いつもの如くシリーズ制作中盤以降の自分は、原画を描いたり直したりな日々……
原画を描いている最中「俺、何でこんな仕事してるんだろう?」と、思考が寄り道をする時があります。
レイアウトを描いて、同じキャラクターの画を何枚も描いて芝居をつけて、タイムシートとカメラ指示して……。数ある“絵描き”業の中でもかなり特殊で、アカデミックな美術情操教育を受けた者が必ずしも勝利者になれるとは限らない不思議な仕事(と、俺は思っています)、それがアニメーター。
自分のルーツ——『まんが道』(藤子不二雄A・著)“パラパラマンガ”を描いていた小学生時代は“単なるアニメ遊び”。中学生・高校と漫画描きと出﨑(統監督)アニメに夢中~を経て、マンガを諦めいったんアニメを目指すと決めて上京。
専門学校で小田部羊一先生にはパラパラマンガの“工夫”みたいなモノを楽しく教わった気がします。つまり、何気なく何枚も何枚も無駄に画を積み上げていた俺の“遊び”に「こうするともっと感じが出ない?」的なプロからのアドバイスをしていただけた、と。
卒業~テレコム・アニメーションフィルム時代。新人(動画)の頃は夜中・自宅にて我流で描いた原画の真似事を「見てください!」と大塚康生さんに見せに行っては「ここはこうならない」「本来はこう言う途中のポーズが入って~」などと“アニメーションの根拠”みたいなものをハッキリ教わりました。
原画試験に合格後、最初の原画の先生・田中敦子さんより「これおかしいでしょ?」と初原画を笑われて“プロをなめるんじゃない”を思い知らされました。その後、田中さんはアメリカ出張が決まり『SUPER MAN』一本御一緒したのみで、自分の身は田中さんから友永和秀・師匠に手渡されました。余談ですが「THE ART OF The Princess MONONOKE もののけ姫」(スタジオジブリ責任編集)にある『もののけ姫』制作日誌に“’97 2.11(火) 原画の田中敦子氏、今日で作業が終了し、テレコムへ帰還”とあるのですが、その次の日でした。一緒に『SUPER MAN』の作打ちをしたのは。当時、新人原画マンは先生と一緒に作打ちを受けて作業パートを分担するシステムだったため、自分の原画INは田中さんの帰還待ちだったわけ。だから田中さんが帰還するまで描いていた『もののけ姫』の動画(サンの胸揺らしたやつ)が板垣にとっての最後の動画になります。
で、友永さんに引き継がれた話に戻します。自分にとって、友永さんはいちばん長く教えていただいた、正に原画の師匠。レイアウトの決め方、芝居構成、ポージング、タイミングと何作も面倒を見ていただきました。だからと言って『カリオストロ』のカーチェイスみたいなものは、俺には描けるわけありません(汗)。ただ、いちばん俺の目に焼き付いているのは、
友永さんの仕事に対する姿勢・後ろ姿です!
本当に原画という仕事に惚れ込んで真剣に、そして楽しんで作画机にしがみついている感じでした。
出﨑憧れのコンテ・演出家志望であったハズの板垣が、監督をやりつつも未だに傍らで原画を描き続けているのは、テレコム時代の友永さんの背中が忘れられないからだと思います。友永さんがあれほど入れ込んでいたアニメーターという仕事、やはり一度飛び込んだらやめられないほどの魅力があるのだろうと信じて自分もやってきました。不思議なことに体力・集中力があった若い時より、歳とった今描く原画のほうが面白いと感じることが最近多くなってきました。
ふと思いましたが、俺に原画を教えてくださってた頃の友永さんて、今の俺より若い計算になるんですね……。そりゃあ、自分も若手の面倒見るのが仕事のメインになる訳ですね。
と言う訳で、ウチの若手ホープ・木村博美初監督作『キミ越え』を成功させますよ!