●「この人に話を聞きたい」は「アニメージュ」(徳間書店)に連載されているインタビュー企画です。
このページで再録したのは、1999年7月号掲載の第九回 原恵一のテキストです。
僕が、彼に最初に取材したのは13年前。当時の彼は『ドラえもん』で傑作、異色作を生む若手演出家だった。その後、傑作『エスパー魔美』を手がけ、現在、『クレヨンしんちゃん』のチーフディレクターを務めている。「日常性」にこだわり、常に精緻でリアルな演出を見せてくれる彼。13年前からずっと、僕にとって「気になる演出家」なのである。
PROFILE
原恵一(Hirata Toshio)
1959年(昭和34年)7月24日生まれ。群馬県出身。血液型B型。東京デザイナー学院アニメーション科卒業、CM制作会社を経て、シンエイ動画入社。現在に至る。代表作は『エスパー魔美』『21エモン』(チーフディレクター)、1996年秋以降は『クレヨンしんちゃん』の2代目チーフディレクターを務めている。趣味は、映画、温泉。ちなみに独身。
取材日/1999年5月12日 | 取材場所/東京・シンエイ動画 | 取材・構成/小黒祐一郎
―― ご無沙汰していました。13年ぶりですね。前回の取材は、確か「ルーキー登場」というタイトルのコラムでの取材でした。(注1)
原 (笑)すっかりオヤジになりまして。
―― いえいえ。原さんの外見が全然変わっていないので驚きました。
原 あんまり苦労してないからかな。でも、だんだん不安になってきますよね。人並みに老けないと(笑)。
―― 苦労していないというのは、同じ業界の他の人に比べて、という事ですか。
原 そうだと思いますね。TVシリーズの『クレヨンしんちゃん』は安定しちゃっていますから。あんまり普段の仕事に関しては苦労がないんです。申し訳ないなあと思います。
―― 今までの原さんお作品って基本的には、『ドラえもん』、『エスパー魔美』、『21エモン』、『クレヨンしんちゃん』、映画の『ドラミちゃん』で、ほぼ全部ですか。(注2)
原 ほぼ、そうですね。
―― シンプルな作品歴ですね。
原 履歴書を書くのも簡単ですね。
―― 作品リストを作ったら、同年輩の人の3分の1くらいの量だったりして(笑)
原 でしょうね。みんな、いっぱいやっているからなあ。僕は、基本的にものぐさなんだと思うんです。あれがやりたいとかこれがやりたいとかいう気持ちが、そんなにないんですよ。ずっと今の会社に所属してるからやってこれたけど、フリーでこんなに呑気にしてたら、不安になっちゃってどうしようもないでしょうね。
―― 不安というか、食えなくなっちゃうかもしれないですよ。
原 食えないですよね(笑)。
―― 改めて昔の話から聞かせてください。この仕事を志したきっかけは何ですか。
原 高校生の時だったかな、本屋で、専門学校の案内が載っている雑誌を立ち読みしていたら、東京デザイナー学院が載っていて、「アニメーションを教える学校があるのか。それも面白いなあ」と思ってですね。その専門学校へ行って、現在に至るという感じなんですよ。
―― (笑)。アニメは特にお好きだったんですか。
原 嫌いじゃなかったですね。他の人に比べりゃ、観ていた方なんだろうけど。「あの作品のあのキャラがどうの」というような見方は全然していなくて。周りにもそんな人は誰もいなかったから。専門学校へ来たら、そういう人がいてビックリしましたけどね。
―― 『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』の世代ですよね。
原 そうですね。やっぱり『ヤマト』は一生懸命見てたんですよ。面白くて。
―― あ、そうなんですか。
原 でも、あれは、アニメ好きじゃなくても観てましたよね、割とね。
―― あの頃は、そうでしたね。後のアニメファンとは、ちょっとニュアンスが違いますね。
原 中学生だったと思うんだけど、割と話題でしたからね。
―― 本放送でご覧になっていたんですか。
原 うん、本放送です。あれは日曜日の7時半ですか。だから、名作劇場と同じ時間でね。
―― 『アルプスの少女ハイジ』の裏でしたね。
原 妹がいるんですけど、妹は『ハイジ』が観たくて、僕は『ヤマト』が観たい。1週交代で観るという約束にして。でも、『ヤマト』って連続ものだから、次回に話を引っ張るじゃないですか。「ああ、来週も観たい!」と思って、妹に「来週も観るから、その次は2週連続で観ていいよ」とかって言って。だけど、『ハイジ』を観ていいと約束した週になっても「やっぱり今週も見せてくれ」とかね。
―― 貸しが溜まっていくんですね。
