COLUMN

第116回 ほんとうはどうだったのだろう体験

●2015年3月19日(木)

 クラウドファンディングのページを作るとき、原作の紹介を2ヶ所だけ載せようと思うので選んでください、といわれたので、ひとつは「19年8月」のパントマイム展開、もうひとつは「20年3月」から採ることにした。台詞のないパントマイムで笑いをとっていくのはこうのさんの持ち味でも大事な部分だと思うし、「20年3月」の艦載機空襲は呉を襲った最初の空襲で、ここから物語がこれまでとは違う方向に転換していく最初の端緒でもある。
 昭和20年3月19日朝の空襲は、現実に起こった。この頃米軍は沖縄上陸作戦を準備中で、その前に呉付近にかなりの勢力のまま残る日本海軍の艦隊を叩いておく必要があった。特に最大かつ強力な戦艦である大和を。この日、航空母艦を5隻ずつ擁する米機動部隊3つがこの方面目がけて攻撃を仕掛けてきた。そうしたものが、たまたま軍港の隣に住んでいたすずさんの頭の上に降りかかってくる。
 たまたまその70年後の同じ日付の朝早く起きてしまっていたので、この日の空襲と同じタイムスケジュールで、各時点で起こったことを頭の中で思い描いて、その時間的な感じを味わってみようと思った。
 まず最初に、まだ春分前でもあるので、朝ごはんの支度をするためにすずさんが起きる時刻は真っ暗だった。すずさんの一日は、軍艦の起床ラッパなんかよりもずっと早く始まる。この当時、米は一日を通じて朝ごはんのときにだけ炊いた。昼夜は朝炊いた飯を食べることになる。呉市での米の配給は、19年11月には配給基準量のたった51%を満たすだけに減ってしまっていたが、この20年3月にはそれが83%にまで回復している。ただ、塩の配給が前の月から半分に減ってしまっていて、食事は味気ないものになってきつつあった。野菜は端境期に入っているので、かなり少なくしか割り当てられない。なので、すずさんは晴美ちゃんを連れて、周作さんを仕事場に見送った午前7時頃から摘み草を始めている。運がよければツクシも出ているかもしれない時期だ。
 2015年の3月19日はちょっと寒さも緩んでくるのを感じる朝だったが、昭和20年の3月19日はどうだったのだろう。まず、攻撃隊を発艦させる米空母甲板の人が「昨日より肌寒い」といっている。手元にある呉のこの日の天気と気温は、「朝6時晴7.8度」「正午薄曇9.8度」「夕6時曇12.0度」。
 呉港在泊の船の日誌では「朝6時半晴1.2度」「正午半晴4.9度」「夕6時半晴6.9度」だとか、「朝6時曇天2.0度」「正午曇天6.2度」「夕6時曇天9.2度」というのもあって、たぶん陸の上ではそこまでひどくはないと思うのだが、うららかな陽気の朝というにはちょっとほど遠い。モンシロチョウは15℃を越えないと出ないというし、ツクシも15℃を越えないと出てこないという。いったんはパイロットフィルム的に2カットばかり作ってみたこのシーンの画面の作りを変えなければならないのかもしれない。
 ほんとうはどうだったのだろうと思い始めると、こういうことになってゆく。

●2015年3月20日(金)

 広島でときどき行うロケーション現地巡りで実行委員をしていただいてきた方から、そういえば、小学生の頃に親戚の被爆体験を聞き取る宿題を出されて草津に住む叔母に書いてもらったものがあるのだけど読んでみますか、と知らせていただいた。草津は、すずさんのおばあちゃんの家のあるところで、この物語の中ではある種の安全圏として機能しているようにも思ってきた土地なので、「ほんとうはどうだったのだろう」とここでも思ってしまい、叔母さんが書かれたメモの複写をメールで送っていただくことにした。
 読ませていただいてわかるのは、爆心から5キロくらいの草津でも、この叔母さんの小さい妹さんが吹っ飛んだとか、戸を開けていた家で爆風が吹き込んで屋根が抜けたとか、物理的な被害に見舞われている。草津を描くときには気をつけなければ、と思わされた。

