SPECIAL

【ARCHIVE】 「この人に話を聞きたい」
第127回 片渕須直


●「この人に話を聞きたい」は「アニメージュ」(徳間書店)に連載されているインタビュー企画です。
このページで再録したのは、2010年1月号掲載の第百二十七回のテキストです。




公開中の『マイマイ新子と千年の魔法』は、昭和30年代の山口県防府市を舞台に、少女たちの生活や想いを瑞々しく描いた劇場アニメーション。『アリーテ姫』や『名犬ラッシー』を手がけた片渕須直監督の作品らしく、細部に至るまで作り込まれており、表現力は非常に高い。昭和30年代と千年前の世界がアイデアを始め、トリッキーな構成になっているのも印象的だ。今回はこの映画を入り口にして、片渕監督の作家性に迫る取材となった(映画を観てから読むのお勧めします!)。




PROFILE

片渕須直(Katabuchi Sunao)

 1960年(昭和35年)8月10日生まれ。血液型A型。大阪府出身。日本大学芸術学部映画学科でアニメーションを専攻。在学中に『名探偵ホームズ』に脚本、演出助手として参加し、卒業後、テレコム・アニメーションフィルムに入社。『LITTLE NEMO』の監督補佐等を経て、フリーに。初監督は名作劇場『名犬ラッシー』。他の監督作品に、現代性を帯びたファンタジー『アリーテ姫』、過激なアクション物『BLACK LAGOON』がある。最新作は、現在公開中の劇場アニメ『マイマイ新子と千年の魔法』。2010年には、OVA『BLACK LAGOON 3rd season』のリリースが予定されている。

取材日/2009年11月4日 | 取材場所/東京・マッドハウス | 取材・構成/小黒祐一郎





―― 僕の方から話を始めていいですか。

片渕 はい。

ーー 『マイマイ新子と千年の魔法』を試写で拝見しました。『名犬ラッシー』で片渕さんを意識して以来、僕が片渕さんが作ってほしいと思っていた作品に、かなり近いと思いました。瑞々しくて、丁寧に作られている。そして、表現が豊か。だけど、観る分にはいいけれど、これを売るのは大変だろうなと思いました。

片渕 ま、それはみんな一度は言いますよね(苦笑)。

ーー 今回はどうして『マイマイ新子』がああいった内容になったのかと、片渕さんの作品に対する考え方についてうかがえればと思います。

片渕 最近、宣伝絡みでメイキングの記事とかをやり始めて、昔、自分でメモしたものとかをひっぱり出して見てるんですけど、STUDIO4℃で仕事している僕のところに、マッドハウスの丸山(正雄)さんからメールが来たのが(注1)、2004年の10月だったんです。それが『マイマイ新子』という小説の映像化の企画が上がっているというものでした。原作が刊行されたのが2004年の9月で、刊行と同時に、マッドハウスの丸田(順悟)さんが目をつけて(注2)、企画にしたわけなんです。当時のマッドハウスには変わった企画があって、多分、僕はマッドハウスで初のアートアニメの短編をやっているはずだった。

ーー アートアニメですか?

片渕 うん。ある絵本の映像化をマッドハウスが買っていたんですよ。ただ、不況の影響でスポンサーに乗ってもらえない現状になっているんですけどね。そんな風にマッドハウスが、新しいジャンルに手を広げようとしている頃で、そのひとつとして『マイマイ新子』も出てきたんです。

ーー 丸田さんが、子供向けの作品を狙って企画を立てた?

片渕 「子ども時代の瑞々しさ」を描く映画を作りたくなったんだ、と。原作の中に、自分が子どもの頃に見た情景に似たものがあったらしいんです。でも、こちらとしては……なんだろうなあ、子どもがただ遊んで、何かを体験して、そういう事でいいのか、そう思い始めたんですよ。最近「奇跡」って言葉を使うのが、自分の中で流行りなんですけど、奇跡が起こらなくていいの? と思ったんです。自分は、いい意味でのファンタジーである事を求めてアニメーションをやっているつもりなんだけど、起こる事が全部現実的なことで終始しちゃっていいのかな。自分が観客の立場になった時に、そういう映画で納得できるのかな……と考えたわけなんですね。それで、どんなアプローチができるかで、自分がこの作品をやれるかやれないかが決まるなと思ったわけです。
 それで、別の仕事をしながら地方でアニメーションのシナリオの勉強をしている若い友人がいて、ネット経由で、どういう事ができるかについて、意見を聞いたりしていたんですよ。『BLACK LAGOON』をやりながら、ずっと考えていて、おおむね筋道が立ってきたかなと思ったところで「やります」と言ったんです。原作をもらってから、何ヶ月かは経っていたはずです。その間、丸山さんも色々決断がつかないでいたようでした。