原 そう。どんどん溜まっていく(笑)。専門学校に入った頃に『ガンダム』が始まったんです、確か。
―― 同級生とかは『ガンダム』で盛り上がって。
原 僕も結構、観ましたよ。「面白いなあ」と思って。新鮮でしたよね。「あ、アニメでこんな、ドラマみたいなものが作れるんだ」と。
―― 卒業してすぐ、シンエイ動画ですか。
原 いえいえ。その頃はね、アニメの業界って職がほとんどなかったんですよ。悲惨なくらい、どこも人を採らなかった。それで『ど根性ガエル』とかが好きだったから、東京ムービーに入れてもらおうと思って。当時、東京ムービーが見学コースというのをやっていたんですよ。それに行ってですね、『ルパン三世』の第2シリーズをやっているスタッフルームで「東京ムービーに入りたいんですけど、どうすればいいんですか」と、監督の御厨恭輔さんに聞いたんです。
―― 大胆ですね。それは卒業してからなんですよね。
原 卒業制作とかが大変だったから、就職活動が全然できなくて。要領のいいヤツは学生の間に顔をつないでね、スタジオに潜り込んじゃっていたんです。「マズいなあ、俺も何かしなきゃ」と思ってね。それでそういう行動をとったんでしょうね。今、考えるとなんてあんな事やったんだろうと思うけど。御厨さんに「やる気があるんだったら、絵コンテ描いてきて見せてみなよ」と言われて、必死になってコンテを描いてですね、持って行ったんですよ。そうしたら、「東京ムービーはダメかもしれないけど、何かあったら教えてやるから」って言われて。当時はアパート住まいで、電話なんかなかったから住所を教えたんです。しばらくしてから、御厨さんから往復ハガキが来て(笑)。
―― (笑)。
原 で、「偶然知り合いが人を探している。君がよければ紹介する。でも、アニメじゃないんだ」と。それはTVCMとか企業のPR映画を作っている会社だったんですよね。でも、働かなきゃいけないなと思っていたから、アニメじゃなくてもいいかと思って、そこに入って。CMの現場でこき使われてですね。1年半ぐらいしたら、社長から「君は向いてないよ」と言われて(笑)。で、その社長さんが元々アニメをやっていた人なんですよ。それで、シンエイ動画を紹介してくれたんです。それからずっと。
―― 在籍してるんですか。
原 ええ。なんだか、ふとした事でどんどん流れていきますね、人生は(笑)。
―― シンエイ動画は演出志望で入ったんですか。
原 ええ、一応。最初は『怪物くん』で制作進行だったんですよ。半年ぐらいかな。その後が、『フクちゃん』だったと思うけど。『フクちゃん』の途中で、演出助手として『ドラえもん』へ行ったのかな。ちょっと、その辺はもう記憶がボヤけてるんですけど。
―― 『ドラえもん』ではいつぐらいで演出になったんですか。
原 その時に、もとひら了さんという方がチーフディレクターだったんですが、僕が演助になって、すぐにお辞めになったんですよ。それで芝山努さんが監督になって、その下に演出を二人置くシステムになったんですね。
―― じゃあ、『ドラえもん』に移られて早々に演出になった。
原 うん。そうだったと思います。コンテもすぐに描き始めちゃったんじゃなかったかな。
―― 初コンテは『ドラえもん』なんですね。
原 『ドラえもん』ですよ。
―― 初コンテって覚えてます?
原 覚えてますよ、勿論。「悪魔のイジワール」という話です。(注3)
―― それはどういう話なんですか。
原 飲み薬でそれを飲むと悪党になってしまうというような話だった。今、思い出すと、恥ずかしい出来ですけど。
―― この時期の原さんは『ドラえもん』で問題作、異色作を次々と連発して。
原 うん。……だったんですかねえ。あの頃、リピートの長さが変わっていたんですよね。(注4)僕らがやってた時にリピートの尺が短くなっていって、新作の尺が長くなっていったんですよ。12分ぐらいあったと思うんですよね。だから、結構好きな事が入れられたんですよ。それもありがたかったんですよね。
―― かなりメリハリのある内容で。
原 無我夢中でしたよね、あの頃は。
―― 「地球下車マシン」とか凄かったですよね。SF的でしたよ、画面作りが。(注5)
原 ありがとうございます。
―― あれ、重力がなくなって地球から落ちちゃうんでしたっけ?
原 そうそう。元々、僕は藤子・F・不二雄先生の作品が大好きだったんで。藤子さんが観てどう思われたか知らないですけど、僕なりに「先生は、もっと、こういう事がやりかったに違いない」とか勝手に思い込んで、どんどん膨らませていったんです。
―― SFだという事は、ずいぶん意識しました?
