『タイガーマスク』を語る
第18回 ルリ子の悲しみとアニメ史に残る事件

 第102話「「虎の穴」の真相」の直人の告白シーンについてもう少し書いておきたい。
 自分の体験で言うと、子供の頃から印象的なシーンではあった。ただ、ドラマチックな場面であることは分かったが、どうして直人が芝居がかった言い方をしているのかは分からなかった。「これで気が済んだんじゃないかな」のセリフで表現された想いの深さや生々しさについて理解できたのは、成人して随分と経ってからだった。
 直人の告白シーンについて気になるのが、「ウルトラセブン」のモロボシ・ダンの告白シーンとの類似である。「ウルトラセブン」最終回である第49話「史上最大の侵略(後編)」で、主人公のダンが、ヒロインのアンヌに対して自分がウルトラセブンであることを打ち明ける。これも名場面中の名場面だ。ダンの告白も、直人の告白も「正体を隠していた主人公が自分がヒーローであることをヒロインに告げる」という意味では同様だ。どちらも告白の時に主人公とヒロインが向き合っていて、告白の前後に主人公の横顔とヒロインの横顔のカットがある(左側に主人公がいて、右側にヒロインがいるのも同じ)。ダンの告白シーンで使われたBGMはロベルト・シューマンの「ピアノ協奏曲イ短調作品54」、直人の告白シーンで使われたBGMは映画「禁じられた遊び」のメインテーマ「愛のロマンス」。曲が始まる呼吸も近い。
「ウルトラセブン」最終回が放映されたのが1968年9月8日、『タイガーマスク』第102話が放映されたのが1971年9月9日。時期的なことを考えれば、作劇や演出に関して「ウルトラセブン」最終回の影響を受けていたとしてもおかしくはない。僕はかなり以前から似ていると感じているが、裏を取ったことはない。たとえ影響を受けていたとしても、描かれたドラマはまるで違うものである。印象的な作劇や演出を取り入れたということであり、非難されるものではないだろう。さらに言えば両者のお手本となった作品があったのかもしれない。ではあるが、直人の告白シーンがダンの告白シーンの影響を受けているかどうかはやはり気になる。いつか、確認できる日がくるのだろうか。

 さて、以下が今回のコラムの本題だ。第103話「あがく「虎の穴」」(脚本/辻真先、美術/福本智雄、作画監督/森利夫、演出/新田義方)は、第102話の告白シーンのリフレインから始まる。これが問題なのだ。僕はアニメ史に残る事件のひとつだと思っている。
 重要なのは選曲だ。前述したように第102話の告白シーンでは「禁じられた遊び」のメインテーマ「愛のロマンス」がBGMとして使われたが、第103話冒頭の同シーンでは、何と演歌のインストゥルメンタルが使われているのだ。さらに、第102話にはなかったルリ子にスポットライトが当たる演出が追加されている。第102話の告白シーンはしっとりとしており、格調高いと言っていいほどのものだったが、第103話では一転してベタベタの泣かせる場面となっている。
 『タイガーマスク』の本放映時には家庭用ビデオデッキもネット配信もなかった。第102話を観たら、翌週に第103話が放映されるまで一週間待たなくてはいけない。一週間も経てば前話の印象も薄くなっているはずで、同じ場面の演出が変わっても左程は驚かなかったかもしれない。しかし、現在はビデオソフトや配信で連続して作品を観ることができる。第102話と103話を連続して視聴すると、その違いの激しさに驚く。衝撃的と言ってよいほどの違いだ。
 このコラムの第1回でも書いたが、他の当時の東映動画作品と同様に『タイガーマスク』には監督に相当する演出家は存在しない。これはシリーズ全体を統括する監督がいないという意味であり、各話の演出家がそれぞれ自分の担当話数を監督しているのである。『タイガーマスク』では各話の演出家が腕を競い合うように、自分の担当話数を演出していた。このコラムは主に物語について語るものであるので、各話の演出についてはほとんど触れてこなかったが、演出家達の個性的な仕事もこの作品の見どころだ。選曲についてはシリーズを通じて宮下滋がクレジットされているが、選曲も含めて最終的に作品をまとめているのは演出家であるはずだ。つまり、第102話で「禁じられた遊び」を使用したのは田宮武の、第103話で演歌のインストルメンタルを使用したのは新田義方の演出だと考えることができる。第103話では告白シーンの後も、ルリ子が登場する場面で演歌のインストゥルメンタルが使われており、この音楽演出はルリ子の気持ちを表現したものと受け取るべきだろう。
 少なくとも現在の僕の感覚で言うと、第103話のこの選曲はかなりダサい。新田義方にその意図があったのかどうかは分からないが、第103話の告白シーンは第102話の同シーンを茶化しているようにすら見える。僕の体験で言えば、LD BOXで初めてこの2話を連続して観た時に第103話を、第102話のパロディだと感じた。パロディをやるつもりはなかったにしても「前回とはまるで違ったものにしてやろう」という意図はあったはずだ。新田義方は『タイガーマスク』で、奇抜な演出を何度も繰り出している。例えば、この第103話の後半ではミスターXが命を落とす場面で、実写の藁人形の映像を挿入しているのだ。選曲に関しても、彼の奇抜な演出のひとつと考えることができる。
 第102話と第103話の告白シーンの激しすぎる違いは、監督を置かないシステムで、さらに各話の演出家が腕を競い合う状況だから生まれたアニメ史に残る事件なのだろうと思う。

●第19回 あまりにも違った「原作とアニメの直人の歩んだ道」 に続く

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『タイガーマスク』を語る
第17回 直人の告白とハードボイルドドラマの頂点

 伊達直人を主人公としたハードボイルドドラマとしての『タイガーマスク』の頂点が、第102話「「虎の穴」の真相」(脚本/柴田夏余、美術/浦田又治、作画監督/野田卓雄、演出/田宮武)における直人の告白のシーンである。第102話はここまでで度々言及してきた柴田夏余の『タイガーマスク』における最後の脚本回だ。

 第101話「「虎の穴」の処刑」から最終回の第105話「去りゆく虎」までの5話は連続したエピソードである。第101話で拳太郎はタイガー・ザ・グレートと対戦し、圧倒的な実力差で倒される。第102話では入院している拳太郎のところに、ルリ子が見舞いのために訪れる。拳太郎はルリ子と言葉を交わし、その言葉からルリ子がタイガーマスクの正体に勘づいてることに気づき、彼女に真実を語る。タイガーマスクが伊達直人であること、虎の穴のこと、直人が虎の穴のレスラーに命を狙われていること。
 その後、トレーニングを終えたタイガーの前にルリ子が現れる。タイガーにはルリ子が現れた理由が分からなかったが、自分の車でルリ子を送ることにする。ルリ子は話したいことがあるので、時間をとってもらえないかと言う。喫茶店にでも行こうかというタイガーに対して、彼女は「クラウンホテルに行ってくださる」と告げる。ルリ子は拳太郎から、直人と彼が暮らしているホテルとその部屋番号を聞き出していたのだ(「クラウンホテルに行ってくださる」と言われたタイガーは驚いて取り乱すのだが、その取り乱し具合が矢鱈と派手で可笑しい)。  車がホテルに到着する。ホテルの前で、タイガーに向かってルリ子は「519室よ、直人さん」と言う。タイガーに向かって「直人さん」と言ったのである。驚いて振り返るタイガー。519室の室内は夕陽で赤く染まっていた。タイガーとルリ子は立って向き合う。しばらくの沈黙の後、タイガーはマスクを外す。マスクの下から現れたのは伊達直人の顔だった。ここでの直人のセリフが凄い。彼は芝居がかった言い回しで「ハッハハハ、これが、これがタイガーマスクが、ルリ子さんに正体を見せた瞬間だ!」と言ったのだ。ルリ子は直人の名を呼んで彼に抱きつく。直人も彼女を抱きしめる。しばしの抱擁。この場面では映画「禁じられた遊び」のメインテーマ「愛のロマンス」がBGMとして使われており、ドラマを切なくロマンチックに盛り上げる。やがて、ルリ子は我に返って直人から身体を離す。その後の直人のセリフも凄い。「これで気が済んだんじゃないかな、お互いに」である。
 直人は、自分とタイガー・ザ・グレートの戦いを止めても無駄だとルリ子に言い、ハウスに帰るように促す。ルリ子が部屋から去った後、直人は「許してくれ、ルリ子さん。俺は引き裂かれる思いで君の面影を振り払う!」と独白する。そして、タイガー・ザ・グレート打倒の決意を固めるのだった。

 名セリフ連発である。「クラウンホテルに行ってくださる」と「519室よ、直人さん」で、ルリ子は自分がタイガーの正体を知っていることを伝える。その言葉の少なさがルリ子の真剣さを物語る。ルリ子が普段の清楚な仮面を外して、一人の女性として直人に挑んだのに対して、直人は己を隠し続ける。「……ルリ子さんに正体を見せた瞬間だ!」の芝居ががった言い回しは、健太達に見せてきた「キザにいちゃん」の姿の延長線上にあるものだ。タイガーマスクの仮面を外しても、彼は「キザにいちゃん」の仮面は外さなかったのだ。
 「これで気が済んだんじゃないかな」のセリフは多くのことを表現している。つまり、直人もルリ子も互いを求めていた。相手が自分を想ってくれていることにも気づいていた。そして、抱き合った僅かばかりの時間で、二人とも満足しただろうと言っているのだ。互いを異性として想っていて、それを言葉に出せない日々が続き、そして、ようやく互いの気持ちを伝えることができた。そんな二人が一度だけの抱擁で満足できるわけがない。しかし、直人は「これで気が済んだじゃないのかな」と言い放った。つまり、これ以上、愛し合うつもりはない。それはできないと伝えたのだ。
 別の見方をしよう。「これで気が済んだんじゃないかな」のセリフで、若い男女が互いを想い、肉体的接触をして、それで満足できたかどうかについて直人は語っているわけだ。実際に行われたこと以上の生々しさを、そこから窺うことができるはずだ。
 直人がルリ子の愛情を受け入れることができなかったのは、直人がリングの外でも虎の穴に命を狙われており(実際に第103話でもリングの外で命を狙われる)、それに彼女を巻き込むことはできないから、というのもあるのだろうが、最強の敵であるタイガー・ザ・グレートの死闘を前にして、気持ちを緩めるわけにはいかないということのほうが大きいはずだ。倒された大門や拳太郎、虎の穴によって苦しめられた人々のためにもタイガー・ザ・グレートを倒さなくてはいけない。直人は断腸の思いでルリ子を拒絶したのだ。ハードボイルドヒーローである伊達直人の真骨頂である。
 アニメ『タイガーマスク』のドラマには大人びたところがあるが、男と女の関係に踏み込んだことはほとんどなかったはずだ。この直人の告白シーンがほぼ唯一であり、ほぼ唯一であるにも関わらず、生々しい部分まで踏み込んでいる。直人とルリ子の関係については、断片的にしか描いてこなかったのに「互いを求めていた」のを前提に話を進めているのにも注目したい。ここまで物語から飛躍する力の強さを含めて、インパクトのあるシーンであり、『タイガーマスク』における屈指の名場面である。

●第18回 ルリ子の悲しみとアニメ史に残る事件 に続く

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第864回 『沖ツラ』とその次

現在、『沖縄で好きになった子が方言すぎてツラすぎる』、公式略称『沖ツラ』と、その次の別シリーズも制作中で、滅茶苦茶忙しくなっています!

 ということで、『沖ツラ』の方は新しいPVも上がり、その姿・形が段々と見えて来ました。YouTubeにはPVと一緒に制作現場(ミルパンセ社内)映像とかも上がってるらしいです。“らしい”というのは、恥ずかしくて自分はいまだ観れていないからです。皆さんはこっそりと観てください。

 そして『沖ツラ』の次シリーズは、板垣的に初めてのジャンルで、そちらもシリーズ構成・脚本・総監督を担当しており、脚本全話上り、コンテが真ん中辺りで1話から作画INしたところ。且つアフレコも始まり、まずまず順調と言ったところですか。そちらもお楽しみに。

 そんな訳で、今回はバッタバタしているため、短い状況報告でごめんなさい!