●2015年3月21日(土)

 東京ビッグサイトで開催のAnimeJapan 2015のジェンコのブースで『この世界の片隅に』の展示を出す、というので行ってみた。クラウドファンディングへの協力をうたったチラシも刷り上がっているというし。
 10時に開いた時点からブースの前にいたのだが、なんだか目の前を通り過ぎてゆく人ばかりで、どうしたものかなあと思い、こういう場所でもあるので軍艦青葉のチラシを前に出してみたら、受け取ってくれる人、立ち止まる人が増えた。
 突然「父が大和を作っていたんです」と女性の方から話しかけられた。
 「呉工廠ですか?」
 「木工やってて、汽罐の木型作ってました。誰だかいう宮様と知り合いになって」
 「高松宮? 高松宮は呉に別邸もってました」
 「それだったらたぶんその人です。その宮様から薦められて工廠で働き始めたって」
 「おうちが呉だったんですか?」
 「安芸中野です。ええーと、安芸中野ってわかります?」
 「わかりますわかります」
 「いいな、広島の地名出してわかってる人と話すのって。安芸中野も原爆のとき爆風で被害を受けて」
 「そんなに近くないですよね」
 「ええ、山ひとつあいだにあるはずなんですが、それでも」
 この方のお母さんは、20年8月にはまだ1歳だったという。その1歳の赤ん坊を背負っていたお祖母さんは原爆が落ちた広島市内への救援には参加できなかった。かわりにその妹さんが広島に行って、入市被爆で亡くなった。
 「19歳で、新婚3ヶ月だったんです」
 「そんな。かわいそうだ」
 ぶわっとこみ上げてきてしまった。
 「すみませんすみません、こんなところでこんな話ししちゃって」
 こうした話が遠い70年前のものだとは思えなくなっている自分がいる。
 「父にこのチラシ見せてみます」
 うちの父みたいにアニメなんか観ない人がどれくらい興味を示してくれるか、それが大事なんですよねと、この方はわかってくださっていた。
 クラウドファンディングで個々人として多額の貴重な援助が集まっている。そのことで、冒頭の中島本町のパートから作り始めてゆくことはできるようになった。ほんとうにありがたい。
 ただ、それでもなお、この映画が全国津々浦々のあまねく人をお客さんとして映画館に呼び込めるポピュラリティを得たと実証できているわけではない。だとすれば、回収可能な総予算額の上限はあまり大きなものとして見積もれず、そうした現実には具体的には内容を薄くすることと、映画の尺を大幅に短くすることでしか対応できず、本来思っていた内容のかなりの部分は切り捨てざるを得ないだろう。そうしたところが本当の現状でもある。

 ヒロシマフィールドワークの中川先生は、たまたま勤務地がすずさんの生まれ故郷江波だったので、何かできないか、江波で人が集まるところってどこだろうと考えられて、江波に相当数あるお好み焼屋さんを1軒ずつ回っては、ポスターとクラウドファンディングのチラシを貼ってもらい、持参した原作本を置いてもらうという地道な活動を、たった1人で展開しておられる。お店の方からはじめは渋い顔をされても、ポスターの絵柄を見せれば喜んで貼らせてもらえるという。
 原作に触れたこともない町のお好み焼屋さんを1軒1軒。「ポピュラリティを得なければ」というもっとも核心の部分を中川先生も理解していただいているのかもしれない。この映画にそれだけの労力を費やしていただく価値があるかどうか心もとないが、こうのさんの原作「この世界の片隅に」には間違いなくそれがある、と自分も信じている。

親と子の「花は咲く」 (SINGLE+DVD)

価格/1500円(税込)
レーベル/avex trax
Amazon

この世界の片隅に 上

価格/680円(税込)
出版社/双葉社
Amazon

この世界の片隅に 中

価格/680円(税込)
出版社/双葉社
Amazon

この世界の片隅に 下

価格/680円(税込)
出版社/双葉社
Amazon