COLUMN

第21回 それぞれ違う色だったはずの毎日

 呉のバスについてはもうひとつ悩みどころがある。
 広島の古書店あき書房さんには、資料関係でひと方ならずお世話になっている。あまりにも「呉」「広島」関連の注文ばかりしていたので、そのうちに、
 「呉関連でしたら、うちの方でこんな資料の復刻もしておりますが」
という案内までいただくようになってしまった。あき書房さんは、古書店でありながら、呉や広島の戦前の地図を復刻して発売しておられる。
 そのあき書房さんに年末になって注文した本が2012年12月も押し迫ったぎりぎりに届いた。昭和30年に呉市交通局が出した本なのだが、手元に届いて、これはやはり取り寄せておいてよかったと思った。あるいは、こんな本買わなきゃよかったと思った。
 というのは、この本の中で、戦災で被害を受けた呉市バスの各路線の戦後の復旧状況が述べられていたのだけれど、すずさんを載せようと思っていた辰川線のバスが戦災以前にすでに燃料規制のために運転休止になっていたらしく書かれていたのだった。
 辰川線のバスは、呉駅前から一丁目筋を南東に走って、蔵本通で90度左折して、堺川沿いにさかのぼって走る。なので、一丁目筋と蔵本通の街並みの資料的な復元はかなり念を入れて行っていた。
 蔵本通の平地を北上したバスは、そこから呉の高地部へ入ってゆく。路面電車にも本通を高地部である呉越の方へ登る路線があるのだが、電車も坂を登れる車両と登れない車両の区別があったりした話も耳にする。
 こうのさんが原作で描かれているように戦時中のバスは木炭ガスで走るようになっていたのだが、これもこうのさんが原作で描かれているように木炭バスはあまり勾配がある道は登れない。ということで、辰川終点行きのバスは、どうもガソリンの供給が足らなくなって木炭ガスを使わなくなった段階で休止されてしまったらしい。
 らしい、だとか想像を交えた話じゃなくて、何年何月から運転が停まったのかはっきできるとありがたいのだが。何せ、こちらとしては蔵本通をバスが走る絵コンテを没にするかどうかの瀬戸際なのだ。戦時中も走っていた今西循環線は全然別のルートを走るのだ。
 ならば呉市交通局に尋ねてみればよさそうなものなのだが、呉市交通局は2012年3月いっぱいで廃止されてしまっていて、どうも保管されていた資料も廃棄されてしまったらしく聞く。ここでもまた出遅れてしまった残念が残る。

 こんなふうに、「何年何月から何が変わった」というのが、案外こうした話を手がけるときに大事だったりしてしまう。
 原作で、呉に嫁入りしたすずさんが一度だけ江波に里帰りしているのだが、こうのさんはその時期を「19年3月」としている。これは実は、翌4月からあまり重要でない目的の旅行が制限されるという頃合なのだった。それがゆえに原作「19年4月」の回では、不急の旅行を諌める回覧板を見つめてすずさんがぼんやりしている描写になっている。そんなふうにこうのさんは、「戦時中」というのを、一色に染まったものとしてではなく、その中にいくつもの変化が訪れていたのだ、という視点を明確に携えた上で、「この世界の片隅に」という作品に挑んでいる。
 「わたし、あまり歴史は得意じゃないんで」
と、謙遜されつつ、
 「まず、いつ何が起こったかの年表を作ってみたんです」
というのだった。
 昭和20年8月15日至るあるひとつの時期を「戦時中」とひとくくりにして語るのは、やはり後代の目から俯瞰的に見ているからなのであり、その只中にいる人の立場に立つならば、「毎日毎日、ちょっとずつ変化してゆく日々」であったはずで。そんなこうのさんの視線に共感を抱いたので、自分も「この世界の片隅に」の映画化に挑んでみようとしていている。
 自分なりにも、年表、というか、これらの日々の毎日毎日に何が起こったのかというメモを作ってみている。

