COLUMN

第612回 アニメ監督の仕事、令和元年(2)

 第610回からの続き。で、『巨人の星』の長浜忠夫監督は、コンテを描かずに音響メインの演出スタイルだったという話。自らは画を描かずとも1960年代なら「アニメ監督」は成立したのです。なぜなら、前回すでに半分説明したかもしれませんが、当時は舞台や映画における演出(監督)のプロは存在しても、アニメのそれはまだ存在していなかったからです。それゆえ、演劇や実写畑など別分野の権威を連れてきて、アニメーター・画描きの前に立たせて「この方が監督です! 今日から監督に従って画を作ってください!」と言うしかなかったのです、アニメ黎明期は。1970年初頭になると、演出志望の優れたアニメーターが現れだします。当然のことですよね。その代表格が出崎統監督でしょう! 富野由悠季監督も以前インタビューで「アニメーターでありながら映像指向のある演出家が崎枕(出崎統)だった」と仰ってました。出崎さんの監督デビューは27歳で『あしたのジョー』。もちろん前述の長浜監督と違って、アニメーター出身の出崎監督はコンテを切りまくるだけではなく原画まで描かれたそうです(ご自身のインタビュー記事より)。そりゃ長時間かけられる劇場作品と違って、スケジュールも短く巧い人から下手な人までアニメーターをかき集めなければならない時、画作りに直接参加できる監督(演出)は重宝されて当然。1980年代は出崎監督だけではなく、りんたろう監督、杉井ギサブロー監督、そして2019年現在も現役の宮崎駿監督と、アニメーター出身監督がメインになっていきます! ね? 1960〜1980年代ですでにアニメの監督(演出)になるのならアニメーターのほうがいいと証明されてるわけです。現に板垣程度の凡人が今でも監督をやらせてもらえるのは、ひとえに小田部羊一先生や大塚康生様、友永和秀師匠らによるアニメーター指導の賜物だと思っておりますから。もちろん1980年代以降でも、高畑勲監督や富野由悠季監督や押井守監督といったアニメーターではなくとも天才な方々はご活躍されております。ただ現在のような深刻なアニメーター不足の中、「画のほうはよろしく」と音響のあと、声優さんらと毎週飲みにいってしまう監督はやりづらくなってる気がします。そりゃ最初の顔合わせ的飲み会は音響チームとの親睦を深める必要もあるため、それを監督の仕事と位置づけることもできますが、毎週ともなればアニメーターに悪いと思わないのでしょうか? ちなみに夜の飲み会目的でアフレコを必ず午後からにしてもらう監督、自分がまだド新人だった頃に知ってましたが、ご多分に漏れず現在は自然淘汰済みなようです。その方も自身で画を描かれない監督でした。ただ、

自分もこのまま原画とコンテが描けるだけではダメでしょう!

 今後はCGや撮影も勉強しないと、アニメ監督など続けられなくなる時代が10年以内にやってくるのは間違いないでしょうから。

アニメ監督が「監督としてやらなければ(できなければ)ならない仕事」は時代の空気にあわせて年々変わる、の話はまた次週へ!