COLUMN

第30回 もうひとつの舞台をもつないで

 前回、呉市の二河公園で桜の花を観た話を書いただけれど、原作『この世界の片隅に』第28回「20年4月」ですずさんたちがここで花見をしているのは、昭和20年4月3日のことになる。当時は4月3日は「神武天皇祭」の祭日で、広島ではこの日にお節句を祝って花見にゆく習慣があったのだった。昭和20年4月3日は呉の海軍工廠もお休みになっていて、桜の名所である二河公園がにぎわっていたことは、当時の人の日記からも見て取ることができる。
 この少しだけ前、3月26日からは沖縄戦が始まっていた。この時期、日本海軍の戦艦はまだ大和以下数隻が健在で、そのほとんどが呉港にいた。27日以降、米軍は夜間B-29を飛ばし、航空機雷を撒いて関門海峡を塞ぎ、呉港と広島湾も航空機雷で埋め尽くしてフネの動きを封じようとした。すずさんが子どもの頃に眺めていた江波沖の広島湾は「機雷原Jig」と米軍によって名づけられていた。呉の湾内は「機雷原How」となった。その海辺で暮らす人々が知らないうちに、いつの間にか目の前の海はそんなおどろおどろしい名をつけられてしまっていた。呉・広島湾での機雷の投下は3月30日夜も、4月1日夜も、3日の夜もつづいた。そんな中で人々はお花見を楽しんでいたのだった。

 呉の市史なんかを読むと、呉付近は「20年3月19日」「5月5日」「6月22日」「7月2日」「7月24日」「7月28日」と空襲を受けたことになっている。実際には、もっと多い。7月には25日にも29日にも大規模な空襲があった。
 呉の市街の大部分が焼けてしまったのは7月1日の真夜中、2日に日付が変わったばかりの頃に始まった夜間焼夷弾空襲だった。呉の町は、市街地の大部分である平地の部分と、一部住宅のある高地部からなっていたのだけれど、平地のほとんどが火災で焼けてしまった。
 こうのさんの漫画を読むと、すずさんが高地部にある自分の家から町へ出るとき、三棟連なった土蔵の前を通っているのだが、この「三ツ蔵」は高地部の一番端の山裾のきわにあった。
 先週、何人かの人たちをここへ案内して、こんなふうにいった。
 「想像してほしいんですけど、この土蔵から先、海に至るまで全部焼けて何もなくなってしまった光景を」
 そこから海までは2.5キロメートルほどもある。
 これが『マイマイ新子と千年の魔法』で訪れる防府ならば、「1000年前に周防の国の都があって、京の都から来たちっちゃなお姫様がそこに住んでいた光景」を想像してもらう幸せがあるのだけれど、それよりもずっと切ない。
 20年7月2日の夜、町は焼けてしまったが、住んでいた人々のほとんどは健在だった。「戦時中はあらゆる情報が閉ざされていて」と思う人も多いかもしれないが、空襲が大都市をすっかり燃やしてしまって中小都市に目標を移した時期には、どこかの町が空襲にあっているさまは、ラジオがリアルタイムで逐一克明に伝えていたのだった。
 7月24日の空襲を一般向けラジオ放送で聞いていた人が日記に書き記した当時の防空情報は、こんな具合。

  • 16時32分 阿波灘に小型7機西進す
  •   36分 広島へ向かった100機南へ向う
  •   36分 玉野市に小型10機地上攻撃中なり
  •   36分 呉上空にて1機撃墜、1機撃破せり
  •   37分 広島県木ノ江上空を小型10機東進す
  •   25分 牛窓にて1機撃墜
  •     (放送局へ入ってくる情報が前後している)
  •   37分 厳島南方を小型37機東進
  •   39分 呉にて2機撃墜
  •   40分 呉にてまた1機撃墜
  •   38分 岩国北方を大型機東進
  •   38分 室戸を小型32機西進
  •   40分 室戸を小型40機西進
  •    (中略)
  •   53分 田辺北方をB24 1機北西進す、高度5千メートル
  •   54分 広島にて高射砲射撃開始す
  •   54分 愛媛県西南端を小型18機南進中
  •   55分 広島上空を小型約40機旋回す
  •   54分 徳島を小型37機南進
  •   56分 広島上空にて宇品の船舶と交戦中なり
  •   56分 宇和島を16機南進す、高度1500メートル
  •            (『岡山市史・戦災復興編』より)

