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第315回 なぜ走るのか? 〜ひゃくえむ。〜

 腹巻猫です。10月19日に東京芸術劇場で開催された東京都交響楽団のコンサート「すぎやまこういちの交響宇宙」を聴きました。演目のメインは「交響曲《イデオン》」と「カンタータ・オルビス」。どちらもアニメ『伝説巨神イデオン』から生まれた管弦楽曲です。アニメ音楽ファンには人気の作品ながら、コンサートで演奏されるのは初めて。すばらしい演奏で感激しました。再演の機会があることを願ってます。


 今回は今年(2025年)9月に公開された劇場アニメ『ひゃくえむ。』の音楽を取り上げたい。作品もよかったし、音楽も印象に残るものだった。
 『ひゃくえむ。』は、『チ。 地球の運動について』で知られる魚豊の同名マンガを原作にした劇場作品である。監督・岩井澤健治、アニメーション制作・ロックンロール・マウンテンのスタッフで映像化された。
 小学6年生のトガシは100メートル走で全国1位になるほど足の速い少年。ある日トガシは、がむしゃらな走り方をする転校生・小宮に出会い、彼に走り方を教え始める。トガシの指導で小宮の走りは見る見る上達し、トガシをまかすほどになっていった。が、突然小宮はふたたび転校してしまう。
 それから数年後。走ることを続けていた高校生のトガシは、インターハイで小宮と再会し、100メートル走の決勝で対決することになる。
 トガシと小宮の2人を中心に、短距離走に挑むアスリートの栄光と挫折や苦悩を描いた物語である。多くのスポーツものが弱点を克服することや、仲間やライバルとの友情を描くことに注力しているのに対し、本作は「なぜ走るのか?」という根源的な問いをテーマにしているのが特徴だ。
 トガシが挑む100メートル走は10秒程度で勝負がついてしまう。だから、ドラマはそこに至るまでの努力や心の動きに焦点を当てたものになる。余計な要素を削り落とし、走ることにすべてを集約していく構成と演出。さまざまな技法を駆使して「走り」を表現する映像と音響。それが本作の見どころであり、聴きどころになっている。

 音楽は、TVアニメ『呪術廻戦』『Dr. STONE』、TVドラマ「おむすび」などの音楽を手がける堤博明が担当した。
 本作の音楽には、ふたつの興味深い点がある。ひとつは本編の重要な要素である「走り」を音楽で表現する工夫。もうひとつは、サウンドトラック・アルバムの構成のユニークさである。
 まず「走り」の表現について。劇中の「走り」に関連した音楽は、基本的にギターサウンドをベースにした軽快な曲調で作られている。ギターを中心にしたのは、堤自身がギタリストということもあるだろうし、「走り」を表現するのに適した楽器という理由もあるだろう。ギターのカッティングによって疾走感やスピード感を出すのは、西部劇音楽などでもよくある、劇伴ではおなじみの手法だ。それだけにサウンドが一本調子になりそうだが、本作ではシーンによってテンポやリズムや曲の構成を変え、「走る」場面や目的によって緻密に曲想を変化させている。さまざまな「走り」の音楽表現が聴けるのが、本作の魅力のひとつである。
 次にサウンドトラック・アルバムの構成であるが、その話をする前に、まずアルバムの概要を紹介しよう。
 本作のサウンドトラック・アルバムは「映画『ひゃくえむ。』オリジナルサウンドトラック」のタイトルで、2025年9月17日にポニーキャニオンからリリースされた。CDは2枚組。Official髭男dismによる主題歌「らしさ」は収録されていない。
 収録曲は以下のとおり。

  ディスク1
  1. 100 meters
  2. Training Days
  3. 到達点
  4. Under Pressure
  5. ファーストサイン
  6. 幻影走
  7. 今から行こう
  8. Under Pressure Again
  9. 新緑のメモリー
  10. After School
  11. 8継(鰯二ver.)
  12. 始まりの予感
  13. イップス
  14. Starts to Rain
  15. Trial and Error
  16. 100 meters Part2
  17. After Some Time
  18. 8継(トガシver.)
  19. ザ・チャレンジャー
  20. 祝福のうた

