2012年10月30日から11月2日にかけて、『この世界の片隅に』の舞台となる広島県呉市と広島市に、もうすでに何度目かになるロケハンに出かけてきた。
これに先立って、8月18日から「広島あにこむ2012」を皮切りにこの作品の「制作準備中」ポスターを貼り出していただいて以来、次第にあちこちから引き合いの声がかかることが増えてきていて、今回のロケハンでは地元の方々との懇親会をもったり、地元新聞から取材されるようにもなっていた。そうした都度、
「呉へはもう何回来られちゃったですか?」
と尋ねられ、こちらもそんな問い掛けへの答え持参して行くべきだったのだが、
「おおよそ10回くらい」
と答えておいてしまった。本当は何回だったのだろう?
あとで数え直してみたら、呉へ赴いたのはここ1年半のあいだに合わせて9回。さらに、別の機会(2012年5月19日)には相生橋たもとの広島商工会議所まで、呉市と広島市からこの映画をご支援くださる方々に集まっていただいたこともあったりした。
●2011年4月3日日曜日(241日目)
これが呉を訪れた最初。
とりあえずはまず、現地への道均しのために片渕、丸山正雄プロデューサーの2人で赴いて、「広島アニメーションシティ」事務局長の小森敏廣さん(『はだしのゲン』以来の広島における丸山さんの盟友であるらしい)が紹介してくださる方々とお目にかかった。
翌日は、僕自身の旧友である奥本剛船長(江田島在住で、あの付近の海域でフェリーの船長をしていて、大和ミュージアムの展示模型[大和の砲塔]の一部を作った人でもある)の車に乗せてもらって、呉市の背後にそびえる灰ヶ峰の山頂に登ったり、主人公の家の場所を設定できそうなあたりを回ってみたりした。すずさんは毎日、家の裏の段々畑で呉港を見渡しつつ過ごしているのだが、その景観が得られるロケーションを求めようとしていたのだった。
あらかじめ地図や航空写真で盛んに調べてあったので、おおよその予想はしていたのだが、呉市の高地部の道の狭さと入り組み具合は尋常ではない。呉は明治の中期に軍港を建設するために人工的に広げて作られた町で、平地部はほぼ海軍の諸官衙と商業地域で占められており、人口の拡大に対しては、それまで段々畑が広がっていた山の端からさらに上へ登るように住宅地域を広げることで対応するしかなかった。清国から訪れて瀬戸内海を船で通った李鴻章が「耕して天に至る」(『ももへの手紙』で主人公の母親が引用してボソッとつぶやいている)といったその段々畑を端から潰して住宅地に変えていたのである。
そういう場所であるので、今はともかくその昔は上水道の水源よりも高いところへの水道給水は困難で、そのへんのことは終戦時に呉市水道部職員だった人の手記などを一応読んできてもいる。こうの史代さんのマンガで、すずさんの家事労働の中でも重要なものとして「井戸からの水汲み」が描かれている背景にはそんなこともあったのだった。あれは「水道がなかった時代」なのではなく「水道が引けなかった地域」のお話なのだった。
ともあれ、道は細く、狭く、くねっていて、おまけに急坂で、車など使っては現地を回れないことはよくわかった。この次には現場のメインスタッフ要員を連れてくることになるはずなのだが、いっそ1人ひとりをレンタル原付に乗せるか、とまで考えた。惜しむらくは呉市内にバイクのレンタル屋さんが存在しないようなのだった。
●2011年5月16日月曜日(284日目)
呉・広島ロケハンの2回目。
参加者は、片渕須直(監督)、浦谷千恵(監督補佐・画面構成)、上原伸一(美術監督)、河崎孝史(メイキングビデオ)。
この日程になったのは、片渕・浦谷がそれまで携わってたOVAの仕事が5月7日のビデオ編集をもって原版完成に至り、ようやく『この世界の片隅に』に専念できることになったからだった。