原 ……かもしれないですね。本当は小さい子供に向けた、優しいものが求められていたんだろうけど、それからちょっと外れていたものを作っていたのかもしれないですね、僕らは。
―― リアルっぽい事も、おやりになってるんですよね。
原 どっちかというと、そういうものの方に興味があったので。まあ、外枠は『ドラえもん』だけど、変なところにこだわってみようとか。そういういやらしい試みをしていたと思うんですよ(笑)。
―― 原さんの回で、乾いている屋根が映っていてピトンピトンと雨が降ってくるという描写があって、屋根が濡れた感じが凄くよくって驚いた覚えがあります。
原 あれはダブラシでやったんですよ。
―― 覚えてます?
原 覚えてます。多分ね「強いイシ」ってやつだったと思いますよ。(注6)
―― 「強いイシ」ですか。もうビンビンの時期の作品ですよね。
原 ビンビン(笑)。
―― 原さんの『ドラえもん』は「あっ、『ドラえもん』でこのカメラワークは初めて観たな」とか「この表現は初めてだ」なんて、発見が多くて楽しかったですよ。
―― 今、思えば、ですか。
原 でも、いやらしいですよね。「自分さえよければ」という感じで。
―― 今、思えば、ですか。
原 うん。今、思えば。
―― 『ドラえもん』で印象に残っているエピソードってありますか。
原 そうですね。結構、真面目なやつで、「ハリーのしっぽ」というやつ。(注7)
―― 彗星のやつ?
原 そうそう。あれがね、凄い夢中になってやったなあ。コンテが定尺の倍くらいになっちゃったんですよ。「バカか、お前は!」って怒られて。枝葉がメチャメチャ膨らんじゃって。で、またそれを刈り込んで、ようやく尺に収めて。
―― 最初のコンテだと24分ぐらいあったんですね。
原 うん。もうびっくりしちゃうくらいあったんですよ。もう十何年も演出やってますけど、コンテ尺は、未だに全然合わないんですよ。いつも長くなっちゃって。全然、読めなくてね。
―― 『ドラえもん』時代に何か他に印象的だった事とかあります?
原 一度、ある原画の人とかなりぶつかった事があって。「あなたのは『ドラえもん』じゃない。やりたくない」って、面と向かって言われた事がありますね。
―― その方は、ベテランの方だったんですね。
原 うん。かなりベテランの人でした。作監の中村(英一)さんが、まあまあと言って間に入ってくれて。こっちはもうこうなってる(自分の視界が狭くなってる)から、「これはこうなんだから、こうしてください」と言って。……うん、今は反省してますけど(笑)もう、ほとんど今はないですよ、そういうのは。
―― その時は、自分が思った通りにしよう、という気持ちが強かった?
原 そうですね。それでちょっと感情的になって、その人に出さなくてもいいリテイクまで出したりしていたかもしれないですね。嫌な思い出なんですけど。それは覚えていますね。
―― いい思い出はないんですか。
原 (笑)苦しかった事の方が多いですよ。絵コンテを描けるのは確かに嬉しい事だけど、何か変わったものを作りたいと思っているから、始終、絵コンテの事しか考えていないんですよ。コンテ中毒というかね。自分なりに「あ、そこそこ上手くできたな」とか思ったりするのが楽しい事で。後はずっと「どうしよう、どうしよう」と思っていた事しか覚えていないですね。
―― その後、『ドラえもん』を離れて『エスパー魔美』でチーフディレクターになられるわけですが。
原 『魔美』はね、凄く大事にしたい作品ですね。
―― 原作は前からお読みになってたんですか。
原 読んでましたよ。で、「まさか、これができるとは」と思うくらい嬉しかったですね。27、8 歳だったと思うんですけど。シンエイ動画としても、『魔美』は大事に作りたい作品だったようなんですけど、「そんなのを俺に任せて大丈夫かい?」という感じで(笑)。
―― ファン側でも「ついにアニメ化か!」という感じでしたよね。
原 『魔美』をやると聞いていたので「ちょっと関われればいいな」くらいには思っていたんですよ。そうしたら「君にチーフディレクターをやってもらおうかと思っているんだ」と言われて、ギョギョっと。でも、まだ若かったから「よーし、やるぞ!」って、すぐにやる気が出てきたんだけど。みんなが思い入れをしている原作だったから、放映が始まったら、すぐにあっちこっちから叩かれて(笑)。
―― あ、そうなんですか!? 「『魔美』はこんなんじゃない」とか言われたんですか。
原 うん。そういう作品だったんですよ。だから、始まってすぐに「こら、タマらんわ」という時期がありました。何とか乗り切ったんですけど。
―― あの当時の藤子アニメとしては画期的に渋かったですよね。画面の作りも。
