それまでもアニメ『タイガーマスク』には「直人と市井の人々とのドラマ」があったが、第5クールは特にそれが多い。第64話「幸せの鐘が鳴るまで」は(脚本/安藤豊弘、美術/沼井一、作画監督/木村圭市郎、演出/新田義方)は「直人と市井の人々とのドラマ」の最後のエピソードであり、伊達直人のドラマの集大成である。多くの人々と触れ合いが直人の視野を広げ、彼はみなしご以外の不幸な境遇にする人達にも目を向けるようになっていった。長期シリーズとなり、オリジナルエピソードを積み重ねたことにより、アニメ『タイガーマスク』は作品としての、伊達直人は人間としての厚みが増していった。
第64話「幸せの鐘が鳴るまで」は交通遺児をモチーフにしたエピソードである。冒頭では交通遺児作文集「天国にいるおとうさま」の一文が読み上げられ、画面にもその文面が映し出される。この文集は1968年に刊行されて話題になったものだ。日本では昭和30年代から交通事故による死亡者が増え続けており、「交通戦争」と呼ばれていた。第64話が放映された1970年は交通事故の死亡者数がピークに達した年であり、交通事故や交通遺児は人々にとって身近な問題だったのだ。
このエピソードの後半で直人が交通事故によって子供達が親を喪っていることについて痛ましく思う場面では、実際に事故に遭った自動車の写真が何枚も挿入される。このエピソードで扱っている交通事故が現実のものであり、恐ろしいものであることを強調する描写である。余談だが、翌年に放映された『天才バカボン』5話Aパートでも、交通事故の悲惨さを伝えるために実写の交通事故が使われている。アニメプロダクションは違うが『タイガーマスク』も『天才バカボン』も、よみうりテレビ制作の作品だ。さらに余談を重ねるが『タイガーマスク』ではこの後のエピソードでも、物語の中で交通戦争や交通遺児が話題になっている。
第64話のプロットはシンプルだ。舞台は直人が遠征のために訪れた甲府。クリスマスを間近に控えた時期のエピソードだ。直人は街で孝という名の少年と出会う。孝は父親を交通事故で喪っており、現在は母親と二人暮らしだ。母は残業で帰りが遅くなることが多く、彼はその日も夜まで一人で過ごすことになる。それを知った直人は孝に沢山のクリスマスプレゼントを買い、孝のアパートで一緒に遊んでやる。そこに孝の母親が帰ってくる。直人は帰ろうとするが、母親の勧めで夕食を共にすることになる。
直人と一緒にいることで孝が楽しそうにしているのを見て、母親は、父親がいない息子が大人の男性に甘えたがっているのだと思う。直人は、孝の母親が茶碗にご飯をよそう様子を見て「夢にまで見た母の手料理……」と思う。みなしごとして育った直人は母親の手料理を口にしたことがなかった。一度でいいから、母の手料理を食べてみたいと思っていたのだ。直人はゆっくりと箸で夕食を口に運ぶ。そして、孝の母親は、直人と孝がいる食卓を目の当たりにして「これが家庭というものだわ……」と思う。彼女は亡夫と孝と三人で暮らしていた頃を思い出す。
どこにでもあるごく当たり前のアパートの一室で、直人と孝の母親は、この一瞬の幸せを噛みしめる。みなしごとして育ち、現在は虎の穴の裏切り者として追われ続けている直人の人生の中で、これが最も幸福な時間であったかもしれない。そんな一時を描いただけでも、このエピソードは価値がある。この場面の深みが分かるには視聴者の年齢が必要かもしれない。僕が直人の感慨に胸を打たれたのは40歳を過ぎてからだった。
遊び疲れた孝が眠りついた頃、母親は亡夫と交通事故について語る。自分達の小さな幸福が一瞬のうちに失われたこと。今も自動車を憎んでおり、片っ端から壊したいと思っているということ。そんな激しい感情を抱いて彼女は生きているのだ。直人には彼女にかけてやれる言葉を持ち合わせてはいなかった。
