカが舞台だから、普通にやったら、アフリカの大自然をしっかり描写していくんだろうけど、彼等はそれをデザインで再構成してしまっている。僕はそれに関して、とんでもないカルチャーショックがありました。それくらいのインパクトがあったものは他にはないですね。

―― ご自身の仕事としては、虫プロ時代に思い出深いものはないんですか。

平田 虫プロ時代は色々やったけれど、その中で楽しんでやったのは『ジャングル大帝』ですね。その後、虫プロの経営がうまくいかなくなった頃には、僕はもう「やっぱりコマーシャルをやろうかなあ」と思って、コマーシャルの方に行きましたから。

―― 作品リストを見ると『国松さまのお通りだい』の頃まで、虫プロの仕事をおやりのようですが。

平田 いや、『国松さま』はコマーシャルをやってる時期に、アルバイトでやってんじゃないかなあ。コマーシャルの会社が銀座にあったんですけど、そこまで丸山が追っかけてきて、仕事を持ってきていた。『あしたのジョー』のコンテもバイトだと思う。

―― そうなんですか。

平田 この前、出崎(統)さんと話したんだけど、僕、『あしたのジョー』を結構やってるんだよね。それが半分以上はペンネームなんですよ。で、そのペンネームは、みんな丸山さんが付けてるんです。

―― 結構いい加減なものなんですか?

平田 うん。当時、僕は千葉に住んでて、千葉の隅っこにいるから「千葉すみこ」とかね。何の意味もなく「本田元男」とか。全部丸さんが付けたペンネームです。

―― お作りになっていたCMって、アニメを使ったCMだったんですよね。

平田 そうです。だけど、実写と合成だったりね。一般的なキャラクターを動かすアニメーションもやったけど、あの頃はポップアートがすごい盛んで、ポップアート的なアニメーションを作ったり、オプティカルアート的なアニメーションをやったり。やっぱりコマーシャルの世界って、すごく進んでて、やるものが全部実験アニメーションみたいな感じだった。

―― オプティカルアート的なアニメーションって、例えばどんなものなんですか?

平田 「トヨタサスペンス劇場」という番組のオープニングがあって、それなんか苦労しました。タイムトンネルみたいなところを主観映像でただ突き進んでいく、線と市松模様だけの映像でね。今ならCGでやっちゃうんだけど、そういうものが無い時代だから全部手描きで。

―― タイムトンネルの壁面が市松模様なんですか?

平田 そう。ハイウェイみたいになっていて、それが蛇行すると下のセンターラインが移動したり……。定規で描いたような、クレバーなアニメーション。一方で、横尾忠則、宇野亜喜良、黒田征太郎といったイラストレーターと組んで、そのイラストをそのまま動かしちゃうとか。そういう仕事が、また刺激になった。レナウンの「イエイエ」もそういう仕事だったよね。

―― 「イエイエ」は有名なCMシリーズですよね。

平田 そうですね。僕がやったのは、川村みづえという女性のイラストレーターの画を活かすCMでした。画用紙に水彩で描いて動かしていくような事をするんです。イラストレーションの味を壊さないでやるためには、画力が必要。CMの4年間で覚えた事が結構、財産になってるのかもしれないという気がするんですよ。

―― その後、CMの世界からアニメに戻ってくるわけですよね。

平田 うん。やっぱりストーリーが欲しくなったというのかなあ。CMっていうのは、勿論、長いストーリーがないわけで。

―― 一度CMをやって、アート的な事をやりたいという気持ちは、ある程度晴れたんですね。

平田 晴れてもないんですよ。逆に、欲求不満になっていった。元々「アニメーションで、色んな可能性に挑戦しているのはコマーシャルじゃないか」と思ってコマーシャルの世界に行ったのね。でも、ある時期になるとパターンが読めてきてしまったというか。ある程度覚えしまったら、後はそのアレンジであり、組み合わせをしていく作業になるんです。で、そこで覚えた技術や発想の仕方を、テレビアニメーションや劇場用アニメーションに活かせないのかなあ、活かしてみたいなあと思ったんです。物語世界の中で、そういうような事ができたら面白いだろうなあと思って、また戻ってきたというわけです。

―― なるほど。

平田 コマーシャルも面白かったけど、やっぱりTVや劇場の方に自分の居場所がありそうだなあという気がしたのね。それから、もう1回演出をしてみたいとも思った。コマーシャルでは、自分では演出してないから。

―― CMではアニメーターとしての参加だったんですね。

平田 そうです。スポンサーと代理店があって、ディレクターがいて、という仕切りの中での仕事ですから。CMディレクターになるためには、とんでもなく沢山の勉強をしなくてはいけないし、感覚も鋭くなくてはならない。僕はとても、そちらのディレクターができるとは思わなかった。

―― アニメに戻られてからのお仕事だと、短編『ユニコ』が印象的でした(注5)。

平田 あれは若気の至りというか。

―― そうなんですか。画的な見応えはかなりのものでしたよね。まるで海外の作品を観ているような。

平田 丁寧ないい出来だとは思うんだけど。一番の問題は、僕は何を考えてたんだろうなあ、という事で。手塚さんの原作にそういう部分があったという事で、公害問題みたいな部分を、ちょっとストレートに、生っぽくやりすぎたんですよ。

―― ああ、そうでしたよね。ユニコが、煙を出す工場を壊したりするんですよね。

平田 そうそう。サンリオの社長の辻信太郎さんも「ちょっとまずいよね」と言って(笑)。もうちょっとひねる事はできたよね、と思うんです。だから、ちょっと若気の至り。僕はあれは完璧な失敗作だと思うんです。だから、できれば思い出したくないの。

―― それではサンリオ時代の作品で、よい手応えがあったものは?