原 僕は基本的に変わってないと思いますよ。『ドラえもん』やっても、『しんちゃん』をやっても、画作りは意識して変えていなくて。とにかく同じようなものしか作れないんですよ、僕は。キャラクターの画が違ったりね、美術の画の雰囲気が違ったりしてるけど、絵コンテを見るとほとんど同じような事をやってるんですよ。
―― キャラクターの色使いとか、背景の感じとかに関してはどうですか。
原 ああ、あの辺もですね、特別注文したつもりはないけど、大体、思った通りになっていたので「よかったよかった」と思いましたけどね。
―― 全体にちょっとリアルめで。
原 ええ、そうそう。ちょっとリアルめにやりたかったから。美術もちょっと淡い色使いのものを描いてくれていたので。『魔美』はいろいろな試みができたんじゃなかったかなあ。あの頃は一所懸命働いていたんですよ(笑)。
―― 各話の脚本に関しては、いかがでした。
原 あの頃は、僕はシナリオがキチンと読めていなかった頃でしょうね。ま、今も読めてるかどうか分からないんだけど。何か、本当に枝葉の部分にしか目が行かないような感じで。「こうじゃない方がいい」というのは分かるんだけど、どうしたらいいのか分からないとかね。『魔美』はシナリオ会議がメチャメチャ長かったですよ。
―― そうでしょうね。
原 大変でしたね。昼過ぎから夜までずっと喫茶店にいて、結局、1本もOKにならなかったりとかも。
―― シリーズ中盤を過ぎると凄い話が続出しましたよね。例えばゲストキャラが、駅のホームで上り電車が来るか、下り電車が来るかで思いつめるという話があったじゃないですか。(注8)。あれなんか、どうしてそういう話をアニメでやろうと思うかな、と不思議に思いました。
原 (笑)。アレはね、新聞の投書か何かでそういうのがあったらしいんですよ。いつもこっち側のホームに早く電車が来ればいいなと思ってるんだけど、なぜか反対側が先に来る。で、調べたら時刻表がそうなっていた、というのをライターさんが読んでね、「これを作っちゃえ」と言って作った話なんです。後半になると段々、オリジナルの話が多くなってきて……。
―― どんどん、魔美と関係のない話が。
原 そうそう(笑)。主人公が活躍しなくなっちゃってね。
―― 「アニメのお話は、普通こうだろ」と思って観てると、却って足下をすくわれるような話が続出してですね。
原 申し訳ない。
―― いえいえ。脚本の桶谷(顕)さんは最初は文芸だったんでしたっけ。途中からシリーズ構成になるんですか。
原 最初からシリーズ構成だったかなあ。ちょっとその辺は覚えてないんですけど、とにかく、途中から凄く頼りになるライターさんになったんですよね。
―― キメの話は桶谷さんみたいな。
原 うん。そういう風になってた。シリアスな話とか。「そうそう、こういうのがやりたかったんだよ」というのを結構、書いてくれましたからね。
―― 具体的には?
原 やっぱり、「たんぽぽのコーヒー」とかね。(注9)
―― あの話は御自身で演出もやられましたよね。
原 あれは結構ね、夢中になってやりましたよ。『魔美』はドラマらしい事ができたのも、嬉しかったですね。
―― しかも、ゴールデンタイムで。
原 ねえ。あんな地味なの(笑)。
―― 『魔美』は80年代の後半の作品なんですけど、気分的にはもう7、8年前というか。ちょっと古い青春ドラマみたいでしたよね。
原 NHKの少年ドラマシリーズみたいなね。
―― 後にも先にも『エスパー魔美』みたいなアニメはないですからね。
原 あれはやれてよかったシリーズだと思います、本当に。
―― 大事にしたいと。
原 そうですね。大事にして、何かあったらあそこに戻って(笑)、反省しながらやっていきたいですね。
―― 悩んだ時に『魔美』を観るとか。
原 「お前、こんなに真面目にやっていたのに、今はどうしたんだ?」と、自分に言ったりね(笑)。
―― アニメの『魔美』のベースになっているのは、淡々とした日常ですよね。「平穏な日常っていうのはなんと価値があるものか」という気分が、作品のベースにあったような気がしますね。
原 僕は基本的に日常の話が好きなんですよ。だからどうしてもやっぱり、地味なものが多くなっちゃうんですよね。
―― その「日常」というのは別に、アニメスタジオで徹夜して絵コンテ描く「日常」じゃなくて(笑)。お父さんとお母さんがいて、子供がいて、焼き魚を食べたりとか、という「日常」ですよね。
原 勿論、そうです。僕らが考える「普通の人達の普通の日常」です。
―― それは憧れなんですか。
原 憧れ……があるんでしょうね、きっとね。確かに僕らの生活サイクルは、真っ当な人生を送っているとは言えないです(笑)。(注10)
―― 話がズレちゃいますけど、『アルプスの少女ハイジ』で黒パンに溶かしたチーズを乗せて食べるとか、山羊の乳を飲んだりするとか、そういう生活描写がありますよね。あれは「こういう生活こそが豊かな生活なのだ」という主張が作品の根幹にあって、やっているわけですよね。それに通じているのかもしれない。「普通の日常をアニメで描く事」で、その価値を提示するというか。
