COLUMN

第137回 笑わず、背を丸める

 完成した『アリーテ姫』の上映をいかにして確保してゆくかというプロデューサー・サイドの営業の戦いの中で、試写を見てもらった小屋主さんから、
 「あの主人公がまるで笑わないことについて、もっと真剣に考え直すべきだ」
 というようなことをいわれた局面もあってしまったらしい。
 実際には、制作の中期頃までは片方で『ちびまる子ちゃん』をやりつつ並行して作っていたわけでもあり、そのひとつ前の時期には『ちびまる子ちゃん』『あずきちゃん』を並べて仕事していたのであり、「観客をいかにくすぐって笑いを得るか」という仕事上のテーマはちゃんと掲げていたのだった。
 けれど、くすっと思わず笑ってしまうというわずかなゆとりすら忍び込む余地も見いだせない鬱の谷間も存在してしまうわけで、『アリーテ姫』の上での表現は、そうした谷間に落ち込んでしまった人に、より切実によりそおうとした結果なのであった。そうした傾向が一般に向けた普遍的なものなのか、と問われれば、たしかにそうでないのかもしれず、しかし自分の実感する世の中は、全体としてその上に住まう人々全員を乗せたまま、鬱勃とした谷間に向けて沈下している姿であるようにも見え、やはり、この作品は「必要」なものだと思い直さざるを得ない。
 『エースコンバット04』で自分が携わった部分について述べれば、その立ち位置は『アリーテ姫』の場合とは少し違うのかもしれないが「はしゃがない」ということでは共通している。
 なんとなれば、自分たちがサイドストーリー的に付け加えている映像は、ゲーム全体から見れば、いわゆるラスボスに徹底して感情移入させるためのものなのであり、「それを倒す」ことをゲームする人に強いるものなのであるのだから。最終局面では、発射ボタンを押すことに快感が伴われず、ある種の切実さをもってそれに代えるということになってしまうのかもしれず、その先に待っているものがあるとしたら、いったいなんなのだろう。
 まったく笑わない主人公を筋として創りとおすということでは、この幕間映像は『アリーテ姫』とやはり共通していた。
 このゲームが完成してしばらくしてから、アメリカの人から、
 「クールなストーリーだった」
 といわれた、という話を伝え聞き、主人公が笑顔なんか見せなくとも結局通じるところはあるのだ、という思いが脳裏をよぎったりした。
 何より、この頃には、自分自身が「切実さ」を必要とする谷間の住人の1人だったのだから、自分が望むものは知っていたはずだった。

 ところで、アメリカのゲームユーザーの話に触れたのだが、大手の作るゲームの仕事というのは、国内市場だけを最初から相手にしていない。こちらは日本語で台詞を書いたりしているのだが、海外マーケット向けの基本として英語版を作らなければならない。いっそ、『エースコンバット04』の幕間映像は最初から全部英語で作ってしまえ、と思ったのだった。
 自分の脚本はもちろん日本語で書いてあるのだが、これをナムコの方で発注してもらって英語訳してもらい、できあがったものを最終版の台本として、英語のネイティブ・スピーカーである役者に演じてもらおうというのである。
 表現としてきわめて重要な要素である「台詞」に関して、自分の書いたものが残らずすべて一度他人の手を通過したものに置き換わってしまう。これには神経を使わなければならなかった。翻訳をチェックさせてほしいと要望を出してOKしてもらうことはできたが、とはいえ生成物が英語なのだから、自分にチェックしきれるのだろうか。
 上がってきた英語訳を見て、なるほどこうなってしまうのはある種の必然なのだなあ、と思った。そもそもシューティング・ゲームは高揚感と快感を得るところに傾斜したものなのだから、ストイックな切実さなどとはそもそも縁遠いところにある。自動的に、ゲームとしてこうあるべきだ、という華々しい英語になって上がってきていた。
 これを自分の手で直す、ということはできないから、適切な言葉で翻訳者の方にこちらの方針を伝えなおさなければならない。
 小洒落た巧みな言い回しも何もかも忘れてもらって、関係代名詞節みたいなものも全部取っ払って、ぶつぶつした短文の羅列である「白い文体」にしてもらわなければならない。
 そういうことを、ナムコのメインスタッフを通じてアメリカにいる翻訳者の方に戻してもらうことを繰り返す。自分の言葉よりも、河野さんたちの説得力があったのに違いなく、ある時点から急にこちらが望むものになった。
 この幕間については、録音の演出も自分ですることができた。演者はただ1人、台詞でありナレーションであるものを発する男性がただ1人いるだけ。日本在住のアメリカ人声優の音声サンプルを何人分かもらって、その中から演じてもらう人を決めた。
 録音は、ナムコ社内の録音ブースを使った。
 マイク前でテストしてもらうと、何かが違う。そんなに朗朗としてもらっては困るのだった。
 少し考えた。考えた末に、マイク前に机と椅子を出して、役者には座ってもらうことにした。通常やっているマイク前に立って演じる体の姿勢を捨ててもらったのである。
 椅子に腰かけ、机の上の台本を見下ろすために彼が背中を丸めたとき、望むべき「切実な」ニュアンスが声の上に生まれた。