2014年4月14日の朝、メキシコはアグアスカリエンテスのホテル・フランシアの部屋で目覚めた。昨日の上映会場で痛めた右足を見たら、靭帯がやられちゃったのか内出血している。あとで見せたハビエルの奥さんからは、「クランベリー・スムージーみたい」といわれてしまう。ハビエルって誰かって?
14日の予定は、「プレス・カンファレンス」「大学での講演」「『アリーテ姫』の上映」ということになっていて、セシリオは日本語から英語に翻訳してくれるアプリをスマホに仕込んだから大丈夫、といってくれるのだが、挨拶とか道を尋ねるくらいならともかく、記者会見だとか講演だとかということになると心もとない。「日本語を使える通訳なしでやってる」ということをtwitterでつぶやいていたら、お役に立てるかも、と日本語で返事してきてくれた人があった。はじめ日本人かと思ったのだが、別の都市に住むハビエルという日本製アニメを愛好するメキシコの人であるらしい。
今朝もセシリオが迎えにきてくれたのだが、いつものようにホテルの前に車を乗りつけて、ではなく、車は映画祭本部の前に停めてあるのでそこまで歩こう、という。なるべく普通に歩いていたつもりだが、セシリオは気がついて、
「メディカル・アシスタンスは要るか?」
と、聞いてくれた。
「ノー」と答えておく。多少内出血はしてるけど、腫れてもいないのだし。
車でアグアスカリエンテス自治大学に赴く。今日は車が何台かでいろんな人たちもみんな一緒に出かける。
プレス・カンファレンスもこの大学で行う。さて、バスでやってくるというハビエルは来ているのだろうか。
「ハビエルいらっしゃいますかあ?」
と、日本語で呼んでみたりするうちに、誰かが彼を見つけてきてくれた。アニメオタクみたいな人が現れるかと思ったら、背の高い紳士が登場した。
ハビエルとセシリオの間の席に座って記者会見が始まる。
セシリオは、「カインドネスな人だ」と紹介してくれている。今思うと、その辺は僕にもわかるように英語を使ってくれていたようだ。
記者会見ではいくつも質問を受けたのだが、
「メキシコ映画についてどう思われますか?」
というのが一番効いた。申し訳ないことに、メキシコの映画についてはまるで知らない。昨日、セシリオやサタルノたちと雑談していて、彼らは、
「ねえ、ここへ来る前はメキシコってどんなところだと思ってた? サボテンが生えてて、ソンブレロ被ってて、みたいな?」
と尋ねては冗談めかしていたのだが、さすがにそこまでではないにしても、たしかにうっかりと何の予備知識もなく来てしまっている。メキシコ映画についての質問に対しては、こちらの不勉強をわびるしかない。日本のアニメは世界中で観られていて、メキシコの映画はあまり観られていない、というのは言い訳にはならない。どちらも観る側にしてみれば異世界を覗く窓なのであり、窓を覗かない自分たちの好奇心の方が貧弱なのだ。
今日は日本語から通訳してくれるハビエルがいてくれるおかげで、微妙なニュアンスも率直に喋れている。
次は同じ大学構内で講演会みたいなことをする。最初に大学の偉い人が紹介してくれて、その締めとして、
「マッドハウスやジブリでの経験の話を聞きましょう」
みたいにいっている。そういうふうに話題を振られちゃったか。
日本ではけっこうあちこちで話をしている、自分が『名探偵ホームズ』で現場にもぐりこんだ話から初めてみる。『魔女の宅急便』のあと、解散になったそのスタッフたちでスタジオ4℃を作ったこと。プロデューサーの田中栄子さんに誘われてそこに加わったこと。最初、4℃は普通の民家で、畳の上で仕事していたこと。
やがて、別のプロデューサー丸山正雄さんが自分の仕事に興味を持って、マッドハウスに誘ってくれたこと。やがてさらに自分たち自身の場所としてMAPPAを作ったこと。MAPPAの『この世界の片隅に』準備室も最初はマンションの一室の畳の上だったこと。
