COLUMN

第718回 『蜘蛛ですが、なにか?』の話、映像編

 今回もWordデータによる入稿になります。で、映像の話でしたっけ。ま、放送開始時にも語ったかも知れませんが(忘れた)、改めて。
 アニメ監督とかやってると二言目には「映像が~映像が~」とやたら口にする演出志望の新人に出くわすことがあります。おそらく“演出=映像”と分かった振りをするのに必死なのかと思うのですが、画描きであるはずの自分が、なぜか普段殆ど「映像」などとは口にしません。演出とは本来、キャラクターそれぞれの心情とシチュエーションに沿って被写体のサイズやアングルを選んで感情の旋律みたいなものをコンテに描き連ねていくものだと自分は思っていて、そこに「映像」という言葉を使ってしまうと途端に“光のフレア”だ“影を落とす”だなどと画面のデコレーションのみを演出だと思い込んでしまいそうで、意識して安易に使わないように心がけていたら、自然と日常会話から消えていったんです。
 そんな俺が今回敢えて「映像」という言葉から始めたのは、パッケージリテイクも終盤に差し掛かり、改めて全体像を見渡したところで、今作『蜘蛛ですが、なにか?』はいつもよりちょっと余分に「映像」に拘っていたようだと自分で気づいたからです。特に蜘蛛子パートのモンスター・バトルシーンは、蜘蛛子目線のローアングルから3DCGをふんだんに使ってのカメラの回り込みや、マザー(クイーンタラテクト)に代表されるスケール感のあるモーションなど、TVアニメの枠で出来得る限りの「映像スペクタクル」的なものを意識してコンテを切って(描いて)いたように思います。多少オーバーに言うなら第1話、転生して卵から生まれたとこから、視聴者に蜘蛛子になってもらって、その主観でサバイバルを味わって欲しかったし、俺自身も蜘蛛子になりきってコンテやってましたから。で、レベルUPによる視界表現の変化も分かりやすくするため、いつもはやらない画面分割とかもシリーズ通して何度もやりましたし、スキル・ステータス表記もシーン毎で規則(ルール)に縛られない且つパターンにハマらないように、とにかく自由な映像表現をいつも以上にやったつもりです。制作方面から伝え聞くところによると、板垣の少々捻ったカメラアングルや同ワークのコンテが勉強になるとCGスタッフさんらが仰って下さってたそうで、社交辞令的なものでしょうが嬉しかったです。ま、「分かり辛い」とハッキリ仰る方もいるのも事実ですが。ま、それは初監督『BLACK CAT』(2005年)からの頃から変わっていません。単純な話、

常日頃から変なカット割りや一風変わった見せ方をしたい!

と考えているからです。実写と違い偶然は起こる事がなく、全部計算で作り上げるアニメーションだからこそ「コンテを切ってる自分ですらどう繋がるのか分からない部分」を仕込んでおきたいんです。それはもちろんこれだけ映像コンテンツに溢れかえったご時世で、誰もやっていない表現などは残されていないのは十分に分かってるし、「それこそが演出だ!」なんて思ってもいません。ただ、そんなことは承知の上で、「一瞬でもお客(視聴者)さんに見たことがないモノを見せたい」という開拓精神は枯渇させたくないんです。それは、フィルムにとってある種のエネルギーみたいなものになる! と数々の出﨑(統)監督のアニメで教えられたことなので。『BLACK CAT』でやった結果を先に見せてから時間を戻して説明するアクション(#20 セフィリアVSクリード)や、『ベン・トー』(2011年)の“視界を覆う闇”を黒モヤで可視化するスーパーのカゴ・アクション(#10 槍水VSオルトロス)なども同様の思考から生まれてくる表現でした。特に『ベン・トー』の頃はシナリオ(脚本)も自分でやった上で、でした。
 『蜘蛛』を観直す機会がもしありましたら、そんな変な箇所を探してみてください。では、今日はこのへんで。