COLUMN

第63回 イベントをやってみた

 12月1日にツイッターでつぶやいたら、たちまち同じ月の23日にイベントを行うことになった、というのは前々回に書いたとおり。
 元々、広島や呉では、この映画のために考証する上でどんなアプローチを踏んでいるのか、という話は何度か場所を与えていただいて喋る機会もあったのだけれど、そうやって喋る中身が、「広島のあの場所は昔こんなでした」というくらいの次元で終始しているのだとしたら、それでは、せっかく喋らせてもらっている「今回の方法論」自体にあまり普遍性が感じられないようなことにもなりかねない。
 ところが、ちょっと糸口が見えてきた気がした。11月23日にも広島のダマー映画祭inヒロシマ2013で、ワークショップと称してやっぱり同じようなことを話す機会があって、何を話そうかと考える中で、こういう取っ掛りから話し始めてみたらどうかな、とちょっとしたことを思いついてみた。
 「『この世界の片隅に』の『この世界』って、いったい『どの世界』なのか?」

 どの世界、といって、ファンタージー的な「あっちの世界」とかであるわけじゃない、それはわれわれが生きているこの世界と直接地続きであるまさに「この世界」なのであって。「映画の中」だけに存在している「戦時中の世界」みたいなものじゃなく、もっと今この場に立っている自分たちからそのまま延長していって存在している世界なのであって。
 というようなことを思い巡らせていたら、こういう話だったら広島とか呉でなくても聞いてくれる人がいそうだなあ、と思うようになった。話をするとして、どれくらい来てくれそうかな? 30〜40人くらい入れられる会場だったら心当たりもあるし。
 おまけに、この11月23日のワークショップは、都合1時間半話をして、会場にいた松原秀典さんには
 「全然話の入口だけで終わっちゃいましたね」
 という感じだったので、何回か連続もののトークイベントみたいなことができるかもしれない。
 などと、いろいろ頭の中で広げてしまい、多少の下準備もした上で、12月1日朝のツイートに及んだのだった。
 まさかその場で小黒さんに話を拾ってもらって、新宿ロフトプラスワンが会場として押さえられてしまうとは思ってもいなかった。
 想定していたのより2倍から3倍も人が入れてしまう器であり、1時間半とかではなく、2時間半から3時間程度は時間をかけられてしまう。

 プロデューサーの丸山正雄さんは、ツイッターで経緯を読んだらしく、唐突にこちらへやってきてこういうのだった。
 「片渕くんのうしろの本棚、それをそのままロフトの舞台に再現して、その前で話す仕掛けにすればいい」
 『この世界の片隅に』用の資料が収まった本棚なのだが、「何冊入ってるのですか?」と問われるのも野暮なくらい本が詰まってしまっている。丸山さんは来客があるたびにここへ案内してきては、本棚を見せている。よほどもの珍しい感じになってしまっているらしい。当然、この物量を丸ごと新宿まで持ってゆくのは無茶な話で、写真に撮ってプロジェクションするなりなんなりしたら? ということなのだった。
 問題がひとつあり、それは本棚の手前にもすでにダンボール箱の積み重ねができてきていることだった。全貌を写真に撮るにしても、まず大掃除から始めなければならない。まあ、ある意味それは仕方ない。時も12月なのだし。
 せっせと片づけをして、家から魚眼レンズを持ってきて本棚を写した。どうせ画像を投影しっぱなしの2時間数十分になるのだし、スクリーンは下げっぱなしになるのだから、本棚も同じスクリーンに映してしまうのがよいみたいで、となるとスクリーンの大きさがあるので本棚実物大は無理で、せめて大きく見えるようにと魚眼レンズの出動になったのだった。

