COLUMN

第11回 高いところにのぼってばかりのロケハン

●2011年5月18日水曜日(286日目)

 第2回目の、けれどはじめての本格的なロケハンの2日目。
 宿は呉市和庄の「ビジネスホテル」に取った。かぎカッコつきの「ビジネスホテル」なのは、ここはどうも造船関係の仕事の方が泊まる宿のようだった。自分たち以外の宿泊者はみんな作業服姿だったし、宿のご飯(朝夕食ついて1泊3000円台)は質実剛健な感じで、そういえば、呉港のIHIの船渠前にはドでかいタンカーが艤装中だった。こうした仕事の人たちは、造船の進捗に応じて、各地の造船所を渡り歩いておられるのかもしれなかった。この建造中のタンカーをものさしに使えたおかげで、戦艦大和のサイズ割り出しがたやすくって、よろしかった。
 午前4時起床。はるばる持ってきた資料と昨日撮ってきた写真の照らし合わせ。こういうのを、東京まで持ち帰る前に現地でやっちゃうと、2日目の行動の修正ができるわけで。すると、すずと周作がデートしたのが、昨日見た堺橋でなく、ひとつ上流側の小春橋だったと気づいてしまった。
 5時42分、朝の散歩を兼ねたロケハンに出る。したいのは、朝日の上る方角を確かめることだった。『マイマイ新子と千年の魔法』を作ってみて覚えたのは、「何十年経とうと山の形は変わらない」ということだったりする。東京みたいな平べったい場所はともかくとして、たいていの土地には取り巻く山のシルエットというのがある。そんな山の形も見定めておきたい。
 のではあるが、その昔ならともかく、今はどこへ行っても高い建物、マンションなんかが立ち並んでいて、山もよく観察できない。宿から近い本通11丁目くらいに歩道橋があるので、上ってみる。
 「呉」という地名は「九つの嶺に取り囲まれた土地なので『九嶺』」というのだが、どの9つなのか、あんまり定かではないし、実のところ地元の方に聞いても9つの嶺の名前がはっきりしない。なので、ここはひとつ大雑把にいうことにして、防府国衙みたいに碁盤の目のように区切られた市街の軸線に沿って(ただし、この軸線が防府国衙みたいに南北に沿ってないので、ときどき大混乱する)、真正面が「灰ヶ峰」、左「鉢巻山」、右が「休山」。5月のこの時期の日の出は、灰ヶ峰の右に顔を出している掲山(あげやま)のあたりから上ってくるのだった。すずさんの家はもうちょっと北のはずだから、灰ヶ峰そのものから上るように見えるのかもしれない。
 以上、朝めし前の仕事。6時23分に宿へ帰って、30分より朝食。昨日「みんな朝飯6時半からでいい?」と恐る恐るいってみたのだが、ちゃんとスタッフ一同朝食に顔を出している。

