COLUMN

第769回 アニメには“狂気”が欲しい

“狂気”——精神が異常で常軌を逸している状態!

 おそらく、自分がアニメに求める最重要要素です、“狂気”は! しょっちゅう話題にする『あしたのジョー』にはそれがありました。でも、個人的に『ドラゴンボール』には感じたことがありません。ジョーは女の告白を振って、破滅しか待っていないリングに向かいますが、悟空は簡単に生き返ります(人命軽視の世界観)。同様に大好きな藤子不二雄作品でも『プロゴルファー猿』の賭けゴルフはじゅうぶん破滅と隣り合わせだし、原作版では末っ子・小丸のアル中を放って置く破滅型家族の物語でもあり、そこもゾクゾクしました。が、『エスパー魔美』の“超能力”は飛び道具過ぎでしょう。可愛い女の子が空は飛ぶわ、ちょっとHだわ、卑怯過ぎて狂気を感じません。
 あ、因みに『ドラゴンボール』も『エスパー魔美』も非常に優れた作品だと思っていますし、鳥山明先生も藤子・F・不二雄先生も間違いなく天才。ただ、「コレがあったら、もっと痺れるのに」ファクターが板垣個人的に“狂気”だというだけです。例えば力を使う度に、他人の幸せと引き換えに少しずつ自らの命を削って行く——それでも力を使うとかなら、グッと来たって事。ただし、生き返るのはNGね。

アニメ『あしたのジョー2』を見た時、絶対敵わない相手に戦慄しつつも口元は不敵に笑み、
そして命がけで立ち向かうジョーに本気で痺れて、涙が止まらなかった!

てな“アニメ体験”をすると、『ジョー』以降のマンガ・アニメを観ても、ちょっとやそっとでは感動するはずもありません。自分が再三言ってる、

出﨑統監督作品の真骨頂
“アニメ独自の表現で人間を描く”

にこそ、自分はアニメ表現の可能性を見出していて、そこには必ず“狂気”を感じる要素がありました。『ガンバの冒険』も『宝島』も『エースをねらえ!』も『ベルサイユのばら』も。ノロイだけでなく、その化け物を倒そうと挑むガンバと仲間達も狂気に満ちています。そしてジョン・シルバーはお宝発掘のためなら人殺しも厭わない悪党。宗方仁は圧倒的なテンションで限られた残りの人生全てを岡ひろみにぶつけ、マリーアントワネットは全庶民を敵に回しながらも最後まで凛としてギロチンの露と消え。その全てが、

たかが画に描かれたキャラクターに
生命感を与えるのに十分な“狂気”の塊!

で、ゾクゾクします。だから、自分は離れられないのです。常に“狂気”“破滅や死”と隣り合わせの出﨑アニメから!
 あと、これも大好きな作品、宮崎駿監督の『未来少年コナン』は“ラナのためなら命懸けのコナン”に、足の指でファルコに摑まるところや、同じくバラクーダ号にしがみ付く、とかまでは一瞬“狂気”は感じたものの、三角塔からラナを抱えてのダイブをアニメ作画による力技で回避した時点で「あ、コナンは死なないんだ」と認識してしまい、コナンに感じた狂気はぶっ飛びました(笑)。でも、「跳ぶ!」とラナを抱え上げるまではゾクゾクしました(真剣)。まあ狂気はなくなっても流石は宮崎監督作品で、他のアニメらより群を抜いて面白いので、それ以降は「痛快冒険まんが映画」と位置付いて最後まで楽しむことができたし、未だにいちばん好きな宮崎アニメとして自分の中では揺るぎません。同様の宮崎アニメ、『天空の城ラピュタ』は、おそらく『コナン』の劇場スケールでの復讐戦的作品と、自分は勝手に思っているのですが、今度はパズーが劣化コナンにしか見えず、自分にとっては最初から「痛快冒険まんが映画」として観てしまいました。最後のムスカ「人がゴミのようだ」の件と、パズー&シータ“ラブラブ滅びの呪い(まじない)”の件はもっと狂気に満ちてておかしくないはずなのに、そこに至るまでが“痛快・娯楽”で押され過ぎて“少年少女の心中という狂気”がさほど自分には突き刺さらなかったのです。やっぱり“空から女の子が降ってきたファンタジー”から始めると難しいですよね。特に宮崎キャラって死にそうにないし。“人が死ぬ世界”であることを最初から感じさせてくれたら、ラストでもっとゾクゾクしたと思います。そういう意味では『もののけ姫』は狂気を感じて大好きなんですが、業界に入る前に観ていたら絶対にもっと痺れた筈だし、相当感動したに違いありません。しかし、動画とはいえ作品に参加してしまうと、純粋な客(視聴者)にはなれませんね。
 ま、今回もただの私見に過ぎません。悪しからず。さて、狂気的な仕事に戻ります。