第286回 ぜいたくなアルバム 〜怪獣8号〜

 腹巻猫です。8月5日、TVアニメ『怪獣8号』の第2期が2025年に放映されることが発表されました。1期の坂東祐大の音楽がよかったので、2期の音楽はどうなるのか、今から期待がふくらみます。今回は、その第1期の音楽をふり返ってみます。


 『怪獣8号』は2024年4月から6月まで放映されたTVアニメ。松本直也による同名マンガを監督・宮繁之、神谷友美、アニメーション制作・Production I.Gのスタッフで映像化。怪獣デザイン&ワークスをスタジオカラーが手がけたことも話題になった。
 日常的に怪獣が出現するようになった日本。少年時代から怪獣を討伐する「日本防衛隊」への入隊を希望していた日比野カフカは、大人になり、退治された怪獣の後始末を行う清掃業者として働いていた。ある日、突然現れた小型怪獣がカフカの体内にもぐりこみ、カフカは人間型の怪獣に変身してしまう。とまどい混乱するうちに、カフカは自分の意思で人間にも怪獣にも変身できるようになっていた。そのことを隠して日本防衛隊に入隊を果たしたカフカは、怪獣の力を使って凶悪な怪獣から人間を守ろうとする。
 怪獣好きの血が騒ぐ作品である。怪獣の猛威が実写に匹敵する迫力で描かれていることにまず胸が熱くなる。そして、人間が怪獣と一体化して(あるいは怪獣に憑依されて)人間のために戦う設定は、巨大変身ヒーローものの元祖「ウルトラマン」の設定とほぼ同じ。「ウルトラマン」ではハヤタ隊員が事故で命を失い、正義の宇宙人ウルトラマンと同化してしまうわけだが、ウルトラマンの初期デザインはもっと怪獣っぽい姿だった。正義の宇宙人の代わりに怪獣に憑依されていたら……というシミュレーションが『怪獣8号』ではないだろうか。そんな妄想がふくらむところも怪獣好きとしてわくわくするのだ。

 筆者は放映前から音楽にも注目していた。音楽担当は、現代音楽、映像音楽、ポップスなどを横断する活動を行っている音楽家・坂東祐大。彼が手がけた劇場アニメ『竜とそばかすの姫』やTVドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」の音楽が実に刺激的ですばらしかったので、『怪獣8号』の音楽はどうなるだろう? と期待していたのだ。
 サウンドトラック・アルバム(CD)の解説書で、本作の音楽作りの背景が坂東祐大自身の言葉で語られている。それによると、本作の音楽作りは放映の2年前から始まっていたという。2021年の夏、アニメ化が動き始めた時期に坂東に声がかかり、音楽の方向性が検討された。その後、PVの公開に合わせて書かれた曲が「防衛隊のテーマ」と「怪獣8号のテーマ」だった。この2曲はTVシリーズでもさまざまにアレンジを変えて使用されている。
 本編の音楽はフィルムスコアリングで制作された。現在のTVアニメでは珍しい手法だが、『鬼滅の刃』などの先例があるから、驚くほどではない。本作で驚くのは、音楽作りにTVシリーズで考えられないほどの手間と時間をかけていることだ。
 フィルムスコアリングであっても、音楽録音は溜め録りと同じように、スタジオミュージシャンを集めて行う方法が一般的である。『怪獣8号』の場合、楽曲ごとにゲストアーティストを呼んだり、ミュージシャンを変えたりして、ポップスの曲を録音するような作り方をしている。アニメのサウンドトラックで参加ミュージシャンがここまで話題になることは珍しい。放映まで時間があったことと、坂東祐大がそもそも映像音楽の作曲家というより現代音楽の作曲家として活躍していることが関係しているのだろう。
 結果、恐ろしく手のこんだフィルムスコアリングの音楽ができあがった。さらに、サウンドトラック・アルバムを作るときに本編用の音楽に手を入れ、追加録音を行ったり、ミックスし直したりしている。しかし、映像の展開に合わせてテンポや曲調が変わったりする曲の構成はそのまま。フィルムスコアリングの雰囲気を残しながら、音楽的にブラッシュアップしているのである。
 本作のサウンドトラック・アルバムは、2024年6月26日に日本コロムビアから「怪獣8号 オリジナル・サウンドトラック」のタイトルでCDと配信でリリースされた。
 収録内容は下記を参照。
https://columbia.jp/kaiju-no8/
 全64曲。フィルムスコアリングで制作された音楽がほぼ使用順に収録されている。収録曲と使用話数の対応は以下のとおり。

〈ディスク1〉
 トラック01〜13:第1話
 トラック14〜24:第2話
 トラック25〜28:第3話
 トラック29〜31:第4話
 トラック32〜34:第5話

〈ディスク2〉
 トラック01〜09:第6話
 トラック10〜13:第7話
 トラック14:第9話
 トラック15:第8話
 トラック16〜18:第9話
 トラック19〜20:第10話
 トラック21〜24:第11話
 トラック25〜29:第12話
 トラック30:第10話

 第1話と第2話からの曲が多く、この2話については劇中で使用された音楽がほぼすべて収録されている。以降は各話から抜粋の形で収録。頭から順に聴いていけば、全12話の物語をふり返ることができる。一部、使用話数が前後しているトラックがあるが、音楽アルバムとしての流れを意識しての構成だろう。
 本作のメインテーマと呼べる「怪獣8号のテーマ」はディスク1のトラック17に登場する。第2話で、怪獣8号に変身したカフカが、幼い少女とその母親を助けるために、襲ってきた怪獣を一撃で粉砕する場面に流れた。ヒーローとしての怪獣8号の誕生を表現する曲だ。といっても、いわゆるヒーロー音楽とはだいぶ趣が異なる。曲は男声ボーカルによる労働歌風のテーマからエレキギターが奏でるブルージーなメロディに展開する。前半の労働歌風のテーマはカフカが清掃業者として働く場面に流れる「Monster Sweeper Inc.」(ディスク1:トラック4)に原型が登場。ブルージーなエレキギターもそうだが、「働くおじさん」としてのカフカのイメージから生まれた曲だという。パッとしない30代のおじさんが怪獣に変身してヒーローになってしまうところが本作の肝で、その異色のヒーロー像をみごとに表現した曲と言えるだろう。
 この「怪獣8号のテーマ」は第4話でカフカが四ノ宮キコルを助けるために変身する場面に流れる「怪獣8号のテーマ—フォルティチュード9.8」(ディスク1:トラック29)や、第11話で防衛隊長官の攻撃を受けたカフカが変身する場面の「怪獣8号のテーマ—大暴走 ver.」(ディスク2:トラック24)などでも変奏されている。
 本作のもうひとつの主要テーマである「防衛隊のテーマ」は、ディスク1のトラック2に登場。第1話の本編冒頭で、出現した怪獣を討伐するために防衛隊が出動する場面に流れている。この場面では歪んだエレキギターで短く奏でられるだけなので、曲の全貌がつかみづらいが、第2話に流れる「防衛隊のテーマ—Strings ver.」(ディスク1:トラック22)で、いかにも防衛隊のテーマらしいメロディが明らかになる。このストリングス・バージョンは以降のエピソードでもたびたび使用されているので、印象に残っている人も多いだろう。
 第5話でカフカたち新入隊員たちが初出動する場面に流れる「防衛隊のテーマ—出動」(ディスク1:トラック34)は、ふたたび歪んだエレキギターによる変奏。第6話のアバンタイトルに流れた「相模原討伐作戦」(ディスク2:トラック1)にも「防衛隊のテーマ」のメロディが現れる。第10話で防衛隊員たちが怪獣を総攻撃する場面に流れる「防衛隊のテーマ—第3部隊 ver.」(ディスク2:トラック19)はエレキギターによる変奏を主体にした緊迫感のあるアレンジ。エレキギターは戦闘シーンの描写に使用されていることがわかる。
 「怪獣8号のテーマ」「防衛隊のテーマ」とともに重要なのが、怪獣を描写する音楽である。
 本作の依頼を受けたとき、坂東祐大は「伊福部昭の音楽を超える音楽を作ってほしい」と言われたという(Newtype2024年6月号のインタビューより)。言うまでもなく、伊福部昭は「ゴジラ」をはじめとする東宝怪獣映画の音楽を多く書いた作曲家。本作でも、伊福部音楽を思わせる重厚な怪獣描写曲が流れるシーンがある。が、本作のユニークな点は、怪獣のテーマとしてロックが使われていることである。
 第1話でカフカが怪獣をひとりで引きつけようとする場面に流れる「Kaiju Rock」(ディスク1:トラック9)は、ロックバンドの演奏にボーカルが加わる曲。第2話で怪獣に変身したカフカが病院の壁を破壊してしまう場面に流れる「Kaiju Beats 1」(ディスク1:トラック15)はデジタルサウンドを使ったクラブミュージック風の曲。「Kaiju Beats」と名づけられた曲は、第6話、第7話、第8話にも使われているが、これらは、また違ったスタイルのデジタルロック的な曲になっている。
 「怪獣にロック」というアイデアは突飛なものではない。坂東祐大は伊福部昭的な怪獣音楽の肝は「ビートと低音のカッコよさ」だと考えたそうだ。本作ではあえてオーケストラ的な表現を避け、ロックサウンドでそれを実現したわけだ。
 また、素顔のカフカたちを描写する場面にも「Kaiju Sessions」と名づけられたバンドスタイルの軽快なロックの曲が使われている。こうしたロックを基調とした音楽演出は、坂東祐大の映像音楽作品の中でも珍しい。
 本作のロック志向を象徴する楽曲のひとつが、第7話で使用された「Warcry」(ディスク2:トラック13)である。シンガーソングライターの岡崎体育をフィーチャーしたボーカル入りの曲で、謎の人型怪獣9号と怪獣8号との戦闘シーンに流れていた。
 同様にボーカルをフィーチャーした曲に、「キコルのテーマ」(ディスク1:トラック24)と「保科のテーマ」(ディスク2:トラック9)がある。防衛隊員の中でもトップクラスの戦闘力を持つ四ノ宮キコルと保科宗四郎につけられた曲で、それぞれの活躍場面に使われている。「キコルのテーマ」は歌詞のあるボーカル曲。パワフルなキコルのイメージを表現した曲で、第2話でキコルが初めてカフカの前に現れるシーンに流れていた。「保科のテーマ」は民族音楽的なボーカルとデジタルサウンドとロック的なビートをミックスした、刀を武器とする保科のキャラクターを表現する曲。こちらは、第6話で保科が怪獣を倒す場面をはじめ、保科の戦闘シーンにたびたび挿入された。
 「キコルのテーマ」を発展させた「キコルのテーマ—Extended ver.」(ディスク2:トラック14)は、ヒップホップバンドThe Internetのベーシスト、パトリック・ペイジ2世をフィーチャーした楽曲。曲が長くなり、よりパワフルにヒップホップ的にアレンジされている。日本コロムビアの商品ページでは、この曲は第9話で使用されたと書かれているが、実際にはほんのわずかしか流れない。映像に合わせて作ったというより、独立した楽曲として作られた印象である。いずれにせよ、ぜいたくな作り方、使い方だ。
 こうした、キャラクターの活躍をボーカル入りの曲で盛り上げる演出は、「怪獣8号のテーマ」の使い方とも共通していて、本作の音楽演出の特徴となっている。
 ここまで、アップテンポの曲やビートの効いた曲を紹介してきたが、本作にはキャラクターの内面を描写する抒情的な曲もある。その代表が、カフカと亜白ミナにつけられたテーマである。亜白ミナはカフカの幼なじみの女性で、2人は幼い頃、一緒に防衛隊に入ろうと約束していた。ミナはカフカより先に入隊を果たし、現在は防衛隊第3部隊の隊長になっている。カフカは「ミナの隣に立ちたい」という一心から、あきらめずに入隊をめざしていた。
 そんなカフカの心情を描写する曲が「ミナとカフカ」(ディスク1:トラック18)。第2話で怪獣8号の姿をしたカフカが、助けた少女から「ありがとう」と感謝され、ミナとの約束を思い出して変身が解けるシーンに流れた。繊細な弦楽器の音色と木管の響きがカフカの心によみがえる想いを表現する。
 その変奏である「ミナとカフカ—再び」(ディスク2:トラック22)は、第11話で使われた。怪獣8号であることが仲間に知られ、本部に移送されることになったカフカに、ミナが話しかける場面に流れている。不安と複雑な心情を表現するピアノやシンセの旋律が続いたあと、ミナがカフカに「ずっと待ってる」と言うカットから、ピアノとストリングスによる温かい旋律に展開する。フィルムスコアリングの効果が発揮された感動的な場面だ。
 そのミナのセリフをタイトルにした「ミナとカフカ—ずっと待ってる」(ディスク2:トラック27)は、第12話で怪獣の心に飲み込まれそうになったカフカが、心象風景の中でミナの声に救われる場面に使用。これもフィルムスコアリングのよさが生かされた名場面だ。「ミナとカフカ」「ミナとカフカ—再び」「ミナとカフカ—ずっと待ってる」の3曲は、同じモティーフを発展させてカフカとミナの心情を表現した三部作と言ってもよいだろう。
 アルバム最後の曲は、シンガーソングライターのLEO今井をフィーチャーした「Never Break Down」(ディスク2:トラック30)。「怪獣8号のテーマ」のメロディを使った挿入歌である。第10話で、仲間たちの前で怪獣8号に変身したカフカが、巨大な怪獣爆弾に向かっていく場面に流れた。シリーズを通しての見せ場のひとつであり、物語のターニングポイントにもなったシーン。音楽的にも最大の盛り上がりを見せる場面なので、最後にこの曲を持ってきたのはうまい構成だ。

 「怪獣8号」のサウンドトラック・アルバムは、正統的なフィルムスコアリングのサントラでありながら、音楽作品としてもこだわり抜いて作られた、ぜいたくなアルバムだと思う。映像に密着した音楽の面白さと、さまざまなジャンルのサウンドがミックスされた最先端の音楽の面白さの両方が味わえる。細部まで作りこまれた音を、くり返し聴いて味わいたい。

怪獣8号 オリジナル・サウンドトラック
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『タイガーマスク』を語る
第16回 ルリ子の願いと『タイガーマスク』のテーマ

 前回話題にしたように『タイガーマスク』のいくつかの話数では、子供達にとっても人生は過酷なものであり、毎日を精一杯生きて、明日を切り開いていかなくてはいけないということが語られた。どうして、そのような厳しい価値感で物語が紡がれたのだろうか。
 ここで『タイガーマスク』の物語の序盤に戻る。話題にしたいのは第6話「恐怖のデス・マッチ」(脚本/三芳加也、美術/秦秀信、作画監督/小松原一男、演出/田宮武)、第7話「血まみれの虎」(脚本/安藤豊弘、美術/浦田又治、作画監督/木村圭市郎、演出/田中亮三)である。この前後編ではタイガーマスクと強敵ブラック・バイソンとのデスマッチが描かれた。第6話の時点でタイガーはすでに虎の穴を裏切っているが、まだ1話で初登場した時と同様に、反則を得意とするダーティーなレスラーのままだった。
 そんなタイガーの試合中に、ちびっ子ハウスを飛び出してきた健太がリングサイドに姿を見せた。さらに彼を追ってルリ子もその場にやってくる。健太は、反則を使う悪役であるタイガーマスクが大好きだとルリ子に言う。そして、俺も世の中の悪役になって、反則で人生を渡ってやる、どうせ(自分は)みなしごだもんな、と続ける。それを聞いたルリ子は驚き、そして、リングの上のタイガーに懇願する。その時のセリフが次のものだ。