孝のアパートからの帰り道、雪が降る中で直人は思い耽る。タイガーマスクとしての試合を挟み、再び雪の中を歩きながら直人は考える。そして、ひとつの結論に辿り着く。
直人の思索を整理すると以下の内容となる。全国には交通戦争の犠牲者が大勢いるに違いない。自分は恵まれない子供を一人でも幸せにするためにリングで戦ってきた。しかし、自分の手が届かないところで、今この瞬間にも不幸な子供が増えているのだ。そんな子供達に対して自分は何ができるというのだ。交通事故を無くすことはできないが、それに対して顔を背けてはいけない。たった一人の子供にでも夢を与えることができれば、それだけでもいいではないか。皆がそんな気持ちになれば、いつか交通事故も無くなり、皆が幸せになれる。それを信じて、皆が自分ができることを精一杯やることが大事なのだ。
彼の思索は交通事故とその被害者についてから始まっているが、一人の人間が、恵まれない子供達、全ての不幸な境遇にいる人達に対して何ができるか、そして、皆が幸せになるにはどうすればよいのかについての結論に辿り着いている。
一人の人間にできることは限られている。死に物狂いでやったからといって、全ての恵まれない子供を、全ての不幸な境遇にいる人達を救うことはできない。だからといって努力をやめてはいけない。世界中の人達が、他人の幸せを考えるようになるのは難しいことかもしれない。だが、そうなることを信じて、自分ができることをやらなくてはいけない。それが直人の結論である。
僕の解釈も交えて、更に解説しよう。
第50話「此の子等へも愛を」では、直人が恵まれない子供のためだと思ってやってきたことは本当に正しい行いであったのか、自己満足に過ぎなかったのではないか、という疑問が提示された。
第54話「新しい仲間」では、自分は金を使うことでしか子供達に何かをしてやることができないと思っていた直人が、それ以外の何かができるのかもしれないと気づいた。それ以外の何かとは、タイガーマスクとしてリングの上で活躍し、全国の子供達に勇気を与えることだろう。
第55話「煤煙の中の太陽」では、金銭で解決できることではあるが、タイガーのファイトマネーではどうにもならない問題に直面した。
以上を踏まえた上で、この第64話があり、先ほど触れた結論がある。世の中には直人の手が届かないところにも、大勢の不幸な子供がいる。手が届くところにいたとしても、直人のファイトマネーで幸せにしてやれるとは限らない。直人は自分の無力を痛感したはずだ。自分の限界を知り、できないことがあまりに多いをことを知っても、力を尽くすことを諦めはしない。全ての子供達の幸せを望む彼にとって、その選択は辛いものだ。辛いものではあるが、それを選ぶのが伊達直人の強さであり、そういった厳しい生き方を描くのが『タイガーマスク』という作品なのだ。
第64話のラストシーン。雪の街を歩きながら思索を重ねた直人の前には、教会があった。教会から鐘の音が聞こえ、やがてそれが賛美歌に変わる。思索が結論に至った直人が教会を見上げると、幸福になった孝と母親の姿が浮かぶ。賛美歌の歌声が高まる。その時に響き渡った賛美歌の歌詞は「仰ぎ見ん 神の御顔」。教会を仰ぎ見る直人と歌詞が重なり、そこで第64話は幕を下ろす。
更に解説を続ける。
第54話のミクロに必要だったのは、例えば身近にいる大人が寄り添ってやることだった。第64話の孝に必要だったのは、例えば父親のような存在だった。そういった子供に対して直人にできることは、やはり、タイガーマスクとしてのファイトで勇気を与えることなのだろう。実際に彼のリングの上での活躍がミクロが立ち直るきっかけになったではないか。第64話で直人が思い至った「たった一人の子供にでも夢を与えることができれば」とは、例えばそういうことなのだろう。