ーー 片渕さんがやれるかもしれないと思ったきっかけが、千年前の部分になるんですか(注3)。

片渕 ひとつは、原作の一部でしかない新子と貴伊子の2人の関係をクローズアップする事で、もうひとつは、そういう感じです。さらにもう1個あるとすれば、原作の中で、ひとつだけ不思議な出来事が起こっていて、それは死んだはずの金魚が生きていたっていうエピソードなんです。原作の高樹のぶ子さんに聞いたら「本当にそういう事があった」と言うわけなんですけどね。彼女が本当に経験した事だったとしても、それをきっかけにして「起こってほしい奇跡」みたいなものを作り上げられるんではないかという気がしたんですよ。そうでないと、ただ単に、お爺ちゃんが死んで悲しかったです、で終わるという筋立てになっていたんじゃないかという気がしますね。
 こういったタイプの映画が売れるか売れないかというと、どうだかよく分かんない。だけど、それでも作らなくちゃいけないと感じているんですよ。そうしないと、こういうジャンルが、アニメーションから忘れ去られて消滅してしまうかもしれない。こういうものがかたちになっていくのは、意味がある事だと思いました。でも、かたちにしておく意義があるだろうなと思いつつ作っているのは『アリーテ姫』も同じだったんですけどね。本音で言うと『アリーテ姫』の次には、大向こうを正面から攻撃するような企画をやりたかった。それは間違いないです。

ーー 仕上がった映画を観て、かなりトリッキーだと思ったんですよ。だって、映画の最初と最後で一人称も変わっているわけじゃないですか。新子の主観で始まって、貴伊子の主観で終わる。それから、クライマックスで千年前の出来事と、新子達が家出する話が同時進行で進むのは、気持ち的にはリンクしているかもしれないけれど、ストーリー的にリンクしているかというと、実はそんな事はない。色々と難しい構成になっていますよね。

片渕 なってますね。

ーー これはトリッキーである事を狙ったんでしょうか。

片渕 主人公が貴伊子に移っていく事に関しては、かなり狙っていますね。『BLACK LAGOON』でもロックという男の子をナレーターとして使っていて、どっかからもう1人のレヴィに切り替えるという事をやろうとしてたんですよ。全く対等であってよい2人の組み合わせを、主人公として考えているところがあるのかもしれない。
 『マイマイ新子』を作っている途中で、プロデューサーの松尾(亮一郎)君に、『ドラえもん』の主人公はのび太なのか、ドラえもんなのかと言ったんです。『ドラえもん』もドラえもんの出現への注目で始まって、のび太の視線で終わるという事なんです。影響を受けて変わるのは貴伊子の方なんだから、貴伊子の目線にならないとこの映画は終われないんじゃないの? そういう話をしたんです。もっと言うと、貴伊子の目線でないと語れない新子っていうのが絶対にいるはずで、そこまでいかないと、新子を丸ごと語った事にならないんだろうという気もしていました。ドラえもんの一人称だけでは『ドラえもん』が成立しないのと同じにね。いざとなったら『マイマイ新子と貴伊子』というタイトルでもいいじゃないと言っていたくらいです。
 それから、新子が千年前に行って何かになるというのは、かなり早い時期に、自分の中でやめちゃったんですね。他人になりきって何かを経験するというのは、要するに他の人に自分を仮託しているわけじゃないですか。新子というのが、自分が望んでいるような主人公だとしたら、そういう自我の危うさからは脱しているんじゃないか。

ーー 映画が始まった瞬間に、新子にはそういった危うさがない?