「今この通り、この子は間違った道に迷い込もうとしています。それをこの子の憧れのあなたから教えて。世の中ってそんなものじゃない。苦しくても真面目に、正しく生き抜くべきだと……」

 ルリ子がタイガーにこの言葉を伝えたのが第6話の最後であり、続く第7話ではその言葉を聞き入れたタイガーが生まれて初めて反則抜きのフェアプレイで戦い、ブラック・バイソンを倒す。この第6話、第7話の内容は原作に沿ったものであり、ルリ子が口にした願いの言葉も、ほぼ原作のままだ。
 ブラック・バイソンとの試合をきっかけにして、タイガーは反則を使わない正統派のレスラーに転向。反則を得意とする虎の穴のレスラーを相手にフェアプレイで戦うことになる。つまり、自ら望んで不利な戦いを続ける道を選んだのである。タイガーが反則を捨てたことについては、原作とアニメ版でまるで違ったかたちで決着が付くことになるのだが、それについては、今後のこのコラムで触れていくつもりだ。
 伊達直人=タイガーマスクはちびっこハウスを救うためにファイトマネーを使ってしまい、虎の穴を裏切ることになってしまった。そして、ルリ子の願いを聞き入れて自身の反則を封印してしまったため、虎の穴の刺客である悪役レスラーと反則を使わずに彼等と戦わなくてはいけなくなった。タイガーがブラック・バイソンとの試合の後も反則を使わなかったのは、健太を始めとする子供達に正しい生き方を示すためだろう。ちびっこハウスを救ったことと、ルリ子の願いを聞き入れたことで、彼は過酷な道を歩むことになったのである。
 ルリ子は「苦しくても真面目に、正しく生き抜くべき」と言った。幼い頃から貧しい孤児院で園長の子として育ち、多くのみなしご達と接してきたルリ子は、それを疑う必要のないこの世の真理だと思ってるのだろう。彼女の口ぶりから、タイガーもそれを分かっているはずだから健太に教えてやってほしいと思っていることが窺える。ルリ子はそれを健太のために言ったはずだが、その言葉は伊達直人=タイガーマスクにも大きな影響を与えることになった。ルリ子の言葉はタイガーが反則を封印し、試合を通じて子供達に正しい行き方を見せていく契機となっただけでなく、直人の試合以外についての考え方にも、あるいは『タイガーマスク』という作品のカラーにも影響を与えたのではないだろうか。それほどにルリ子の願いの言葉は重要なものなのだ。それを踏まえて個々のエピソードを見てみることにしよう。
 第98話「捨て身の虎」(脚本/辻真先、美術/秦秀信、作画監督/白土武、演出/山口康男)では、第6話のタイガー、健太、ルリ子のやりとりが別のかたちで反芻されている。健太は夏休みの宿題の昆虫採取でカブト虫を捕りにいくが、他の男子達に力尽くでカブト虫を奪われ、怪我までしてしまう。仕返しをしようとした健太はルリ子に止められ、さらにハウスを訪れた直人に説得される。ここで、健太と直人は力尽くでカブト虫を奪うような行為をプロレスになぞらえて「反則」と呼ぶ。第6話でも健太は世の中に出ていってあくどいことをするのを「反則」と呼んでいた。直人は語った。世の中には反則を使って憚らない奴らが大勢いる。彼等に打ち勝つにはどうすればいいのか。反則に対して反則で立ち向かっても泥仕合になるだけだ。時間はかかるかもしれないが、正々堂々とやることが本当に勝つということではないのか。直人はそう言って、健太を諭した。第6話の健太はタイガーに対する憧れから、彼が反則を使わないなら、それにならって自分もいい子になろうと思ったわけだが、第98話の健太は直人が言ったことを理解し、自分がやるべきことを考えて拳を下ろしている。そして、納得した健太は「分かったよ」と言って笑顔を見せた。第6話から第98話までの物語で健太がしっかりと成長したことが描かれている。話数の積み重ねが感じられる展開であり、成長した健太の頼もしさが嬉しい。
 ルリ子の願いの言葉を踏まえて、これまでに取り上げた話数について触れていこう。第54話「新しい仲間」では、第6話で「苦しくても真面目に、正しく生き抜くべき」と言ったルリ子が、それを実践したと考えることができる。過保護に育てられ、登校拒否となってしまったミクロに対して、ルリ子は寄り添い、理解し、背中を押した。その背中の押し方は「苦しくても真面目に、正しく生き抜くべき」と言ったルリ子らしいものだった。第54話の彼女の名セリフ「前向きに歩き出した子には、失敗さえも前進する力になるわ」は、第6話の「苦しくても真面目に、正しく生き抜くべき」からヒントを得て書かれたセリフ、あるいは発展させたセリフではないだろうか。第54話では第6話のルリ子がタイガーに懇願するシーンが回想として織り込まれている(尺の関係か「苦しくても真面目に、正しく生き抜くべき」のセリフがカットされているのが残念だ)。作り手も第6話を意識して第54話を作ったのだろう。
 第83話「幸せはいつ訪れる」、第100話「明日を切り開け」等では子供達でも生きていくために、新しい環境に飛び込む勇気が必要であるし、そのために自分を変えていく必要があるかもしれないということが描かれた。それもルリ子の「苦しくても真面目に、正しく生き抜くべき」という言葉の延長線上にあるエピソードなのではないか。
 第100話の最後で直人が言った――子供達を含めた全ての人間にとって明日がどうなるか分からない、だから、毎日毎日を真剣に精一杯戦って明日を切り開いていかなくてはいけない――とは、第6話のルリ子の言葉を、直人が咀嚼して自分の言葉にしたものではなかったのか。第100話の最後のセリフが『タイガーマスク』のテーマであるとしたら、その始まりは第6話のルリ子の言葉であり、それから100話近いエピソードの積み重ねの中で、厚みを持ったものなのではないか。
 言うまでもないことだが、ここまでの文章は僕の解釈が入ったものだ。そして、以下に書くことも僕の想像である。アニメ『タイガーマスク』の作り手はシリーズ終盤の物語を構成するにあたって、原作序盤にあったルリ子の言葉に注目し、それを深掘りするかたちで物語を紡いだのではないか。アニメ『タイガーマスク』は原作とは違った物語を描き、違ったラストシーンに到達するのだが、その一方で物語の完結が見えてきたところで原作を振り返り、原作で描かれたことを尊重してテーマを構築したのだろう。その点も興味深い。

●第17回 直人の告白とハードボイルドドラマの頂点 に続く

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第863回 『(劇)ジョー2』の魅力(13)~『沖ツラ』PV

 もう少し……。

1:47:24~一度観客ガヤをF.Iにさせて、またF.Oしてからジョー(CV.あおい輝彦)の声が聞こえてきて、それ以降(1:48:10辺りまで)ガヤなしでジョーと葉子の会話に絞る音響演出、秀逸です!
1:47:40~ここの葉子、良い顔しています!
1:48:14~判定を聞かずにゆっくり目を閉じるジョー。原作だと、ちばてつや先生独特の“小さいコマ”で描かれているのに対し、アニメは出﨑監督独自の“ド寄り”! それぞれの表現媒体で最高の演出を見せてくれます!
1:48:29~ジョー以上にボロボロのホセ。しかも白髪……! 初見の時、相当衝撃的でした!! 悲しいとかではなく、それまで見たことのない人間を目の当たりにした体験、というか……。
1:48:55~ラストの曲——TV版も劇場版も両方それぞれに良さがあります!
1:49:10~はい、ここからが“ファンが気付いていても口にしない、葉子が落としたグローブ”問題のカット! まず1:49:10~1:49:19あたりまでは“両方右手グローブ”、そして一度跳ねてから1:49:21~ラストまでは“両方左手グローブ”(に見える)! スローモーションなのでミスがバレます。後に出﨑・杉野コンビによるOVA『B.B』(1990年)のオープニング~“B.Bがグローブを落としてるカット”が、この時の復讐戦かと思ったくらいの痛恨の作画ミス! これまでもあちこちで作画・撮影ミスを指摘しましたが、俺みたいな本物のファンは“数々のミスごと”愛して止まないのです!!  だって人間が作るものには失敗はつきものですから。自分が心底尊敬するスタッフの方々による失敗なぞ、丁度良いスパイスと言うモノよ! そもそも前回が862回目のはずのこの連載も“第861回”と間違えた(つまり第861回が2回になってしまった)のですから、他人様の失敗にとやかく言えた義理じゃありません。WEBアニメスタイル様の間違いでは無く、完全なる板垣によるミスでした。この場をお借りして謝罪させてください。本当に申し訳ありませんでした。そして数々の敬称略も、同様にご容赦ください。
1:49:25~で、エンディング。劇場版は“うんとロングまでT.B”で、TV版は“うんとアップまでT.U”の違い。今さら「ジョーの生・死」とかどうでもいい諸説なぞ、不要かと思います故、一先ずここまでということで!

 そして、現在制作中の『沖縄で好きになった子が方言すぎてツラすぎる(略称、沖ツラ)』の新PVと制作現場等がYouTubeに公式で上がっているらしいので、是非~!

【新文芸坐×アニメスタイル vol.180】
夏の思い出・夏の傑作アニメーション『虹色ほたる』

 『虹色ほたる ~永遠の夏休み~』は2012年に公開された劇場アニメーション。小学6年生のユウタは亡くなった父親の思い出が残る村に向かう途中で得体の知れない老人と出会い、そのことから1977年の世界に辿り着く。彼はさえ子という少女、同い年の少年ケンゾーと出会い、これからダムに底に沈んでしまう村でひと夏を過ごすことになる。
 本作は映像に関しても物語に関しても魅力のある作品だ。アニメーションとしては「手描きであること」にこだわり、シンプルなキャラクターをしっかりと動かしている。表情や芝居、画面構成や美術も秀逸。物語に関してはファンタジーであり、少年少女の淡い想いを描いたラブストーリーでもある。昭和の風景や瑞々しい夏の描写も見どころだ。原作は川口雅幸の同名ジュブナイルで、製作は東映アニメーション。監督を宇田鋼之介が、キャラクターデザイン・作画監督を森久司が務めている。

 【新文芸坐×アニメスタイル】でこの作品を上映するのは2012年のオールナイト以来のこと。トークコーナーのゲストは宇田監督。聞き手はアニメスタイルの小黒編集長が務める。チケットは8月18日(日)から発売。チケットの購入方法については新文芸坐のサイトで確認していただきたい。

●関連リンク
新文芸坐オフィシャルサイト
http://www.shin-bungeiza.com/

【新文芸坐×アニメスタイル vol.180】
夏の思い出・夏の傑作アニメーション『虹色ほたる』

開催日

2024年8月25日(日)15:00~17:40予定(トーク込みの時間となります)

会場

新文芸坐

料金

一般1900円、各種割引1500円

上映タイトル

『虹色ほたる ~永遠の夏休み~』(2012/105分)

トーク出演

宇田鋼之介(監督)、小黒祐一郎(聞き手)

備考

※トークショーの撮影・録音は禁止

第225回アニメスタイルイベント
『モブサイコ100』トークショー(作画とか演出とか)

 アニメ『モブサイコ100』シリーズは、ユニークな登場人物とヒューマンな物語が魅力の作品。柔らかいデザインのキャラクターを含め、画作りも斬新なものでした。資料集「モブサイコ100 アーカイブス」の刊行を記念して、アニメ『モブサイコ100』シリーズのトークイベントを開催します。

 出演は立川譲さん(総監督)、亀田祥倫さん(キャラクターデザイン)。他のゲストは決まり次第発表します。聞き手はアニメスタイルの小黒編集長が務めます。トークの内容は作画、演出、あるいは作画を含めた画作りの話が中心になる予定です。
 会場では新刊「モブサイコ100 アーカイブス」を販売します。複製ミニ色紙が購入特典となります。特典は「複製ミニ色紙・モブ」と「複製ミニ色紙・霊幻」があり、購入時にどちらかを選んでいただきます。複製ミニ色紙はコミックマーケットで先行販売するものと同じものです。

 開催日は8月18日(日)。会場は新宿のLOFT/PLUS ONE。今回のイベントもトークのメインパートを配信します。配信はリアルタイムでLOFT CHANNELでツイキャス配信を行い、ツイキャスのアーカイブ配信の後、アニメスタイルチャンネルで配信する予定です。
 ですが、他の記事でお伝えしているように「ニコニコ」サービスが大規模なサイバー攻撃を受けたことにより、アニメスタイルチャンネルは動画の配信を行うことができない状況となっています。アニメスタイルチャンネルが再開した後、このイベントの動画を配信します。

 チケットは8月3日(土)12時から発売となります。チケットについては、以下のロフトグループのページをご覧になってください。

■関連リンク
LOFT HP  https://www.loft-prj.co.jp/schedule/plusone/290658
会場チケット(LivePocket)  https://t.livepocket.jp/e/j1rti
配信チケット(ツイキャス)  https://twitcasting.tv/loftplusone/shopcart/324298

第225回アニメスタイルイベント
『モブサイコ100』トークショー(作画とか演出とか)

