『この世界の片隅に』というお話は「戦争」を描くためのものではないと、はじめから思ってかかっている。
アニメーションでひたすら「日常」だとか「生活」を描くというのは昔からの自分の希望なのだけれど、そういうことをいったところでなかなか企画が成立するものではないし、観客の気持ちをそばだてるスタートラインにまでたどり着くのも難しいような気がする。ひたすらな生活描写を好んでくれるようなお客さんも確実にいるのだろうけれど、大多数は「事件」をよりどころにしてストーリーを読み取っていこうとするのではないかと思う。
そんなふうに思っていたときに出会ったのがこうの史代さんの「この世界の片隅に」だったのだが、このマンガの中では「生活」や「日常」は、「戦争」と並び置かれていて、それゆえに、ごくふつうの日常がそれ自体はかないものだったのだということや、日々の暮らしを営み続けてゆく意味みたいなものが感じられるようになっている。
そしてまた、この場合の戦争が、どこか海の向こうで行われているのではなく、文字どおり主人公たちの頭の上に降ってくるものであることも、そうしたことをさらにくっきりさせる。
軍艦たちの根拠地のすぐとなりに住んで、ごくふつうの日常を送る人たちのお話なのだ、これは。
戦争、といえば、以前「エースコンバット04/シャッタードスカイ」というゲームの中で展開されるサイドストーリーを作るという仕事をしたことがあった。空中戦をする戦争ものだった。話を持ち込んできたゲーム屋さんたちから最初に望まれたのは、「たとえば『プライベートライアン』みたいな映像をゲームの幕間で」というようなことだった。
ひょっとしたら、戦争全体を俯瞰する「神の目」みたいな視点から見たものをゲームの幕間で展開するというのが本旨だったのかもしれない、と今になって思う。空中戦のゲームだから、ゲームをする人はパイロットになって空を飛んで戦い、その一人称の視点で進められてゆく。なので、その時点時点での局面を補完的に説明してやる必要があったのかもしれない、ということだ。
けれど、その時の自分はそうした「神の目」に立つことを最初から捨ててかかって、空をすら飛ばない地上に小さな視点を設けることにした。「神の目」から俯瞰できる「戦争」というのがまるで頭になかったからなのかもしれない。
高校生の頃にドイツ人が書いた戦争小説を読んで、ずっと手元に置くようになっている。これは戦前にソ連に亡命し、スターリングラードに住んでいたドイツ人作家が、目の前で起こったスターリングラード戦の経緯に触発され、ドキュメンタリーとしてではなくあくまで文学作品として執筆したというものだった。戦闘シーンなんてものはまるで存在せず、ソ連軍に包囲されて孤立した33万人のドイツ人の中に視点となる人物を求めて、苦しい、希望を持てない、飢えてゆく描写が連なるだけなのだが、この視点が各章ごとに移ろった。ある章の主人公である人物の視野の端に見え隠れしていた端役みたいな人が、それから少し先で唐突に主役になってしまったり。そうしたことを複雑に繰り返す。そうした無数ともいえる人間たちにはこれまでどんな人生があったかということに一番の比重を置いて物語られていたような気がする。兵役に取られる前はどんな故郷でどんな職業だったのか。そうした生活から何を放棄させられてこのわけのわからない場面に立たされているのか。そうした描写の複雑な羅列。
なんだか、一番リアルな「戦争」の核心に触れてしまったような気がした10代の体験だった。
大きすぎる出来事の全体を俯瞰する「神の目」は、出来事が多義的であるだけに、ほぼ意味をなさない。意味があるのはただ一つひとつの個人的ディテールの積み重ねだけ。戦争とはそもそもそんなものなのであって、プレイヤーの一人称で進行されるという空中戦ゲームの構造自体にも近いものがある。近いだけじゃなくて、それをもっと個人的な体験と思わせたいならば、同じく個人的な体験を併置してしまうのがよい。
そんなようなことから、「エースコンバット04」のサイドストーリーはああした脚本になった。ゲーム屋さんたちと最初に話を交わしてから数日で書き上げてしまっていたのだから、自分の中に染みついていた何かがあったのだとも思う。
『この世界の片隅に』というお話は「戦争」を描くためのものではないとは思うが、「戦争」も「日常生活」も同様に個人の視点から描かれたときに一番何かを伝えられるようなものだということでは、実は変わらないのだった。
この物語には、すずさんという一個人の、きわめて個人的な視野に見えるものばかりがつづられている。
実のところではそうとばかりもいえず、こうのさんは巧みに「神の目」をマンガ的な表現の中に織り込んでしまっているのだが、それをどう映画的に表現してゆくか、ということについてはまたいずれ。
すずさんを作画して動かしてみている。
いきなりたくさんのシーンを量産してもそれぞれの中で完成した動きを得られるわけでもないので、まず、絵コンテの数カットを抜き出して、まずそこだけでも完成させていこうというパイロット的なことから進めてみた。すずさんとはこんなふうに動く人なのだ、というところが見えてくるのなら、そこを底に据えて全体を進めていけるようにもなるかもしれない。
案の定難しい。
すずさんらしいポーズを作るのは、原作もある以上まだしもなんとかなる。彼女は猫背だし、あまりクネクネしない。けれども、いくつか作ったポーズとポーズの間を単純に中何枚で割ってつないでみても、なかなかすずさんは現れてこない。動きでもって「すずさん」を表現してみる、というのは、原作にもないまったく新しいイメージを得ることなのかもしれない。
ただ、表現を求めてゆくうえでおぼろげな目標みたいなものがありそうだとは感じていた。「表現」というのは感覚的なものなので、単純に言語化させにくいし、表現を作ろうとしている現場であまり言語化させすぎると、どこか語るに落ちてしまう。
なのだが、このコラムの項を書いていて、ちょっと自分の記憶の中の感覚とすり合せることができたようにも思う。
まあ、いわば、動かしてみてものすごく平凡な人を作り出すことなのだろうとは思うのだが。もちろん、そういうことが一番難しい。
やっぱり難しい。
親と子の「花は咲く」 (SINGLE+DVD)
価格/1500円(税込)
レーベル/avex trax
Amazon
この世界の片隅に 上
価格/680円(税込)
出版社/双葉社
Amazon
この世界の片隅に 中
価格/680円(税込)
出版社/双葉社
Amazon
この世界の片隅に 下
価格/680円(税込)
出版社/双葉社
Amazon
- << 第96回 キリのない『世界』...
- 第98回 空との距離感 >>