平田 サンリオ時代では、その次に作った『ユニコ』。それしかないね。

―― 長編の『ユニコ』ですね。

平田 うん。サンリオの作品だったけれど、制作現場はマッドハウスだった。サンリオ時代には、短編も色々作ったりしたんですけど、辻信太郎さんの想いにどう応えるかという事に汲々としてたんじゃないかな。一応作品らしくなったのかな? と思えるのが『ユニコ』。長いものを演出したのも、あれが最初だし。演出家としての僕は、あそこからスタートしてるのかもしれない。サンリオとしても、実写で「キタキツネ物語」とかは作っていたけれど、アニメーションとしては『ユニコ』が最初の長編だったと思う。

―― サンリオは、人形アニメも作ってましたよね。

平田 はい、ありましたね。あれを作っていた人形アニメのスタッフの方達も、立派なプロの人達で。あの人達と僕らも波長が合って。だから、あちらの作品にも僕はスタッフとして参加させていただいたりね。

―― 設定協力の役職でしたよね(注6)。

平田 そう。イメージボードを描いたりしたの。でも、あの頃の自分の作品としては『ユニコ』しかない。『ユニコ』も、丸山さんが設定として参加していて、彼の力が大きかった。作品に足りない部分を、外から人材を加える事で補充してくれた。構成的に、僕ひとりでやったら弱い部分に村野守美を連れてきたり。美術監督に男鹿和雄を起用したり。作画監督は杉野昭夫ですしね。それは幸せな、人員配置だったね。

―― この場合、村野さんは何をしたんですか。

平田 村野さんは、色んなエピソードを膨らませてくれました。

―― 脚本段階で?

平田 いや、コンテで。

―― コンテ段階なんですか。

平田 うん。脚本はそのままなんです。ユニコーンがペガサスになるときに「変身シーンはこうやった方がもっと面白い」とか。ユニコの相手役として悪魔の子が登場するんですが、「この子はこういう風にした方が、ドラマが広がるんじゃないの」とか。絵コンテという形でサジェスチョンしてくれているんです。

―― 先に平田さんのコンテがあって、それに村野さんが手を入れるんですか?

平田 そうです。

―― 監督が描いたコンテに他のスタッフが手を入れるなんて、随分と特殊なやり方ですね。

平田 マッド作品にはそういうのがいっぱいあります。

―― そうなんですか。

平田 『浮浪雲』もそう。

―― 竜馬暗殺シーンですね。(注7)

平田 それもそうだし、『浮浪雲』では、つまんないとこなんだけど、浮浪雲が新之助と将棋を指して諍いをやるところは、僕がコンテを描いてるし。『夏への扉』も、僕がどこか一部分のコンテを描いてるし。マッドの作品ってそういうやり方をしていたんですよ。

―― あの一時期、そうだったんですね。

平田 そうです。『浮浪雲』も『夏への扉』も、僕は部分参加。そうするのは丸山プロデュースですよ。彼が絵コンテを持ってきて「ここんとこが弱いから、コンテを描いて」って。

―― それはすごいですねえ。

平田 りんたろう作品以外は、結構色んな作品に参加してますよ。

―― それはすごく大事な話ですね。『夏への扉』では、平田さんの役職は演出補佐になっているんですが。具体的にはそういった事をやられていたんですね。

平田 『夏への扉』はコンテは真崎守で、レイアウトに関しては全部川尻がやって、「このシーンはこんな色合いにした方がいいんじゃないか」と私がサジェスチョンしたりとか。

―― そうなんですか。あの作品は、色づかいがかなり大胆で面白いじゃないですか。黒地の背景で、手前に真っ赤な花が咲いていたりするのは……。

平田 ああ~、あったね。それは川尻のセンスだと思う。僕は、どこかのシーンに関して「赤紫系の薄い色を使うと、ちょっと夢幻的でいいんじゃないかなあ」とか、そういう提案をした覚えがある。作画に関しても「ここは、こうした方がいいんじゃない?」って、原画をいじくった覚えもあるんだ。要するに「なんでも屋」。コンテであったり、色であったり、原画であったり。とにかく色々と手伝う。

―― ものすごく興味がある話なんで、もう少し聞かせてください。マッドハウスの歴史を考えると、出崎・杉野時代が終わって、りんさんが長編を作るようになるまでの数年間がありますよね。