片渕 危うさをもっていない新子が望ましくて、大事なものだと考えたんです。それに対して、貴伊子というのは自分が育ちきっておらず、自分というものを見つけられずにいる。そんな貴伊子が、新子という抜きん出た存在が何なのかを理解する過程で、いったんは自分を何かに仮託するというのは、腑に落ちると思ったんです。それでかなり早い段階に、貴伊子が平安時代に行く話になった。
 まあ、ぶっちゃけた話で言うとね。何度か観ても、自分で異質感が去らない映画なんですね。長編の映画はこれくらいのシークエンス数が入っていて、その上で成り立つものだろうと考えている数よりも、シークエンスが多いんですよね。もっと省きたかったんだけど、省いていくと原作からの逸脱が大きくなってしまう。原作のエピソードのいくつかを取り上げて、1本に並ぶように工夫して、なおかつ尺の余裕の部分で、平安時代の事をやっていかなくちゃいけない。平安時代を全部外すのは、自分の中では考えられなくなっていたので、原作から逸脱せず、なおかつ平安時代の部分を活かすために、一番犠牲になったのが、昭和30年代と平安時代がパラレルになっているという体験的表現の部分なんです。そこは象徴的になってしまった。そういう意味では、自分でも異質感のある映画としてでき上がっている。『アリーテ姫』も自分でよく分からない部分があったんだけど、アフレコが終わって、音楽を発注する前だったかな。夜中に自分の家で、ビデオを観ながら音楽発注について考えている時に「意外と納得できる話だなあ」と感じたんだけど、今回はその「納得」がなかなかこない。

ーー なるほど。

片渕 そこのあたり、もうひとつぶっちゃけて言うと、もっと原作からの場面を増やしてほしいというオーダーを受けてたんです。それが、かなり作業が進んでからの事だったので、その段階で、物語世界の階層構造を、子どもの観客にも味わえる体験的表現として盛り込むのは不可能だと思ったんですね。構成について足掻くのはそこであきらめたんです。
 その事で、昭和30年代と平安時代が断絶しているように見えたら見えたで構わない。自分ではそこはもっとやりたいと思ったけど、作っている自分だからそう思うのであって、他人が作った映画だったら、俺は納得できるかもしれない。そこはこのまま描いておいて、そのかわり、そこで起こっている出来事や登場人物の行いは、できるだけ切実に見えるようにしてやろうと。そっちをどんどん深める事で、今現在、構成によって生じかけている破綻が解消されるんじゃないかという期待をしたんです。
 「アニメージュオリジナル」の福田麻由子へのインタビュー記事を読むと、僕が「とにかく自然に」と言った事しか話してないみたいだけど(笑)、おそらく僕は「息遣いなんかまで含めてリアルな子どもとして存在してちょうだい」という事を伝えたかったんだと思います。そういう意味でいうと、新子の福田麻由子は14歳だったし、貴伊子の水沢奈子は15歳だった。そんな年齢の中にまだ残っている「子ども」を引き出して、とにかく新子達に実在感を与えたかった。そういうアプローチをしました。画面的にもそうですね。作画とか、背景の見せ方も全部含めて、観た人が納得するしかないところに、表現をもっていってしまおうと思ったわけなんですよね。で、苦労した(笑)。

ーー なるほど。文字どおり、演出の力技で……。

片渕 ねじ伏せるしかない。

ーー 試写で観た人には、そこに反応している人もいるみたいですけれど、少女のエロスもたっぷり表現されていますよね。キャラクターの肉感みたいなものがかなり出ている。

片渕 それはねえ。はっきりと意識的にやってるんだと思いますね。小川の上で、2人が藤蔓のハンモックで揺れてるところで、2人は裸足なんですよ。あそこの原画をお願いしたのが、柳沼和良だったんです。ヤギちゃんにやってもらえると分かった瞬間に、あのシーンを振りたいと思ったわけです。だって、ヤギちゃんは『月夜の晩に』という短編を作った人で。(注4)

