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中村亮介監督インタビュー 第3回 「分かりやすさ」を選ばなかった理由

小黒 で、公開前には触れられていなかったことで、公開されてから観客が驚くところだと思うんですが、これは原作の「ねらわれた学園」の続編なんですね?

中村 そうです。ストーリーの大枠やモチーフは原作を踏襲してるんですが、時間軸的には続編です。リメイクであり、続編でもあると。それは全然、秘密やサプライズのつもりじゃなかったんですけど、事前のアナウンスが伝わりづらかったですかね? 『時かけ』の時は、どうアナウンスしてましたっけ?

小黒 『時かけ』の時は、非常に曖昧な感じでしたね。真琴のおばさん(芳山和子)が、かつての「時をかける少女」なのかという部分は、劇中でもハッキリとは語られない。

中村 ああ、そういう意味では今回のアニメ版『ねらわれた学園』は、ハッキリと原作の「ねらわれた学園」の続編と言えますね。原作の主人公である関耕児がお爺ちゃんになって出てくるし、そのお爺ちゃんと因縁があって戦った相手の名前は京極ですし。

小黒 で、原作の最後で京極といっしょに未来へ行った高見沢みちるとの子供が、今回の京極なんですね。

中村 そうです。原作を知っている人だけがニヤリとすればいい要素だと思うので。今回のアニメ版で初めて『ねらわれた学園』を観る人にとっては、かつて京極のお父さんと一緒に未来に行っちゃった人、以上の説明はしないようにしていますけど。

小黒 ケンジの超能力は、お婆ちゃんから受け継いだものなんですか。

中村 と、いうことにしています。シナリオの初期段階では、ケンジを救うかわりに和美が亡くなって、その時に超能力が移ってどうこうとか設定を作りましたが、登場人物と説明が増えるのでやめました。実は、原作の主人公の耕児って超能力者じゃなくて。そこが原作の、ファシズムと戦うモチーフの上ですごく面白い部分なんですけど。ただ、今作のストーリーでは、耕児にシナリオ用語で言うところのメンター(精神的な導き手)の役割を担わせているので。ケンジや京極を導く存在なので、超能力について少なくとも理解はしていなくてはダメで、なんらかの能力も持っている必要がある。だからここだけは原作には申し訳ないですけれど、設定を変えさせてもらった部分ですね。耕児が超能力者じゃないと、説明がうんと必要になってしまうので。アニメ版耕児は結果的に、原作の耕児と和美と、耕児のお父さんを合わせたようなキャラクターと言えるかもしれません。

小黒 あの犬はなんなんですか?

中村 シロは、ケンジの超能力を封印して具現化したものです。まあ、ケンジの分身ですね。だからカホリと会った時とか、ケンジの内的欲求に忠実で、犬のくせに分かりすぎてるといいますか(笑)。京極にも、いっしょに使い魔がついてきますけど、あっちは京極父の分身です。分身というか本人ですね。どっちも実体のないエネルギー体だという設定にはしていますが。

小黒 あの犬は、おじいちゃんが作ったんですか。

中村 シロはそうですね。ケンジの能力が封印されているという、京極の使い魔がほのめかしたとおりです。京極の使い魔は、京極のお父さんが作ったもので、人格も本人です。こっちは主に、時間移動を制限する都合でそう設定してます。生身で時間移動できるのは一回だけという設定は、京極が語ったとおりですけど。だからお父さんが直接来れなかったんだということにしています。エンドロール後にケンジが帰ってくるところで、一緒についてきたのはお父さんじゃなくて京極本人なんです。デザインが違うのと、カホリとカットバックすることで、観た人にそう伝わっていればいいですね。時間移動を制限したから、京極はもうカホリの時代には生身で来られない。そのことで生まれた、切ない別れのドラマのつもりです。

小黒 後半は「ええ!?」と思うところがわりと続くんですが、これは意図されてたんですか。

中村 そう感じる方もいるだろうなあ、と思います。

小黒 これから超能力バトルが始まるのかな? というところで海に行くのは、意図して観客を驚かせているんですよね。その後はどうなんですか?

中村 その後というと?

