COLUMN

第20回 バスの色にまつわるひとつの痛恨

 昭和30年の防府市を舞台とした『マイマイ新子と千年の魔法』には、当時の国鉄三田尻駅の駅頭の場面がある。駅前がバスの停留所になっていたのは、当時の写真を見て理解していたし、どんなバスがそこに停まっているのかもわかっていた。ただし、モノクロ写真で。
 何色に塗られているのだ、このバスは?
 2007年、第1回目の現地ロケハンで、山口宇部空港で飛行機を降りてレンタカーに乗り換え、まず最初に訪れたのは、防府市でも山口市でもなく、徳山にある防長交通の本社だった。
 今走っているバスはカラーリングのデザインも全く変わってしまっているのだが、当時のことをご存知の方がまだ在籍されているはず、と思ったのだった。役員の方とお目にかかることができ、社史をいただいたのだが、あいにくそこに載せられた昭和30年頃のバスの写真もモノクロだった。ただ、「瀬戸内海の海の色を基調にしたブルーで」という話は聞くことができた。
 その後、カラー写真を見つけることができた。うかがったとおりに青系の色で塗られていて、ああ、これがそれだったのだ、と納得することができた。
 『この世界の片隅に』にもバスが出てくる。呉市のバスも路面電車も戦前は民営だったが、戦時中の昭和17年に市営に変わり、呉市交通局が立ち上げられている。市営になってもバスの塗装は民営時代と同じままのようで、その後、戦後早い時期までは同じまま、塗り替えられずに使われている。しかしながら、時期が時期なのでモノクロの写真しかない。戦後に進駐軍が撮影したカラーでもないかと思って懸命に探したのだが、これは出てこなかった。
 この当時の呉市交通局のバスは、フェンダーとボンネットが濃い色で、ボンネットの濃い色はそのままストライプとなってボディを横断している。ボディのその他の部分は明るい色に塗られている。少なくとも2色。これらは何色なのだ。
 予断として抱いてみたのは、明るいほうが銀色、濃いほうがダークブルーというコーディネートだった。屋根がアルミ塗料の銀色っぽいのは写真からでもなんとなくわかったが、ダークブルーについて根拠はあまりなく、強いていえば自分自身の色彩感覚。
 ところが、兼森義則さんが「呉のバスは黄色だった」という話を持ってきた。仕事の先輩である兼森さんは呉の出身だった。縁者に、戦中戦後に呉市交通局でバスの運転手をされていた方があり、その人が「黄色だった」というのだった。
 黄色というのは、ちょっと予想に反していた。それよりも、戦後になって最初に採用された新塗色のツートンカラーの一方が黄色だったらしくあり、あるいは記憶に混同があるのでは、と疑ってしまった。

●2011年7月6日水曜日(335日目)

 戦前の呉の新聞記事を漁っていて、呉に電気バスが導入されたニュースを見つけた。言葉の使い方として、昭和16年12月8日の真珠湾をもって戦前・戦中の一応の線引きをしてしまっているのだが、昭和12年夏以降は中国国民党と事実上の戦争状態にすでになってしまっている。国際世論の圧力から禁輸制裁など加えられていて、ガソリンはすでに貴重品となっていたので、電気自動車の使用は各地で進められていた。まだ民営時代の呉市のバスにも、昭和15年4月13日に3台の電気バスが導入されていて、それが記事になっていたのだった。
 「車体は銀色に包まれ、みずみずしい藍色でデザインの流線型……」
 やっぱり、銀とダークブルーで合っていた。

●2012年12月15日土曜日(863日目)

 呉への進駐軍であるオーストラリア軍関係の写真をもう一度眺め直していて、昭和23年撮影のバスの写真1枚を見つけてしまった。これもモノクロなのだが、写りがひじょうによく、中央を横切るダークブルーの帯の上下で車体の色が違っているのがはっきりと見て取れた。車体色は「銀」「藍色」の2色ではなく、3色で構成されていたのだった。
 思えば、これまでに眺めていた写真からも、はっきり銀色に見える車体上部と、藍色の帯をはさんだ車体下部では艶のあり方がちょっと違うような気がして、「ひょっとしたら別の色かもしれない」という印象がもやもやしていた。だが、昭和15年当時の呉日日新聞の記事が「銀色」「藍色」の2色しか伝えていなかったので、やはり2色なのだろう、と自分を丸め込んでいた。
 3色目は何なのだろう。
 当時のほかのバス路線で使われていた色から類推して、モノクロ写真を簡単に塗ったものを作ってみた。これをカラーコピーして兼森義則さんに託す。

●2013年1月25日金曜日(904日目)

 兼森さんから電話があった。
 「このあいだのカラーコピー、呉に送ってみたんだけど……バスの運転手してた人、12月に亡くなったって」
 残念であり痛恨の極みでもある。
 一歩違いで残念だったように見えるが、紛れもなく自分自身があいだで丸1年半も放置してしまっている。

 10年来の友人で、ずっと若い神田輔君という人がいる。彼はバスマニアで、しかも、広島の出身で、江波で子供時代を過ごし、おじいさんの代までさかのぼると呉出身の家系なのだという。彼に声をかけてみたのはずっと以前だったが、その時点でおじいさんは体の具合が悪く、神田君が今回のことに絡む何かを尋ねることもできないうちに、あの世に旅立たれてしまった。
 その時代を伝えることができる人に何かを尋ねられる機会のあることを、その貴重さをもっと思い知らなければならない。

 神田君は、唐突に「鹿島丸」という船の名を出してきた。
 神田君のお祖父さんは、昭和17年度徴集、18年4月現役兵として入営、広島の十一連隊から豪北方面への補充兵として送られ、乗っていた輸送船がベトナム・カムラン湾で潜水艦からの雷撃を受けて沈んでしまったのだという。このときの戦死106名。
 ということは、すずさんの兄・要一と同い年のはずだ。豪北方面、つまりニューギニアに送られようとしていたのも同じだ。というようなことから、鬼いちゃんが入営した時期が鬼いちゃんがカムラン湾で沈んでしまったのかどうかはわからない。だが、彼は鹿島丸という名の輸送船に乗っていたように思う。
 こうのさんにこの話をしたら、
 「船が沈んでたのまでは知りませんでした」
 というのだが。
 調べ尽くして描かれたものは、簡単に現実と交錯してゆく。

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