ーー 少女の素足の第一人者ですね。

片渕 でしょ。だから、あそこをやってもらわないと、ヤギちゃんにお願いする甲斐がない。それで言うと、キャラクターデザインの辻(繁人)さんは、貴伊子をリアルな子どもとして、ぶちゃむくれ的に描きたかったみたいなんです。それに対して「映画なんだから、綺麗な女優さんが出てきてくんないと、嫌だ」って言った覚えがある。それもリアリティと同じく、ねじ伏せるための感性の武器として使う。それが気になって、この映画を終わりまで観るひとが出るくらいにはしたかった。幸い、1955年って女の子が素足になって走り回って許される舞台だったし、スカートが短いのも自分としては別段OKだった。

ーー 物語構成の話に戻ると、タツヨシのお父さんが首を吊ってしまうとか、主人公が呑み屋に殴り込みかけるような事が起きる世界だという事を、映画前半で振ってないですよね。

片渕 振ってないですね。

ーー 降って湧いたように、そんな事件が起きる。観ていて「え、そうなっちゃうの!?」と思ったわけですよ。

片渕 うん、うん。

ーー クライマックスの千年前の扱いも意外で、そういう意味では、先が読めない映画ではあった(笑)。

片渕 あ、悪い意味で?(苦笑)

ーー いやいや。話の転がり方としては面白かったです。

片渕 実は、自分にとっての原作の読後感が、それに近かったんです。要するに、友達のお父さんが首吊りして、殴り込みに行くのは原作にあって、読んでいて「あ、これはアリなのか」と思いながら読んでたんでね。
 自分の中で、高樹のぶ子さんて、書くものに必ずエロスのイメージがちらつくんだけど、この原作ではそれを切り捨てている。エロスを捨てた途端に、タナトスが出てきていて、各エピソードのどこかに、必ず死のイメージが散りばめられている。お爺ちゃんがバタバタかなんかにぶつかって、新子も病院にとんでくんだけど、いきなり踏み込んじゃったのが霊安室でドギマギするわけなんです。他にも友達の兄ちゃんが死んだり、そういうものがいっぱいあった挙げ句、クライマックスに、お爺ちゃんが死ぬ話がある。そういう部分を観客に突きつけていくべきなのか、緩和していくべきなのか。自分と同年齢の浦谷(千恵)(注5)がスタッフにいたので、どう思うか訊いてみたんですよ。そうしたら、死が自分の身近にあるのが、自分にとっての昭和30年代の印象に近いっていうんですよ。それも、その死は突然やってくるものだったというんです。確かにそうだった。自分の身の回りでも、一昨日までうちの弟と遊んでいた近所の子が、腸閉塞かなんかで、葬式が出ているみたいな事が、実際にあった。彼女は元々「過去に夢見る昭和30年代もの」だったらやりたくない、と言ってましたし。
 それから、あくまで子どもの目線でやりたかったわけなんですよ。大人になって、何が便利かというと、見晴らしがいいんですよ。次に何が起きるのかが分かるんですよ。子どもの頃は全く分かんなかった。次の授業で先生が何を喋るか予想もつかなかったし、自分の親が何を言い出すかも分からなかった。子どもの頃には、大人の世界の事情というのが唐突に押し寄せてくるんだという事が、感覚として蘇ってきて、その感覚自体は、作品中でリアルに描き得るかなと思ったんです。昭和30年代について自分で感じて、描けたのがそこですね。

ーー エピローグ部分で、唐突にお爺ちゃんの死が語られるのも、その流れなんですね。

片渕 そういう事だったりするんじゃないかなあ……。お爺ちゃんの死をことさらクローズアップするのはやめようと思ったわけですね。お爺ちゃんが死ぬ日って、あまりに生々しすぎる。原作では小太郎(新子の祖父)という人は、片目が義眼なんですが、死んだ後にその義眼が残っているという描写がある。象徴的であるともいえなくはないんだけど、あまりに生々し過ぎて、それを語るのは我々の使命ではないという気がしたんですね。タツヨシの父親の死についてはどうかというと、自分の中でせめぎ合いがあった感じです。本来はタツヨシの父の死も、小太郎の死と同じくらい避けて通るべきものだとは思ったはずです。どちらを採るかで、たまたまの病気で死んだ人ではなくて、より不条理な死に方をした人を採ったんでしょうね。その部分は伏線を張らないようにしようとは思っていました。今よりももっと張らなくていいと思っていた。要するにタツヨシの父なんて、顔出さなくていいんじゃないかとか。

ーー なるほど。顔見せの場面もなしで、いきなり「父親が死んだ」とする手もあった?