自分たちのようなものはひとりでは創作を進められない。それを現実化してくれるプロデューサーという存在が必要なのであり、自分の仕事を理解してくれるプロデューサーと出会うことがまず大事なのだと思う。どこどこのスタジオでのことを、とうながされてはじまった話は、スタジオとかプロダクションとか会社とかいう箱よりも、大事なのは「人」というところにたどり着いて話を得ることができた。
その後に質疑応答があって、どういった話の流れだったかちょっと思い出せなくなっているのだが、
「日本のアニメは、いろいろな生活のディテールを紹介しつつ物語られる」
ということを話した。それは日本の生活文化のことである場合もあるが、よその国の生活であることもある。僕がもっとメキシコの生活スタイルを覚えて、それを使った作品を作ってみるのもよいかもしれないが、でもそういうことはメキシコのアニメーション作家たちが手がけてくれるのがよいように思う。
そういったら会場で歓声が起こった。客席最前列には、昨日一昨日のワークショップで一緒だったメキシコのアニメーションの作り手たちが座っていた。歓声は彼らに向けられていたのだと思う。
大学側から記念のトロフィをいただいた。石膏で出来た双頭の鷲の頭だった。講演会場を出たところで、ワークショップの仲間のひとりサタルノが、このトロフィのことを「カリフラワー」とか「ブロッコリー」だとかいって茶化した。たしかにそんなふうにしか見えない。
そのサタルノが、
「ここでお別れです」
という。
「ここで別の講演も聴いていきたいし、今日の夕方のあなたの映画観られないし、今回はちょっともうお目にかかる機会がないと思う」
そう、僕は明日は思いっきり早朝に空港に出かけなければならないから、今日ここで別れてしまえばもう会えないだろう。
いつも冗談ばっかりいって、気持ちを和ませてくれていたサタルノ。「日本人の友達に『サタルノ』と名乗ったら、『サトル?』『サトル?』って聞き返されちゃってさ」といっていたサタルノ。アディオス。
18時から町中の劇場で『アリーテ姫』の上映がある。それまでの時間、映画祭の本部で食事をとりつつ、ハビエルと話した。ハビエルは可愛らしい感じの奥さんを連れてきていた。彼女もあいさつ程度なら日本語を知ってるという。
「一番好きな日本料理は何ですか? 僕も彼女もが一番好きなのはうどんです」
と、ハビエルがいったら、奥さんは、
「二番目はおにぎり」
といった。ほら。彼らは日本の文化を覗きこむ窓をちゃんと持っている。
彼らはすでに日本にも行ったことがあるのだけれど、ハビエルはいつか長い期間日本に住んで、日本のアニメの歴史を調べたいのだという。ほらほら。
アニメの歴史だったら、あまり古い時代のではなく、最近の歴史をちゃんと押さえる方がいい、というと、彼も「そう思う」という。
「データ原口、なんていう人の話を聞くとよいのだけど」
というと、誰でしょうか? とハビエルはいっていたのだが、
「WEBアニメスタイルは読んでます。片渕さんのコラムも読んでますし、『TVアニメ50年史のための』というのも全部読んでます」というではないか。ほらほらほら。
18時に劇場に行った。しばらく映写が始まらず、
「20時からに変更!」
と、アナウンスがあった。
しかたなく劇場を出ると、映画祭の看板を眺めていたおじいさんに話しかけられた。
「日本の監督さんかね。黒澤の『羅生門』は芥川の原作に対してどう思う? あんたは日本文学を読んで映画を作ってるのかね?」
ほらほらほらほら、というしかないのだが、たまたま、というか『マイマイ新子と千年の魔法』が日本の古典文学としては代表選手である『枕草子』を下敷きにしていたので、この窮地は切り抜けることができた。
20時まで時間をお茶を飲んで潰そう、ということになって、屋外のテーブルにつこうとしたら、大学の講演を聞きに来てくださっていたこちらで働いている日本人の方と再び顔を合わすことができたりもした。ハビエルの奥さんがクランベリー・スムージーを飲んだのはこのときのことだ。
20時から、こんどは滞りなく『アリーテ姫』が上映され、18時のときよりも観客が増えていたので、ラッキーだったと思うことにした。