一方で、『マイマイ新子と千年の魔法』の美術監督・上原さんとは今回も組みたいと双方で思いつつ、絵コンテができあがるまで当分の間はずっとほかの仕事をしていてもらうしかない。その合間を見てロケハンにつきあってもらうことになる。
まだ正式な企画立ち上げ前なので制作へのスタッフ配員は全くなく、ロケハンのプランニングも運転も自分たちで全部こなさなければならなかった。どうやって広島県まで出かけるかとなったときに、上原さんから、
「自分の車エステマでいっぺん広島あたりまで走ってみたい」
という進言があった。うちのおんぼろセレナよりはるかにずっと新しい車なので、それはそれで都合よい。ということで、往復は車使用、現地では徒歩をメインに、ということになった。
ところで、毎週月曜日には、僕は母校である日大芸術学部映画学科で教壇に立たなければならなくもあった。しかも午前は練馬区の江古田校舎、午後は埼玉県の所沢校舎で授業で、昼休みの間にひとっ走りしなければならなかったりした。この5月16日月曜日もやはりそのパターンで、17時過ぎに大学での仕事を終えると、またロケハンスタッフの集合地点まで移動し、19時には西へ向けての出発となった。
●2011年5月17日月曜日(285日目)
東京を出て以来、途中3回くらい休憩を挟みつつ、ずっと上原さんがハンドルを握っている。さすがに少し休んでもらった方がよいので、関西に入った午前3時過ぎの休憩からあとは浦谷さんが運転を替わったりもした。浦谷さんは見かけによらず高速道路ではスピード出して巡航してしまうたちなので、少し道がはかどった。
そうこうしつつ、出発から12時間後の午前7時には現地に立っていた。一応、各員それぞれ車内で眠りをとっていたことになっているので、その場からロケハンの行動を開始する。この辺は容赦ない。
早朝に広島県入りして最初は、広島から呉に向かう国鉄呉線の沿線風景を拾って回る。特に車窓から見えるはずの島影を中心に。この頃はまだ勝手がわからないので、ひたすらあちこちで車を停めては写真を撮りまくっていた。
午前7時。吉浦からトンネルをくぐってすぐの新宮へ出る。ここは呉線の線路が通っており、広島から来た列車が新宮トンネルをくぐるといきなり眼前に呉港が広がってくるという、その地点になる。
もっとも昭和12年からしばらくは、建造中の戦艦大和を秘匿するために、呉線の沿線にトタン塀が築かれていて、家々の屋根より高いところを走る列車からの視界を塞いでいた。その「大和目隠し塀」(われわれの間での通称)が始まるのが新宮トンネルを抜けたところからなのだった。このあたりは海軍の文書記録でも、戦後進駐軍が写した写真その他でも一応確認はしていた。「大和目隠し塀」そのものはさすがに現存してはいないのだが、その柱の基部であるコンクリートの構造物は3つほど今も残っている。映画の画面に登場するかどうかはまだわからないのだが、それを見に行く。使えるようならそれを取り入れたシーンを作る。そんなふうにこの時期のロケハンは、シナリオハンティングを兼ねている。それにもまして、この土地を自分たちの「世界」とするために、あらゆるものを隈なく見ておきたくもあった。
目隠し塀の基部を見たら、その足で川原石地区一帯を歩き回る。呉の市街地は昭和20年7月2日の夜間空襲でほぼ全域が消失してしまっているのだが、川原石のあたりは焼け残っていて、戦前からの建物も数多く残っている。戦前の一般市街というと、木造瓦屋根のひなびた造作が想像されるかもしれないが、黒い甍屋根が広がっていた古い広島と違い、当時にあっては新しい街である呉は、ごく普通の商家であっても実にモダンなデザインのものが並んでいた。スクラッチタイルも多用されているし、丸窓とか六角形の窓とかも多い。そうしたものを自分らの目と写真に収めつつ、三条通(呉の場合「通り」を「通」と表記する。特に戦前にあっては)から、両城トンネルを眺めつつ呉線の踏切を越え、大歳神社まで登った。この少し先にある金毘羅山公園児童公園には正岡子規の句碑(「大船や 波あたゝかに 鴎浮く」)がある。実はこの公園は海軍呉警備隊の両城防空機銃砲台の跡で、子規句碑の円形の基台は戦時中の25ミリ連装機銃の基部なのだ。ここがおそらくすずさんの家から見える、「火を放つ高角砲」の一番端にあたるはず。日常生活とそんなものが同居してしまう奇妙な世界の片隅に彼女は住んでいた。
