3話“教室でカチャーシー”の原画は森(亮太)。彼の緻密さが冴えわたっています。カチャーシーの動きだけでなく、「唐船ドーイ」を聴いて発作づくクラスメイトたちや、「俺は何を想像して……!!」とブンブン頭を振るてーる―の風圧を受ける喜屋武さんのカットなども秀逸。最低限のキャラ修正を入れたくらいでほぼそのまま使用できて幸せなシーンでした。あと、「ご…ごめん。止められなくて……」と踊り続ける比嘉さんの両手の動きをスライドで処理したのは、“気持ちと言う事を聞かない身体との不一致”を表現しようとした演出。もちろん、費用対効果も乗っかっていますが……。
“皆でパーラー”編も、最初上がったフィルム(TAKE 1)がユル過ぎで「これ、全部直すよ」と演出に。「演出のせいじゃない、作画・美術の問題で~」的な言い分があるのは分かった上で、
その駄目な作画・美術にさせたのはプランニングの甘いレイアウト! それを通した演出の責任!
であると。
そうなんです。たとえ出来の悪いレイアウトが“画描きじゃない演出家”の手に届こうと、それが「駄目」な上りであると見抜くことさえできれば、原画マン本人に“指示”してリテイクできるでしょう。ウチは全員社員なのでリテイクを出せます! 最悪、俺や周りのアニメーターらに「SOS!」要請すれば、出来の悪いフィルムまで到達する前に止められるはずなんです。それなのに結局は「駄目」な部分を見抜けず、そのまま流して責任が取れなかっただけ。“俺、画描きじゃない”は言い訳になりません。演出に必要不可欠な“目利き”ができていないわけですから。
つまり、その管理不行き届きの責任を取るのが俺の仕事!
であると、総直し。影落ち方向の統一、レイアウト修正し背景直し指示をし、キャラの芝居・ポーズが繋がってない箇所も回収。そのキャラクター周りの食べ物・缶ジュースも丁寧に描き直し。あ、「パーラーキングぬーやが」って店名好きです!
で、Bパート(CM開け)“エイサー祭り”編。ここは元々狙ったとおり、メインキャラの踊り以外CG(モーションキャプチャー)を使っています。 “ダンス・踊りを作画 or CG?”をいまだに議論している人ってまだ生存しているのかな(2025年現在)? 大手アニメ会社のように作画リソースが豊かにあっても、今さら自分「ダンス・踊りを作画で描くことに意義がある」なんて思っていません。ただ、アニメーター自身が「僕(私)がダンス(踊り)を全部作画で描きたい! いや、描くべき!」と進言してくるなら、やって貰ったほうがいいと思います。なぜなら、そこにある種の“やりたい熱”があり、必ず作品の“力”になるからです。しかし、最悪なのは“手前(てめえ)で描きたくない演出・監督が、描きたがっていないアニメーターに「あんたの仕事でしょ?」と言って見下すように描かせる作画ダンス(踊り)”の場合です。演出・監督の「作画の方が高尚だ」という思い込みを満足させるためだけに。
作画だろうがCGだろうがはたまたAIだろうが、担当者のやる気とポテンシャル、そして「こういう画面を作りたい」との拘りがあるか? が問題なのであって、逆にそれらがないなら作画で踊らせようがCGのそれだろうがどっちも無駄! 超絶見応えあるBG ONLY(背景のみ)にOFFで音楽鳴らすだけの方がまだマシ!
つまり、演出・監督が無駄な表現形態を“好み”というだけでスタッフに無理強いするなんて、もう時代遅れではないか? と。特に
映像表現などは視聴者が見慣れた時点で、何だって通用するもの! 問題は、それに慣れるまで視聴者も表現者も耐えられるかどうか?
だけのことで、現状皆、CGはとっくに見慣れている訳で。
さて、また『キミ越え』に戻る時間がきました! 失礼します(汗)。