上映後に質疑応答があり、前の方に座っていた映画監督か大学教授みたいな、要するに見るからに物知りそうな老人が、
「『アリーテ姫』という映画を作るにあたって、ギリシア文学にはあたったのかね?」
と、尋ねてきた。
アリーテの語源は、オデュッセウスに登場するナウシカアの母アレーテであるらしい、というところまでは知っていたので、これまたセーフかと思いきや、この「いかにも物知り」氏は、
「いやいや、アレーテはラテン語で破城槌のことをいうのだよ」
というのだった。全然知らない話だったし、いまだに確かめていないのだが、
「もしそうなのだとしたら、懸命に城の扉の外に出ようとしていた彼女の話に、新しい見地が得られます」
と答えておいた。
「うむ」
と、いかにも物知りらしいうなずきを返された。
ほかの、比較的ふつうのおばさんぽいお客さんからは、
「すごくよい音楽だったので、CDが欲しいのだけど」
と、いう質問があった。『アリーテ姫』のサントラは、発売から間もなく消費税の値上げがあって、ジャケットの価格表示を書きかえる余裕なく廃盤になってしまっている。世界中で聴いてもらうべき音楽なのに、たいへん残念だ。
1時間くらいそうしたやりとりをしたあと、サインを求める行列ができてしまった。ふだんはあまり絵は描かないのだけれど、このときばかりは、空を見上げるアリーテ姫の横顔を描きまくってしまった。
ハビエルの奥さんまで、その絵を「カワイイ」と日本語でいって、自分にもというのだった。
ハビエルと奥さんは、この夜のバスで自分の町に帰らなくてはならない。お別れ。
アグアスカリエンテスでの最後の夜も更け、ホテルに戻った。あとは荷造りをして、早朝に空港まで送ってくれる人がちゃんと来てくれることを祈って眠るだけだ。
薄暗いロビーに人影があった。
「サタルノ!?」
「マスター・スナオ!」
昼間別れたはずのサタルノが、最後の別れをいうために待ってくれていたのだった。
サタルノは、僕がすべての単語を聴き取れるように、一言一言区切った明瞭な発音の英語で喋った。
「マスター・スナオ、あなたは教えを僕らに残してくれた」
スペイン語でマエストロを、彼は今、英語でマスターといっている。
何をいうんだ、サタルノ。
「僕は仕事場のあるカナダに戻ります。もし、あなたがカナダに来ることがあれば、絶対に歓待します。あなたの友だちがカナダに来ることがあっても歓待します。あなたの友達の友達でも、です」
何をいうんだ、サタルノ。
「これはプレゼントです。今日の午後、買ってきました」
と、彼は小さな包みを差し出した。
「お願いがあります。これに、サインをいただけるとよいのですが」
と、彼が差し出したのは、スペイン語版の『魔女の宅急便』のDVDだった。だめだ、サタルノ。これにサインをするわけにはいかない。
「ここで待っててくれないか。上の部屋にあるものを取ってくるから」
「僕はここで待ってればいいんですね」
「うん」
部屋には、日本から持ってきていた『花は咲く』のCD+DVDと、『マイマイ新子と千年の魔法』のDVDがあった。
ロビーで待っていてくれたサタルノに『花は咲く』を差し出した。
「駄目です。これはもらえない、マスター」
もらってほしいんだ。あのワークショップで一緒に見た作品なのだから。
そして、もう1枚の『マイマイ新子』の方は、この映画の上映での舞台挨拶だけでなく、いつもいつもずっとお世話になっていたセシリオに送りたかった。
「彼には明日会えるから大丈夫、あずかります」
2枚のジャケットに、それぞれ記念の言葉を残した。
サタルノのには、日本語で「サタルノへ」と書いたのだが、彼はそのカタカナが自分の名だと理解した。
握手と抱擁。別れ。
あとで、サタルノがくれた贈り物のふたを開けて、言葉を失った。闘牛場の絵が刻まれたキーホルダー。あの日、セシリオとサタルノと僕の3人でそこまで歩いた闘牛場。
そうだね、サタルノ。僕らはそこまではたどり着いたんだよね。
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