原 僕にとってはそういった描写が、他の人にとってのアクションシーンや、お色気シーンの代わりで、そういうのを作る事に快感を覚えていたのかもしれないですね。『魔美』だけじゃなくて、藤子Fさんの描く家族というのは、東京の郊外に家を持っていて、食事はみんな一緒でね。ああいうのに憧れがあったのかもしれないですね。僕の実家は商売をやっていて、家族揃って飯食った記憶ってほとんどないんですよ。親父は朝早く出かけて、夜遅く帰ってくるような仕事だったし。「チャコとケンちゃん」とか「ケーキ屋ケンちゃん」とか、あの辺のドラマの中の生活というものに、憧れがあったのかもしれないですね。(注11)
―― 僕なんかも、思い浮かべる「家族の食卓」って『サザエさん』の中のものなんですよね。今時、お父さんがわざわざ着物に着替えて、ご飯食べるわけないと思うんだけど。
原 『おもひでぽろぽろ』の世界みたいな。
―― 「ファンタジーとしての日常」を描いてるんですね。
原 多分、そうですね。そういうのに縁がなかったから。
―― 『魔美』が終わった後って、原さんの名前をしばらく見なくなりますが。
原 東南アジアに一人で旅行に行ってました。
―― どのぐらいの期間だったんですか。
原 7ヶ月くらいでしたかね。
―― それは『魔美』が終わって休むという事だったんですか。
原 いつか行きたいと思ってたんですよ。普段は旅をするといっても、年末年始に1週間くらいがせいぜいじゃないですか。実はね、『魔美』が始まった頃に、あちこちから叩かれまくって「もう逃げ出しちゃおうかな」と思って、その時に計画したんですよ。
――でも、さすがに放映中には行く事ができず。
原 何とか自分をなだめつつ。一応、終わりまでやって。終わるのが決まった時に「ちょっと、休ませてもらいたいんだけど」と言ったら、会社の方も許してくれたので。
―― 最初から7ヶ月の予定だったんですか。
原 本当は1年間休もうと思ってんたんですよ。でもなんかね、一人でリュック担いで旅行してるとくたびれるんですよね(笑)。
―― その間、ずっと移動していたんですか。
原 気に入ったらしばらくいて、飽きたら別のところへ移動して、とかね。本当は東南アジア以外も行こうと思ってたんですけど、結局、タイ、マレーシア、インドネシア、シンガポールを行ったり来たりしていただけですね。
―― 『魔美』に続いて、『チンプイ』のチーフディレクターをやるという話はなかったんですか。
原 それはね、あったんですよ。でも、旅行に行くのは今しかないと思って。あの旅行は行ってよかったと思いますよ。僕は、旅行が大好きなんでね。1年に1ヶ月くらいは休みが取れるような世の中になって欲しいなあ、と思いますね。
―― でも、それはアニメをやってると無理でしょうね。
原 うん。多分、無理なんだろうね。
―― 帰国後、『21エモン』でTVのチーフディレクターですね。
原 『21エモン』は準備期間が短くて、大変でしたね。(セル画の)枚数も削ってですね。あれが初めてですね、枚数に制限が入ったのは。
―― それは制作スケジュール的な問題だったんですか。
原 ええ。あれでSFの連続ものというのは大変だなあ、と分かりました。このくらいのものでもこんなに大変なんだから、サンライズとかでやるようなハードなヤツだったら、どんなに大変だろうかと。
―― ご自分の中でこういうところが狙いだったとか、というのはあります?
原 『魔美』とは違って、とにかくテンポを出そうと意識してやっていたとは思うんですよ。でも、元々、僕の中には足りないというか……。
―― パンチがない?
原 (笑)パンチがない、ですね。淡々としている方が向いているみたいで。
―― 『21エモン』が終わって『クレヨンしんちゃん』が始まり、各話演出として参加するわけですね。
原 『しんちゃん』が始まった時、スタッフの誰も、こんなに長く続くと思っていなかったと思いますよ。アニメーターさんが面白がって、あれこれやってくれてたのが大きかったんじゃないかなあ。最初は、動かないアニメを作るというのが目標だったんです。
―― えっ!? そうなんですか。それは全体の総意として。
原 うん。チーフディレクターの本郷(みつる)さんも、そのつもりだったはずです。『しんちゃん』は画も簡単、動きも少なく、スケジュールも楽に、という感じで始めたんだと思うんですよ。でも、段々原画の人達が暴走し始めて、演出もそうかな。いつの間にか変わっていってしまったんですね。
―― TVでも、動く時は動きまくりですもんね。
原 ええ、そうですね。その辺は本当に贅沢にやっています。
―― 原さん自身も、最初の頃はあんまりノレてなかったとか?