 「戦時中」を描いたとする映画やドラマなんかを見ていると、女性はほぼもんぺを履き、胸に血液型と住所氏名を記した名札を付けて出てくる。
 毎日毎日に起こった変化が大事なのだとしたら、じゃあ、もんぺっていつから履くようになったの? とか考えてみたくなる。
 こういうことを考えるようとするとき、頼るべきなのは次のようなものだ。

  • ・根拠法令
  • ・写真
  • ・当時書かれた日記
  • ・体験者の回想談話

 順番に述べてゆくと、女性にもんぺ着用を求めた法令は「存在しない」。
 男性の国民服着用は、昭和15年11月1日の勅令725号「国民服令」というのが存在しているのだが、女性のもんぺについてはこうしたものがない。男性の国民服というのは、陸軍の軍服とほぼ同じものを普段から市民に着させておいて、いざとなったら軍服の代用としてしまおうという意図があった。
 女性については、昭和20年6月に「義勇兵役法」ができて、本土決戦のために15〜60歳の男性、17〜40歳の女性を軒並み動員して、国民義勇戦闘隊として組織して戦わせようということになるまで、当時の日本には存在していなかった。ちなみに、国民義勇戦闘隊にも「服制」というのがあって、戦闘員として着用すべき軍装が定まっているのだが(そうしないと、軍人とみなされず、スパイ扱いになって処刑されてしまう危険性があるから)、この場合定められた正規の軍装は「腕に白色の腕章をつける」というただそれっきりのことだった。なんだかおっかなすぎる話だ。
 写真も何千点になるのだか、手に入るだけ集めてみた。例えば、昭和18年10月の東京・山手線の駅の写真があるのだが、そこで改札の前にいる女性たちは誰ももんぺなんて履いてない。工場労働のために集められた女子挺身隊の記念写真だとか見ても、昭和18年中のものは、みんな普通の和装をしてるか、スカートはいてるかどちらかだ。基本的に、昭和18年の秋くらいまでの時期に国内にいた女性は、農作業か防空演習でもなければ、もんぺなんてはいてないのだった。18年11月に茨城で「決戦服着用」を謳って子どもたちの鼓笛隊のパレードが行われていた写真があったりする。決戦服というのは要するに女性のもんぺ姿のことなのだが、そうやってアピールしなければならないくらい、みんなそんな格好はしていなかったみたいなのだ。
 じゃあ、いつからもんぺが日常着になったのか、というと、18年秋も深まった頃からであるらしい。これについて、「この年の秋は薪炭の配給が著しく滞り、防寒対策が必要になったから」という説がある。ほんとは、薪炭の配給がどれくらい滞ったのだとか、ちゃんと調べるべきなのだろうと思う。ただ、列車ダイヤ改正を調べようとして読んでいた19年春の新聞のコラムで、暖かくなってきて、もんぺは不衛生だからはきたくないとするものが増えてきたが、というようなことが書かれていたので、「もんぺは単なる防寒対策だった」という話に信ぴょう性を感じてしまうのだった。
 ここでこうのさんの「この世界の片隅に」をひもとくとよい。「18年12月」の回で、もんぺならぬ胴長を履いたすずさんが最新モードらしくポーズをとって、
 「あら、すてきな決戦服ですこと」
 と、妹たちからいわれている場面がある。 まさに18年12月、もんぺは新鮮だったのだ、ということになると、この場面を眺める気分が変わる感じがする。
 その後、19年の夏には、やはり「この世界の片隅に」で描かれているように、女性の服装は簡単服(アッパッパ)が多くなる。19年秋になると空襲が始まって、こんどはやむを得ず避難に備えてもんぺをはいたままの生活が本格化してゆく。空襲が激化した20年の夏にはもんぺはもう脱ぐわけにいかなくなってしまっている。
 それでも、20年3月だったかの大阪府警の資料で、婦人が着流しのままなのは空襲時に危ない、などと書かれているのも見た。
 「戦時中」だからってモンペばきの女の人しか出てこないなんてことは、全然ないはずなのだった。

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