COLUMN

第9回 『この世界の片隅に』と65年の魔法

 というふうにいろいろと書いてきたように、今回の企画『この世界の片隅に』(こうの史代原作)の劇場アニメーション化は、前に作った『マイマイ新子と千年の魔法』と密接に結びついている。
 何よりも『マイマイ新子と千年の魔法』では、「昭和30年の山口県防府市の片隅」という、一般の観客からしてみればまるでポピュラーではないところを舞台にとっておきながら、それが自分自身の子ども時代と近しいものであるように汲んでもらえることが多かったことが、ならばこの時に採った同じ手法を活かしてもう1本やってみたい、というこちら側の気持ちにつながっていた。
 昭和30年といえば、日本は平和を取り戻しており、そこから東京五輪、大阪万博などを通りながら現在にまでつながってきている感もないではない。けれど、もう10年さかのぼってみたらどうだろう。様相は一変してしまう。そこにあるのは「戦時中」という断絶された時代なのだ。たった10年の違いははなはだしく大きい。
 ふと思い出すのは、『マイマイ新子と千年の魔法』で「貴伊子」という東京からの転校生である少女をいかに造形しようかと考えていたときのことだ。友人に前野秀俊さんという人物がいる。彼は、戦前、戦中、戦後にかけての通俗文化に興味をもって、古本を買い漁ったり、いろいろ見聞を重ねたりしている。その前野さんが、
 「貴伊子は戦前の中流階級の娘みたいに考えたらどうでしょう?」
 と、サジェッションしてくれた。昭和30年代のお医者さん(貴伊子の父は工場医だ。自宅では開業していない)の家を調べるのは手間がかかりそうだが、戦前の中流階級の家ならほど近くにある小金井公園の江戸東京たてもの園に行けばそれらしいものが何棟も建っている。イメージしやすい。
 そんなふうに、いわゆる「戦前」と「昭和30年」頃では、直結している部分がかなりたくさんあることに気づく。そのあいだに割り込んでいる「戦時中」「終戦直後」という変形してしまった時期が寄り道だったように思えてくる。極論すれば、もちろん社会の全ての要素がそうだ、というつもりは毛頭ないのだが、少なくとも日常的な庶民の暮らしとか風俗みたいなものに関しては、「戦前」から「現在」までは、1本の直線の上のグラデーションとして眺めることだってできてしまう。その範囲内ならば、観客の心の手も届くことができるだろう。
 問題は、異分子である「戦時中」「終戦直後」だ。それを、近しいものとして感じてもらえるようにするにはどうすればよいのか。そういったことが、『マイマイ新子と千年の魔法』からわずか10年時代をずらしただけ、地理的にも山口県からすぐとなりの広島県に移しただけ(直線距離にして100キロない)の『この世界の片隅に』を手がけるに当たっての、自分自身の課題となった。
 そこに『マイマイ新子』の手法を活かすとすれば、その舞台への徹底的な「理解」だ。
 具体的な地理環境は、それこそグーグルアースみたいなものを使えばある程度把握できる。だが、それで何かを知ったと思っていきなり現地ロケハンに赴いても始まらない。それでは「今の姿」しか目に入らない。その同じ場所の今からおおよそ65年前、昭和18年から21年当時の姿を知っておきたい。それができたならば、現地に立ったとき、目の前にある風景が、往時の光景と二重写しに見える「千年の魔法」も発動するだろう。

 まずは、その当時のその場所の写真と地図をできるだけ手に入れたい。
 航空写真はすぐに手に入る。昭和22年に米軍が日本各地の空中写真を撮りまくったものが国土地理院にある。これでかなりの部分はわかる。広島市に関しては、昭和20年7月25日原爆投下直前の米軍航空偵察のときの写真も同じところに所蔵されている。昭和14年に日本陸軍の航空隊が写した空中写真もある。
 被爆して失われた広島の町並みを地図上で再現する作業は過去に行われており、その成果を手に入れることもできる。
 呉市はその事業として昭和16年当時、つまり戦災で焼ける前の市街地の町並みを同じく地図上で再現することも行っている。これも手に入れることができる。
 そうして、どこに何が建っていたのかをおおよそ知ることはできるようになった。その土地に関する「観念」を整えることができるようになった、といってもよい。
 あとはより具体的なもの、地上から見た写真だ。
 かなり大きな問題が横たわっている。『この世界の片隅に』のふたつの舞台、広島市は陸軍の軍都、呉市は海軍の軍港だったため、写真撮影が禁じられていたのだ。

 しかしまったく写真が存在しないわけではない。そうしたものを少しずつ手に入れてゆく。戦前の出版物。最近の出版物。戦前の絵葉書。戦時中そのもののものは当然、ない。戦前に撮られた呉駅だとか、市内の交差点だとか、当たり障りのない場所を写した絵葉書が、ビジュアルとして得られた最初のものになっていった。だが、それらの絵葉書ですら、街を取り巻いてそびえる山並みの姿は修正消去されていた。軍港の背後の山の形がわかれば、それを目標に砲撃を加えることができる。当時そう思われたがために、山の姿は重要な軍事機密となっていたのだった。
 そんなこんなをしつつ2010年も11月になったころ、相談の相手になってもらっていた宮坂浩司さんが、オーストラリアのナショナル・ライブラリーに、戦後すぐに豪州軍が呉を占領したときに撮ったと思しき写真がかなり大量にある、と教えてくれたのだった。ありがたし。

●2011年4月3日日曜日(241日目)

 結局、呉を最初に訪れたのはこの時期になった。
 防府で「マイマイ新子探検隊5」という、『マイマイ新子と千年の魔法』のロケ地をファンの皆さんに案内して回るイベントを行い、その足で広島経由で呉に入った。もうこの頃には、現地に立つといろいろなものが二重写しに見えるようになっていた。
 道も山も、どこに何があるのかも、あらかた頭に入っている。 この土地出身の方と、あれはここにある、それはどこにある、と普通に言葉を交わせるようにもなっていた。
 けれど、実際にその土地の地面を初めて踏むのは感慨深かった。
 とうとう呉市街の背後にそびえる灰ヶ峰の姿が目に入ってきた時には、心の何かが開く感じがした。

●2011年4月4日月曜日(242日目)

 朝の散歩を兼ねて、名前と姿はすでに知っていた山の姿、街の通り、川に架かる橋、道の交差する四つ角、古い建物に、
 「こんにちは、これからよろしくね」
 と、心の中で挨拶してくる。
 けれど、心の奥底は、息ができなくなる前に逃げろ、といっている。『マイマイ新子』の防府国衙と違って、ここで二重写しになるのは幸せな風景だけではないのだった。ホテルのある一角が昭和20年7月2日空襲の炎を逃れたことは知っている。その一歩外へ出てみると、二重写しになるのは一面「燃え上がる街」だったのだ。
 もっと平凡なもの、日常的なものをこの土地の上に見出していかなくては。そう思った。

●2012年10月28日日曜日(851日目)

 絵コンテが完成したら、実際のレイアウト作業に入る前にもう一度現地を訪れたい、とレイアウトを司る画面構成スタッフである浦谷千恵さんはかねてよりいっていた。その絵コンテは(秒数こそまだ入っていないが)、昨日10月27日にラストまで到達した。メインスタッフもおおむね顔ぶれが揃っている。
 今、われわれはメインスタッフ全員で現地を押しかけるということでは最後のものになるだろう、ということになっているロケハン(監督個人はまだまだ制作途中にも広島にも呉にも行く機会がありそうだ)を前に、支度に励んでいる。

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