平田 ありますね。

―― それが『夏への扉』や『浮浪雲』、あるいは『ユニコ』みたいな、おいしい作品が続出してる時期なんですよ。

平田 そうそう(笑)。

―― 昔のマッドハウス作品って変わった役職が多いんですよね。具体的な仕事分担が分からないんですよ。「これ、どうやって作ってるの?」みたいなところがあって(笑)。(注8)

平田 あれこそが適材適所だよね。ひとつの作品のひとつのシーンに、突然とんでもない人を丸山が起用する。だから、『浮浪雲』の竜馬暗殺シーンを、村野守美と川尻に「好きなようにやれ」と言って渡すとか(笑)。僕は、どの作品か忘れたけれど、エンディングだけに参加したものもある。僕だけじゃなくて、みんなが好き勝手にのさばってたような気がする。勿論、監督さんはちゃんといて、最終的に選ぶのは監督で、僕らはブレーンとしてアイデアを出す役目だった。

―― なるほど。

平田 今、一番おいしい時期とおっしゃいましたけど、その少し前に『まんが世界昔ばなし』がありましたよね。フリーのりんたろうさんが参加して、川尻もいるし。出崎さんもやってるんだよね。

―― やってますね。

平田 僕のコンテで、川尻がレイアウトから原画まで全部やった作品が、2本ぐらいあるんですよ。あれもマッドハウスのおいしい時代だよね。全て丸山の仕切りなんですよ。「これができるのは、あなたしかいない。だから、あなたやって」という彼のプロデュース。人材のはめ込みの妙というか。未だにそれは生きてるんだけど。

―― そういう仕事をしているのに、あの頃の丸山さんの役職って「設定」なんですよね。「設定って何?」って思いますけど。

平田 そうそう(笑)。丸山のやっている「設定」って、大きく言えば、作品の基本構成なんですね。監督よりも前に、全体のレールを敷く仕事というか。

―― 作品内容とスタッフの両方のレールですか。

平田 いや、最初の頃は、作品作りに魂を入れるためのレール敷きをする仕事で、それを監督に渡す仕事だったんでしょうね。その後、人材派遣までもやるようになったんじゃないかな。

―― ありがとうございます。今日は謎がいくつも解けました。平田さんの『金の鳥』も、そういう体制に近いんですか。

平田 『金の鳥』は、僕は滅茶苦茶、楽しかったんです。あれは演出的な事に関しては、どなたにも手伝ってもらってない。アニメーターを活かした作品なんです。だから、今度は僕が丸山的な立場で、人材を活かすシーンをいっぱい作ったんです。それに関して、演出不在だと言う人もいるんだけど。

―― そうなんですか。

平田 うん。仲間で「あれは演出不在だ」と言う人がいるの。同じように『ボビーに首ったけ』を演出不在って言う人もいるんだけど。

―― 『ボビーに首ったけ』は、演出家の映画ですよ。

平田 そうだよね。『金の鳥』も完璧に演出のワガママ作品だと思うんですけど、見る人によっては、あれは演出不在という風に見えちゃうらしい。あれほどプライベートフィルム的な作品もなかなかないと僕は思うんですけどね。

―― プライベートフィルム的というのは、どちらの事ですか。『金の鳥』ですか、『ボビー』ですか。

平田 両方。それなのに「演出不在だよね」と言う人がいて(笑)。「ええ~!? 逆じゃないかな」と思うんだけど。

―― じゃあ、いよいよ『金の鳥』の話をお願いします。


【ARCHIVE】 「この人に話を聞きたい」 第52回 平田敏夫(後編)へ続く


(注1)
マッドハウスが86年~87年に3本の『火の鳥』を制作した。りんたろうが『鳳凰編』の、川尻善昭が『宇宙編』の、平田敏夫が『ヤマト編』の監督を務めた。

(注2)
森康二は東映動画の設立以前から活躍していた、名アニメーター。素晴らしい仕事を数多く残しており、また後進に与えた影響も大きい。

(注3)
永沢まこと(当時は永沢詢)は、東映動画の初期作品にアニメーターとして参加。現在はイラストレーターとして活躍している。

(注4)
山本暎一は、虫プロダクションで『ジャングル大帝』『千夜一夜物語』等、数多くの作品を手がけたアニメーション監督。後に『宇宙戦艦ヤマト』など手がけている。

(注5)
ここで話題になっている、短編『ユニコ』とはパイロットフィルムとして制作された作品。一般には未公開であったが、後年になって『ユニコ 黒い雲と白い羽』のタイトルでソフト化された。

(注6)
人形アニメ『くるみ割り人形』に、宮本貞雄等とともに設定協力の役職で参加している。

(注7)
『浮浪雲』の坂本竜馬暗殺シーンは、コンテを村野守美が、作画を川尻善昭が担当。鮮烈な映像が話題となった。このシーンの担当に関しては村野守美の名前のみクレジットされている。

(注8)
例えば『ユニコ[長編第1作]』では「設定」の役職で丸山正雄と斉藤次郎が、「設定協力」の役職で村野守美と川尻善昭がクレジットされている。