原 う~ん。そうですね。平面的な画作りという約束だったから。でも、段々我慢できなくなって。徐々に徐々に……。
―― 自分の中で『しんちゃん』に関する印象が変わった話はあるんですか。
原 「これで開眼したぜ」とか、そういうのはないんですよ。何話だったか忘れちゃったけど、台風が来る話があって、それが「『しんちゃん』も面白いかな」と思えた話数でしたね。(注12)
―― 映画版はどうなんですか。御自身の中だと。
原 『しんちゃん』の映画は凄く楽しみながらやってきています。
―― 映画は最新作が7作目ですが、最初の4本は本郷さんが監督で、原さんは演出、本郷さんと共同で絵コンテでしたよね。実際の仕事の分担はどのようなかたちで。
原 原作者の臼井(儀人)さんのメモを基に、本郷さんがプロットを起こして、一緒にコンテに入るというやり方でした。
―― 同時進行で、原さんが前半を描いて、本郷さんが後半を描いているみたいな。
原 うん、そうそう。1本目は前半後半ではっきり分けちゃったんですけどね。2本目以降は結構、入り乱れてますよ。
―― 1本目の『アクション仮面VSハイグレ魔王』では、前半は本当に淡々と日常を描写していて。
原 ええ。あの辺は僕がやったんです。
―― 後半の本郷さんのパートはアクションシーン山盛り。分かりやすい構成ですよね。『雲黒斎』はどうなんですか。
原 時代劇シーンは、ほぼ僕がやりました。時代劇という事もあって、相当入れ込んでやってましたね。
―― 時代劇がお好きなんですね。
原 うん、そうですね。メチャメチャ好きな人に比べれば、僕はそんなに観てる方じゃないと思うんだけど、一度やってみたかった。原画にもそういう人がいてね、助かったんですよ。模擬刀を横に置いて、コンテやってましたよ(笑)。
―― 自分で刀を持って、ポーズをとりながら。
原 うん。分からなくなると誰かに相手してもらって、「こう来てこう来たら、次はこうか」とかね。チャンバラはかなり燃えてましたね。また機会があったら、やりたいですね(笑)。
―― 5作目以降は、本郷さんが抜けて、原さんが監督としておやりになっているわけですが。
原 そうですね、割と好き勝手に遊ばせてもらっていますね。「今度はこんなのにしよう」という上からの声みたいなものが、ほとんどないんですよ。僕みたいなタイプからすると、誰かから「今度はこんなの」と言われて、やった方がいいのかもしれないけれど。
―― 最新作の『温泉わくわく大決戦』ですが。
原 今回、個人的に一番燃えたのは丹波哲郎ですよ。これはもう大興奮でしたね。
―― 今回は随分と「邦画」でしたよね。
原 それは思いました。「俺は日本映画をやっているんだよなあ」と。丹波さんに出演交渉をした時に、丹波さんが「その映画に自分が必要なら出てもいい」と言ってくれたらしいんです。その話を聞いた時にね、ちょっと感動したんですよ。「映画? ……映画なんだよ! さすが映画人、言う事が違うなあ」って。「『しんちゃん』とはいえ、日本映画なんだ」って。
―― なるほど。
原 若いスタッフは、丹波さんお名前を聞いてもピンと来なかったみたいですけど、声や出来上がったものを観て、「丹波さんでよかったですね」と言ってくれる人が多かった。
―― 存在感ありますからね。
原 ありますね。ちょっと、あり過ぎたという話もあるんですけど(笑)。
―― 全部、持っていっちゃいますからね。
原 持っていかれちゃった。
―― 「丹波さんが活躍すれば、しんちゃんいらないじゃん」とか(笑)。
原 「俺が来たら、もう大丈夫だ」と丹波さんが言えば「そうだろうな」って納得しちゃえるとこってありますからね。
―― 今回は温泉の話と言いつつ、ついに女性の裸は出しませんでしたね。
原 そうですね~。その辺は「子供は観てもあんまり嬉しくないだろう」というところかな。
―― 出したかったけど、セーブしたというわけではない。
原 いや、そんなに出すつもりもなかったし。『しんちゃん』のあの画でヌードシーンやって「どうだ、凄いだろう!」って言ってもね。そんなの……。
―― かえって、ガッカリしてしまう?