 ただ話をして画像を見てもらうだけなのもつまらない。『この世界の片隅に』のこの世界」が、われわれの世界と地続きなのだということを感じてもらえる仕掛けがもうちょっとあるとよい。例えば、前野秀俊さんから借りっぱなしになっている戦前・戦中の化粧パウダーなんかがある。この香りを鼻で味わうと、昭和10年代が急にすぐそこにあるような気がしてきてしまう。
 という話を前野さんにしてみた。実は前野さんのコレクションには戦前・戦中の歯磨き粉というのもあって、これも香りが嗅げたのだが、生憎それを見せてもらった飲み会のあと、前野さんはいい気分になってどこかにカバンごと置き忘れてきてしまって、預かっていた化粧品だけが生き残っていたのだった。
 前野さんは、ならば歯磨き粉ももう一度手に入れる、という。実際手に入れてきたものの、今度のはあまり香りが残っていない、とかで、代わりにさらに化粧パウダーを手にれてみました、と丸い手のひらサイズの化粧品のパッケージばかりが相当数蓄積されてしまった。金属製の缶カンのは戦前のもので、形は同じでも容器が紙に変わっているのが戦中のもの。
 視覚、嗅覚ときたら聴覚も欲しくなり、これも資料として栩野幸知さんからお借りしっぱなしになっているポータブル蓄音機を会場に持ってゆくことにした。どうも昭和18年製であるらしい代物で、電気ではなく手回し式。手回しの蓄音機から出る音はかなり響きもよく、実際に耳にするとそれが遠い時代のものとは思えなくなる。
 味覚、については、ロフトさんの方で特別メニューも作れるとの話だったのだが、さすがにあの楠公飯に挑んでいただくのは忍びなく、代わりにちょっと美味しいすいとん汁を作ってもらうことにした。われわれの世代だとすいとんはそれなりに美味しく食べられるものなのだが、戦時中を経験した人たちがあんなに悪くいうのはなぜなのか、その辺に触れてみようと思って。ついでに、2013年春に比較的身内の人たちだけで実施してみた「すずさんの食卓」イベントの第2回のチラシを配ることにした。たぶん、4月になったらまた雑草を詰みに行かなくてはならなくなる。

 そんなこんなを交えつつ、当日話してみたのは、こうの史代さんの原作マンガを映像として再現するために裏打ちをする作業の中で、いかに多くのことが原作の上に発見できたのか、ということだった。こうのさんこそ、まず「この世界」の「世界」をご自分の中に構築し、その中に普通に住まう人として登場人物を放り込み、マンガ表現の上に存在させていたのだった。
 マンガの冒頭から始めて、それぞれのコマに描かれているほんの些細に見えることのひとつひとつが、きちんと背景をもっていて、まさに「世界」の反映であること。こうのさんはことさらに作中でそのひとつひとつについて説明することはあえてせず、ただ単に、そうした細々したものの集合として「世界」がある、ということを語っていたのだった。こうのさんのマンガ「この世界の片隅に」は、隅々に描かれたもののことについて喋れば喋るだけ、いくらでもその奥に潜む世界の広がりが見えてきて、いつか今ここにいるわれわれとすらつながってしまう。作品の中だけに限定して閉ざされた「世界」ではなく、リアルワールドに向かって開放された「世界」。それこそが『この世界の片隅に』の「この世界」なのだった。
 それは、作品表現として必要なものだけを取捨選択して構成された世界ではなく、総体としての世界をできるだけ細部にわたって総合的に「理解」し、そこに平然と登場人物たちを置いてしまうことで実現されている。
 同じことを映画の上でも行おうとしているわれわれであるからこそ、これまで盛んに、
 「この出来事は何月何日何曜日のことなのか?」
 「その日のお天気は? 朝昼晩の気温は?」
 「その日、すずさんのところから見える港に停泊していた船は?」
 「港まで見渡す視程のなかに建っていた家々は?」
 などと再現するために注力してきてしまっていたのだった。
 丸山さんは、
 「片渕くんたちのエラいところは、あれだけ本を並べて、そこで読んだことを逐一全部映画の中で語ろうとしないことだよね」
 といってくれるのだが、別にことさら具体的なエピソードとして描かなくても、知れば知るほど「世界」の肌触りを理解できることになるし、それは確実に画面に忍び込んでくるはずなのだった。あるいは、そうでなければ『この世界の片隅に』を表現したことにならないのだろう。そう思う。

 ところで、結局3時間くらい喋ってみたのだが、今回もまた原作の冒頭部分のことをあまり出られないで終わってしまった。喋った中では、すずさんはまだ呉にも到着していない。呉のことはまったく喋らずじまいだった。
 そのうちに、続きをやらなくてはならない。

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