COLUMN

第285回 かけがえのない音 〜ルックバック〜

 腹巻猫です。巷でも話題の劇場作品『ルックバック』、観ましたよ。そして激しく気持ちをゆさぶられました。なにより映像がすばらしい。原作は発表されたときに読んでいたけれど、劇場版では、作品の中に入ってキャラクターとともに人生を生きるような体験を味わいました。そして、わかってはいたけれど、「そうなるのね」という切なさ。背景に流れる音楽(劇伴)が、ふつうの映画音楽とは異なる、ライブ感のある音楽であることも心に残りました。今回はその音楽について語ってみます。


 『ルックバック』は2024年6月28日に公開された劇場アニメ。藤本タツキの同名マンガを原作に、監督・脚本・キャラクターデザインを押山清高が務め、アニメーション制作をスタジオドリアンが担当して映像化した。
 マンガ好きの小学4年生の少女・藤野は、圧倒的な画力を持つ同級生の少女・京本と出会い、刺激を受け、やがて2人でマンガを描くようになる。ついに2人はマンガ雑誌でデビューするが、初めての連載の仕事を前に2人の歩む道は分かれてしまう。それから数年後、マンガ家として忙しい日々を送っていた藤野のもとにある知らせが届く。
 ストーリーを語ることはあまり意味がない。絵の力とそれが呼び起こす感情に圧倒される。藤野や京本が感じること、彼女たちが2人で、あるいは1人で過ごす日々をともに体験することで、観客の心の底に沈んでいたさまざまな記憶や気持ちが浮かびあがってくる。つい、それを解釈したり、語ったりしてしまいたくなるけれど、そうではなく、じっとかみしめることに意味がある……そんな作品だと筆者は受け取った。

 映像がすばらしいのはもちろんだが、音楽も尋常でない力を持っている。映像に寄り添い、絵が躍動すると音楽もはずむ。絵と音の気持ちがぴったり合っている。音楽を担当したのは、haruka nakamura。ピアノを主体にしたソロアルバムをリリースするなど、独自の音楽活動を展開している音楽家である。原作者の藤本タツキがharuka nakamuraの音楽を聴きながら原作を描いていたことがきっかけで、アニメ版の音楽を依頼されたという。
 劇場版のパンフレットに掲載されたharuka nakamuraのコメントを読んで、筆者は「えっ?」と思った。nakamuraはこう書いている。

「大体は映像を見ながら感じたままに即興演奏をしたピアノを土台に、アンビエントなどの様々な音や、徳澤青弦さんによる素晴らしいストリングス・アレンジをつけていただいたりした上で完成しています」

 フィルムスコアリングだろうと思っていたが、即興演奏とは!?
 サウンドトラック・アルバムの解説書に、より詳しい音楽作りの背景が書かれている。本作の音楽は、haruka nakamuraが映像を観ながらピアノを即興で演奏し、ほとんどの場合、そのファーストテイクに音を加えるなどして作り上げたものだという。
 フィルムスコアリングとは、文字どおりフィルムに合わせて譜面(スコア)を書くことだ。譜面で設計した音楽を映像とタイミングを合わせて演奏し、完成させる。現在はコンピューターで音楽が作れるので、モニターを観ながらキーボードを弾いて作曲することも行われているが、最終的にはテンポを整えたり、アレンジを加えたりして仕上げていく。即興演奏がそのまま使われるわけではない。『ルックバック』の音楽の作り方は、フィルムスコアリングとはまったく別である。
 即興演奏による映画音楽といえば、すぐ思い浮かぶのが1958年公開のフランス作品「死刑台のエレベーター」である。ジャズミュージシャンのマイルス・デイビスと彼のバンドがスクリーンに投影された映像を観ながら即興で演奏した音楽が使用された。……と言われているが、実態はもう少し複雑だ。マイルスは事前にラッシュフィルムを観て音楽の構想を練り、本番ではマイルスがリードしながらバンドメンバーが演奏していった。曲によっては2回、3回とテイクを重ねて、イメージに合う演奏を追求している。現在は、本編に採用されなかったテイクも商品化されていて、CDや配信で聴くことができる。
 即興性の重視という点では、「死刑台のエレベーター」よりも『ルックバック』のほうが徹底している。haruka nakamuraは、即興演奏したピアノのファーストテイクをあえて使っている。テイクを重ねれば音楽的には整ってくるが、初めて弾いたときの感情や演奏の瑞々しさは失われる。ファーストテイクは、テンポもゆれているし、演奏も粗いところがある。が、その演奏には、2度とくり返すことのできない、かけがえのない感情と時間が刻まれている。その「かけがえのない音」が『ルックバック』には必要だった。この作品に流れる音楽はそういう音楽でなければいけない、とharuka nakamuraは思ったのだろう。
 本作のサウンドトラック・アルバムは「劇場アニメ ルックバック オリジナルサウンドトラック」のタイトルで、2024年6月28日にエイベックス・ピクチャーズからリリースされた。収録曲は以下のとおり。

  1. 流れゆく季節
  2. 空想の彼方で
  3. 8の季節
  4. 日々に帰る
  5. スケッチブック
  6. Rainy Dance
  7. ふたりの背中
  8. 輝いた季節
  9. beautiful days
  10. solitude
  11. RE : SIN
  12. ひとりの君へ
  13. エンカウンター
  14. 君のための歌
  15. FINAL ONE
  16. Light song

