COLUMN

第47回 コンクリ製のあれこれ

うちの仕事場近くに残る「東京府」のマークの入ったコンクリート製マンホール蓋。昭和10年から18年くらいの間のもの。

 前回からの続き。
 マンホール蓋の材質の何が問題なのかというと、普通の鋳鉄製のマンホール蓋ならば上を通る人の足が滑らないように、滑り止め模様がいこまれているはずなのだけれど、昭和12年夏以降の撮影と思しき写真に映し出された大正屋呉服店横のマンホール蓋はツルツルしていて何も模様がない。もうひとついうと、蓋を開けるときに使う鍵穴以外の穴がない。鋳鉄じゃなくてコンクリート製なのかなとか考えてしまったのだけれど、これについてはちょっとよくわからないというしかない。
 コンクリート製のマンホール蓋は、考証協力・前野秀俊さんに調べてもらったところ、昭和10年に実用新案登録が行われているとのことで、少なくともその発祥においては特に戦時の金属供出とかと関係あるわけではないみたいだった。いや、まさに千人針をしている人物の足元に写っていたものだから、そんなことも疑ってみてしまっていた。だとしたら、消えてしまった鈴蘭灯も金属供出でなくなったのかもとも思ったのだが、中島本通りの鈴蘭灯供出はどうも昭和18年頃だったらしい。こちらでもちょこちょこっと本を読んでみたところ、そもそもコンクリート製のマンホール蓋が生まれた背景には、鉄でできてるマンホール蓋を勝手に持って行って屑鉄屋に売ってしまうようなことがよくあったためらしく、盗難防止がその存在意義の大なる部分であったらしい。
 いずれにしても、こちらが必要とするのは昭和8年末頃の景観を描き出すためのディテールなので、コンクリ蓋はあまり考えなくてもよくなった、ということにしてしまう。
 ところで、広島市の下水道がちゃんと整備されたのは、自分たちにとっては意外に古い感じがしてしまうのだが、大正5年のことだった。この年の5月には計画された工事が全部竣工している。このとき、いったいどれくらいの範囲で下水道の整備が行われたのかはよく知らないのだが、ひょっとしたら、すずさんの実家がある江波の方ほうまで含まれていたのかもしれない。だとしたら、尋常小学校に通学するすずさんとすみちゃんの足元にもマンホール蓋を描かなくちゃならないのかもしれない。またひとつ宿題ができてしまった。

これはなんてことない今現在のL字型の側溝。こういうのは戦前からたくさんあった。

 そんなようなことで、しばらくマンホール関係の本ばかり眺めていて、もうひとつわかってきた感じになっていることがある。大正屋呉服店横のマンホール蓋に穴が開いてない、ということの理由だ。ガス抜き孔があるのはたいていは雨水用のものであるみたいで、家庭からの排水が混ざる合流管の場合は、こちらの方がガスも発生しやすかろうと思うのだけれど、臭気も漏れるのでガス抜き孔は穿たれない、もしくは塞いである。
 要するに、下水には、街路の雨水を排水する「雨水管」と、家庭その他からの排水が流れる「汚水管」があって、その両者を兼ねた「合流管」がある、ということらしい。そんなことが勉強になってしまったのだが、毎日足元ばかり眺めて歩くようになってしまっているこの頃、仕事場近くの路面のマンホール蓋にやたら「合流」の文字があることの意味もわかってしまった。
 それはそれでよいとして、「雨水」の方。道路から排水するときにはまず側溝に吸い込ませることになる。当時の道路側溝はどんなだったのか。これまで描いてきた中島本町あたりのレイアウトでは、浦谷さんは側溝の上に「木のドブ板」を描いてきていた。けれど、マンホールとか下水道のシステムの整備が思ったより早かったことを考え、さらに豪華な鈴蘭灯なんかも広島では一番早くに中島本町に建てられていたことを考えると、「じゃりン子チエ」的な木のドブ板でよいのかどうか。
 さあ、戦前の写真を眺め直して、道路脇の溝がどうなっているのか確かめ直さなくちゃならなくなった。で、わかってしまったのだが、戦前、すでに今の道路側溝と同じ、コンクリート製の「L字型」の地先下水(というのだそうだ)はすでに東京などでかなり普及していて、ちょっと見には今と全く変わらなくなっていたのだった。
 中島本通り、大正屋呉服店脇の溝は、と、写真をもう一度よく見ると「U字型」でコンクリート製の蓋で覆われていた。まったくもって、「昔なのだから」「戦前なのだし」という先入観は捨ててかからなくちゃ駄目なのだった。
 「じゃあ、江波の方は郊外だし、木の蓋でいいのかな?」
 と、浦谷さん。
 江波の戦前の道がちゃんと写し出された写真は手元にないのだけれど、戦後あまり経たない時期のならある。で、そこに見られる溝はどうなっていたか、というと「蓋なし」だった。思えば、これまで訪れた海辺の町でも、溝に蓋がなかったことが多かったような気がする。なるほど。
 こうして描き上がってからも、どんどんレイアウトに手を入れ直していかなくてはならない。
 木製なのかコンクリなのか、というのは昭和の初めはかなり急速に変化が起こっている時期で、もうひとつ映画の冒頭部分に登場予定の広島本川に架かる住吉橋も、最近構造がはっきりわかる写真が手に入って喜んでいたのだが、調べ直してみたら、この写真よりあと、大正15年にはコンクリート製の橋に架け替えられていたのだった。ままならない。
 まあ、そんなこんなで、「戦前だから」「大正時代なんて大昔だし」などと決めつけない方がいい。すでに街の景観を彩るディテールははるかに近代的なものに変わっている。
 そうやって、営々近代化されてきて、昭和10年代のはじめころにはもうわれわれの知っている昭和40年頃よりずっといろんなものがいい感じになっていたのだが、その全てが昭和12年以降の戦時国家総動員体制の中でひんむしられてビンボ臭くなっていってしまった。

 と、この文章がひとまずまとまったところで、広島からまた戦前の中島本町の写真が届いた。大正屋呉服店よりもう少し奥の中島本通りにある立野玩具店の前の側溝に木製の蓋が写っていた。撮影年度による違いなのか、エリア的な違いなのか、こういうことはとにかくままならない。

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