第55話では郎太とタイガーのことが新聞に報じられ、それがきっかけで市議会が動き、日本プロレス協会も寄付をしてくれた。第64話の結論である「皆がそんな気持ちになれば、いつか皆が幸せになれる」とは、例えばそういったことなのだ。直人はタイガーマスクとして、すでに多くの人の心を動かすきっかけ作り出しているのだ。そういったことも、直人がタイガーマスクとしてやるべきことであるのかもしれない。
『タイガーマスク』のこの後の展開で、注目してもらいたいポイントがある。この作品の物語について考える上で、非常に重要なポイントだ。第64話「幸せの鐘が鳴るまで」以降では、直人が恵まれない子供や不幸な境遇にする人達のためにファイトマネーを使う描写が一度もないのだ。直人の生き方がここで変わったと見ることができる。
直人は自分一人だけで全ての子供を幸せにしようとしてきたが、第64話で現実に直面し、自分の行いを見つめ直した。そして、無闇矢鱈にファイトマネーを使うことをやめようとも思ったのだろう。すなわち『タイガーマスク』のスタッフ達が「もうそれを描くべきではない」と判断したのだろう。つまり、物語の出発点からあった「みなしごに使うファイトマネーを手に入れるため、マットで死に物狂いで戦うヒーロー」という主人公の在り方を『タイガーマスク』のスタッフ達が半ば否定したのである。
直人がファイトマネーで救うことができるのは、ごく一部の人達に過ぎない。だとしたら、本当に直人がやるべきことは何なのか。『タイガーマスク』のスタッフ達は直人の生き様に向き合い、人はどのように生きるべきなのかを考え、ここに辿り着いたのだろう。『タイガーマスク』のスタッフ達は物語に対して、直人の生き様について、実に真摯だ。
第64話「幸せの鐘が鳴るまで」は決して派手なエピソードではない。分かりやすい話でもない。ではあるが、テーマに対する取り組み方に関して、信じられないほどの高みに達したエピソードである。アニメ『タイガーマスク』の作劇面での頂点であると僕は考えている。
第64話の作品内についての解説はここまでだ。以下は作品外での物語だ。
原作「タイガーマスク」でも、直人はみなしごのためにファイトマネーを使うことを目的にして戦っているのだが、原作ではちびっこハウス以外の子供達のためにそれを使っている描写は、実はほぼ無い(希望の家にいる目が見えない少女のためには使っているはずだ)。伊達直人が日本各地のみなしごや、みなしご以外の不幸な境遇にする人達のためにファイトマネーを使っているイメージは、アニメ『タイガーマスク』が作り上げたものなのだ。言うまでもないが、第64話の「皆がそんな気持ちになれば……」という主張もアニメオリジナルのものである。
直人は「皆がそんな気持ちになれば……」と言ってはいるが、アニメ『タイガーマスク』のスタッフ達が「この番組を観ているあなたにも、他人の幸せを考えてほしい」と、善意や友愛を押しつけるようなスタンスで物語を紡いでいるわけではない。ではあるが、直人の生き様を通じて伝えたいことのひとつはそれだったはずだ。
ここで現実世界の出来事に目を移そう。思い出してもらいたい。2010年から「伊達直人」を名乗った匿名の人物が全国の児童養護施設に寄付を行い、それが全国に広がり、「タイガーマスク現象」と呼ばれるようになった。さらに「タイガーマスク現象」は企業やNPO法人、国会議員までも動かした。つまり、第64話における直人の「皆がそんな気持ちになれば……」という想いが、40年の月日を経て現実世界で結実したのだ。第55話の劇中でタイガーが市議会や日本プロレス協会を動かしたように、物語の中で描かれた直人の生き様が、現実世界で人々の心を動かしたのだ。第64話で直人が言ったことは絵空事ではなかったのだ。
直人の戦いは孤独なものであったが、多くの賛同者を生んだ。直人の物語は我々が生きる現実世界で続いているのだ。
●第9回 「幸せの鐘が鳴るまで」についてもう少し に続く
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