小黒 話が錯綜してくるところとか。

中村 ああ、意図して錯綜させるつもりはなかったんで、そこは僕の力が足りなかった部分だと思いますね。むしろ最大限分かりやすくしたいと努力しているんですよ。ただ終盤なので、フィルムのリズムはテンポを上げたい。すると情報量は増えるのに、説明は最低限になる。それで説明が不十分だと感じる人も、当然いるはずだと思うんです。ただ説明が長くても、よく理解できるかわりにダラダラするので、バランスをどこに置くかということで。人間関係のドラマの速度といいますか、そこにレコードの回転速度を合わせる気分にしたんです。その上で、できるかぎり分かりやすくありたいと。レコードでいえば、一曲として心地よく聴いてもらった上で、気に入って繰り返して聴いてもらうと、そこに込められたたくさんの思いが、じわじわ伝われば良いなと。

ぶっちゃけて言うと、一回見た時には「よくわかんなかったけど、なんか面白かった」になったらいいのかなと。一度で分かってもらえたら理想だけれども、お客さんに「面白かった」という気持ちが残ってくれれば、それで十分なのかなと。理解するよりも、楽しんでもらえたらいいなと思ってました。実は、細かく張った伏線も全て回収しているんですけど、これ以上尺を使えないので、細かいサジェスチョンの積み重ねでそうだと分かるような、針の穴を通すような作りに全編なっていまして。この巧緻すぎる感じが、エンタメらしい分かりやすさから離れてしまって、漠然と情報が過剰であるという不快感を与えてしまうかもしれないな、と思ってました。ただそれは、コミュニケーションというテーマを描く上で、やむをえずそうなってしまう部分もあると思うんですよね。

これは企画の初期段階から考えていたことですけど、コミュニケーションって非常に描くのが難しいテーマでして。「コミュニケーションはこうあるべき」と、分かりやすく簡略化すれば、分かりやすく感動してもらえるのかもしれませんけど。でもそれにはどうしても抵抗があって。「これが答えだ」とは言い切れない、「自分はこう思うけど、あなたはどう思いますか」ぐらいまでしか言えないテーマだと思ったんです。そうなると、映画の結論としては歯切れも悪いし、分かりやすい感動にも結びつかないんですけど、コミュニケーションを作品のテーマとして据えた時点で、それに真摯に向き合えば、たぶんそうなるだろうと思っていたんです。京極が明快な「敵」ならば、すごく話は分かりやすくなるんですけどね。

小黒 やっつければいいんだと。

中村 そうです。悪いやつは悪いんだからやっつければいいんだと。でも、このテーマに「敵」なんているでしょうか。世の中のどんな人にとっても、コミュニケーションの上で敵なんかいないはずじゃないかと。むしろいてはならないとさえ思う。そういうテーマだと思ったんです。言い方をかえれば、「絆」とか「つながり」というものが現代の時代のテーマだとして、それは「敵」に対抗するための、仲間うちでの結束のことでしょうか。そうではないはずだという強い思いが、僕の中にはあって。

でも、そこを描こうとすると急に話が難しくなってくるんですよ。だから、分かりやすさと真摯さと、どちらを選ぶかという判断になるんですけど。僕には、この作品のテーマを、割り切るという選択肢はとれなかった。それに対しては賛否両方の反応があるだろうと思いながらやっていました。

小黒 嘘はつかない、ということですね。

中村 はい。もうそこに覚悟を決めるしかないと。このテーマで自分が物語を描くことになったのは、もうめぐり合わせみたいなもので。一歩一歩、嘘をつかずに、自分にできる最大限を積み重ねていく以外にないんだと。作品を、器用にバランスよくまとめることよりも、嘘をつかないことを大事にしたいと思いました。

今の自分にとっての結論めいたことはケンジの口から言わせてますけど、京極は「敵」ではなくて、ケンジにとっては「友達」なんだと。言葉で全ての思いが伝わらなかったとしても、つないだ手と手の温度ならば伝わるはずだと。「手をつなげばお前の熱が伝わってくる。それじゃダメなのか」と。この映画はそういう映画なんだと。一回だけでは確かに、テレパシーでもないかぎり、この映画の何もかもは伝わらないのかもしれません。そういう批判は受けるだろうと思います。でも、僕ら作り手の「熱」は、お客さんに伝わったはずだと。それを目指した映画なんだと、僕自身は思っています。

第4回へ続く

『ねらわれた学園』公式サイト
http://www.neragaku.com/