 午前7時、朝ご飯を食べたら、出発する。
 遊郭のある朝日町からすずさんが家に帰った道をたどろうと、おそらくここで道を曲がっただろうはずの相生橋の交差点に出てみる。相生橋は広島にもあって、広島のは原爆投下時のターゲットにされて有名な橋なのだが、同じ名前のが呉にもある。
 原作では、すずさんが街へ出たり街から帰ったりするときに、特徴的な三連の蔵が立ち並んでいる下を通っているのだが、これは重要文化財、澤原家住宅の三ツ蔵だ。ちなみに、澤原家は呉を近代的な市街に育てるのに功績のあった旧家で、三ツ蔵のすぐ前にはスーパーマーケット万惣があるのだが、ここもかつて黒々した庭木に囲まれた澤原家の広い別邸だった。旧海軍の文書史料なんか読んでいると、呉軍港で軍艦の進水式があって隣席するために呉を訪れた皇族なんかはたいていここを宿としているようだった。
 市街地を焼き尽くした昭和20年7月2日夜間焼夷弾空襲のとき、この澤原家別邸や三ツ蔵のすぐ先のあたりで延焼が食い止められている。それは、昭和22年の航空写真でも確認できる。なので、ここから先には戦前からの建築物も残っているはずだった。
 三ツ蔵のすぐ上の道は「長ノ木街道」。本通15丁目あたりから始まって灰ヶ峰を巻きつつ北方へむかう熊野街道に途中から合流するこの道は、江戸時代以前の重要ルートだったと思われる。「長ノ木」というのは、灰ヶ峰の尾根のひとつで、街道は尾根線を登ってゆく。これを登りつつ、ここへ至る二百数十日のあいだイメージし続けてきたロケーションを探し歩く。
 最後は藪こぎまでして、探し疲れて、まあこの辺でいいだろうという場所に辿り着き、この探索はひと段落。
 しかし、高地部の古い住宅地は、案の定、道が細くくねっていて、こんな場所で車をすれ違わせられない他所者は徒歩で行き来するしかない。自販機のひとつもない。コンビニどころか店舗のひとつもない。5月中旬の「山歩き」(というしかない道行きになってしまっている)で水筒を持参しないというのは重大なミスだ。

 「鉄管道路」という道がある。北の二河川からの水を、長ノ木よりひとつ南東隣の尾根にある平原の浄水場まで通す鉄管が埋められた道路、という理解でやってきたのだが、長ノ木の尾根を直角に横切って通っているこの「道路」はアップダウンが多く、半分は階段でできていた。うっかり車で来なくって、ほんとうによかった。
 鉄管道路の何百段かありそうな階段を下ってさらに登ったところに、やっと飲み物の自動販売機があった。砂漠にオアシス。体格のいい上原さんに至っては、いきなり500mlのペットボトルを2本買い込むという挙に出ていた。
 鉄幹道路をさらにゆくと、辰川小学校に出る。原作で周作や径子も通った「下長之木国民学校」のモデルとしたという小学校なのだが、しばらく前に近隣校と統合されて、ここの校舎は廃校になったということを知っていた。現地に立ってみると、校舎はすでに取り壊されてしまっていて(どちらにしても戦後に建てられたコンクリの新校舎だったのだが)、まだ使えそうな体育館と、名残を留める記念碑としての校門とレンガの塀のごく一部だけが残されていた。校庭だったり校舎が建っていたはずの場所には、ピッカピカの住宅が建ち並んでいた。
 昭和20年9月17日枕崎台風水害での辰川の犠牲者慰霊碑の前を通り、バス通りに出る。これがまた登り坂だ。終点の辰川バス停まで登って、そこから30分ごとに出るバスに乗って、駅前にたどり着いたか。どうも、昼ご飯にはお好み焼きなど食べたような気がする。

 駅から少し足を伸ばせば、「大和ミュージアム」こと「呉市海事歴史科学館」は近い。のだけれど、それすらもう歩きたくない気分。だが、大和ミュージアムでは第17回企画展「制服にみる海軍の歴史」が催されていた。写真撮影可能。となれば、これはもう赴くしかなく。

 充実しているのかどうなのか、ふだんよりも時間が長い。くたびれているのも、思いっきり遊びまくった子どもの頃に戻ったようだ。そう思うことにしたい。午後はまだ長く、どこか高いところに上ろうという話になる。呉を取り巻く「九つの嶺」を一周、パノラマ写真に収めたかったのだった。『マイマイ新子と千年の魔法』のときは、上原さんが埋立地の煙突の足場に登って、国衙を取り巻く山々をパノラマに撮っていた。これがすごく役に立った、という記憶があってしまう。
 駅前のそごうデパートの屋上は? 屋上ビアガーデン? あ、ダメだ、今はやってないみたい。
 ビルの屋上駐車場は? それ行きましょう!
 しかし、呉も栄えているもので、それよりも高い建物がまだ立ち並び、やはり上手に撮れた感じがしない。