片渕 そうそう。そのぐらい子どもから見るとわけの分かんない出来事にしてもよかった。光子が途中で迷子になっちゃったんで、タツヨシの父が出てこざるを得なくなってしまったんですね。
 そんな風に、昭和30年代への実感を取り込もうとした。それを以前から自分の中に存在していた新子とか貴伊子にまとわせてるんじゃないかな、という気がします。要するに、原作をもらう前から、自分の中に新子と貴伊子の原型があったんだろうなあ。

ーー 原型というのは、キャラクターの人格的な部分についての?

片渕 だと思います。要するに、別の原作がきたとしても、あの子達は登場したんだろうという気がしてますね。あいつらは、多分『アリーテ姫』が終わったあたりから、自分の中にいますから(笑)。

ーー なるほど。

片渕 『アリーテ姫』っていうのは、主人公のアリーテが、たった1人で徒手空拳、今までいたところと違うステージに進んでいく話だったんですけどね。4℃の田中達之君に「1人っていうのは引きこもりを肯定する映画に見えますよ」といわれて(注6)、「ああ、なるほど」と思ったんです。世の中で生きていくレールに乗っかる事に必死になっている自分がいて、それをそのままアリーテに仮託して描いていたりするんだけど、確かにそれだけでは孤独だと感じたんです。例えば、心の中にファンタジーみたいなものがあるなら、それを誰かと共有した方がいい。それができる2人の人間を描きたいと思うようになって、そういう事ができる企画に一度は出逢ったんだけど、結局ダメになってしまったんです。その企画がなくなった直後に来たのが『マイマイ新子』だったんだと思います。原作では2番目の主人公になるほどではない貴伊子が、もの凄くクローズアップされているののは、そういう理由があるんです。

ーー 片渕さんのこの映画を作る動機は、むしろ、そっちにあった?

片渕 そうです。そのためにも、2人のファンタジーが語られなくてはいけないし、それが千年前の出来事なんだろうなあと思っていました。
 昭和30年代に悪漢退治をするために暗黒街みたいなところに乗り込んでいくのと、千年前がストーリー運び的にパラレルになっていないのは、それをやっちゃうと、千年前も、新子達のありようも、ただの空想、嘘になっちゃうと思ったからです。誰かのお父さんが死んでしまうのをリアルにとらえたいのと同じように、千年前もリアリティから外れていってほしくなかった。タツヨシの木刀が千年前に跳んで、なんかの活躍をして戻ってくるっていう、そういう奇跡のあり方を考えた事もあったんです。だとしたら、千年前で誰かが何かを退治するの? とかって考えていくと、それは御伽噺みたいでリアルでなくなってしまう。現実からも、原作からも乖離していく。千年前に出てくる諾子って女の子は、清少納言なんですけどね。「清少納言は8歳の時に山口県防府市に来ていた」という事と「それは新子と同じ小学校3年生ぐらいです」という事だけを頼りにやってるんです。で、清少納言について調べていくうちに、あまり高貴ではない家の女の子が、家で何をやっていたかがわりと見えてきたんです。ならば、千年前の出来事は、古典的文書の原典がある事だけでやってしまおうと思った。手応えがある感じにしたいというか、絵空事でないんだよという事にして、納得しようとしていたんだと思います。

ーー 今回、表現面に関しては、やりきった感じですか。

片渕 その前にやっていた『BLACK LAGOON』の最終局面が、本当にしんどかったんですよ。あんなに働く事になるとは思わなかったわけですよ。自分でパソコン1台占領して、フォトショップで、なんか加工する事ばっかり延々やってたような気がします。早く終わらせてそこから脱出したかったんだけど、脱出する先を、休養とかに求めなかった自分は偉いと思うんです(苦笑)。2006年の12月のことですけれど、片付けなくてはいけないのが、残り1話くらいになったところで、ここで気が緩むのはよくないと思って、『マイマイ新子』を引っ張り出して、いじりはじめたんですよ。だから『BLACK LAGOON』の最終局面と『マイマイ』のスタートがオーバーラップしてるんです。
 だから、『マイマイ』って疲労困憊した状態で入ってるわけで。準備期間は10ヶ月くらいあったから、その間には回復してるんだけど、一度は、もう立ち直れないと思うぐらいのところまでいってるんですね。なので、今回を絵コンテを、自分では1カットも描いてないです。