車は新宮港付近に置き去りにしてしまっていたので、2キロくらいを歩いて戻らなくてはならない。もう午前10時になっている。始まったばかりのロケハンで、しかもほとんど寄り道みたいな場所しかまだ見てないのに、もう足が棒のようだ。
次は、車で標高737メートルの灰ヶ峰へ登る。4月に来た時よりも空気が澄んでおらず、視程が効かない。山頂から見たかったのは、一望に納められる呉市街の全貌ももちろんなのだが、それにも増して、すずさんが毎日眺めていたはずの島影それぞれのシルエットだった。その点の成果は中途半端。ちょっと考えていた音響的な(あるいは音楽的な)演出があって、山頂でそのCDを鳴らしてみたりした。
山を下って、本通1丁目(自分が使う住所表記は戦前のものだ。呉の最近の地番はまるで頭に入っていない)にある通称「眼鏡橋」の呉線ガードをくぐる。このガード橋が「眼鏡橋」なのではなく、かつて足元にあった眼鏡橋という名の橋は戦前にすでに川が暗渠になったため、ただの地面になってしまっている。
昔は海軍の官衙地域へのゲートだった第1門、第2門のあった場所を見る。映画で使うとしたらやはり第1門の方になるだろう。海仁会の下士官兵集会所だった建物、呉海軍病院(呉病)の玄関前にあった石段、呉病の隣のかつては軍法会議所が建っていた今はなんでもない場所などにスタッフを案内する。自分自身はこの辺は前回4月にすでに見てしまっている。全部、原作のマンガに描かれている場所。
この先の青山町に残っていたはずの海軍の官舎が、ごく最近取り壊されてしまっていてもう見ることができないことも4月にすでに見てしまっている。これは原作にはないのだが、当時の雰囲気を残すものは少しでも目にして浸っておきたかったので、残念。
さらに海軍工廠のあったあたりの手前側をひととおり回り、海軍第3門へ出る。ここには昔、海軍区画を取り囲んでいた塀がごく一部だけ残っている。コンクリートというより「ベトン」といった質感。
さらに足を延ばして、警固屋で、終戦当時軍艦青葉が沈んでいた場所を見つけようとした。浅瀬に沈没擱座した青葉の写真の背後に写った山並みからそれを割り出そうとしたのだ。結果はちょっと曖昧。青葉の擱座地点が今は埋め立てられてバイパス道路になっていることだけはわかった。水原哲はこの辺に立っていたはず、と思いつつも釈然としない。調べ直してリベンジが必要なようだ。
さらにもう少しだけ先まで道を行って、音戸の瀬戸のループ橋を渡って軍艦伊勢の沈没地点付近までゆく。カキの養殖に使うホタテの貝殻が山のように積まれている。
夕方、市街へ引き返して、すずと周作がデートした中通の映画館地球館、蔵本通の蔵本橋付近(実はデートしてたのはひとつ川上の小春橋なのだが、この時点ではくたびれきって混乱してしまっている)を確かめて、この日はおしまい。宿へ向かう。
いったん宿に入り、夕飯を食べたのだが、「おしまい」のはずがさらにもういちど出かけてしまい、午後8時過ぎまで街をうろついてしまった。
「今日はもう何もしたくない。風呂入って寝たい」
などとボヤきつつも、実質的なロケハンのまだ第1日が終わったばかりでしかない。まだ2日目も3日目もあるし、その先もこんなことがたび重なることになる。
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