  ディスク2
  1. The Start of 100 meters
  2. 100 meters(Extra ver.)
  3. Training Days(Extra ver.)
  4. 幻影走(Extra ver.)
  5. 新緑のメモリー(Extra ver.)
  6. 100 meters(Demo ver.)
  7. 8継(鰯二ver.)(Demo ver.)
  8. ザ・チャレンジャー(Demo ver.)
  9. Trial and Error(Demo ver.)
  10. 100 meters(For Workout)
  11. Starts to Rain(For Walking)
  12. 祝福のうた(For Relaxing)

 ディスク1は劇中使用曲を物語に沿って収録したオーソドックスなサウンドトラック。ディスク2は、ディスク1の楽曲をリアレンジしたエキストラ・バージョンや制作初期に作られたデモ・バージョンなどを収めたインスト・アルバムになっている。1枚目と2枚目でまったくコンセプトが異なるわけだ。こういう構成の2枚組は、例がまったくないとは言えないが、かなり珍しいと思う。
 まずはディスク1から「走り」をテーマにした曲を中心に紹介しよう。なお、CDの解説書には堤博明による全曲解説が掲載されている。以下の曲紹介は、その解説を参考にさせていただいた。
 1曲目の「100 meters」は本作のメインテーマ。キャッチーで耳に残るようなメインテーマがほしいという岩井澤監督の要望に応えて、堤博明が最初に作った曲である。劇中でも最初に流れる音楽だ。堤博明は気合を入れて作曲に取りかかったものの、なかなか納得のいくフレーズが浮かばず、苦心したとふり返っている。あるとき、「『ひゃくえむ。』なんだから実際に走らなければダメだ」と思い立ち、夜の公園を走り出してから曲想をつかんだそうだ。本作の音楽作りの核心に触れるような、いい話だ。
 メインテーマのリズムには7拍子が取り入れられている。耳慣れた4拍子や8拍子のリズムと異なる7拍子には、前のめりになるような勢いがあり、それが一心不乱に走るアスリートの体の動きや心の中を想像させる。
 2曲目の「Training Days」は、小学生のトガシが転校生の小宮に走り方を教えるシーンの曲。ここは緊張感を必要とするシーンではないので、音楽も心地よく軽やかなギターサウンドに仕上げられている。
 次の「ファーストサイン」は、小学生のトガシと小宮が鉄橋の下の道で競争する場面の曲。鉄橋を走る電車の実際の走行音を録音し、リズムに組み込んでいる。現実音と音楽が一体になったミュージックコンクレート的な面白さを感じる曲だ。メインテーマ「100 meters」のモチーフが使用されている点もポイントである。堤の解説によれば、物語の転換点となる重要なシーンであるために、メインテーマのモチーフを使用したそうだ。
 トラック11の「8継(鰯二ver.)」は、高校生になったトガシが陸上部の仲間と800メートル・リレー走に挑むのシーンの曲。リレー走の展開に合わせ、前半・中盤・後半でリズムパターンを変化させる工夫が、映像とみごとなマッチングを見せていた。
 トラック14「Starts to Rain」は、トガシと小宮がインターハイで対決する場面の直前に流れる曲。焦燥感をあおる低音のギターのフレーズがくり返される中、重いリズムとブルージーなギターのメロディが重なって、トガシたちの緊張を表現する。終盤はスタートに向けて高揚する心情をブラスセクションが盛り上げる。ディスク1収録曲の中でも、もっとも演奏時間の長い(4分近い)、ドラマチックな曲である。
 この曲に続く「走り」のシーンには音楽がついていない。映像と効果音だけで見せるほうが効果的だと監督は判断したのだろう。そこに至るまでの音楽の役割は十分に果たされている。
 余談だが、本作でアスリートが走るシーンの効果音(足音)のほとんどは、足にマイクを付け、実際にグラウンドを走って録音した音と、同時にガンマイクでも録った音を組み合わせて作っているそうだ。音にも注意して観てほしい作品である。  トラック16「100 meters Part2」はメインテーマの変奏曲。社会人アスリートとなり、不調に悩んでいたトガシが、先輩の海棠の話を聞いたことで気持ちを切り替え、競技大会で走る場面に流れている。メインテーマがふたたび流れることで、トガシの再出発を印象づける演出である。
 トガシが日本陸上の予選で走る場面の「8継(トガシver.)」(トラック18)も同様で、こちらは先に紹介した「8継(鰯二ver.)」の変奏曲。高校時代のリレー競技の快走と現在のトガシの走りとが重なり、トガシの復活を感じさせる。同じモチーフを使うことで過去と現在を結び付け、セリフや映像だけでは伝えきれない情感を表現する工夫である。
 本編最後に流れる劇伴は、トラック20の「祝福のうた」。日本陸上大会の決勝戦に臨むトガシたちの場面につけられた曲だ。
「Starts to Rain」と同じように、スタート前の緊張した場面に流れるのだが、曲調は「Starts to Rain」とまったく違う。こちらは、女声ヴォーカリーズとストリングスをともなった、抒情的な曲になっている。この場面では、もはや勝敗のゆくえは重要ではない、と音楽が語っている。これは、走ることに人生を賭けたアスリートたちへの、タイトルどおり「祝福」の音楽なのだろう。