 挙句、もっと末期には
 「対空部隊は友軍機の識別に注意せよ。伊万里の高射砲隊は目標に注意せよ」
 という感じで、陸軍の司令部が部隊に向かって、普通のラジオ放送を使って直接命令を下したりまでしていて、もはや包み隠すところのない赤裸々な感じにまでなってしまっている。ラジオの防空情報を聞いているかぎり、たとえ空襲を受けているのが自分の街でなくとも、自分が住む近隣地域の誰かが大変な目にあっているだろうことは、想像つくことになっていたのだった。
 こうした中で、7月2日の呉市夜間空襲では、NHKのJOFK広島放送局が、空襲下にある呉市民に対して、
 「呉の皆さん頑張ってください!」
 と、繰り返し呼びかけたのだともいう。この件についてはそれ以上の詳しいことは知らず、もっとよく知りたいと思っている。
 8月に入ると、防空情報ですら「せめても女性の声でやわらかくソフトに伝えたい」と考えた人がいて、広島放送局の防空情報放送は女性アナウンサーの仕事になる。

 近隣の街からやってくるのは、ラジオのアナウンサーの声援だけではない。戦時下、広島県下の消防車は全部集められ、重点地域である広島市と呉市に集中的に配備されていたのだが、まずその広島市の消防車が駆けつけてくる。ラジオで呉市の空襲を知った広島県防空本部は火災発生と同時に呉市周辺の警察署に対して消防車15台の出動を要請し、さらに被災者が多数発生することを予想して7月2日午前3時には広島東、西、宇品、竹原、西条の各警察署に応急食糧として、にぎり飯13万9500食の炊き出し、乾パン34万食の急送を命じている。この握り飯は、数多くの人々の手でいち早く握られた。
 広島からの握り飯の第一陣は、早くも朝6時には呉に到着し、呉市役所が避難していた二河公園を中心に届けられるのだが、実は、その時点食糧営団職員による炊き出しが開始されていて、すでに市民への配給が始まっていたのだった。
 つづいて、空襲で罹災した人々に対して、周囲の町や村で支援物資が集められ、送られる。真っ先にかき集められたのは、乳児用の粉ミルクとおむつだった。
 空襲罹災者にはまず罹災証明書が与えられ、その紙切れ1枚を持っていると、食料や、衣類や、寝具、さらには鉄道の切符などが与えられる。さらには、警察が焼け跡に机を出して罹災者相談窓口を始める。こんなときのおまわりさんたちは、サーベルを鳴らして「オイ! コラ!」と怒るイメージとは全く違って、おだやかでにこやかなのが、東京空襲直後の写真を見ても印象的だ。空襲下、警察は「生命こそまず大事」と市民の避難を勧め、その場を離れず消火に勤しむよう命令していた陸軍憲兵隊と対立する局面もあったらしい。
 20年8月6日、こんどは、呉を支援してくれた広島の町に原爆が落とされる。その日の夕方の広島で、罹災した広島市民たちのために、机を出して罹災証明書を書き続ける広島市の警察官の写真が残っている。彼自身、頭に血のにじんだ包帯を巻いて写っているのだが、彼が書類を書いた数だけ夕食にありつく人ができるのだ。
 さらにその広島に対して、呉から大規模な救援が繰り返されることになり、その話はこうのさんも『この世界の片隅に』の中で描いている。
 こうした話が「戦時中」のすべてではないことも知っているつもりだ。だが、読み漁れば漁るほど、戦時中の人々の気持ちが、今の自分たちとそれほど遠くない「ふつう」なところにあったのだなあ、という気持ちになってゆく。

 そうした気持ちの中にあったところに、2011年3月11日の震災が起こったのだった。今では、『この世界の片隅に』は「3・11」と切り離せないものに、自分の中ではなってしまっている。NHKから話をもらって『花は咲く』の短編アニメーションに挑んだのも、そんな文脈あってのことだった。
 2013年4月3日の朝日新聞都内版では、われわれの仕事について、「被爆の悲劇よりも、原爆によって何が破壊されたかに着目した」と紹介してもらっている。原爆だけでなく、さらに数多くの戦災がそこに含まれて、それ以前にあったごく普通の暮らしを愛おしみたく思い、その後も人々が生き続ける限りつづけらる生活のあることを思いたい。
 『花は咲く』で描こうとしたのも同じようなことなのだった。

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