 この朝、すずと周作がデートしたのが、堺橋ではなく、ひとつ川上の小春橋だと気がついていた、という話をした。なので、蔵本通を小春橋へと向かう。
 そのあと、朝日町まで行って、18時15分、ようやく宿へ戻った。
 1度だけ市バスに乗った以外は全部徒歩。2万歩。
 回らなければならない場所と場所が離れすぎていて、車が使えないところも多く、どうも3日間くらいの日程では強行軍にならざるを得ない。
 18時30分、夕食。食事後、明日の交通機関の手配。
 20時38分、消灯、就寝。

●2011年5月19日木曜日(287日目)

 第2回ロケハンの3日目。今日は呉を離れて広島市へ行く。
 6時10分に起きる。あちこち痛い。
 今朝も朝食は6時30分。
 食べ終わったらすぐに出発。
 どうせなら、と呉港からフェリーに乗ってみる。
 呉から宇品へのフェリーは、往時の艦船の呉軍港への入出港ルートを一部通る、ということを知ったのはもう少しあとのことで、この当時はあまりよく分からずに海の上に浮いてしまっている。なので、呉入港時の目標である小麗女島も観察せずに通り過ぎてしまっている。
 昭和20年8月6日、広島の上に立ち上ったであろう「雄大積乱雲」のサイズは割り出してきていた。目の前に見えてきた水平に広がる広島市の上に、かなりリアルなイメージであるはずのきのこ雲を重ねてみて、圧倒された。

 広島では、すずさんの生まれ故郷である江波に行った。
 江波山の上からすずさんが南の広島湾を見渡す場面がある。だが、昭和ヒト桁の頃までは、江波山が突端だったはずなのだが、その後広島工業港計画というのが実行されて、南側の浅瀬はすっかり埋立地に変わった。すずの父・十郎が海苔作りを廃業して工場労働者になってしまったのはそのためだ。おまけに今はその埋立地にマンションがそびえて、視界を遮ってしまっている。

 江波山の上には、柳田邦男氏の記録文学『空白の天気図』の舞台となった広島地方気象台の庁舎が江波山気象館となって残っている。この同じ山の上には陸軍の高射砲もおり、広島市街側から襲来する敵機に対しては、市街地を直接射撃することになりかねなかった、などということをずっと以前にこの本で読んでいた。『天空の城ラピュタ』の頃だったか宮崎駿さんにその話をしたら、豚の高射砲塔とかいってマンガに描かれてしまったこともあったわけで、つまりは「江波」はもう25年越しで刻み込まれた地名だったことになる。
 その江波山気象館の屋上に上って、またしても取り巻く山々のパノラマ写真を撮ろうとしている。とにかく高いところがあれば上りたい、というのがわれわれのロケハンなのだった。

 広島湾や、その向こう側の島影が見えるのはどこなのか。広島に流れる川の洲のひとつである江波でそれが無理なのならば、そのとなりの洲はどうなのだろう。
 となりの観音は広島西飛行場とマリーナになっていて、家が建っていない。おそらく開けているはずだ。
 と、車で向かってみる。
 目論見は当たった。江波とはちょっとずれて見えてはいるが、観音の突端からは一望だった。しかし、あて自体は外れてしまった。晴れてはいても水蒸気が多く、ディテールを失って薄いベタ色に潰れた島影はペッタンコに1枚にへばりついてしまっていた。

 広島郷土資料館へ行って、舟や海苔作りの道具などの実物資料を見て、爆心地近くの中島本町や広島平和公園に行く。
 14時半頃になり広島を離れる。
 あとはひたすら帰るだけ。
 全員、日焼けして真っ赤。歩く足も引きずり気味。
 いろいろ歩いていろいろ見たが、やっと何か足がかりができただけでしかない感じがした。『マイマイ新子』の防府へは3度は訪れたのだから、呉へも広島へもまだまだ足しげく通わなければならないのかもしれなかった。
 それにしても遠い。東京まで帰路の行程、12時間。

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