原 うん。ガッカリしちゃうでしょ。みさえのお尻は出てるんですよ。
―― 伊福部マーチも話題になりましたね。(注13)
原 今回は本当にね、「日本映画」というのを意識しましたよ。丹波さんでしょ。伊福部昭さんでしょ。それから、映画とは関係ないけどエンディングが「いい湯だな」。あれをエンディングに使うのが念願だったんですよ。エンディング観て、自分で感動しちゃいましたからね、「ついにやったぜ。ついにできた!」って(笑)。(注14)
―― ドリフ世代なんですね。
原 勿論ですよ。どっぷりですよ。温泉の話だからエンディングは「いい湯だな」を使いたい。これはもう最初に決まってたんですよ。しんちゃん達で「いい湯だな」を新録音する、これが果たせた。多分、僕が一番嬉しかったんだろうなあ(笑)。
―― 原さんが監督になってからの3本は、家族愛の比重が強くなってると思うんですけど。
原 そうかもしれないですね。家族が力を合わせて何かをする、というね。それは原作の臼井(儀人)さんからの要望もあるんですよ、僕もそういうのは嫌いじゃないので。しんちゃん一人の活躍は、あんまり得意じゃないのかもしれない。むしろ、つい気持ちが大人の方に行ってしまうんですよ。
―― 『暗黒タマタマ』と『温泉わくわく』は、ひろしの方に行ってますね。
原 ひろしはね、割と僕はやりやすいんですよ。年齢も近いし。ま、いつの間にかひろしの方が年下になっちゃいましたけど、35歳の設定ですから。
―― だったら、僕はひろしと同じ歳か。やだなあ(笑)。
原 ひろしって、だらしないじゃないですか。だらしないけど、たまにはちょっとカッコいいところも作ってやるかとか、結構ね、素直にやれるんですよ。
―― 素直に?
原 自分の憧れの部分ですね。自分も多分、情けない奴だろうから。「ひろし、がんばれ!」というような気持ちでね。
―― 僕はここ3作だと『暗黒タマタマ』が一番好きなんですよ。ゲストキャラもいい味出してるし。最後の歌って踊るところも泣けるし(笑)。
原 毎回、感動を狙ってるんですけどね。どんなおバカな事をやりながらも、体育会計の熱さみたいなのを『しんちゃん』の映画に関しては常に心掛けてはいるんですよ。だから、コンテの温度を上げる事を、自分に課しているんですよ。
―― 「コンテ温度」ですか。新しい言葉ですね(笑)。例えば『巨人の星』というのは、凄く温度が高いんですね。
原 温度高いですよ、メチャメチャ(笑)。
―― 『タイガーマスク』とかも高いんですね。
原 高いですね。常に『しんちゃん』の映画のコンテに入る時には「よ~し、コンテ温度を上げるぞ!」と自分に言い聞かせるんですよ。
―― 温度ですか。
原 体育会系のノリかなあ。光線とかに頼らない、頼りたくない。
―― なるほど。原さんになってから、クライマックスで光線はないですね。
原 今回のもそうですが、敵を倒すのは、とにかく体当たり(笑)。それで何とか、熱く盛り上げたいと思ってるんですよ。「汗をかけっ!」「走れっ!」とかね、そういうのが好きなんです。
―― なるほど。原さんにとって、本郷さんは、どういう存在なんですか。
原 技巧派ですね。
―― 凝るという事ですか。
原 凝るというか、……何かこう、面白くするためにはいくらでも飾りをつけていくというか……。
―― 料理で言うと、同じシャケの切り身があったとして、本郷さんはクリーム煮にしちゃうとか。原さんは塩焼きとか。
原 僕は「生でもいいわい」とか(笑)。
―― 本郷さんは、さらに海鮮スープまでつけたり。
原 ああ、そうかもしれない。本郷さんは演出する事にも凄く貪欲だとは思いますね。観てる人の事を凄くよく考えていると思います。僕は割と自分さえよければ、みたいな作りになっちゃうので。
―― 本郷さんが映画『しんちゃん』でやっていた、ファンタジー的なモチーフを否定するわけじゃないんですね。
原 そうではないです。ただ、僕が不得手だという事です。あんまり興味を持ってやれない世界なので。
―― 『暗黒タマタマ』も、ギリギリで現実世界の中でとどまってますよね。
原 『しんちゃん』で初めての監督だったので、夢中でやったんですよ。徹底的にファンタジー的な要素を排してやろうと思ってやっていました。あれができたお陰で、その後がやりやすくなったような気がしますね。
―― じゃあ、『温泉わくわく』は意識的にちょっとファンタジー的な要素を足してみた?