 全16曲。収録時間約25分。上映時間1時間弱の作品なので音楽の量は多くないが、本編同様にとても濃密なサントラだ。
 本アルバムはCDと配信でリリースされている。デジタルアルバムでも購入できるし、サブスクでも聴くことができる。が、音楽に関心を持った方は、ぜひCD版を購入することをお勧めする。CD版の解説書にはharuma nakamuraによるコメントと全曲解説が掲載されているからだ。それを読めば、『ルックバック』の音楽について知るべきことはすべてわかる。
 haruka nakamuraはこの作品の音楽を頭から順に作っていった。作品の中の感情の流れに寄り添った音楽にしたいと思ったからだ。同時に3つの場面の音楽を軸にすることを考えたという。
 そのひとつめが冒頭のシーンの曲「流れゆく季節」(トラック1)。俯瞰で描かれた夜の街、カメラがひとつの家に近づき、藤野の部屋の中へ。マンガ描きに熱中する藤野の背中に、ピアノの旋律が重なる。弦楽器が加わり、藤野の心に渦巻く感情を表現する。別録りしたとは思えない、ピアノとストリングスのみごとなアンサンブルに気持ちが引き込まれる。
 ふたつめは、京本と初めて顔を合わせた藤本が、雨の中を踊るように駆けながら帰るシーンの曲「Rainy Dance」(トラック6)。藤野のよろこびと興奮がそのまま絵になったようなシーンに音楽もぴったりついていく。映像と音楽のセッションだ。藤野の足取りに合わせてテンポも変わり、鍵盤を弾くタッチも変化する。感情が徐々に盛り上がり爆発するような、高揚感あふれる演奏。こちらの気持ちもシンクロする。
 3つめは、作品のラスト、藤野がひとり机に向かってマンガを描くシーンの曲「FINAL ONE」(トラック15)。作品の中で流れた情感がここに集約されている。作品から引き出された感情のままに、しだいにテンポが速くなり、メロディも展開していく。まさに「万感胸にせまる」演奏である。
 ここまで紹介した3曲——「流れゆく季節」「Rainy Dance」「FINAL ONE」を聴いただけで、この作品の核になっているものが伝わってくる。haruka nakamuraの言葉どおり、『ルックバック』の音楽は、物語的にも心情的にも、この3つの曲が中心になっているのだ。
 トラック3「8の季節」は、藤野がひたむきに絵の練習にはげむシーン(シークエンス)に流れる曲。このシーンは、セリフはほとんどなく、映像の連なりと音楽で時の経過を表現している。音楽の力を信頼した演出だ。haruka nakamuraによれば、このシーンは「原作を読んだ時から頭の中で音が聴こえて」いたそうだ。短いフレーズをくり返すピアノにストリングスがからみ、藤野の心の熱量を表現する。夢中になって何かに打ち込んだ経験がある人なら、心を動かされずにいられない場面である。
 藤野と京本のやさしい時間を彩る「ふたりの背中」(トラック7)もいい。ミュート・ピアノを使った温かい音色が、2人のかけがえのない日々に寄り添う。それに続く2曲——「輝いた季節」(トラック8)と「beautiful days」(トラック9)の、日々を慈しむような旋律と音色の美しさ。「この時間がずっと続けばいいのに……」と思う気持ちが音になったような曲である。
 トラック11「RE : SIN」もミュート・ピアノを使った曲。映画の終盤、京本の家に行った藤野が深い後悔の念に襲われる場面に流れる。ミュート・ピアノの抑えた音色が、過ぎ去った時を悼むような哀感を帯びた旋律を奏でる。曲の冒頭のシンセのような音は、曲の終わりの部分のメロディを逆再生したもの。一気に時をさかのぼるような音響的な工夫が効果を上げている。
 それに続く「ひとりの君へ」(トラック12)と「君のための歌」(トラック14)の切なさったらない。いや、曲自体は切なくない。むしろやさしく温かいのだけど、それがなおさら胸を打つ。大切な人を想う祈りのように。
 すでに紹介した「FINAL ONE」(トラック15)をはさんで、トラック16「Light song」は本編全体を締めくくるラストソング。haruka nakamuraが「讃美歌」のつもりで作ったという、素朴で美しい曲である。主題歌とされているが、意味のついた歌詞はない。造語のような、どこの国の言葉でもない音の連なりで歌われているのだ。歌詞をつけなかったのもよかったと思う。言葉にすれば、わかりやすくはなるけれど、作品の解釈を限定してしまうおそれもある。この曲は、観客がそれぞれに意味をあてはめて聴けばよいのだ。

 『ルックバック』の音楽は作品の記憶をよみがえらせるだけでなく、作品に刺激されて呼び起こされた、さまざまな感情もよみがえらせる。タイトルの『ルックバック』が意味するように、過去をふり返らせてくれるわけだが、聴き終える頃には、前に進もうという気持ちもわき上がってくる。即興演奏が生み出すドライブ感の力だろう。『ルックバック』は「背中を見る(見て)」という意味にもとれるが、むしろ背中を押してくれる音楽でもあるのがすばらしい。

劇場アニメ ルックバック オリジナルサウンドトラック
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