ーー あ、そうなんですか。

片渕 ある程度ラフみたいなものは切ってるんだけど、コンテは浦谷(千恵)、香月(邦夫)、室井(ふみえ)という3人に描いてもらっています(注7)。そういう意味では、いつもと脳味噌の使い方が違う。シナリオを書く時は左側の脳を使って、絵コンテを描き始めると右側の脳が動き出して、違う事を言い出す。いつも、そうやって自分は作品をまとめているみたいなんだけど、今回は左脳だけしか使っていないのに、絵コンテができ上がってしまった。それに対して働き場所をもらえなかった運動が文句を言うわけです。なので絵コンテができ上がってから先、右脳が表現の部分で頑張ったんだと思うんですね。「この色でなきゃ嫌だ」とか「ここで光が差してなきゃダメだ」とか。それはさっき言った「リアルにしたい」というのと同じ事について、言っているんですけどね。

ーー ご自身の作品史の中で『BLACK LAGOON』というのは、どういう位置付けになるんですか。今までの片渕さんの仕事を追いかけて来た人は、驚いたと思うんですけど。

片渕 さっきも言ったように『アリーテ姫』の後に、2人の人間を描く話をやりたいと思ったんだけど、それと別に、もっと悲惨な境遇の人間を描くべきではないかと思ったわけです。4℃では『ファースト・スクワット』をやってたんですよ(注8)。それと並行して『BLACK LAGOON』をやっていた。「どちらかの仕事が生き残ればいいや」という感じで、マッドと4℃両方で、血みどろの鉄砲ドンパチの準備作業をやっていた時期があったんですよ。だけど、「主人公達をさらに追い詰めるために、味方のはずのソ連軍も悪くしよう」とロシア側に言ったら外されちゃったんです。それ以外の企画でも、オリジナルに近い企画で「子ども達がAK-47をもつしかない村の話みたいなのをやらせてくれ」4℃に言っていて、そういう事は自分として1回踏まなきゃいけないところだったみたいなんですよ。だから『BLACK LAGOON』をやれてよかった。『アリーテ姫』の後に血まみれのものをやって、次に新子と貴伊子のようなものをやるのが、自分の中でレールとしてできていたのかもしれない。一度、そういう悲惨なものを踏まないと、子どもたちにとっての自己実現どうこうっていうのが、浮つくような気がしちゃったんですよ。

ーー 『アリーテ姫』と『マイマイ新子』は、両方とも自己実現の話であるわけですね。

片渕 あるわけです。だけど、自己実現って、ゆとりがないと成立しないんですよ。生存ギリギリで、そこを生き抜いていく、ゆとりなんて言ってられない状況を描く事を、積極的に通り抜けたいと思ったんです。

ーー 自己実現というのは、ご自身にとって大事なテーマなんですね。

片渕 テーマだと思います。自己実現と同時に、自分が何かが見えてくる、何者なのかが解かるっていう事が大事だと思うんですね。

ーー ここまで話を聞いて分かったのは、片渕監督は「何を描くか」というところから、作品をスタートさせるという事ですね。

片渕 そうです。

ーー そういう意味では、正統的な監督であって、「こうすれば売れるよ」というところからは発想しないわけですね。

片渕 だけど、できれば「こうすれば売れるよ」というニュアンスはちゃんと漂わせたいという事ですね(笑)。だから、今回の場合は、この方向だったら売れ線かなと思う要素を、自分の中にある選択肢の中からもってきて、つけ加えたりとか強調したりしてるわけですね。という事で、最初から「この映画のテーマは何ですか?」と聞かれると、「ガーリー」と応えていたんですよ。昭和30年代の時代感を描くことよりも、まずはガーリー。

ーー それは片渕さん自身の意識として?