原 う~ん、自分ではあんまりファンタジーのつもりはないんです。段々、道具が大きくなってきてはいるんですよね。だから、地味なのが好きとは言いつつ、どこか不安で戦車何十台とか、身長何十メートルのロボットを、出してしまっているのかもしれないですね。
―― 『暗黒タマタマ』は伝奇物風ですよね。現実世界を舞台にしていて、SFまでいかないという。
原 そう。SF一歩手前みたいなのが好きですね。キャラにしても、カッコいい奴が出てきて、カッコいい事を言う、というようなのにあんまり興味が持てないというか。カッコ悪い奴らがカッコ悪い事をやってるってのが、何か好きですね。カッコ悪いなりにがんばったりとか。
―― TVシリーズの『しんちゃん』も、本郷さんから原さんいバトンタッチされて、テイストが変わったと思うんですけど。
原 どうなんでしょうね。……劇中劇みたいなものは減りましたよね。
(注15)―― その辺りは、スッパリなくなりましたね。
原 子供は、あんまり面白くないんじゃないかな、と思ったんですよ。
―― なるほど。
原 やってる人と、ちょっとマニアックな人は面白いかもしれないけど、観てるのは大部分が子供だから。あとはね、OLのお姉さんとかが観てくれているみたいだから。そういう人はああいう劇中劇とかをやっても面白くないんじゃないかな、と思って。
―― 全体のテイストを意識的に変えようとはしてないんですか。
原 特にはないですね。まあ、家族構成は変わっちゃったけど、それぐらいで(注16)。ただ、映画と同様に野原一家の話を中心にしようと思ったかもしれない。さっきの話に戻るけれど、家族の他愛もない話は、僕は嫌いじゃないですから。さっき、上手い言い方をしましたよね。
―― 「ファンタジーとしての日常」ですか。
原 そうそう(笑)。
―― 今後って……まあ、『しんちゃん』は今後も続くと思うんですけど、それは置いておいて、こういう事をしてみたい、というのはないんですか。
原 う~ん。一度ね、メチャメチャにプラトニックな恋愛ものをやってみたいと思ってはいるんですよ。観てる人がもう恥ずかしくて、照れちゃうようなのを。
―― 作品世界的には『エスパー魔美』に近い感じですか。
原 ああ、近いですね。
―― 自分で新作の企画書を書いたりとかはしないんですか。こういう事をやりたい、とか。
原 たまーにありますけどね。なかなか採用されないですね。
―― 活動はしてるんですね。
原 細々とですが。ただ、僕がやりたいものっていうのは、どう考えても売れないんですよ(笑)。「コレが売りだ」というものが、どうしてもなくてね。ないから好きなんだけどななあ、自分では(苦笑)。
(注1)
インタビュアーの小黒が、前に原恵一に取材したのは、1986年の年末。アニメージュ1989年2月号の「TVアニメーションワールド」のルーキー登場というコラム記事だった。
(注2)
実際には、次ページのリストにあるように『チンプイ』『化粧師』『景山民夫のダブルファンタジー』にも絵コンテ等で参加している。とはいえ、これが原さんが手がけたアニメのほとんど全てであり、中堅演出家としては参加した本数はかなり少ない。
(注3)
「悪魔のイジワール」は1984年1月20日放映の第112回Cパート。
(注4)
『ドラえもん』は1本新作、1本再放送で構成されている。原さんが参加していた頃の『ドラえもん』は再放送分の時間が短く、その分、新作が長かった。
(注5)
『地球下車マシン』は1985年1月4日放映の第159回Aパート。
(注6)
「強いイシ」は1985年9月6日放映の第191回Aパート。
(注7)
「ハリーのしっぽ」は1984年12月21日放映の第157回Aパート。
(注8)
103話「日曜日のトリック」。駅で上りの電車がくれば、その日はツイていると思い込んでいるゲストキャラの少年。だが、来る日も来る日も、下りの電車ばかりが来る。実は、上りと下りの本数が同じでも、上りの電車が来てから下りがくるまでの方が間隔は長く、「次に来る電車」は下りである確率が高かったのだ。というお話。
(注9)
54話「たんぽぽのコーヒー」。マーラーの「交響曲第2番」を効果的に使用した事でも話題になったエピソード。
(注10)
昼夜逆転していたり、会社に泊まり込んだりするという事。
(注11)
「チャコとケンちゃん」と「ケーキ屋ケンちゃん」は、いずれも昭和40年代に放映されたホームドラマ「ケンちゃんシリーズ」。
(注12)
19話Aパート「台風がやってくるゾ」。
(注13)
『爆発!温泉わくわく大決戦』では「ゴジラ」と「怪獣大戦争」から伊福部昭の曲が流用され、特撮ファンの間で話題になった。この曲の使用も原さんのアイデアだった。
(注14)
「いい湯だな」は。往年の人気バラエティ「8時だよ!全員集合」でエンディングに使われたドリフターズの有名な歌。
(注15)
実際には、今後の『クレヨンしんちゃん』で、新しい劇中劇をやるかもしれないそうだ。
(注16)
原さんがチーフディレクターとなった前後で、しんちゃんの妹のひまわりが生まれた。