開催日

2024年8月18日(日)
開場12時/開演13時 終演16時頃予定

会場

LOFT/PLUS ONE

出演

立川譲、亀田祥倫、中村豊、小黒祐一郎、ほか

チケット

チケット会場での観覧+ツイキャス配信/前売 1,500円、当日 1,800円(税込·飲食代別)
ツイキャス配信チケット/1,300円

■アニメスタイルのトークイベントについて
  アニメスタイル編集部が開催する一連のトークイベントは、イベンターによるショーアップされたものとは異なり、クリエイターのお話、あるいはファントークをメインとする、非常にシンプルなものです。出演者のほとんどは人前で喋ることに慣れていませんし、進行や構成についても至らないところがあるかもしれません。その点は、あらかじめお断りしておきます。

『タイガーマスク』を語る
第15回 ここまでのまとめと『タイガーマスク』のドラマ

 前回までで、第50話「此の子等へも愛を」から第100話「明日を切り開け」までにあったテーマ性の強いエピソードの紹介が終わった。僕はこの10年くらい、プライベートでもイベントでも「『タイガーマスク』のドラマが凄い」という話をし続けてきた。それで話したのが、主にこれらのエピソードだった。
 『タイガーマスク』は児童を意識した番組としてスタートし、次第に大人びた筆致で物語が紡がれるようになり、その結果として、前回までで取り上げたテーマ性の強いエピソード群が生まれた。ここまで読んでいただいた皆さんには、いかに深いドラマが展開されたのか、いかに巧みに物語が構成されているのか、分かっていただけたのではないかと思う。TVアニメ『タイガーマスク』が放映されていたのが1969年から1971年。今から50年以上前にこれだけ、ハイレベルな作品が作られていたのだ。ここでは敢えて「ハイレベル」という言葉を使いたい。

 今回は第50話から第100話までにあったテーマ性の強いエピソードについて振り返る。振り返りつつ、今まで触れていなかった情報も付け加える。
 第4クール終盤から第5クール最後の第50話「此の子等へも愛を」、第54話「新しい仲間」、第55話「煤煙の中の太陽」、第64話「幸せの鐘が鳴るまで」では被爆者家族、過保護、四日市の公害、交通遺児がモチーフになった。第50話と第55話は社会問題を取り上げたことで、アニメファンから賞賛されることが多い。社会問題を取り上げているのは間違いないが、それらのエピソードでは社会問題をきっかけにして、別のテーマを語っており、それが重要なのだ。これについて、僕は何度も言ってきたし、今後も強調していきたい。「社会問題を取り上げたから凄い」ではないのだ。
 第50話、第54話、第55話、第64話では伊達直人が不幸な境遇にいる人達と出会い、そのドラマを通して「直人は、そして人間は不幸な境遇の人達に対して何ができるのか」が描かれた。また、第50話は「他人の不幸を娯楽として消費すること」を皮肉を込めて描いたものとして受け取ることができる。これは作劇とテーマ性が非常に突出した話数として記憶に留めたい。

 第7クールと第8クールでは第83話、第84話、第87話、第89話、第93話、第100話で、ちびっこハウスの個々の子供にスポットが当てられた。社会問題をモチーフにした第50話、第54話、第55話、第64話とは違い、ファンが第83話からの一連のエピソードを語っているのを見たことがない。ではあるが、前回までのコラムで触れたように物語やテーマ性において、非常に充実したものであるのは間違いない。
 それらのハウスの子供にスポットが当たったエピソードでは「みなしごはどのように生きるべきか」が語られた。それは「人間はどのように生きるべきか」について語ったものでもあるはずだ。さらに「不幸な境遇にいる人、人生の岐路に立った人に対して接する場合は、相手のことを真剣に考えることが重要だ」ということも描かれた。
 第100話を観てから第50話を観れば、第50話の直人は被爆者家族に対して、彼等のことを考えて真摯に接していなかったということが分かるはずだ。あるいは第64話や第100話を観てから、以前のいくつかのエピソードを観れば、直人が色々な人達に対してファイトマネーを使っていたのが、思慮に欠けた行いに思えるかもしれない。第50話から第100話までの物語は、劇中では伊達直人自身が、作品外では作り手が、直人の行いについて見つめ直し、何をするべきなのかを考える過程だったのだろう。作り手がテーマや登場人物に真剣に向き合っている点が素晴らしい。
 脇道に入ってしまうが、作り手の真剣さと言えば、書いておきたいことがある。この作品ではテレビの前でアニメ『タイガーマスク』を観ている子供が、劇中の子供達に気持ちを重ねるという構造があった。つまり、劇中の健太達がテレビ中継を観てタイガーを応援し、それと一緒に現実世界でテレビを観ている子供達がタイガーを応援して気持ちを盛り上げていく。全話に健太達がテレビ中継を観ている描写があるわけではないが、基本としてそういった構造となっていた。第83話でタイガーがミクロに対して「自分の幸福のために、タイガーマスクのファンをやめる必要があるかもしれない」と言っているが、メタ視点を導入すると、あの発言は現実世界でテレビを観ている子供達に対して「君に必要なら、この番組を観るのをやめたほうがいいかもしれない」と言ったのと同じことだと受け取ることができる。そうだとしたら、何という強烈なメッセージなのだろうか。多くの視聴者に観てもらうためにテレビ番組を作っているはずのスタッフ達が、そんなことを語るなんて。視聴者である子供にとって何が重要なのか、それを真摯に考えた結果として生まれたメッセージであるのだろう。『タイガーマスク』の作り手の志の高さは眩しいほどのものだ。

 作り手は『タイガーマスク』の作劇についてどのように考えていたのだろうか。LD BOXの解説書に掲載された斉藤侑プロデューサーと脚本家 安藤豊弘のWインタビュー(DVD BOX第2巻の解説書に再録した)を読んでみよう。斉藤プロデューサーから脚本家に感情をリアルに表現して欲しいというオーダーがあったそうだ。それは非日常であるリングとちびっこハウスの日常をオーバーラップさせ、両者のドラマが溶け合うようにするためだった。安藤豊弘はそれを実現するために「シナリオの書き方も変わりましたよね。実写と変わらない書き方をしました」と述べ、それに対して斉藤プロデューサーは「それは僕の方で要求したんですよ。要するにマンガじゃないんだと。人間を描くんだからドラマがなきゃウソだ! ってね」とコメントしている。
 被爆者家族や四日市の公害を扱ったエピソードについてはLD BOXのWインタビューと、DVD BOX第2巻の新規インタビューで、斉藤プロデューサーは「伊達直人の生い立ちを考えれば、どうしてもそういったものに目を向けることになる」と述べている。みなしごの問題を突き詰めていけば社会の矛盾にぶつかるし、必然的にみなしご以外の問題に向き合う必要が出てくるということだ。斉藤プロデューサーはDVD BOX第2巻の新規インタビューで「プロデューサーになった以上は、自分が作りたいと思ったものを作りたかった。現実に自分の周囲にいろんな問題がある。(略)たまたま原作にもそういう傾向があったので、取り入れていったということです。それと、タイガーの弱者に対する目線を考えるとね、ああいったことを取り上げざるを得ない」とも語っている。『タイガーマスク』制作当時において、作り手にとって身近な問題は四日市の公害や交通戦争であり、みなしごの延長線上にあるものとして、それらを取り上げたのだ。
 第7クールと第8クールでちびっこハウスの子供達にスポットを当てたことについて、最終回を前にしてハウスのドラマを完結させる意図もあったが「ライターがそういうものを書きたがったのだろう。安藤さんがそういうものを書きたがったのではないか」と、DVD BOX第2巻の新規インタビューで斉藤プロデューサーは語っている。僕がDVD BOXで斉藤プロデューサーに取材をしてから20年以上が経った。もしも、機会があれば改めて『タイガーマスク』の主要スタッフにインタビューをしたい。

 さて、以下は別の話題だ。第50話、第83話、第93話、第100話では子供達が生きていくために、過酷な道を歩まなくてはいけないことが描かれた。具体的に言うと、新しい環境で暮らしていくために自分を変えなくてはいけないこと、あるいは不安を抱えていながら、自分の人生を左右する決断をしなくてはいけないことが語られた。生きることとは戦いであり、それは大人でも子供でも変わりはない。だから、毎日を精一杯生きて、明日を切り開いていくことが必要なのだ。それが第100話の結論であり、第50話、第83話、第93話もその価値感が前提で物語が紡がれていると言えるはずだ。
 ハードボイルドヒーローである伊達直人の日々が過酷であるのは納得できるが、どうして『タイガーマスク』の作り手は、子供達も過酷な人生を生きなくてはいけないとしたのだろうか。冷静に考えると、これは異色のドラマと言えるのではないだろうか。
 それについては次回で触れることとしたい。

●第16回 ルリ子の願いと『タイガーマスク』のテーマ に続く

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第862回 『(劇)ジョー2』の魅力(12)

 ただ黙って、続き。12回目……。

1:42:43~BGMをF.Oさせるのを境に、音を“ジョーとホセの息のみ(厳密には足音はあり)”に絞る音響演出が状況の恐ろしさを3倍に引き上げています!
1:43:03~いつもの“止め+ハーモニー”を軽く凌駕する驚異のペンタッチ! こちらは原作のイメージのまんまです。
1:43:19~この発狂ホセ、眼球の白眼が黄色いのはワザとの色指定?
1:43:26~ジョーをタコ殴りにするホセ! この“狂った動き”のお陰で、ホセの太眉(これもファンの間で有名?)など全く気になりません!
1:43:30~二人のシルエットからPAN UP↑してジョーの呻き声と共に血飛沫が舞う! この迫力、初見の時以来トラウマになりました。何もかも狂っていく男の戦い。因みにここ、TV版だとジョーの呻き声有りません、残念。
1:43:40~今度はレフェリーが太眉!
1:43:43~実はあまりなかった“止め+ハーモニーの観客”のみのカット。驚愕感が伝わります。
1:43:50~ホセ、太眉!!! このカットが一番の語り草? 2号影を越えた3号影の指定が“黒”になったと推測されます。前述の全身サイズのほうは逆に、本来の眉上のシワ線(?)との間をノーマルではなく“黒”に塗ってしまったのかと?
1:44:05~青パラで隠れてはいるものの、瓶の口部分に色パカ。そして咳き込むホセの眼も塗り損ねあり。
1:44:14~この顔……。初見ではもう真面に画面を見ていられなかったです。生気ないんだもん(涙)。しかも、ここからラストラウンドいっぱいまでジョーの主観は一切排除していて、本当に恐怖でした。
1:44:26~この辺りも確実に意図的に動き・ポーズ繋いでいませんよね、出﨑監督。ホセ(CV/岡田真澄)のモノローグも相まって異様な雰囲気。
1:44:43~既にリングすら描かない——いや、描く必要すらないドラマのテンション! 出﨑監督は生前、「ドラマに観客を引き込んでいれば、どんな表現も受け入れてくれるはず」的なお話されています。
1:44:56~キラキラのピンホールT光(透過光)素敵! 止め作画の前で光のバラつき抑揚だけの方が効果的!
1:45:08~ラストラウンド! 初見時、もう涙に入射光が反射して画面が見えなかったのを憶えています。
1:45:31~ジョーの叫び声から、ダウン! カッコイイ!
1:45:44~ここも葉子のテンション・マックスで、“瞳Hiブレ”が塗られていないことなど全く気になりませんでした。
1:45:52~一部実線(?)のせいか涙が立体的。そしてこちらも瞳Hiブレの塗り忘れ。気にしない、気にしない。
1:46:04~クロスカウンター! この手足の長いデッサンに惚れ込みました。「こんな画が描きたい!」と。
1:46:08~ウルフ金串の応援、嬉しい!
1:46:13~サチの眼の塗りが、可哀そうなことに……。
1:46:14~ホセ~ダウンから立ち上がり迄をカット割ってO.L(オーバーラップ)繋ぎ。いまだに自分もコンテで真似します。出﨑監督がその最たるものですが、“巧い演出”とは“巧い省略”とも言い換えることができるものです!
1:46:30~……でも、ここの縦PAN↕往復は、今見ると(汗)。
1:46:32~ゴロマキ権藤の応援も嬉しい!
1:46:35~ここまでテンション上がると、どんなに飛んだ表現も受け入れられます。リング照明のT光スーパー越し! この手の映像表現の発展型が『エースをねらえ!2』(’88)だと思います!
1:46:49~ここのFIX長回しアクションは秀逸! TV版ではもう少しだけ長く見れます。
1:47:15~「——燃え尽きた……」はTV版ではモノローグ。本来は劇場版でこの前カット「燃えたよ……」の方に口パクをつけるべきだったのにミス。TV版で追っかける際に口パク足すのに面倒になったのか、こちらの方をパク止めて完全にモノローグにした、ってことでしょうか? 個人的には時間が止まったような止め画の中、ジョーの口パクだけが動く——が良かったと今でも観返す度に思います。
1:47:24~興奮冷め止まぬ熱気表現で“波ガラス”かかっています。こういうところ、細かい!

