COLUMN

第652回 アニメーターとしての終末

最近、というか40代に突入してから「自分はあと何年アニメーターをやれるのだろうか?」とよく考えます!

 再三語ってるとおり、自分はアニメーターとしてスタートから非常に恵まれていました。(株)テレコム・アニメーションフィルム——大塚康生さんを中心に友永秀和さんや田中敦子さん、富沢信雄さんらスタジオ・ジブリ以前の宮崎アニメを支え、超大作『NEMO』(1989)を作り上げた精鋭スタッフにアニメーションを教わることができたのですから。しかも当時(1990年代半ば)では1枚いくらの出来高(単価)制が当たり前だったアニメ業界において、テレコムは動画1年目から完全給料制、しかも夏・冬ボーナスがもらえて——と言うと我々の同期からは相当羨ましがられたものです。同年代のアニメーターからすると、俺は本当に温室育ち。実はテレコムを辞める際、原画キャリア丸4年だった自分に「ジブリに紹介しようか?」と仰ってくださった先輩がいたのですが、その時は「有り難いお話ですが、演出やりたいって会社辞めるのに、ジブリで原画マンやっちゃ嘘になるので」とお断りしました。その時、もちろん「演出やりたい」が退社理由で間違いはなかったのですが、本当は

このまま温室育ちのアニメーターじゃ、俺はダメになるから!

というちょっと贅沢な理由もあったんです。当時の先輩方ゴメンナサイ。お気遣いありがとうございました。
 で、自分がテレコム退社後、演出デビューの場に選んだのが小さな某グロス会社。ちなみにその小さな会社で新人数人を引き連れて作った数本のグロス話数は、現在ミルパンセで「全員新人からの作り方」を実践する際の勇気を育んでくれました。その会社では、自分が320〜330カットほどのコンテを上げると、その半分以上の150〜200カットほどは、50〜60代くらいのかなり年配のフリーで自宅作業の方に振られるのが常でした(残りは社内の新人)。これはもう本当に大変でした! だって狙った意図の画がまったく上がってこない! そりゃそうですよ。当時27〜28歳の板垣は、自分と同年代の今石洋之さんらGAINAX(現在はTRIGGERに在籍)の活きのいい巧い原画マンの傍らで、アニメーター仕事もしてたわけで、それと比べると大ベテランの方々の原画は正直「酷かった」です! 髪の毛も服もいっさい揺れず、どんな芝居・アクションも限界まで簡略・省略されたラフな原画が1〜2枚ペラペラっとタイムシートに挟まれてるだけのものが、毎日30〜40カット机に積まれてるんです! それを社内の新人と自分も加わって全修に次ぐ全修。ハッキリ「地獄」でした。ただその時、テレコムでの大塚さんの言葉を思い出してたんです。

「歳をとると画は下手になるんだよ。僕はもう社内(テレコム)の若い人より下手になってるからね〜」

と。事実か謙遜かはどうでもよくて、大塚さんほどの方がそう言うくらい、アニメーターって肉体労働だってこと。目だって衰えるし、集中力も散漫になり、何より自身が描きたい画と世間が求めてくる画とのギャップは激しくなるばかり。それでも60歳越えて机にしがみつくカッコいい方たちをただ「老害」といって切り捨てるヤツに「本当の人生とは何か?」など描けるはずもないと思いました。それが描ける演出家にこそ、俺はなりたい!
 つまり目の前の年配の方の原画を見た時、

誰でも必ず歳をとり、俺もいずれこうなるのかもしれない。今この酷い原画に対して怒ったり笑ったりスタジオの壁に貼り出して揶揄したり、ひとしきり憂さ晴らしをしたあと、新人と自分で直しまくろう! 我々が子どもの頃に夢中になって観たアニメを作ってた人たちのフォローもできないところだと思いたくない、アニメ業界!

と。この考えは現在にいたっても変わっておりません。画の荒い部分や足りない原画は、俺らで修正・追加すればいいんです。そして若い人らは業界の大先輩からその生き様を学ぶ。先輩と後輩の相互関係こそがアニメ制作現場のいいところなはず。そもそも俺らみたいな若造の作品にご年配の方が入ってくるって、よっぽど人手不足だからで、どんな画が上がってこようと文句を言える義理はないはず。だから我々は全修しまくって使えばいいんです!
 ただ、笑ったり揶揄したりくらいはご容赦ください。こちらも人間なので、現場でおかしなモノが上がってきたら爆笑の対象となります。でもその代わり、自分自身も将来後輩に笑われる覚悟は完了してます。あとSNSなどで拡散するようなマネは最低なので絶対やりません。

TVアニメ黎明期から描かれてる方々は、2秒以内のカットは基本「止メイチ」で上がってくると初めて知った27歳の夏!