 ここまで紹介してきたように、本作ではシーンごとに考え抜かれた音楽演出が行われている。モチーフの選択、アレンジ、サウンドの作り込みなど、映画音楽ならではの緻密な音楽作りが、作品の感動を支えている。観ているときには気づきにくいが、サウンドトラック・アルバムでは、その工夫をあらためて知り、作品を味わい直す楽しみがある。
 では、アルバムのディスク2はどんな意味があるのか?
 ポニーキャニオンの商品ページによれば、ディスク2は「劇伴音楽を起点にインスト・アルバムとしてのクオリティを追求した至極の一枚」なのだそうだ。ディスク1の「Soundtrack」に対して、ディスク2は「Extended Edition(拡張版)」と題されている。
 1曲目の「The Start of 100 meters」は本編の前に制作されたパイロット版のための曲。シンプルなサウンドと構成による、本編への助走のような曲である。
 2曲目の「100 meters(Extra ver.)」はメインテーマの特別版。メインテーマよりも演奏時間を長くし、起伏に富んだ構成にアレンジし直された楽曲だ。続く「Training Days(Extra ver.)」「幻影走(Extra ver.)」なども同様で、場面に合わせて作られた劇伴音楽を楽曲単体で楽しめるようにリメイクしたものと考えればよいだろう。
 映画音楽の世界では、純粋なサウンドトラック(劇中使用音源)とは別に、アルバム用の別録音を用意して商品化する例が古くからある。アニメでも、『さらば宇宙戦艦ヤマト』(1978)の公開当時に発売された音楽集が、アルバム用に別録音された楽曲を収録したものだった。『ひゃくえむ。』の「Extra ver.」は、その伝統を受け継いだ試みと言える。
 トラック6〜9の4曲は、音楽制作の初期に作られたデモ・バージョン。メインテーマ候補だった曲も含まれている。音楽作りがどのように進められたかを知ることができる興味深いトラックだ。劇伴の研究や作曲を志す人の参考にもなりそうである。
 トラック10〜12は、それぞれ「For Workout」「For Walking」「For Relaxing」と題されている。音楽を聴きながら運動する実用的なシーンを想定した別バージョンである。これは、今まであまりなかった試みではないだろうか。単なる鑑賞用ではなく、体を動かしながら聴いてほしいという思いを込めたアレンジなのだ。本作らしいユニークな試みである。「なぜ走るのか?」、その問いの答えを、聴く人それぞれが走りながら考えてほしいという願いがこもっているのかもしれない。
 総合すると、ディスク2は、従来ならボーナストラックに収録されるような音源を集めたスペシャルディスクと呼べる内容である。実はディスク1とディスク2を合わせても演奏時間は60分くらいなので、CD1枚に入ってしまう。しかし、商品の構成としては2枚に分けたかったのだろう。物理メディアだからこそ楽しめる趣向であるし、解説書も含めて、CDで買う価値があると思わせてくれる内容だ。
 CDが売れなくなったと言われて久しいが、こういう、CDならではの付加価値を付けた作り方をする作品が、ほかにもあってほしいなと思う。懐古趣味ではなく、サントラの可能性を広げる試みとして。

映画『ひゃくえむ。』オリジナルサウンドトラック
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