広島中島本町のシーンの背景はかなり描けるようになってきた。ヒロシマ・フィールドワークの中川幹朗先生のご協力に頼るところが大きい。
基本的な考え方としては、以前にも書いたことなのだが、『マイマイ新子と千年の魔法』のとき、公開後にロケ地の現地を訪ねてみて、本編の中で描かれている昭和30年当時とはかなり風景が変わってしまっているものの、まだ随所に見つけることができる「面影」を依代にすることで想像力が膨らみ、昭和30年だったり千年前の平安時代だったりした頃のその場所を今現在の風景と心の中で二重焼き三重焼きにすることができて、その同じことを広島でできるように冒頭部の中島本町のシーンを設計したいということであったりする。
爆心地至近の中島本町はもちろん壊滅状態だったのだが、被爆前には燃料会館と呼ばれていた建物が今もちゃんとそこに立ち、平和記念公園のレストハウスとなっている。さらに以前にはこの建物は大正屋呉服店だった。燃料会館というのは、何もかも経済自由がなくなった戦時中に、呉服店も畳まざるを得なくなり、あとに公的機関が入ってからの名前だ。この建物がもっとふつうに使われていた頃のこの街を描き出したい。芝生の中に立ち残ったレストハウスと二重写しにできるのなら、そうした光景の方がよい。
というわけで、まず、この建物が今もそこにあるレストハウスなのだとわかるようにしたい。この建物は3階建てなので、そうとわかるようにある程度カメラを引かなくてはならない。引いてしまうと手前の建物もフレームに入ってくる。これがモスリンを売っていた大津屋で、この店をちゃんととらえた写真は現存してないらしい。けれど、この通りをあちこちのアングルから写した写真には大津屋の片鱗が写っているので、それを基になんとか店構えが描けるようにしたい。一番のポイントは店の看板なのだと思うのだが、それについてはこの町に住んでおられた方々から「看板の地は木の色だったような気がする」「文字は金色だったような気がする」というところまでうかがうことができた。問題は、金色の文字で何と書かれていたのかだが、不鮮明な写真を見るに、中央に大きな文字で横一列の文字が並んでいる他に、さらにその上に小さな文字がもう一列並んでいる。デッチ上げてしまうなら「これは店の電話番号」ということにしてしまえばよいわけで、そのために戦前の広島市の電話帳をひもといてみたりもした。この店の電話番号は、古くは「613乙番」、のちに「2284番」に変わっていて、おそらく昭和8年末くらいだと4桁の方の番号なのだろうということもわかった。ついでにいつと、「乙」がついてる方の古い番号は、通りの向かいにもう一軒大津屋という店があって、しかしこちらは菓子店なのだが、その電話番号が「613甲番」なのだった。店の名前だけでなく、ご店主の姓も同じなので、おそらく本家分家みたいな関係だったのではないか、と想像された。向かいの大津屋「菓子店」の場所は、中島本町住民だった方々の記憶では梅園菓子店という和菓子屋さんだったということなのだが、昭和10年の電話帳が手に入り、それを見てみるとその時期にはまだ大津屋菓子店の名になっていた。そんなふうな右往左往で、いくらか街の雰囲気がわかったような気もした。
大津屋や大正屋呉服店が並んでいた戦前の中島本通りは、鈴蘭灯で彩られていた。それぞれの鈴蘭灯が立っていた場所、ついでに電柱の立っていた場所などもわきまえていかなくてはならない。
ところが、なのだが、前に広島に行った時に平和記念資料館でもらうことができた企画展のパンフレットに、まさに大正屋呉服店とその西隣(大津屋と反対側)のクラモト商会の境目付近をとらえた写真が載っており、しかしそこには、まさにそこに立っているはずの鈴蘭灯が写っていなかったのだった。自分たちが別の写真から推定していた鈴蘭灯の位置に少し誤差があったのだろうか、と疑ってみたのだが、もうひとつ路面によい目印となるマンホールがあって、それとの位置関係からいうならば、なければならないその場所に鈴蘭灯がない、と結論せざるをえなくなってしまった。
途中で鈴蘭灯が1本だけなくなってしまったのだろうか? なくなったとすればいつ? われわれが画面にしようとしている昭和8年にはあったのかなかったのか?
いろいろな「時期」を押さえていかなくてはならない。
まず、すごく基本的なことだが、中島本通りに鈴蘭灯が建てられたのはいつか? つまり、そもそも昭和8年末に鈴蘭灯自体が存在していたのかどうか。手元にある範囲の資料でそれを読み取ろうと思ったのだが、意外にもよくわからなかった。中島本町から元安川を渡った先の本通りの方では、元安川東詰めから横町にかけての一帯に最初の鈴蘭灯が、大正10年に設置された、ということは書かれていた。さらにいろいろなものをひっくり返していると、「広島で最初に鈴蘭灯が出来たのは中島本町」という記述にも出くわした。 ところで、大正屋呉服店の鉄筋3階建ての建物が竣工した当時の昭和4年3月撮影と言われる写真もある。しかし、そこにはやはり大正屋の前にあったはずの鈴蘭灯が写っていない。
大正10年以前には存在しているはずの鈴蘭灯が、昭和4年にはない。はてさて。
実は、昭和4年の写真の注目すべきポイントは、新築のビルのショーウィンドウなのだった。よくよく見ればそこには通りの反対側の鈴蘭灯が写っているのだった。察するに、大正屋呉服店の建物を建築するあいだ、邪魔になる鈴蘭灯は撤去されていたのではないか。
という七転び八起きの繰り返しで、どうやら昭和8年の場面で大正屋の横に鈴蘭灯を描いても叱られないだろう、というところまでたどり着いた。
ただ、平和記念資料館企画展パンフレットの写真で鈴蘭灯がないのはいまだにわからない。平和記念資料館に問合わせてみたところ、この写真が撮られたのは、昭和12年春から夏なのではないか、と教えてもらった。千人針をしているご婦人が写ってるので、おそらく「戦時」に入ってしまった12年夏以降なのだろうと個人的には思う。けれど、同じ撮影者が撮った同じ場所のアングル違いの写真には、やはり同じ女性が千人針をしているのだけれど(服装も立ち位置も全く同じなので同じ人だろうと思った)、そちらには鈴蘭灯がちゃんと存在している。この人がずっと同じ場所で通る人に千人針を乞うているあいだに、鈴蘭灯が取り外されたか、立て直されたかした、ということになる。この辺の事情はわからないまま残った。
映画に出てこない昭和12年のことなんてどうでもよいといってしまえばそれまでなのだが、この街の上に流れた胸に収めるためには、今ひとつ釈然としていたくもある。ついでにいうならば、そのあったりなかったりする鈴蘭灯の足元のマンホール蓋の材質まで気になってしまっている。またしてもキリがなくなってゆくのだった。
親と子の「花は咲く」 (SINGLE+DVD)
価格/1500円(税込)
レーベル/avex trax
Amazon
この世界の片隅に 上
価格/680円(税込)
出版社/双葉社
Amazon
この世界の片隅に 中
価格/680円(税込)
出版社/双葉社
Amazon
この世界の片隅に 下
価格/680円(税込)
出版社/双葉社
Amazon