 すみません、ラストにもう一週語らせてください(チェックのお仕事が……)!
 あと敬称略、すみません……。

第285回 かけがえのない音 〜ルックバック〜

 腹巻猫です。巷でも話題の劇場作品『ルックバック』、観ましたよ。そして激しく気持ちをゆさぶられました。なにより映像がすばらしい。原作は発表されたときに読んでいたけれど、劇場版では、作品の中に入ってキャラクターとともに人生を生きるような体験を味わいました。そして、わかってはいたけれど、「そうなるのね」という切なさ。背景に流れる音楽(劇伴)が、ふつうの映画音楽とは異なる、ライブ感のある音楽であることも心に残りました。今回はその音楽について語ってみます。


 『ルックバック』は2024年6月28日に公開された劇場アニメ。藤本タツキの同名マンガを原作に、監督・脚本・キャラクターデザインを押山清高が務め、アニメーション制作をスタジオドリアンが担当して映像化した。
 マンガ好きの小学4年生の少女・藤野は、圧倒的な画力を持つ同級生の少女・京本と出会い、刺激を受け、やがて2人でマンガを描くようになる。ついに2人はマンガ雑誌でデビューするが、初めての連載の仕事を前に2人の歩む道は分かれてしまう。それから数年後、マンガ家として忙しい日々を送っていた藤野のもとにある知らせが届く。
 ストーリーを語ることはあまり意味がない。絵の力とそれが呼び起こす感情に圧倒される。藤野や京本が感じること、彼女たちが2人で、あるいは1人で過ごす日々をともに体験することで、観客の心の底に沈んでいたさまざまな記憶や気持ちが浮かびあがってくる。つい、それを解釈したり、語ったりしてしまいたくなるけれど、そうではなく、じっとかみしめることに意味がある……そんな作品だと筆者は受け取った。

 映像がすばらしいのはもちろんだが、音楽も尋常でない力を持っている。映像に寄り添い、絵が躍動すると音楽もはずむ。絵と音の気持ちがぴったり合っている。音楽を担当したのは、haruka nakamura。ピアノを主体にしたソロアルバムをリリースするなど、独自の音楽活動を展開している音楽家である。原作者の藤本タツキがharuka nakamuraの音楽を聴きながら原作を描いていたことがきっかけで、アニメ版の音楽を依頼されたという。
 劇場版のパンフレットに掲載されたharuka nakamuraのコメントを読んで、筆者は「えっ?」と思った。nakamuraはこう書いている。

「大体は映像を見ながら感じたままに即興演奏をしたピアノを土台に、アンビエントなどの様々な音や、徳澤青弦さんによる素晴らしいストリングス・アレンジをつけていただいたりした上で完成しています」

 フィルムスコアリングだろうと思っていたが、即興演奏とは!?
 サウンドトラック・アルバムの解説書に、より詳しい音楽作りの背景が書かれている。本作の音楽は、haruka nakamuraが映像を観ながらピアノを即興で演奏し、ほとんどの場合、そのファーストテイクに音を加えるなどして作り上げたものだという。
 フィルムスコアリングとは、文字どおりフィルムに合わせて譜面(スコア)を書くことだ。譜面で設計した音楽を映像とタイミングを合わせて演奏し、完成させる。現在はコンピューターで音楽が作れるので、モニターを観ながらキーボードを弾いて作曲することも行われているが、最終的にはテンポを整えたり、アレンジを加えたりして仕上げていく。即興演奏がそのまま使われるわけではない。『ルックバック』の音楽の作り方は、フィルムスコアリングとはまったく別である。
 即興演奏による映画音楽といえば、すぐ思い浮かぶのが1958年公開のフランス作品「死刑台のエレベーター」である。ジャズミュージシャンのマイルス・デイビスと彼のバンドがスクリーンに投影された映像を観ながら即興で演奏した音楽が使用された。……と言われているが、実態はもう少し複雑だ。マイルスは事前にラッシュフィルムを観て音楽の構想を練り、本番ではマイルスがリードしながらバンドメンバーが演奏していった。曲によっては2回、3回とテイクを重ねて、イメージに合う演奏を追求している。現在は、本編に採用されなかったテイクも商品化されていて、CDや配信で聴くことができる。
 即興性の重視という点では、「死刑台のエレベーター」よりも『ルックバック』のほうが徹底している。haruka nakamuraは、即興演奏したピアノのファーストテイクをあえて使っている。テイクを重ねれば音楽的には整ってくるが、初めて弾いたときの感情や演奏の瑞々しさは失われる。ファーストテイクは、テンポもゆれているし、演奏も粗いところがある。が、その演奏には、2度とくり返すことのできない、かけがえのない感情と時間が刻まれている。その「かけがえのない音」が『ルックバック』には必要だった。この作品に流れる音楽はそういう音楽でなければいけない、とharuka nakamuraは思ったのだろう。
 本作のサウンドトラック・アルバムは「劇場アニメ ルックバック オリジナルサウンドトラック」のタイトルで、2024年6月28日にエイベックス・ピクチャーズからリリースされた。収録曲は以下のとおり。

  1. 流れゆく季節
  2. 空想の彼方で
  3. 8の季節
  4. 日々に帰る
  5. スケッチブック
  6. Rainy Dance
  7. ふたりの背中
  8. 輝いた季節
  9. beautiful days
  10. solitude
  11. RE : SIN
  12. ひとりの君へ
  13. エンカウンター
  14. 君のための歌
  15. FINAL ONE
  16. Light song

 全16曲。収録時間約25分。上映時間1時間弱の作品なので音楽の量は多くないが、本編同様にとても濃密なサントラだ。
 本アルバムはCDと配信でリリースされている。デジタルアルバムでも購入できるし、サブスクでも聴くことができる。が、音楽に関心を持った方は、ぜひCD版を購入することをお勧めする。CD版の解説書にはharuma nakamuraによるコメントと全曲解説が掲載されているからだ。それを読めば、『ルックバック』の音楽について知るべきことはすべてわかる。
 haruka nakamuraはこの作品の音楽を頭から順に作っていった。作品の中の感情の流れに寄り添った音楽にしたいと思ったからだ。同時に3つの場面の音楽を軸にすることを考えたという。
 そのひとつめが冒頭のシーンの曲「流れゆく季節」(トラック1)。俯瞰で描かれた夜の街、カメラがひとつの家に近づき、藤野の部屋の中へ。マンガ描きに熱中する藤野の背中に、ピアノの旋律が重なる。弦楽器が加わり、藤野の心に渦巻く感情を表現する。別録りしたとは思えない、ピアノとストリングスのみごとなアンサンブルに気持ちが引き込まれる。
 ふたつめは、京本と初めて顔を合わせた藤本が、雨の中を踊るように駆けながら帰るシーンの曲「Rainy Dance」(トラック6)。藤野のよろこびと興奮がそのまま絵になったようなシーンに音楽もぴったりついていく。映像と音楽のセッションだ。藤野の足取りに合わせてテンポも変わり、鍵盤を弾くタッチも変化する。感情が徐々に盛り上がり爆発するような、高揚感あふれる演奏。こちらの気持ちもシンクロする。
 3つめは、作品のラスト、藤野がひとり机に向かってマンガを描くシーンの曲「FINAL ONE」(トラック15)。作品の中で流れた情感がここに集約されている。作品から引き出された感情のままに、しだいにテンポが速くなり、メロディも展開していく。まさに「万感胸にせまる」演奏である。
 ここまで紹介した3曲——「流れゆく季節」「Rainy Dance」「FINAL ONE」を聴いただけで、この作品の核になっているものが伝わってくる。haruka nakamuraの言葉どおり、『ルックバック』の音楽は、物語的にも心情的にも、この3つの曲が中心になっているのだ。
 トラック3「8の季節」は、藤野がひたむきに絵の練習にはげむシーン(シークエンス)に流れる曲。このシーンは、セリフはほとんどなく、映像の連なりと音楽で時の経過を表現している。音楽の力を信頼した演出だ。haruka nakamuraによれば、このシーンは「原作を読んだ時から頭の中で音が聴こえて」いたそうだ。短いフレーズをくり返すピアノにストリングスがからみ、藤野の心の熱量を表現する。夢中になって何かに打ち込んだ経験がある人なら、心を動かされずにいられない場面である。
 藤野と京本のやさしい時間を彩る「ふたりの背中」(トラック7)もいい。ミュート・ピアノを使った温かい音色が、2人のかけがえのない日々に寄り添う。それに続く2曲——「輝いた季節」(トラック8)と「beautiful days」(トラック9)の、日々を慈しむような旋律と音色の美しさ。「この時間がずっと続けばいいのに……」と思う気持ちが音になったような曲である。
 トラック11「RE : SIN」もミュート・ピアノを使った曲。映画の終盤、京本の家に行った藤野が深い後悔の念に襲われる場面に流れる。ミュート・ピアノの抑えた音色が、過ぎ去った時を悼むような哀感を帯びた旋律を奏でる。曲の冒頭のシンセのような音は、曲の終わりの部分のメロディを逆再生したもの。一気に時をさかのぼるような音響的な工夫が効果を上げている。
 それに続く「ひとりの君へ」(トラック12)と「君のための歌」(トラック14)の切なさったらない。いや、曲自体は切なくない。むしろやさしく温かいのだけど、それがなおさら胸を打つ。大切な人を想う祈りのように。
 すでに紹介した「FINAL ONE」(トラック15)をはさんで、トラック16「Light song」は本編全体を締めくくるラストソング。haruka nakamuraが「讃美歌」のつもりで作ったという、素朴で美しい曲である。主題歌とされているが、意味のついた歌詞はない。造語のような、どこの国の言葉でもない音の連なりで歌われているのだ。歌詞をつけなかったのもよかったと思う。言葉にすれば、わかりやすくはなるけれど、作品の解釈を限定してしまうおそれもある。この曲は、観客がそれぞれに意味をあてはめて聴けばよいのだ。

 『ルックバック』の音楽は作品の記憶をよみがえらせるだけでなく、作品に刺激されて呼び起こされた、さまざまな感情もよみがえらせる。タイトルの『ルックバック』が意味するように、過去をふり返らせてくれるわけだが、聴き終える頃には、前に進もうという気持ちもわき上がってくる。即興演奏が生み出すドライブ感の力だろう。『ルックバック』は「背中を見る(見て)」という意味にもとれるが、むしろ背中を押してくれる音楽でもあるのがすばらしい。

劇場アニメ ルックバック オリジナルサウンドトラック
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第861回 『(劇)ジョー2』の魅力(11)

 四の五の言わず、続き11回目……。

1:36:02~「見えねえのはおっつぁんと同じ片っぽだけだ、何とかなる!」この言い方も衝撃でした。
1:36:13~カバレロ「えぇ? そんなことは、できないよ、ホセ」これも、この対応が正解。原作だと本当にレフェリーを呼んで試合を放棄させようと試みるも、レフェリー本人から「馬鹿なことを言わないで」と窘められるんですよね、カバレロ(笑)。あと、“赤コーナーポスト”なのに補色的効果を狙って、半分“青”が入ってるところが小林七郎美術監督っぽい。
1:36:20~ここのBGMが入るところからもう“絶望”感半端なくって、初見の時は泣いてました。
1:36:30~迫るジョーにホセのドアップが重なってる異様な画面。それまでこんな画見たことなくて、衝撃でした! TV版ではこの後“止め+ハーモニー”になるんですよね。
1:36:49~ホセの連打を受け、マウスピースを噴き出し崩れ落ちるジョー。葉子じゃなくても見ていられませんでした。
1:36:56~久し振りに葉子のカット。表情が切ない……。
1:36:58~林屋夫妻と紀子。この会場内でジョーのパンチドランカーについて知っているのは葉子だけってのも切ない。
1:37:00~この映画にゴロマキ権藤は必要だったのでしょうか? でも、横顔かっけ~! で、隣のうるせぇチンピラの手が、カット尻のみ権藤の肌色に! 塗りミス!
1:37:50~このジョーの表情なんか最高ですね! 多く語る必要なし! これが分からない人とは一生友達になれる気がしません!
1:38:08~パンチを繰り出したジョー(止め)に遅れてホセ(止め)がF.I(フェード・イン)で現れる! こういうアニメならではの省略(飛ばし?)演出が本当に巧い、出﨑監督!
1:38:16~ジョーの呻き声が響く中、思わず席を立っている葉子……!
1:38:19~そして、眼前の惨劇をいくら描くより、この葉子の表情一発ですべて伝わる、やっぱり杉野(昭夫)作画は凄い!!
1:38:28~堪らず武道館を出たところ、さらに待ち構えていたようにのラジオ生中継。これが演出!
1:38:45~ここからの車内のシーン全般、尺が短い分劇場の方が損してますよね。TV版だと葉子が再び武道館に戻るまでの葛藤に、控室での「ありがとう……」のジョーが回想~こだまします。あれが良かったのに、劇場版ではカット。
1:39:16~髪をかき上げる葉子、良く描けてます! 出﨑監督も『(劇)ジョー2』特集号での杉野作監・島田(十九八)Pとの対談で褒めてました。
1:39:51~で、武道館に戻り扉を開けると再び歓声が聴こえ~惨状が葉子の目に飛び込んでくる!
1:39:53~その葉子の顔がこれ。
1:40:22~先に答えを言うと、これは劇場版の方が正解。劇場版は最初から外人は全て日本語で通してるから気になりませんが、TV版だと普段の会話は英語+字幕で通して、ここから“日本語によるモノローグ”になるのです! これだけは、もう少し計算して欲しかった、TV版。
1:40:34~「ジョー・ヤブキは死んだりするが怖くないのか? 彼には悲しむ人間が一人もいないのか? 私は違う。私は死ぬのが恐ろしい……!」このホセの吐露に対して、「だから、ジョーはカッコイイんだ!」と興奮した俺でした。
1:41:00~ジョーが投げたタオルが葉子の足元に落ちる——本当に神がかった原作、そして演出!
1:41:11~一旦拾い上げたタオルを、再び落とす葉子。これで全て表現できているのは分かりますが、初見の時は“まだやらせるなんて、狂ってる!”でした。
1:41:29~どう考えても不幸な未来に向かって驀進中の男を、力一杯応援する女の狂気! 表情にそれが出ています。
1:41:33~これだけ熱いと、上下ビンボービスタのトリミングで段平の顔が切れてても、全然気になりません!
1:42:03~この葉子の叫びに、当時ガキだった自分、ボロボロ泣いて観てました。
1:42:26~またパラレル・ガイコツ。前述と服装が違います。さらに声も違う? 多分劇場先行作画がスケジュールギリギリで、出﨑監督のコンテを直撮影(コンテ撮)によるアフレコでキャラの分別ができない状態で収録され、後から画がハマったらガイコツが口パクしてた、ってことかと推測できます。本来は隣のゲリラが喋る予定だった? また些末なことです。