片渕 いや、スタッフにそういう風に説明してるわけです。最初にそう言って徹底してからスタートしました。

ーー それで言うと、着地してかたちになってるものは、最初に狙ったものと、そんなに違ってはないわけですね。

片渕 違う違う。イメージの中では、今よりもっとガーリーな映画を狙っていたんです(笑)。先に野原を素足で走る女の子という発想があって、後から防府にあんな広大な麦畑があったのを知って、喜んだんですよ。ただ、その方向をあまり突きつめると、『マイマイ新子』でなくなってしまうかもしれないから、ちょうどいいところで着地したのかもしれない。

ーー まだ公開前ですが、観客に投げかけたかったものは届いていそうですか。試写の反応とか、いかがですか。

片渕 多少の違和感を抱いている自分よりも、予断をもたないで観てくれている観客の方が、ストレートに受け止めてくれているみたいです。それがありがたいですね。

ーー なるほど。

片渕 ただ「泣けました」とか言われて、できるだけ泣けないように作ろうとしていたのに、と思ったり(笑)。

ーー 泣けないように作ろうとしたのは、どうしてなんですか。

片渕 それはスタイリッシュなガーリー映画じゃないでしょう。

ーー ああ、なるほど。

片渕 だから、泣けそうなところで、新子が変な事をやってたり、色々やっていると思いますよ。いや、それもガーリーじゃないか(苦笑)。

ーー 単に泣かせる事が目的だったら、全然違ったストーリー構成で作ったわけですね。

片渕 多分、自分は、泣かせようと思って映画を作れないんじゃないのかなあ。ただ、自分が涙が滲んできてしまった部分はあるんですよ。それは福田麻由子が、バー・カリフォルニアの階段で絶叫してるところなんです。だって、あの声を録るために、俺達自身が本当に泣いたんだから。

ーー それは収録の時ですか。

片渕 うん。その健気さがストレートに画面に反映されていて、そういう意味で、僕はジンときてしまうんですよね。…………酷いよね。だって、前の日に、あの大変なシーンを収録し終えて、徹底して入れ込んで芝居した彼女が相当な状態になってんのにさ。翌日「調子を取り戻してきました」と言っている本人を前にして、「同じシーンを、もう1回やってみようか。あそこにもう1回いってもらわないと、今日のあの続きは始まらないんだ」と言っている酷い俺がいるわけです。お互いプロだから仕方ないんだけど、自分の娘くらいの年頃の子に辛い事言ってるなあと、心の中ではしょんぼりしてるんだよね(笑)。
 『マイマイ新子』のアフレコは面白かったんですよ。円谷一さんの「煙の王様」ってドラマがあるじゃないですか(注9)。あれを撮っていた時、プランを説明しようとする円谷さんが周りに子ども達を集めて、円陣を組んでやってた、というんです。俺もそういうのやってみたいと思って(苦笑)臨んだわけです。アフレコをしたスタジオが面白くて、普通は自分達がいる調整室の前にガラスがあって、その前に役者さんの背中が見えるんだけど、そうじゃなくて、マイクに向かっている彼女達の横顔が見えるかたちだった。水沢奈子が、時々こっちを振り向くんですけど、注文がシビアになってくると、はっきりと目元に涙が溜まってるのが分かるんです。なのに口元で一所懸命に笑って応えようとしているのは健気でね。で、水沢奈子をそういう状況に落とし込んだ途端に、福田麻由子が「奈子ちゃんだけ、いじめてずるい。私には注文出してくれないのか」と言い出して。なんかえらい事になってきてですね。

ーー (笑)。

片渕 「分かった。全部とりあえず終わらせよう。終わらせたら、君の演技にリテイク出すところを一緒に見つけよう」という話になって(笑)。実際にそれをやったんですよ。たまたまアフレコの最終日に、半日くらい余裕がとってあったのね。そこで、出てきた子ども達全員が、スクリーンの前に膝抱えて座ったんですよ。自分も一緒に座りました。それで、収録した音声が入った全編の画を、皆で観たんです。で、福田もだけど、ほかの子達も「監督、ここは直させてください」「俺はもっと大声で泣いてたつもりだったけど、全然泣けてませんでした」みたいな事を、みんなが手を挙げて言うという状況になって。あれは、じんわりきましたよね。

