●『赤胴鈴之助』の制作現場
そんなアニメ『赤胴鈴之助』ですが、その制作を受けていた東京ムービー(現トムス・エンタテインメント)では、当時、原画や動画のアニメーションの実作業を東映動画を退社してAプロダクションを作った楠部大吉郎の会社・Aプロダクション(現シンエイ動画)に委託しておりました。両社は1968年には大ヒット作『巨人の星』を生み出し、続いて1971年『天才バカボン』を発表して友好的で安定した関係を作ることに成功していたときで、ちょうどその頃にアニメ『赤胴鈴之助』の放送が始まります。
実質的な制作はAプロダクションが主体となって行われています。メインスタッフの監督の吉田茂承、キャラクター・デザイン、作画監修の楠部大吉郎、作画監修補の小田部羊一の3人は、いずれも東映動画出身でアニメーターからキャリアをスタートし、当時はAプロダクションに在籍していました。
当時のアニメ状況としては1963年に虫プロと東映動画で始まったTVアニメ制作から約10年、TVアニメは当時の子供たちに、マンガとともに圧倒的な支持を受ける娯楽に育ちつつありました。初期は大手の会社に所属していた演出やアニメーターも仕事が増大を受け、あるいはよりよい労働条件を求めて自分たちの会社を作り、作画監督、原画、動画をまるまる1本引き受けるという形が一般的になりつつある時代でした。現在では不可能に近いのですが、30分1話を作画監督と原画2〜4名で1ヶ月強の作画期間で作業していました(全52回のエンディングから判断すると、香西隆男作監、今沢哲男原画のスタジオジュニオ班、村田耕一作画監督、才田俊次、塩山紀生原画のオープロ班、木村圭市郎作画監督、山口泰弘原画のネオメディア班、小泉謙三作画監督、湖川滋原画のスタジオコクピット班、河内日出夫作画監督、近藤喜文、本多敏行原画のAプロ班、荒木伸吾作画監督、安部正己(アベ正己)、神宮さとし原画の荒木プロ班、多少の原画の入れ替わりはあるものの1年52本を6班で回している事が分かります。この流れの班編成は続く『荒野の少年イサム』[1963年]と『柔道賛歌』[1964年]に引き継がれていきます)。
アニメが作られ続ける中で、シリーズのTVアニメの方法論が自然発生的に生まれ、アニメーターたちもベテランの人でも30代だった頃です。『赤胴鈴之助』は52本通して作画のクオリティが高く、どの話数もきちんと作られています。スタッフは虫プロや東映動画出身の人が多く、基礎がしっかりできていて、お互いに切磋琢磨していた結果でしょう。時代劇アニメがなかった当時、このシンプルで毎週アクションの見せ場がある作品で、子供の頃に時代劇映画で育ったアニメーターたちが大いに腕を振るったのは間違いないと思います。後にそれぞれ個性を発揮して活躍するアニメーターたちが、赤胴鈴之助ではシンプルなキャラを活き活きと動かしています(例えば「金田アニメ」で知られる金田伊功も6話、16話、23話、33話は動画で、41話、48話は原画でクレジットされています)。TVアニメのスタッフの力が充実してきたときに丁度出会った幸運な作品なのです。
ちなみにどの話数もきっちりエンタテインメントしているのですが、僕が特におススメするのは、河内日出夫作画監督回に近藤喜文が原画で入っている、26話、29話、35話でしょうか。今見ても気持ちいい絵でタイミングも小気味よく上手いです。逆に今では、サラリとこの表現をするのはかえって難しいかもしれません。絵の表現は絵画の世界を見れば分かるように、色々な技術は時代と共に増えたりしますが、その時代の絵描きたちのその時の技術はいつまでたっても古びないので、この作品の中のいいタイミングや面白い動きの表現は今の目で見てもそのまま光り続けて残っているのです。