 と、まだ続くことと敬称略、すみません。来週こそは終わりそうです……。

【新文芸坐×アニメスタイル vol. 179】
『この世界の片隅に』八度目の夏

 新文芸坐とアニメスタイルは毎年、夏に片渕須直監督の作品を上映してきました。今年の夏も昨年と同様に昼間のプログラムをお届けします。

 日時は8月3日(土)。上映するのは片渕監督の『アリーテ姫』と『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』の2本です。午前10時に上映スタートです。2本を上映した後に、片渕監督のトークコーナーとなります。また、トークコーナーの最初に制作中の『つるばみ色のなぎ子たち』のパイロット映像を上映する予定です。

 チケットは7月27日(土)から発売開始です。会場では『この世界の片隅に』の絵コンテを収録した書籍「この世界の片隅に 絵コンテ[最長版]」を販売します。この書籍については以下の記事をどうぞ。

●『この世界の片隅に』絵コンテの決定版 [長尺版]よりも長い[最長版]で刊行!
http://animestyle.jp/news/2019/11/11/16619/

 チケットの発売方法については、新文芸坐のサイトで確認してください。

【新文芸坐×アニメスタイル vol. 179】
『この世界の片隅に』八度目の夏

開催日

2024年8月3日(土) 10時~15時55分(トーク込みの時間となります)

会場

新文芸坐

料金

一般2800円、各種割引 2400円

上映タイトル

『アリーテ姫』(2001/105分/35mm)
『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』(2019/168分/DCP)

トーク出演

片渕須直(監督)、小黒祐一郎(アニメスタイル編集長)

備考

※トークショーの撮影・録音は禁止

●関連サイト
新文芸坐オフィシャルサイト
http://www.shin-bungeiza.com/

第860回 『(劇)ジョー2』の魅力(10)

 続き。遂に10回目。実際自分の人生を変えた映画だけに、まだまだ深く掘り下げたいのが本音。でも、こればっかやってられないので早く終わらせます、はい……。

1:24:11~あ、客席に出﨑統監督発見! どうやら杉野昭夫作画監督らしき人も?
1:24:15~無理してこんな難しい芝居をこのアングルで描かせなくてもいいのに……。
1:24:30~この辺りからのアクション作画は、良い意味で雑で荒々しい! 冒頭の丁寧作画はもちろん最高なのですが、後半の——リアルな話、スケジュールとのせめぎ合いで、アニメーターたちも描き飛ばさざるを得ない状況の作画が鬼気迫っててカッコいい!! 以前、杉野さんが「スケジュールがキツいほうが、良いアクションになる」的に語ったインタビューがありましたが、それは板垣も同感。テレコム(・アニメーションフィルム)時代、大塚(康生)さんが俺らに「3秒の動きは3秒で描け」と教えてくださったことと異口同音だと思います。
1:24:37~ここのパンチなんか、ジョーの腕がやたら長く描かれていたり!
1:24:43~鬼気迫るジョーの形相が、死に向かって全力で突進してるヤバさが出てて、観てる最中不安しかなかったのを憶えています。
1:24:56~これも狂気……!
1:25:30~今、自分もプロ目線で見るとここも前カットとポーズ繋がってないですよね。
1:25:51~初めて武道館(花澤香菜コンサート)に行った際、この画が決してオーバーな俯瞰ではないこと(すり鉢状)を体感しました。にしてもここのキノコ、コミカルで良い動き。『ジョー2』のキノコは『ガンバの冒険』のイカサマと被ります。出﨑作品&同じ声優。
1:26:44~コークスクリュー・パンチ炸裂!!! 初見では画面を直視できませんでした。あおい輝彦の呻き・叫びがさらに迫真で、痛さが自分に伝わってきたし、「ジョー、死んじゃうって……!」と涙で歪んだ視界で観てました。こんな体験、後にも先にも『ジョー2』だけでした!
1:27:04~前カット思いっきりの深呼吸から、中無しで止めQ.PAN+画ブレ! この呼吸が真から痛い!
1:27:20~ウルフ金串(CV.納谷六朗)が応援してるのは嬉しい。
1:28:19~画面分割+段平の解説~コークスクリュー横~そして、止め+縦PAN、カット割りの呼吸が素晴らしい! “ゴージャス作画+アニメーター努力(忍耐)”ばかりが賞賛される昨今の劇場アニメと違い、ちゃんと“コンテ・演出”で面白い流れを作っている出﨑監督の仕事はもっと評価されるべきです! アニメとして!
1:28:53~個人的に劇場版~岸部シロー・西で一番好きなところ!
1:29:12~段平の言うとおり、本当に「殺されるぞ、ジョー!」と思って観ていたアングル。
1:29:31~所謂“『ジョー2』名物——太眉のホセ”が一瞬! 多分塗り間違い。
1:30:25~ホセの動揺と同じく、俺も激しく動揺したことを憶えています。…ドクター・キニスキー、ちゃんと見ててよ。
1:31:09~「ジ、エンド——」からホセの背後で身体を起こすジョーに、「もう、止めて」と切に願った自分。
1:31:28~「やけっぱちのパンチドランカーさ」と不敵に笑むジョーに“生き様”を感じました。
1:31:38~余裕かまして躱したつもりのところへ、飛んでくるジョーのパンチが面白い。
1:31:49~この(ジョーのパンチが当たった時の)ホセの目は一体どうなっているのか?
1:31:53~「もろに俺のパンチが当たりやがる!」と言ったって、観ていた俺は起死回生のチャンスだ、などと喜べなかったです、痛々しくって。
1:32:00~パラレル・ガイコツ! TVシリーズ版・第44話でてっぺんに髪があるガイコツが登場します。多分劇場版作画の“追い越し”で劇場公開の後、TV版 “少年院OB集う”シーン用に設定を起こした、ってことだと推測します(違う?)
1:32:47~ここのモノローグ~ホセ、被る水をスーパー処理で重ねて、画面センター(目部分)以外青パラで画面7割を覆って……、不思議な空気感です。アナログ撮影でもワン・アイディアの工夫で色んなことができるのです。ただ今見ると、耳にも水をかけて欲しかった(汗)。
1:33:14~カット尻、段平の笑いが空振りしてますが、そんな些末なこと気にしません。
1:33:46~ホセ初ダウン! 止めハーモニーに動きのインサート、巧い!
1:34:17~ジョー、3回通過リピート~猛ラッシュ! でも、俺は嬉しくなかったです。
1:34:22~目がヤバい! 狂ってる!
1:35:35~「右目がもうほとんど見えねえ……」、こういう絶望的なことを口元に笑みを浮かべて言う大人の男の世界があったのか! と、ショックでした。

 で、まだ続くことと敬称略。すみません。

第284回 冒険する音楽 〜終末トレインどこへいく?〜

 腹巻猫です。6月26日にTVアニメ『終末トレインどこへいく?』のサウンドトラック・アルバムがリリースされました。本作は西武池袋線沿線を舞台にしたSFファンタジー作品。西武池袋線は筆者がよく利用する路線で、毎回、見慣れた駅や聞き覚えのある駅が登場するが楽しみでした。今回は、本作の音楽を紹介します。


 『終末トレインどこへいく?』は2024年4月から6月まで全12話が放送されたTVアニメ。『ガールズ&パンツァー』の水島努が監督と音響監督を務め、アニメーション制作をEMTスクエアードが担当したオリジナル作品である。
 7G回線開通時の事故により、奇怪な世界に変貌してしまった地球。地上の風景は大きく変わり、人々の多くも人間とは異なる姿になっていた。
 主人公の女子高生・千倉静留が暮らす埼玉県・吾野も、21歳3ヵ月を越えた大人がみな動物に変身してしまう異変が起きていた。ある日、静留は新聞に載った写真に2年前にけんか別れしてしまった幼なじみの同級生・中富葉香の姿を見る。葉香が池袋にいると知った静留は、吾野駅のホームに放置されていた電車を動かして池袋に向かうことにした。同級生の星撫子、久賀玲実、東雲晶、犬のポチさんも電車に乗り込み、静留についていく。異世界と化した西武池袋線沿線をたどりながら、静留たちは池袋への旅を続ける。
 面白かったなあ。オリジナル作品だから先がどうなるのかわからず、毎回わくわくしながら観ていた。
 静留たちが訪れる西武池袋線沿線の光景が、どれもシュールでユニーク。見慣れた日常が異界に変貌するSFファンタジー作品ならではのセンスオブワンダーを味わった。最近流行の異世界ものでは、舞台は異世界の設定でも地球とそんなに変わらない風景である作品が多いのだが、本作は掛値なしの異世界。「ふしぎの国のアリス」の世界をさらにシュールかつ怪奇にしたような世界が見られるのが楽しみだった。
 本作を観ながら、筆者は『宇宙戦艦ヤマト』第1作を思い出していた。電車の旅なら『銀河鉄道999』だろうと思われるかもしれないが、筆者にとって『宇宙戦艦ヤマト』第1作は「未知の宇宙を旅する物語」。ガミラスとの戦いよりも、旅の途中で遭遇する未知の宇宙生物や壮大な天体現象に面白さを感じていたのだ。『終末トレインどこへいく?』も未知の世界を旅する物語である点が共通している。初期のエピソードではラストに「池袋まであと○駅」と残りの駅数が表示されていたことも『宇宙戦艦ヤマト』第1作を連想させた。
 後半は展開がやや駆け足になったことが惜しまれる。もっとふくらませられるなと思ったエピソードがあるし、通り過ぎた駅にも停車して、2クール放送してほしかった。

 音楽は辻林美穂が担当。シンガーソングライターとして活動するかたわら、TVアニメ『異世界食堂』の音楽なども手がける音楽家である。
 本作の音楽の中心になっているのは3つのモチーフ。メインテーマ「終末トレインどこへいく?」と静留が操縦する電車「アポジー号」のテーマ、そして、静留と葉香のテーマ「ふたりのきもち」のメロディである。静留と葉香のテーマが設定されているところが重要だ。本作は突き詰めると「静留と葉香の物語」なのだから。
 それ以外に、静留たちが立ち寄る西武池袋線沿線の町のエピソード用に作られた曲がある。近年のTVアニメは放送前に全話分のシナリオが完成していることが多く、音楽もシナリオの特定の場面を想定して作られるケースがある。本作もそれに近い音楽作りが行われているようだ。
 本作のサウンドトラック・アルバムは2024年6月26日に「オリジナルTVアニメーション『終末トレインどこへいく?』オリジナル・サウンドトラック」のタイトルでフライングドッグからリリースされた。メディアは配信のみで、CDやアナログ盤での発売はない。収録曲は以下のとおり。

  1. 終末トレインどこへいく? -main theme-
  2. アポジー号 -go go Apogee-
  3. みんなと一緒
  4. ふたりのきもち -すれちがい-
  5. 腰巾着
  6. スワンボート
  7. キノコの里I
  8. キノコの里II
  9. ふたりのきもち -もう知らない-
  10. 終末トレインどこへいく? -darkness-
  11. じわじわゾンビ
  12. ダッシュゾンビ
  13. あなたたちには私が必要
  14. 私にはあなたたちが必要
  15. アポジー号 -dreamy-
  16. 息を潜めて
  17. 俺がルール
  18. 練馬の国のアリス -main theme-
  19. 練馬の国のアリス -nightmare-
  20. 練馬の国のアリス -battle-
  21. 終末トレインどこへいく? -sunny-
  22. お父さんだきゅるん
  23. 漫画で世界を変えるんだI
  24. トキワビーム -dramatic-
  25. トキワビーム -romantic-
  26. 漫画で世界を変えるんだII
  27. アポジー号 -go faster-
  28. 抜け出せない迷宮
  29. 逃げて!
  30. ふたりのきもち -ひとりぼっち-
  31. 終末トレインどこへいく? -dash-
  32. ディストピア
  33. 魔女王
  34. ふたりのきもち -ごめんね-
  35. ありがとう
  36. 黒豹便のテーマ(歌:大渕野々花)
  37. 黒豹便のテーマ -instrumental-