ーー なるほど、それはきますよ。

片渕 そしたら、後ろで見てた大人の役者さん達も手を挙げ始めて。そうやって作ったものって、大事だと思うんです。まあ、作り手だから仕方ないんだけど、色んなところに違和感を残して作ってしまった。でも、彼らの演技に関してはまるで違和感がない。凄くいい思い出、いい結果として心に残っています。

ーー 次の作品で、こんな事を描きたいというビジョンはあるんですか。

片渕 そうですね。次にやる企画は、ある程度決まっているので、それを度外視して言うと、やりたい気分は、ある程度は見えているかもしれない。『マイマイ新子』と近い方向で何かをやったとしても、次は自己実現に対する疑いを、前ほど深刻に抱えなくてもいいような気がするんですよ。

ーー 自己実現というテーマは、相当前からあったんですか。

片渕 自己実現というか、自己確認かもしれない。多分、『名探偵ホームズ』からずっとあるんじゃないかな。「青い紅玉」もはっきりそう思って作ってるよね(注10)。ポリィとアリーテ姫の距離感って、自分の中では、あまりなかったような気がしてますよね。

ーー ポリィの自己確認ですか?

片渕 だって、あれは自分を偽って生きている女の子が、自分の正体を見つけるという話じゃないですか。ポリィが女の子の服を着るのって、貴伊子ちゃんが最後にセーラー服を着て、山口弁を喋っているのとあんまり変わらない気がする。
 自己実現というか、子ども時代の話だから、実現までいかないわけですよ。自分を見つけるみたいな話だと思うんです。何故そういった事をやっているかというと、自分自身がアイデンティティに問題を抱えてた子どもだったからかもしれないですよね。

ーー 片渕さん自身が?

片渕 そうなんです。自分って誰なんだろうなと考え始めると、答えが出なくていつまでも考えているような事が、往々にしてある子どもだったわけなんですよ。「こういう名前をもっていて、こういう親のところで生まれた、こういう人間なんだよな」って納得するまでに少し時間がかかる。自分で何者なのかを、納得させないとダメだった子どもだったんです。

ーー だけど、次回作は、自己実現に関する疑いで作らなくてもいいかもしれない?

片渕 そういう事で悩んでいる人に「いや、もうちょっといい生き方あるぜ」って言ってもいいかもしれない(笑)。ただ、自己確認への懐疑がなくなっている自分を発見したばかりなんです。次に何をやるかは、しばらく考えながら進む感じになるのかな。



(注1)
丸山正雄は、数多くの傑作を手がけたマッドハウス(当時)の名プロデューサー。

(注2)
丸田順悟は、マッドハウスの取締役社長(当時)。『マイマイ新子と千年の魔法』の舞台となっている山口県の出身だ。

(注3)
『マイマイ新子と千年の魔法』は昭和30年と、1000年前の世界が交錯する構成となっている。1000年前の世界は、アニメで膨らませた部分だ。

(注4)
『月夜の晩に』は、アニメーターの柳沼和良が監督したオリジナル短編アニメ。オムニバスDVD「デジタルジュース」に収録された。

(注5)
浦谷千恵はアニメーターであり、『マイマイ新子と千年の魔法』には画面構成・作画監督(共同)として参加。片渕須直の奥さまでもある。

(注6)
田中達之はSTUDIO4℃の主要クリエイター。アニメーターであり、演出家。イラストレーターとしても活躍。

(注7)
浦谷千恵は前述のように、『マイマイ新子と千年の魔法』の画面構成・作画監督(共同)、室井ふみえ、香月邦夫は演出。

(注8)
『ファースト・スクワット』はSTUDIO4℃が制作した長編アニメーション。日本、ロシア、カナダの合作で、第31回モスクワ映画祭「コメルサント賞」を受賞した。国内での公開については、まだ告知されていない。

(注9)
「煙の王様」は1962年に放映されたテレビドラマ。

(注10)
宮崎駿監督の『名探偵ホームズ』は、片渕須直がアニメ界に入るきっかけとなった作品。大学在学中に、話題になっている「青い紅玉」等で脚本を執筆。演出補も務めた。