 主題歌の収録はないが、劇中に流れるCMソング「黒豹便のテーマ」とそのカラオケがボーナストラック的に収録されている。黒豹便とは静留たちの世界で活動している宅配便サービスである。
 曲の並びは劇中使用順どおりではないが、おおむねストーリーに沿った構成。聴きながら本編をふり返ることができる。ただ、本編で流れていて未収録になった曲もいくつかあるようだ。せっかく収録時間の制約がない配信アルバムなのだから、全曲収録か、それに近いボリュームでのアルバムにしてほしかった。
 1曲めの「終末トレインどこへいく? -main theme-」は本作のメインテーマ。シンセの不思議な前奏から徐々にリズムが加わり、短いフレーズがくり返される中にメインのメロディが少しずつ姿を現す構成。曲の半ばを過ぎて、ようやくメインのメロディの全体がピアノとシンセで演奏される。哀愁のあるメロディは、本作のテーマである静留と葉香の関係を思わせる。前進感のある曲調は本作が「旅」の物語であることを反映しているのだろう。第1話のラストで静留たちが池袋へ旅立つ場面をはじめ、途中で立ち寄った駅から出発する場面などにたびたび選曲された。
 アルバムには、この曲の3つの変奏が収録されている。トラック10「終末トレインどこへいく? -darkness-」はミステリアスなアルペジオがくり返される謎めいた雰囲気の曲。メインテーマのメロディは曲の後半に歪んだ音色のシンセで薄く流れるだけ。メインテーマのバリエーションとしては変わったアレンジだ。が、怪しげな曲調を生かして、静留たちが葉香の手がかりを得る場面や立ち寄った駅で不安を感じる場面などによく使われている。
 トラック21「終末トレインどこへいく? -sunny-」は生楽器の演奏によるほのぼのムードのアレンジ。異変が起きる前の日常の回想シーンや静留たちの語らいの場面に流れた。
 3つめの変奏曲がトラック31「終末トレインどこへいく? -dash-」。こちらは緊迫感のあるアップテンポのアレンジで、曲名通り、静留たちが危機から脱出しようとする場面などに使われた。
 トラック2「アポジー号 -go go Apogee-」は、静留たちが乗る西武2000系電車「アポジー号」のテーマである。シンセの短い前奏に続いてリズムが加わり、電車の進行を思わせる軽快なテンポで曲が展開する。シンセの短いフレーズがくり返されたあと、曲の後半になってメインのメロディが現れる。前進感のある曲調や曲の構成は、メインテーマ「終末トレインどこへいく? -main theme-」と似たところがあるが、こちらは静留たちの日常の描写にもっぱら使われている。第4話で静留たちが電車の中で語らう場面に流れたほか、最終話では静留たちが吾野へ帰っていくラストシーンに使用されていた。
 この曲の2つの変奏がアルバムに収録されている。トラック15「アポジー号 -dreamy-」は柔かいシンセの音色で演奏されるファンタジックなアレンジの曲。第5話で月の輝く空の下を電車が走る場面や第6話で静留たちが電車を「アポジー号」と名付ける場面に使われた。
 もうひとつの変奏曲はトラック27「アポジー号 -go faster-」。不気味なシンセの音の中に人の声が聞こえる、ちょっと怖いイントロから始まる。テンポアップし、4つ打ちのリズムを基調とした疾走感のある曲調に展開。第4話でアポジー号が恐い駅に停車せずに通りすぎる場面など、先を急ぐシーンに使われていた。
 トラック3の「みんなと一緒」は、静留と玲実、晶、撫子らのシーンにたびたび流れた日常曲。テンポのよいセリフの応酬をユーモラスに演出する曲だ。
 似た感じの曲としては、7G事件の黒幕であるポンタローのテーマ「腰巾着」(トラック5)や静留たちが旅の途中で出会う謎の仙人のテーマ「スワンボート」(トラック6)、第5話に登場する稲荷山公園駅の兵隊のボスのテーマ「俺がルール」(トラック17)、行方不明になっていた静留の父のテーマ「お父さんだきゅるん」(トラック22)などがある。キャラクターに付けられる曲がどれもユーモラス、コミカルに作られているのが本作の特徴のひとつである。

 トラック4「ふたりのきもち -すれちがい-」について触れる前に、特定のエピソード用に書かれた曲を紹介しよう。
 トラック7「キノコの里I」とトラック8「キノコの里II」は、第2話、第3話の東吾野駅のエピソードで使われた曲。静留たちは頭にキノコを生やした住民と出会い、親切にされる……と思いきや、恐ろしい目にあう。「キノコの里 I」は静留たちが住民から手厚いもてなしを受ける場面に流れるおだやかな曲。「キノコの里II」は「キノコの里I」を不気味に変形させた曲で、住民の異様さとたくらみがあらわになる場面に使われた。
 トラック11「じわじわゾンビ」とトラック12「ダッシュゾンビ」は、第6話、第7話の清瀬駅周辺のエピソードで使用。「じわじわゾンビ」は静留たちがゾンビの恐怖におびえる場面、「ダッシュゾンビ」はゾンビから逃げる場面やゾンビと戦う場面に使われている。
 その次の「あなたたちには私が必要」(トラック13)と「私にはあなたたちが必要」(トラック14)も第6話と第7話で使われた曲で、ゾンビの女王とゾンビたちとの奇妙な共生関係を描写している。サーカスのジンタを思わせる曲調が印象的だ。
 トラック18からの3曲、「練馬の国のアリス -main theme-」「練馬の国のアリス -nightmare-」「練馬の国のアリス -battle-」は、第8話の大泉学園駅のエピソードで使われた。大泉学園はアニメ「練馬の国のアリス」の世界になっているという噂だったが、静留たちの想像と異なり、「練馬の国のアリス」の悪役が支配する混沌の国になっていたのだ。このエピソードは1話で終わってしまったので、この3曲も1回ずつしか出番がなかったのが残念。
 トラック23からの4曲、「漫画で世界を変えるんだI」「トキワビーム -dramatic-」「トキワビーム -romantic-」「漫画で世界を変えるんだII」は、第10話の椎名町のエピソードで使われた曲。敵のトキワビームを浴びた玲実の姿が劇画調に変わってしまうなどパロディ感満載の楽しいエピソードだった。しかし、やはり1話で終わってしまったのが惜しい。パロディっぽく作られた音楽も、少ししか流れないのがもったいなかった。

 さて、「ふたりのきもち」である。本作の重要なテーマである静留と葉香の関係につけられた曲で、アルバムには4つのバリエーションが収録されている。
 トラック4「ふたりのきもち -すれちがい-」は、旅の発端となる、静留と葉香の気持ちのすれ違いを描写する曲。ピアノが切ないメロディを奏で、チェロがそれを引き継ぐ。第1話で静留が葉香との仲たがいを回想する場面に流れたほか、静留が葉香への複雑な想いに悩む場面、静留たちが葉香を心配する場面など使われている。
 トラック9「ふたりのきもち -もう知らない-」はシンセによる不安な曲で、曲の前半にはメロディらしいメロディが登場しない。後半になってようやく「ふたりのきもち」のモチーフが現れる。そのメロディも、傷ついた心を表現するように、ノイズのような音に覆われていている。思い切ったアレンジの曲だ。
 トラック30「ふたりのきもち -ひとりぼっち-」は、ピアノソロによるしっとりとした変奏曲。静留が小学生の頃の葉香との日々を回想する場面、葉香に会いたい気持ちを確認する場面などに使われた。ひとりぼっちのさびしさよりも、葉香への強い想いを表現する曲として使われている。
 トラック34「ふたりのきもち -ごめんね-」は、静留と葉香の気持ちが再び通じ合う場面に流れた、大団円の曲。最終話のクライマックスで、再会した葉香が吾野の日々を思い出し、静留と仲直りする感動的な場面にフルサイズで使用された。本作のテーマが凝縮された、もうひとつのメインテーマ、愛のテーマとでも呼ぶべき曲である。
 実は本作にはもう1曲、「ふたりのきもち」のメロディを使った曲がある。トラック33「魔女王」がそれだ。7G事件のあと、記憶を失い、「池袋の魔女」と呼ばれるようになった葉香を描写する曲である。シンセの混沌とした響きが重なる中に「ふたりのきもち」のメロディの断片が現れ、曲の後半ではストリングスによってメロディ全体が美しく奏される。葉香が「池袋の魔女」から本来の葉香に戻り目覚めるまでを1曲の中に織り込んだような、ストーリー性のあるアレンジだ。

 本作には、「魔女王」やメインテーマのように、1曲の中にドラマを感じさせる曲がいくつかある。先の展開が読めず、本作のタイトルそのままに「どこへ向かって行くのだろう?」と思いながら聴いてしまう。
 一般にアニメの溜め録りの音楽(劇伴)は映像に合わせて編集することを考慮して、曲を途中でつなげたり、曲の一部をくり返したりできるように作ることが多い。曲調が次々と変わっていく曲や凝った構成の曲は編集しにくいため、避けられる傾向がある。しかし、ドラマチックな展開のある曲が長いシーンにうまくはまった場合は、絶大な効果を発揮する。
 『終末トレインどこへいく?』の音楽は、あえてアニメ劇伴の定石をはずして、そういう効果をねらって作られたように感じる。それは辻林美穂がシンガーソングライターであることと関係しているのかもしれない。本作の音楽がどのように発注され、作られたのか、音響監督も務めた水島監督がこの音楽をどのように演出に生かそうとしたのか、聞いたみたいものだ。いずれにせよ、「先が読めないほうが面白いでしょう?」と言わんばかりの、冒険心に富んだ音楽である。

オリジナルTVアニメーション『終末トレインどこへいく?』オリジナル・サウンドトラック
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『タイガーマスク』を語る
第14回 第100話「明日を切り開け」

 第100話「明日を切り開け」(脚本/柴田夏余、美術/福本智雄、作画監督/国保誠、演出/黒田昌郎)は、ちびっこハウスの個々の子供にスポットが当てられるエピソード群の最後の一本である。
 このエピソードの直後から、最終回である第105話に向けて怒濤の展開となる。第101話でタイガー・ザ・グレートによって拳太郎が倒され、第102話で直人が自分がタイガーマスクであることをルリ子に明かす。第103話でミスターXが命を落とし、第104話と第105話でタイガーとタイガー・ザ・グレートの死闘が描かれる。
 第100話はヒーロードラマとしての『タイガーマスク』のクライマックス直前のエピソードであり、この話で「みなしごはどのように生きるべきか」というテーマに、そして「大人がみなしごに対して何ができるのか」というテーマに決着が付く。そして「みなしごはどのように生きるべきか」は「人間はどのように生きるべきか」についての問いかけと結論に繋がっていく。
 驚いたことに第100話にはタイガーマスクの試合シーンがない。直人がマスクを被る場面すらないのだ。プロレス関係の描写は序盤で直人と拳太郎が今後の試合について話をするのみだ。ここまでは日常的なドラマが中心の話でも、試合シーンが盛り込まれていた。重要なエピソードということで、思い切って試合のシーンを端折ったのだろう。

 第100話ではヨシ坊の本当の両親が現れて、ちびっこハウスを去ることになる。以前にも触れたが、ヨシ坊がハウスを去る話は過去に二度あった。第20話「「虎の穴」の影」ではヨシ坊の母親が見つかったと言われたが、それが間違いであったことが分かった。第89話「ヨシ坊の幸福」では裕福な夫婦の養子になる話があったが、ヨシ坊はハウスに戻ってきてしまった。第100話ではヨシ坊を捨てた父親がハウスを訪れる。今度は血が繋がった本当の家族だ。
 父親の姓は佐々木である。8年前の大晦日の夜、妻に逃げられて切羽詰まっていた佐々木は幼いヨシ坊をハウスの前に捨てたのだそうだ。佐々木はタクシーの運転手であるようだ。ハウスの近所までお客を運んできたが、堪らなくなってハウスに来てしまった。彼はもっと生活が安定してから、ヨシ坊を引き取るつもりだったようだ。その日は時間も遅かったので、ヨシ坊には会わずに帰っていった。話を聞いた若月先生は今も生活が豊かでない佐々木が、ヨシ坊を引き取ってやっていけるのだろうかと心配する。
 翌日、一人の少年がハウスを訪れる。彼は佐々木二郎と名乗った。ヨシ坊の弟である。母親は父親の話を聞いてヨシ坊に会いたい気持ちが高まったが、ハウスの先生に合わせる顔がない。そのため、代わりにハウスに行ってきてくれと二郎に言ったのだ。
 ヨシ坊と二郎の出会いはパンチが効いたものだった。ヨシ坊がハウスで自分が使う毛布についてどの色のものを選ぶかで悩んでいるところに二郎が現れる。その段階ではヨシ坊は、父親が現れたことも自分に弟がいることもまだ知らない。二郎は紹介されるまでもなく、父親似のヨシ坊を自分の兄だと確信したのだろう、挨拶をする前に青の毛布をヨシ坊に勧める。そして、青がいいのは黄色よりも汚れないし、洗濯が楽だからだと説明する。ヨシ坊が「お前、誰だか知らないが、いいこと言うなあ」と感心すると、二郎は「へっ、そうかい。なあに、母ちゃんの受け売りだよ。母ちゃんも苦労したんだぜ、兄ちゃん」と答える。目の前にいるのが自分の弟だと知り、ヨシ坊は自分の膝の上に毛布を落とす。
 この話の見どころのひとつが、二郎の性格とその描写である。二郎は自己紹介もしっかりとするし、あっという間にハウスに溶け込んで他の子供と一緒に食事をして、健太達と野球をする。物怖じすることのない少年であり、頭も切れる。ヨシ坊は彼のことを調子がいいと言っていた。ヨシ坊はどちらかと言えば消極的な少年であり、この話では優柔不断なところも描かれており、二郎とは好対照だ。
 作り手は少ない描写で、二郎がどんな少年なのかを視聴者にしっかりと伝えている。例えば上で紹介した毛布についてのやりとりでは、彼が常日頃から母親と洗濯について話をしていること、つまり、母親との関係が近しいことを表現。さらに生活感まで匂わせている。このあたりの情報の詰め込み方の巧さは脚本の力だろう。
 二郎はヨシ坊に、両親と自分のことを話す。兄ちゃんも苦労しただろうが、両親と自分も貧しい暮らしで大変だった。しかし、兄ちゃんと違って自分は両親と一緒だったから、それだけでも幸せだった。ヨシ坊が自分が捨てられた頃のことを問うと、二郎は当時の両親の気持ちを全て知っているかのような調子で説明する。母親がヨシ坊を産んだ後に家出をしたのは、まだ若かったので苦労するのが辛かったのだろうと二郎は語る。母親が帰ってきたのは、ヨシ坊をハウスに預けてすぐ後のことだった。母親が帰ってきたから自分が生まれたんだと二郎は言う。まるで夫婦の営みのことまで知っているかのような口ぶりだ。
 自分が連れていくから母親と会ってくれと二郎は言うが、ヨシ坊は答えない。彼等の様子を見ていた直人は、母親と会うことをヨシ坊に勧める。直人が運転する自動車でヨシ坊と二郎は、両親と二郎が暮らす家に向かうことになった。ハウスと二郎の家は東京の端と端であり、自動車でも時間がかかる。移動中に二郎は眠ってしまい、ヨシ坊にもたれかかる。ヨシ坊は二郎の身体を起こそうとするが、二郎は起きず、ヨシ坊の膝の上に頭を乗せて眠り続ける。そして、ヨシ坊は「重いなあ……」と言って、二郎を見る。このセリフが凄い。ここまでヨシ坊にとって二郎は距離のある存在であったはずだが、ここで体温や身体の重さを感じた。肉体的接触でその存在を実感したのだろう。1971年放映のTVアニメで、ここまでの表現をやっていることに驚かされる。運転をしながらその様子を見ていた直人は「二郎君にひたすら慕われて、ヨシ坊も初めて弟を持った実感を感じ始めたのだろうか。そうだといいが……」と思う。だが、二郎を見るヨシ坊の表情は決して柔らかいものではない。弟を愛おしく思ったわけではないのだろう。
 二郎と両親が暮らすのは古いアパートだった。話に聞いていたように貧しい暮らしであるようだ。二郎達の部屋はアパートの二階だった。二郎が階段を昇っていく様子が時間をかけてじっくりと描かれる。部屋の前に母親が立っていた。母親はヨシ坊に声をかけて「おいで……」と言って手を差し伸べるが、ヨシ坊はそこに飛び込んでいくことはできない。部屋に入ると家具はちゃぶ台くらいしかない。そして、部屋には赤ん坊が寝かされていた。それはヨシ坊と二郎の妹だった。母親は二郎達と一緒にやって来た直人を若月先生と勘違いし、自分がヨシ坊を捨てたことを詫び、想いが高まって泣き始める。母親が泣きながらヨシ坊に「許しておくれ、ごめんね……」と言っているところで、妹が泣き始める。母親がすぐに立って妹をあやし始めるのを見て、ヨシ坊は拳を握る。自分は親に愛されずに生きてきたのに、妹は母親に面倒を見てもらっている。それを目の当たりにしてしまった。ヨシ坊はアパートから走り出る。ヨシ坊は母親と再会したことで、自分が捨てられた現実を直視することになってしまったのだ。
 ヨシ坊は直人と一緒にちびっこハウスに戻った。健太達はすでにヨシ坊がハウスを離れるものだと思っていた。ガボテンは貸していた本をヨシ坊に返し、洋子は兄の拳太郎にもらったリボンをプレゼントする。健太はヨシ坊がいなくなった後の当番を決め直そうと提案する。これらの描写でヨシ坊と健太達の間に距離ができてしまったことが表現されている。第83話「幸せはいつ訪れる」でミクロがハウスを出ることになった時に、ハウスの子供達は嫉妬し、あるいは心配していたが、今回の健太達は明るい。穿った見方になるが、それはミクロの時と違ってヨシ坊の家が貧しいからというのもあるのだろう。ヨシ坊は自分達で手入れをしたハウスの花壇を見て、健太達と過ごした楽しい日々を思い出して涙を流す。
 クライマックスについて触れる前に、ここで状況について整理をしておこう。ちびっこハウスの子供達は贅沢はできないものの、衣食住について不自由のない日々を送っている。若月先生は二郎の存在を知る前から、生活が豊かでない佐々木がヨシ坊を引き取ってやっていけるのだろうかと心配していた。そして、弟の二郎がいるだけでなく、妹まで産まれていることが分かった。ヨシ坊が佐々木の家に行った場合、今よりも生活レベルが下がる可能性がある。ひょっとしたら、満足に食事をとることができない日があるかもしれない。人間関係にも不安はある。ヨシ坊と母親にはまだ距離がある。弟の二郎は明るい少年ではあるが、あまりにヨシ坊と性格が違う。上手くやっていけるかどうかは分からない。そして、父親とはまだ顔も合わせていないのだ。
 その夜、若月先生は悩んでいるヨシ坊に対して「行きたくないなら、ここにいていいんだよ」と言う。しかし、ヨシ坊は涙を浮かべながら、このままハウスにいても、もう健太達と上手くいかない気がすると言う。さらに両親が死んでしまっている若月先生とルリ子が羨ましいと言い、自分は両親が生きていたから、こんな想いをするのだと自身の気持ちを口にして泣き崩れる。直人は間近でその様子を見ていたが、彼はヨシ坊に対して声をかけはしなかった。
 直人は想う。モノローグによって語られた直人の想いを以下に引用する。( )は僕が補足した部分だ。「みなしごでなくなったことで(ヨシ坊は)みなしごの仲間とは心が通わなくなってしまった。そして、突然巡りあった家族とも心はまだ通っていない。これからヨシ坊の努力する方向は、受け入れてくれる者の懐に飛び込んで、溶け合う方向以外にあり得ない。頑張れヨシ坊。未来がどう展開するか(それが分からずに)気が重いのは、健太や、チャッピーや、ガボテンや、そして、この俺にとっても同じなのだ。だから、毎日毎日を真剣に精一杯戦っていくことで、明日を切り開いていくことが必要なのだ」。
 この直人のモノローグで第100話は幕を下ろす。第83話ではハウスを出たミクロが新しい環境で上手くやっていくであろうことを予感させる描写があったが、第100話ではそれもない。第101話以降のエピソードで、ヨシ坊の「その後」が描かれることはなく、彼の物語はここで終わっている。ちびっこハウスに居続けることはできないが、血が繋がった家族と一緒に暮らすことを決断することもできない。それを迷っているところで終わってしまうのだ。

 以下は僕の解釈だ。断定的な書き方もしているが、あくまで解釈の中での話である。これが絶対に正しいと言いたいわけではない。
 直人はヨシ坊や健太達、そして自分にとって、未来がどうなるか分からないと言っている。それはどんな人間にも当て嵌まることであるはずだ。未来のことが分からないのが、みなしごと、みなしごだった人間だけであるはずがない。『タイガーマスク』の視聴者である我々も同じなのだ。ヨシ坊や直人がそうであるように、視聴者の我々も毎日を真剣に生きて、明日を切り開いていく必要があるのだ。第100話のサブタイトルである「明日を切り開け」は「みなしごはどのように生きるべきか」という問いに対する答えであり、そして、視聴者に対するメッセージでもあるはずだ。
 どうして直人はヨシ坊に対して何も言わなかったのだろうか。若月先生はハウスに残っていいと言ってくれたが、本当の親が見つかったのだから孤児院であるちびっこハウスに残るのは不自然だ。大きな障害があるのなら別だが、そうでないならヨシ坊は血が繋がった親と暮らすべきだ。そして、新しい家族と馴染むための努力をするべきだろう。直人が「家族と一緒に暮らすべきだ」と言うことは簡単だ。それで背中を押してやることができるかもしれない。しかし、これはヨシ坊にとって人生を左右する決断だ。ヨシ坊は自分で考えて、自分で決めるべきだ。自分の明日は自分で切り開かなくてはいけないのだ。第三者である自分が何かを言うべきではない。直人はそう思ったのではないか。
 伊達直人の物語としては「ヨシ坊に対して何もしなかった、声をかけることすらしなかった」という点が重要である。今までの直人にとって、みなしごは自分が幸せにする、あるいは助けなくてはいけない存在であった。彼は子供達に対して干渉し過ぎであったかもしれない。人間にとって互いのことを想い、助け合うことは必要なことであるが、それと同時に自分自身に向き合って何をするべきかを考え、真剣に生きて行くことが重要だ。子供を一人の人間だと捉え、その子供にとって何が大事なのかを考えれば、何もしないほうがよい場合もある。第83話では、タイガーマスクとしての活躍で子供達に勇気を与えたいと考えている直人が「自分の幸福のために、タイガーマスクのファンをやめる必要があるかもしれない」とミクロに言った。第100話では次の段階として、ヨシ坊のことを、彼の人生がどうあるべきかまでを考えた結果として、あえて何もしない、何も言わない、ということを選んだのだ。
 第100話で『タイガーマスク』で描かれてきた「子供に対して、あるいは不幸な境遇にいる人達に対して何ができるのか」について、あるいは「みなしごはどのように生きるべきか」についての、ひとつの結論に到達した。それは「人間はどのように生きるべきか」についての結論でもある。半ば繰り返しになるが、結論とは「自分自身に向き合い、真剣に生きていくことが重要である」ということだ。そして、他人に対して何かをするのなら、その人物について何が必要なのかを真摯に考えて接するべきだということだ。第64話「幸せの鐘が鳴るまで」において、直人は自分の行いを見つめ直したはずだ。第100話は提示されたのは、その次の段階の結論である。
 改めて第100話を観て驚くのは、脚本がヨシ坊が自分の人生に向き合って、決断をしなくてはいけないところまで追い詰めたという点である。それと同時に直人がヨシ坊に対して何も言わないことを選択するところまで、シチュエーションを突き詰めている。柴田夏余、恐るべし、である。
 ヨシ坊がこれからどうなるのかを描かず、途中で彼の物語を終わらせたことで、視聴者に考えることを促しているのは間違いないだろう。作り手はヨシ坊の物語を途中で終えたことで「自分自身に対して、あるいは自分の人生に対して向き合い、真剣に生きて行くこと」の大切さを強調したのではないか。これはあなたの物語でもあると伝えたかったのではないだろうか。

●第15回 第6話「恐怖のデス・マッチ」 に続く

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第859回 『(劇)ジョー2』の魅力(9)

 まだ続き。あと少々お付き合いを……。

1:20:19~鏡に映るジョーで喋らせるあたり、このシーン一体が今まで以上に“表情を見せる演出”に拘ったことがよく分かります。
1:20:34~DVD発売以降、TVシリーズ画面4:3を上下トリミングした貧乏ビスタ版がこの映画のマスターになったようで、フル画面(上下トリミングなし)を観ることができるのは“4K Blu-ray版の特典映像”のみかと。こういう画面で頭が切れているのは、出﨑監督からすると計算外かも知れませんが、個人的にはここは葉子の顔が切れてるくらいの方が、バッと振り返った際の“スカートの揺れ”がより雄弁に葉子の動揺を表してて好き。
1:20:43~「よしなよ。カーロスのことはよそうや、な……」この哀し気な伏し目、これまた杉野(昭夫)作画監督の真骨頂!
1:20:46~今度は出﨑(統)監督の得意技! 部分ショットの横follow。この控室シーンのラストでふわりと落ちる上着、それが掛けられた腕~手が美しい。こういう場面で顔を撮らないのが出﨑コンテです! 俺もついつい真似しちゃいます。
1:20:47~ここも後ろ姿での会話が長い! でも、表情が見えないのに保つ! ジョーが振り向いてからも続き、~1:21:10まで。
1:21:45~こんな俺の駄文で多くを語る場面じゃありません。最愛の人を廃人への道から守るために、最後の最後に「告白」というカードを切らせるまで、この気高き財閥令嬢・葉子を追い詰める梶原一騎&ちばてつや原作の巧さ! 「あしたのジョー」はジョーの青春物語でありつつ、女性サイドから見れば葉子の悲恋物語でもあるのです! そして、それを見事にアニメ化した出﨑&杉野コンビの手腕! これだけ揃って傑作が生まれない訳がない!!
1:21:53~ジョーの表情が凄く良い!! それまで見せたことがない顔です。
1:22:07~滅茶苦茶パースが付いてド派手に暴れ回るだけがアニメーターの仕事じゃない。こういう“情感”が描けるのもアニメーターの仕事です。ここはもう溢れてますね! 檀ふみの声もリアルに泣いてます。
1:22:12~ここでもうジョーの表情が何かを見据えた男の顔になってるのがまた素晴らしい。実は原作のジョーはここで一旦椅子に腰掛けて、葉子の告白を少々茶化すようなことを言うんですよね。ジョーは茶化しを否定するのですが、アニメを先に知っているとちょっとだけジョーが嫌な奴に見えました。だから、そこをバッサリカットしたアニメ版・出﨑ジャッジの方が本質的に正解だと思います。異性からの真面目な告白を冗談でも茶化してはいけません!
1:22:24~そして、女性からの告白を真摯に受け止めつつも、それを振り切って破滅の待つリングへ。初見の時、本気でヤバい大人の世界を見た気がして、震え泣きました(本当)!
1:22:34~葉子の気持ちをちゃんと受け止めるジョーの口から出る「——ありがとう」。そして、扉の向こうの男の世界へ。「何とかならないのかい……?」と泣く俺。何か観ている自分も逃げられない所に追い詰められた感があったのを、何十年経った今も憶えています。
1:22:44~退室したジョーを追うように手を伸ばすも届かず、無情に閉まる扉。固まる葉子から落ちる上着。今だったら「いや、この上着の色どうよ? 仮に着た場面があったとして似合う?」とか冷静に突っ込んでしまいますが、初見で観た時はそれどころじゃなかったです。『あしたのジョー2』の何もかもが衝撃的で!
1:22:54~飄々と(虚無にすら見える?)リングに向かうジョー。
1:22:56~膝から崩れ落ちる葉子~PAN UP↑して、涙ボロボロの葉子。

 懲りずにまだ続くこと(汗)、そして心から尊敬する方々への度重なる敬称略、すみません。